2.件の知人と車内
運転席に青年を、後部座席に太宰府と北川辺を乗せた車はゆっくりと出発した。
「僕は『一宮真尋』といいます。よろしく」
時折、一瞬だけバックミラーから北川辺に目を向けながら、少し潰れた暗めの声で青年は名乗った。
「私は北川辺玲です。一宮さんですね。覚えておきます」
「いきなり人の名前を覚えるのも面倒ですよ。僕たちのアパートには他に5人入居してますし、嫌でも顔を合わせます。それを一度には覚えられないでしょう。だから僕のことは『チェックの人』とでも呼んでください。いつもチェック柄のシャツを着ていますから」
青年の名前が一宮真尋であること、他に初対面になる人がまだ5人もいること、大して親睦を深めていない人に「チェックの人」呼びはハードルが高いこと。この3つの情報が短時間で与えられ、浮かんだ感想が記憶の整理を難しくする。ド忘れでも起こしたのか、前の青年の苗字が一宮か太宰府のどちらか迷い始めた頃、彼女の隣の太宰府が口を挟んだ。
「そういえば一宮さんはなんでいつもチェックのシャツなんですか?」
「あー、これは僕なりの拘りです。太宰府さん、あなたがいつも同じ格好なのと似たようなものです」
「一宮さんも私と同じ、目立ちたくない人なんですか? 少し驚きました」
「いや、違います。これは僕なりのアイデンティティー的なアレです」
「そうなんですね……。ごめんなさい……」
相手への言及も否定もきっぱりと言い切る一宮と、疑問主体の話し方や相手の否定に対して浅くない申し訳なさを込める話し方の太宰府。傍らでそんな2人の会話を聞いていた北川辺には、お互いの間に主従関係でもあるかのように感じられる。馬鹿にしたり見下しているようではないが自分の立場が上だと自覚してるかのようにきっぱりと話す一宮と、気乗りしないものの仕方なく従属している太宰府、といった風に。ほぼ完全な第三者目線では、お互いがお互いを対等なものとして話しているようには思えなかった。
「そういえば、もし一宮さんが乗せてくれなかったらどうするつもりだったんですか?」
太宰府の謝罪の余韻が消えきらぬ内に、流れを断つように北川辺は尋ねた。
「その時はバスで帰るつもりでした。近くのプールのシャワー室で貴女が体を洗って、その間に私が替えの服を買えば、バスの中で誰も何も思わないと思ったんです」
相変わらず自信なさげだ。どうやら持ち前の暗さは誰に対しても同じく発揮されるようだ。
「それはいい考えだと思います」
太宰府に明るくなってほしいという願いを込めて、さりげなく強めに肯定してみる。しかし当の彼女は俯いたままで、効果はないようだ。ただ淡々と自分への回答を受け入れているように感じる。その様を見た北川辺は、彼女にあるのは主従関係ではなく低い自己肯定感だと思った。
あれからしばらく会話はなく、車内では互いを軋ませ合う荷物たちの音がトランクから聞こえる程度の静けさを保っていた。そんな中、たまたまバックミラーに向かった北川辺の視線がピクリとほんの少し顔を上げる一宮を捉えた。
「今日の夕食はなんですか?」
「今日はカレーの予定です」
「玉ねぎは細かいと嬉しいです」
「わかりました」
これまた唐突に北川辺の想像の範疇を超えた会話が始まった。赤の他人の未来の夕食事情について話し出したのだ。主婦の井戸端会議やママ友のお茶会でもないのに、日常会話におけるありふれたワンシーンのように話す話題ではない。それならばなぜこの2人はその話題に対して自然でいるのか。その疑問に対して北川辺に出せた答えは1つだけだった。一宮と太宰府は同棲しているのではないか。もしそうであれば、自分が太宰府の元で世話になるには一宮の了承も必要になる。今は自分に気を遣っている、もしくは泊まることを知らないだけで、本心では2人の愛の巣に不純物はいらないと考えているかもしれない。そうであれば自分は元の生活に逆戻りし得る。北川辺の胸にはまた新たな心配事が増えた。
駅を前にして左に曲がり、満車のスーパーの駐車場や遊歩道のある小川といった景色が流れていった。
北川辺だけがモヤモヤとした心持ちのまま、車は彼女らの家である「瑠璃蝶々荘」に停まった。