19.昨日から解放されるには
顔を洗い終えても、朝食を作り終えても、北川辺の目が覚める気配はない。今まで以上に、彼女の睡眠時間は伸びているような気がする。
「朝ですよ。起きてください」
「……」
北川辺の顔を覗き込んで呼びかけるが、返事はない。
「起きてください」
今度は彼女の直ぐ横に座り、彼女の両肩を優しく揺すりながら呼び掛けた。
「ん。ううん……」
北川辺は目を閉じたまま欠伸と共に伸びをした。目を擦りながら上体を起こし、トロンとした目で太宰府の方を見る。気遣わしげな彼女と目が合って、ようやく北川辺は寝坊をしたことに気づいたようだ。
「おはようございます。朝ごはんできました」
「はい……」
北川辺は恥ずかしそうに俯いて布団から出る。そしてそそくさと洗面所へと向かった。
それからは特別なことどころか、日常の1コマになりかけていた他愛のない会話すらも起こらなかった。
そんな気まずい空気から逃げるように、北川辺を残して太宰府は家を出た。渡り廊下の向こうで降り注ぐ陽光の線を視界の端に捉えながら、彼女は大学への道を歩き出す。丁度階段を下りたところで、印西と目が合った。
「おはようさん」
「おはようございます」
出会い頭にお互い、軽く会釈をした。太宰府からは特にどうということはないのだが、印西は分かっていた。北川辺が自分が死んでいることを告白するというのも、夕食で辛そうな太宰府を見たことで一波乱あったのだろうというのも。だからこそ、その過程も結果も気になる。印西は機会を作るためにも、わざと普段より歩みを小さくすることにした。
2人は斜めに朝日を浴び、ところどころで黒い歪な円が消えきっていないアスファルトの上を行く。澄んだ空のせいで影は一層濃さを増し、明るい黒の上を這っていく。
「昨日は大丈夫でしたか?」
「えっ」
突拍子もなく詮索を受け、太宰府は思わず印西の方を見る。それを怪訝そうに見つめてくるだけの印西に太宰府は冷や汗が出た。予想外かつ正直に答え難い質問に、どれを伏せてどれを付け加えて返すべきかが咄嗟には出るはずもない。太宰府はぎこちなく、ゆっくりと印西から顔を背けた。
「昨日の夜、目が赤かったでしょ」
「えっと、そうだった気がします」
太宰府は印西の追撃によって、彼が気にしていることは自分が伏せたいことと同じであることを確信した。そして思い返せば、昨日の一連の流れにおいて正直に話しても差し支えない部分などないことに気付いてしまった。
「無理に話させようとは思いませんけど、知人を殺されたよしみで気になっただけです」
質問をされるたびにおどおどが加速する太宰府を見て、印西は困らせるような意図や野次馬精神で尋ねてはいないということをアピールした。
「そうだったんですね……。貴方が最愛の人を亡くしたことは教えてもらいましたけど、どうやって亡くなったかまでは知りませんでした」
「自分からわざわざ誰が死んだかなんて話さないですから」
「それに、知ってたんですね。私の妹が死んでいたことも」
「はい。知人が殺されてすぐに、そちらの妹が殺されて、印象に残っていましたから」
懐かしむような穏やかな口調には似合わない穏やかではない話題が場を繋いでいたが、ここで少しの沈黙が割って入った。その間、お互いがお互いの近くで起こった死について思いを馳せる。そして2人の心は、再び現在に戻される。
「……もしその貴方の知人を助けられる人がいたとして、その人が助けなかったら恨みますか?」
「恨みはしませんよ。そんなことを気にする暇があれば、僕は彼女のことを考えているでしょう」
「そうですか……」
さも当然かのように言い切る印西の視線を感じ、残念そうに太宰府は俯いた。しかしその際の返事には、どこか安堵したような明るいものが含まれていた。
「そちらもそうなんでしょう。でも、そうだと思いたい」
印西は確信を持って問いかけた。なぜなら太宰府の問いが誰を指しているのかの予測ができたからだ。
「ええ、そうです。願わくば貴方に肯定してほしいとも思っていました」
「つまり、そちらは北川辺さんのことを悪く思ってはいないということですね」
印西の言葉に、太宰府は顔を曇らせた。
「いいえ、北川辺さんとは関係ないんです」
「そうなんですか? てっきり北川辺さんとなにかあったのかと思いました。でも、例えそうでなかったとしても、僕の答えは変わりません」
印西の言葉を聞いてから、太宰府は絞り出すように話し出した。
「……でも、悪く思わなくちゃいけないんです」
「それは何故に?」
思わず印西は聞き返した。
「そうでなくてはならない、からです」
「そうですか」
印西はどう返すべきか、彼女の影をぼんやり眺めながら考えた。しかし答えになっているとも言い難いものに返せる言葉などたかが知れている。結局ありきたりな相槌を返すに留まるしかなかった。
「どうしたら、私は解放されるんでしょうか?」
「難しい話ですね。原因がわからないことにはどうしようもないです。僕に専門知識はないですから」
縋った藁が千切れることで、自分の中にある矛盾めいた悩みを解く手段がないことを改めて認識し、太宰府はこれ以上話しようがなかった。そしていつものように俯き、ただただいつもと同じ道を進む。川の流れも、スーパーに搬入されるカートも、公園のどこかでさえずる鳥たちも、いつも通り。違うものは、彼女の頭の中だけだ。ただ、その違うものもいずれ消えてもとに戻されるのだろうと、当人は心の奥底では思っていた。