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浮浪少女とガス室の猫  作者: 屑籠
上.邂逅
16/51

16.告白

 午後5時頃、新鮮な雨の湿気が漂う中で太宰府は北川辺を回収して自室のリビングに戻ってきた。そしてそれからは2人とも思い思いのことをしていた。空いた窓を塞ぐカーテンは小さく風で靡き、端が淡く橙に染まった雲と地平線をちらりと見せている。

 不意に北川辺が声を絞り出した。


「あの……1つ、打ち明けてもいいですか……」


 北川辺は震えた声で呟いた。揺らめくカーテンが動きを止め、近くからの音が止んだ。室内は勿論、近辺からの音もしない。遠くから、鳴くカラスの声や車の走行音などが聞こえるだけだ。


「はい。いつでもいいですよ」


 太宰府は北川辺の方を見上げ、いつものように暗くも穏やかな口調で返す。それを聞いた北川辺は小さく深呼吸すると、意を決して震える唇を開いた。


「実は私、もう死んでいるようなんです……」


 彼女の告白を受けて、辺りは時が止まったと錯覚してしまう程に静まり返った。太宰府が何かしらのリアクションをとるだろうと北川辺は思っていたが、それに反して太宰府の表情は殆ど動かない。心なしか顎が下がり、ゆっくりと俯いただけだ。自分の死を伝えるだけでも心臓が破裂しそうなほど強く速く鼓動していたというのに、太宰府の硬直に北川辺の心臓はさらに強烈に鼓動する。それを少しでも紛らわすために、不気味がるだろうか、追い出されるだろうかなどといった自分にとって良くないことばかり想像していた。

 そして遂に、太宰府に変化があった。


「え、あ、そんな、そう、だったの……。――ごめんなさい!」


 彼女の絶叫にも似た謝罪と共に彼女の髪が円弧を描き、鈍い音と共に彼女は土下座の体制になる。


「えっ……、どうし――」


「私のせいで、本当にごめんなさい!」


 北川辺は予想外の太宰府の反応に思わず仰け反って戸惑い、ただ脊髄から出た言葉を垂れ流すことしかできなかった。耳の奥で響き続ける太宰府の叫びで、自分がなんと言ったのかも正確に把握できていない。そんなことはお構いなしに彼女は北川辺の声を遮ってさらに叫んだ。


「いや、えっ、待っ――」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 太宰府は狂ったように「ごめんなさい」を連呼する。人が変わったように感情的に、涙声のまま大声で叫ぶその様を、北川辺はただ呆然と眺めることしかできなかった。

 ただただ北川辺が呆然としている中、太宰府はだんだんとその勢いを落としていく。太宰府が土下座をしながらすすり泣くようになった頃には、周囲の環境音も元に戻っていた。


「大丈夫……じゃないですよね。とりあえず、落ち着きましたか?」


「は、はい……」


 太宰府は涙声で小さく声を発した。そしてフラフラと立ち上がり、魂の抜けたような足取りで部屋を出ていった。彼女の辛そう声を聞いた北川辺は、ただその弱弱しい背中を見ることしかできない。とても彼女の「ごめんなさい」の意味を聞く気になれなかった。北川辺が残された部屋には、廊下の奥から響く、水が打ち付けられる音だけが空しく届いていた。



「夕食を作ってきます」


 太宰府はリビングの扉の前で立ち止まり、か細く虚ろな声で告げた。リビングを一瞥すらせずに、ただ俯いて。どんな表情をしているかは、濡れて固まった髪に隠れて伺うことはできない。

 北川辺がどう声を掛けていいか悩んでいると、太宰府はトボトボと歩き出した。北川辺はその背中を縋るように眺めることしかできない。次第に遠ざかる足音はドアの解錠音に変わり、ドアの閉じられる音によって締められた。



「目元が赤いですけど、大丈夫ですか?」


 先にキッチンで玉ねぎを切っていた鹿沼は、太宰府の目の腫れに気づいた。料理時に彼女は髪を纏めるので、彼女の目元はキッチンの外にいるときよりもはっきりと見えた。


「なんでも……、ないです……」


 太宰府は鹿沼から顔を背け、声を震わせて小さく答えた。まるでなにかを堪えながら、必死に言葉を絞り出しているようだ。そんな弱弱しさに反して、彼女の持つ包丁がまな板を叩く音は強くなっていた。


「なにかあれば言ってください。なにかできることがあるかもしれませんから」


「すみません。でも今は大丈夫です。話そうとすると、感情が抑えられなくなりますから……」


 全くの嘘を言うことで、始めこそは少しばかり声は落ち着いた。しかし最後に話した事実だけは、声に震えが宿った。


「そろそろ、アナウンスを流しますか?」


「お願いします」


 太宰府はくすんだクリーム色の床を眺めながら、ゆっくりと入り口に向かう。そして入り口からぬるりと体を出し、壁の裏にあるスイッチを押した。


「痛ッ」


 普段からよくやっているこのスイッチの押し方は、少しばかり体を伸ばす必要がある。昨日の一件が祟って全身が痛み、思わず声が漏れた。日常の何気ない1コマでの不意打ちだったせいで、声を抑えることはできなかった。


「大丈夫ですか?」


「普段あまりしない姿勢にならなければ痛まないです」


「屈むことでは痛みますか?」


「それぐらいは問題ないです」


「そうですか。では配膳といきましょう」


「はい」


 そう言って、鹿沼は料理を載せた盆を持ってキッチンを出た。盆の上には焼き魚と豚汁が乗っている。

 彼は本心では自分1人で配膳を行いたいと思っている。昨日散々な目に遭わされた彼女の体の心配や昨日の彼女に対してなにもできなかったことへの負い目、本当は彼女は痩せ我慢をしているだけで、実は屈むだけでも痛むのではないかという心配など、理由はいくつかある。しかし人に手間をかけさせないことに執着する彼女の性格上、そうすることを渋るのではないかと予想できる。たとえ聞き入れてくれたとしても、人に負担をかけてしまったということを内心申し訳なく思い続けるだろう。それならばせめて短く終わる肉体的な苦痛で妥協することを、鹿沼は選んだ。



 2人は料理を載せた盆を机に置き、慣れた手つきでそれぞれを机に並べていく。すると陶器と机は一緒になって、軽快で無秩序な音を奏で続けた。

 やはり太宰府のことが気になる鹿沼は、少し作業の手を遅めて彼女の方を見た。彼女はいつもと変わらぬ調子で盆から料理を並べている。しかしその横顔はどこか強張っているように見えた。前述の理由から彼女に配膳を止めさせる方が良いとは、鹿沼には思えなかった。彼女の負担を少しでも減らすために自分の盆の皿を速く片付けて手伝うことが、彼にとって最も平穏だと思える努力だった。



「目の辺りが腫れているけど、大丈夫なの?」


 不意に、配膳の途中で席に着いた度会が口を開いた。心配と呆れが入り混じった声で、空のコップたちにそれぞれ飲み物を注ぎながら。


「大丈夫です。今日は料理に玉ねぎを使ったのでそのせいです」


「納得したわ」


 痛みを堪えているせいか、太宰府はどこか妙な明るさのある声を度会に返した。



 皆次々に食事を終えて各々の部屋へと戻っていく中、太宰府と北川辺はあまり食が進んでいないようだ。いつもよりも俯いたまま、どこか覚束ない箸の動きで少しづつ料理を口に運んでいる。ただ黙々と、一口を鈍く噛みしめているのだ。鹿沼は異様な空気を感じながらも、それを無視してただ積まれた食器を片付けることしかできなかった。



 鹿沼が静かなキッチンで黙々と食器を洗っていた。食器を伝って水がシンクに垂れる音、スポンジが食器を擦る音、きれいになった食器が金属の水切りかごに立てられる音、それらが独立して鳴っている。

 程なくして、そこに積み重ねられた食器と箸が揺れあう音が新たに加わった。


「遅れてすみません。ご迷惑をお掛けしました」


 食器をシンクに置いた太宰府は、開口一番に謝罪した。それも鹿沼の方に向き直り、深く頭を下げて。

 彼女を横目で見ていた鹿沼は、予想だにしなかった丁寧な謝罪に手が止まった。太宰府と鹿沼は1年ほどキッチンでの付き合いがある間柄だが、こんなことは初めてだ。


「大丈夫です。それより、早く仕事を終わらせて休みましょう」


 結局、彼女の深刻そうな物言いに気圧(けお)されて、焦りを漏らしつつも微笑みながら話を切り上げることで精一杯だった。



 気まずい空気の中、2人は黙々と積まれたタスクを洗っている。もうすぐでこの沈み込んだ空間から浮き上がれるというときに、太宰府は口を開いた。


「……教えてくれませんか? 私はどうしたら許されるのか……」


 太宰府はその場で動きを止め、独り言を呟くような低く潰れた声を無理矢理大きくして鹿沼に問うた。


「本人に訊くしかないと思います。貴女と北川辺さんの間に何があったのかは知りません。ですから、完全な第三者が口出しできることはないでしょう」


 鹿沼は返答を準備していたようで、スラスラといつものトーンで答えを返した。


「そうです、よね……」


 太宰府はあからさまに声を高くした。あたかも元からそう答えることくを当然だと知っていたかのように、変なことを訊いたことを誤魔化すためにも思えた。

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