14.手当
正門から入り、正面玄関のインターホンに指を突き立て、それを支えに走りを止めた。肩で息をしながら待っているとガチャリと鍵を回す音がし、度会が扉を開けた。
「そんなにずぶ濡れになって、どうしたのかしら?」
「酔った人たちに絡まれて、太宰府さんに庇ってもらって、逃げてきて……」
北川辺は焦りから言いたいことがまとまらずに口から出、一通り言い終えて言葉に詰まった。
そんな姿とは対称的に、度会は冷静だった。
「どのあたりがその現場?」
「寿司屋の交差点の近くです」
「分かったわ」
それだけ聞いた度会はスマホを弄りながら、テレビを見ている標津と美唄に話しかけた。距離と雨のせいで、北川辺には度会がなんと言っているのかはよく分からなかった。しかしその直後に2人がそれぞれ「御意」「あいあいさー」と返事をしたのは聞くことができた。彼らは急ぎ足で自室に戻ると、すぐにレインコート姿に着替えて外の廊下から出、自転車に跨って去っていった。
2人が広間から去ろうとしたタイミングで度会はスマホを耳に当てた。誰かと話しているらしい。少しして、彼女は北川辺の元へ戻ってきた。
「警察はまだ動いてくれそうにないわ。わたくしたちも向かいましょう。傘を取ってくるから、ここで待っていて頂戴」
度会は正面玄関の扉を閉め、鍵をかけた。一連の出来事に小休止が挟まったように思えた北川辺は、ようやく雨を吸った服の重みや自分の体が雨風へ冷えていることを感じる余裕ができた。
程なくして黒い傘を持った度会が現れ、現場に向かって歩き出した。
2人は雨の中、現場へ速足で向かう。焦りからか、特に意識せずとも普段よりも歩くペースが速い。
太宰府を置いて逃げてきた北川辺は彼女が無事なのか気が気でなく、今すぐにでも走って彼女の様子を確かめたい衝動があった。それとは逆に、置いてきたことへの罪悪感のせいで合わせる顔がないとも思っていた。その葛藤は、数分を幾倍にも長く体感させるのに十分なものだった。
北川辺にとってはしばらくして、度会にとっては早速、暗い現場が目の届く距離まで迫った。前にそこにいた時と同じように暗く、異なって静かだ。
いざ現場の目の前に着くと、そこにはかつての喧騒はどこへやら、傘を差した影が1つあるだけだった。
「太宰府さんは大丈夫ですか……?」
北川辺は不安と寒さで震える声で訊いた。
「受け答えははっきりしていた。雨を凌げる場所で美唄と共に居る」
それだけ言って標津は傘を回し、歩き始め、2人はそれを追った。先の交差点の角が丁度いいスペースで、太宰府と美唄はそこで待っているらしい。
その角のスペースで、太宰府は体育座りで座っていた。軒先テントがあるおかげで、前知識通り十分な雨宿りスペースがある。
近くに寄ってから気づいたが、太宰府の服はアスファルトの地面に置かれたレインコートの上に広げられ、彼女自身は白地のTシャツに着替えていた。また、そのそばには彼女のビニール傘が潰れて横たわっている。
「大丈夫ですか……」
「は、はい。少し痛みますけど」
太宰府はそう言って微笑んで見せるが、彼女の全身にある擦り傷や広げられたYシャツに付いた大量の靴跡は、彼女が執拗に痛めつけられたことを物語っている。
「そんなに怪我してるのに、本当に大丈夫なんですか?」
北川辺は再度問う。太宰府の膝小僧は真っ赤だし、頬やおでこも擦り傷が酷い。この様子だと、あばらに蹴りを何発かもらっていてもなんらおかしくはない。北川辺には、彼女が無理をしているようにしか見えなかった。
「はい。擦り傷なんて、昔は絶えませんでしたから。明日病院で診てもらいます」
「それならいいのですが……」
北川辺は不安を残しながらも納得するしかなかった。
「とりあえず応急手当だけしましょう」
そう言って度会は手持ちのバッグから救急セットを取り出した。
「傷を洗うのが先決だろう。水は持ってきた」
「警察呼んだ方がいいんじゃない?」
「皆さんの面倒にもなりますし、警察は大丈夫です」
それぞれ水を出す者、携帯を出す者、それを制す者と三者三様であった。
当事者である太宰府本人が警察は呼ばなくていいと言っている以上、それに従う他ない。部外者3人は黙って彼女が負った傷の手当に取り掛かる。各々の心を源にした気まずさのある空気は、軒先テントから鳴るパラパラといった雨音では搔き消せなかった。
とりあえず太宰府の全身の擦り傷を洗い、消毒し、ガーゼで塞いだ。6月の雨降る夜のことだ。手当が終わるまで、太宰府は絶えず震えていた。
「とりあえずの手当は済んだかしら。今日のところはこれで大丈夫だと思うけれど、無理はしないでね」
応急手当を済ませた度会は優しく言った。この言葉は、消毒中に太宰府の口からこらえきれずに漏れた呻きが数多く聞こえたからこそ出たものだ。太宰府は今までも北川辺を家に泊めたり、北川辺を庇って酔っ払いから暴行を受けたりと、破滅願望に基づいていてもおかしくないほど過剰に献身的な行動をとっていた。しかしながら、それらの行動に対して見返りを求めることも、苦悩を漏らすことも、今まで1度もなかった。今日まで度会は太宰府のことを「世話焼きが好きすぎる女性」だと思っていた。その理由として、何度も見てきた彼女の献身的な行動は、断りきれなかったことでははなく、彼女が自分から首を突っ込んだことに起因していたからだ。
もしかしたら今日呻きを抑えていたように、いつも無理な献身の苦痛を抑えていたのかもしれない。だからといってそれに気が付いた度会は、咄嗟に「無理しないで」と言ってやるのが最大限の今できる配慮だった。
それから各々の行動は違った。美唄、標津は折角ここまで来たということでコンビニに寄ることにした。一方太宰府、北川辺、度会は即帰宅だ。太宰府は潰された傘を持ち、北川辺の傘に入って歩いた。
「お大事にね」
階段の前で別れる時、度会はそう言って角に消えていった。
部屋に戻り明るい環境になったことで、太宰府の惨状がよく分かった。ぼさぼさにされた土まみれの髪、青あざのついた膝周り、注意して探したにも関わらず見逃された傷など、とても酷い有様だ。
「かなり濡れてますし、シャワー浴びますか?」
そんな自分の様を知らないかのように、真っ先に太宰府は北川辺にシャワーを浴びるかを訊いた。
「風邪ひきそうですし、有難く浴びさせてもらいます」
「服は適当に置いておいてください」
北川辺は透明な足跡を残して浴室へ入った。
彼女が姿を消すと、太宰府はすぐさま着ているTシャツを脱いだ。そしてそれを台所で濯ぐ。半裸になった彼女の肌には、未だに血の滲んだ生々しい傷がいくつか残っていた。
北川辺が戻ってくる頃には、太宰府は黒い肌着に着替えていた。
「シャワーありがとうございます」
「気にしないでください。じゃあ、私も入ってきます」
そう言って、太宰府はさっきまで来ていたTシャツを持って浴室へと歩いていった。しかしその後ろ姿はぎこちなかった。
しばらくして、洗濯機の回る音と共に太宰府はリビングに出てきた。彼女のすらっとした肋の浮き出るほどに細い体は、いつもと違ってパンツしか身に着けられていない。今何かを着れば、十中八九濡れた傷口で汚れてしまうからだ。
太宰府は全身が自然乾燥するまでそのままの恰好でいた。全身のあざをドライヤーで加熱するわけにも、濡れた肌にガーゼ固定用のテープを貼るわけにもいかないからだ。唯一髪の毛だけは、北川辺の申し出で乾かしてもらった。
その後2人で協力して太宰府の全身の傷にガーゼを当て、いつものように今日が終わった。2人とも時が来るまで本を読み、寝室へは先に北川辺が行って太宰府は薬を飲む。今まで1週間ほど繰り返されてきた光景は、あんなことがあった日でも続いていた。