13.酔っ払い
それから1週間ほど、特に何もない日が続いた。太宰府が大学に行っている昼の間、北川辺は外をふらふらしたり、誰かの元にお邪魔したりと不自由なく過ごしていた。変わったことといえば北川辺の目覚めが悪いというくらいだ。それは生活が安定したことで、よりぐっすり眠れるようになったからだと太宰府は考えていた。
しかし北川辺が真実を知ってから4日経ったこの日の夜、大きな事件が起きることになる。
時刻は午後8時。今日は様々な事情が重なった結果夕食の時間が遅くなった。また、一部の住人が楽しみにしていたテレビの特番がやっていた。
「アイス食べたーい」
「ない」
「我買ってきて」
「広告の間に帰還しろと命ずるか? 拒否する」
「私が行ってきます」
美唄と標津がアイスを買わせようと言い合っている所に太宰府が口を挟んだ。
「じゃあよろしくね」
美唄はチョコミントをリクエストし、200円渡した。太宰府はそれを財布にしまうと、キッチンに寄ってから自分の部屋へ戻っていった。キッチンから出てきた彼女の手には、保冷バッグが提げられている。
「私もついていきますよ」
北川辺もその後を追った。今までの周辺の散策で、近くになにか物を売っているような場所がないことは分かっている。恐らくここから一番近い場所でも往復15分ほどはかかるだろう。女性1人で歩かせるのは不安に思わなくもない。それと泊めてもらっている恩もあるので、老婆心ながらついていくことにしたのだ。
部屋に戻り次第、靴を履き替えてドアを開けた。黒い空に廊下の電灯の光で白くなった雨粒が、絶えず線分を描いている。そんな天気のせいで、一気に玄関が冷たくなる。太宰府は靴入れに持ち手が掛けられた傘を2本取ると、片方を北川辺に手渡して外に出た。
瑠璃蝶々荘前の通りに沿って2人は歩いていく。夜である上に雨も降っているせいか、車は通れど歩行者はいない。街灯のおかげで月明りがなくとも少々足元が見える。見えるからこそ、2人は水たまりに足を突っ込んでしまわないように、地面に注意しながらコンビニを目指していた。
コンビニまで半分ほど進んだところで前から騒がしい声が聞こえ始めた。丁度、前に集団の人影が見える。それらはこっちに近づいてきているようだ。声が鮮明になっていくにつれ、それが舌足らずな丸いものだと分かった。さらにそれらの影は程度の差はあるが一様にフラフラと揺らいでいる。きっとどこかで酒を飲んだ帰りなのだろう。
邪魔にならないように、太宰府と北川辺は建物沿いに縦になってすれ違った。特に何事もなく、お互い無関心で済むかと思われたが、そうはならなかった。
「ねえねえそこのお嬢さん」
背後からねっとりとした声で呼ばれる。
「なんでしょうか?」
北川辺は、足はそのままに体だけをねじって後ろを見た。太宰府には雨音で聞こえず1人で先へ歩いていった。
「ちょっと僕らといいことしない?」
男たちは傘の中棒を大きく傾け、弛んだ顔で彼女を見上げている。到底快い笑みとは程遠い顔だ。
北川辺が一団とすれ違ったときに顔を見られたのだろう。スムーズにすれ違うために彼らは傘を車道側に傾けていた。お互いの身長差のせいでその隙間からでも覗き込む形で顔が見える。彼らはそうやって彼女の顔を確認したうえでナンパを仕掛けてきたのだ。
北川辺はなにも答えずに急いで体の向きを戻し、急ぎ足で太宰府に並んだ。
「ちょっと変な人に声をかけられました」
「少し急ぎましょうか?」
「はい」
唐突に起こったことに恐怖した2人は早歩きでコンビニを目指した。
「無視すんな!」
しかし、またも呼び止められた。今度は威圧的な大きい声でだ。2人とも思わずビクッとして立ち止まった。
「な、なんでしょうか……?」
北川辺はか細い声で返答する。怯えている身を守るように傘を前に傾けながら。
「だからいいことしてやるからついて来いって言ってんだよ!」
酒で気が大きくなっているのか、男たちは恥も外聞もなく怒鳴りつけた。
かなり怯えた様子の北川辺を見兼ねて、太宰府は彼女の前に立った。
「彼女も怖がっていますし、止めてください」
勇気を出して、ここ数年で最も強い語勢で酔っ払いたちを拒絶した。彼らは少し怯んだものの、直ぐに調子を取り戻した。
「うるせぇ!」
「黙れやブスが!」
彼らはあろうことか太宰府の頬を殴りつけた。続けざまに彼女の腹に蹴りを入れ、うずくまったところを寄ってたかって足蹴にした。ただでさえ酔いが回って冷静な判断が下せないのに、追加で頭に血が上ってしまった結果だ。
北川辺は唐突に繰り広げられた乱暴狼藉に呆気にとられ、なにもできなかった。
「に、逃げて……」
そんな中、太宰府は絞り出すように言った。声の小ささに雨の雑音も相まって、本当にそう言ったかはわからない。ただ北川辺にはそう聞こえ、それに従った。頭が真っ白になった中、唯一得られた行動の選択肢だったからだ。
北川辺は酔っ払いたちに背を向け走った。一番近い十字路を右に曲がり、そこから一番近い右の脇道へ入った。こうすれば酔っ払いたちを避けて瑠璃蝶々荘に戻ることができる。そこからはただひたすらに走った。体は動いたものの未だに冷静ではない。ただただ助けを呼ぶことだけが頭にあり、出会い頭に誰かとぶつかるとか、縁石に躓いて転ぶとか、そういったことは考えられなかった。
瑠璃蝶々荘に着く頃には、体の全面は顔から靴まで雨を浴びていた。