11.小美玉司
翌朝、2人は前日と同じように目覚め、朝食を摂った。そして午前10時を目前に、2人は部屋を出た。太宰府は今まで通りのYシャツとグレーのプリーツスカートを、北川辺は昨日太宰府に買ってもらった留紺のワンピースを、それぞれ着ている。今日はそれぞれ大学と建物の裏手へ向かう予定だ。
「ここから廊下沿いに裏手へ回ってください。曲がってから2つ目の扉が印西さんのところです」
「わかりました。それでは行ってきます」
2人はそれぞれ背中を向かい合わせにし、目的地へと歩き出した。後ろで柔らかい足音が遠ざかり、風の音にかき消されていく。
廊下を曲がった先では、木々に茂る青々とした葉が目に飛び込んできた。瑠璃蝶々荘の裏庭に植えられたものや、少し遠くに見える木々の集まり。それらを目にして記憶の中の、それなりに自然豊かだった頃のこの街が思い起こされ、懐古の情が湧いてきた。それは昨日と一昨日の2日間、海沿いや商店街といった緑とは無縁のところにばかりいたせいで、かつての街並みがもうないことに半ば落胆していたせいかもしれない。
懐かしい気持ちを胸に抱きながら、北川辺は教えられた場所の呼び鈴を鳴らした。程なくして、扉の裏からガサゴソと物音が聞こえてきた。
「すみませーん。本日お邪魔させていただく予定の北川辺です」
北川辺が扉の向こうに呼びかけた。するとガチャっという音と共に鍵と扉が開き、男が顔を覗かせた。
「いらっしゃい。とりあえず上がってください」
「お邪魔します」
印西に促されるまま北川辺は玄関に入り、リビングに通された。リビングの扉が開いた途端、北川辺の鼻に幽かな線香の匂いが飛び込んでくる。それに少しの引っ掛かりを覚えながら歩みを進め、リビングに入った。そこには机やゴミ箱といった、基本的な家具は一通り揃っているように見える。逆に、インテリアの類は殆どない。目につくものは観葉植物としてのサボテンだけだ。インテリアが豊富な、デザイン重視の度会の部屋とは真逆の部屋だといえる。
そのような部屋なのにも関わらず、何故かごちゃごちゃしているように感じる。なんというか、1人暮らしにしては物が多いような気がするのだ。しかしそれは物が少ない太宰府の部屋に慣れたせいであって、決してこの部屋が異質という訳ではないのだろうと北川辺は考えた。
しかし扉の先に見える寝室に、その考えを覆す光景が広がっていた。
印西の寝室にはベッドが2つ、窓に足を向けて置かれていた。左側のベッドはタオルケットが乱れ、明らかに人が寝た形跡があった。だがもう一方は、綺麗に伸ばされたタオルケットが敷かれている。
しかし次の瞬間にはそんなことがどうでもよくなるようなモノが北川辺の目に飛び込んできた。それは右側のベッドの枕のさらに右の壁際にある。台の上に佇む、こぢんまりとした明るめの茶色の仏壇。その奥に置かれた白い壺、中央の金色の枠に浮かんでいる白い文字。手前には縦長の花立、潰れたつぼ型の香炉、お椀型の燭台、お手玉のような座布団とリンがそれぞれ置かれている。学生の部屋にあるものとしてはかなり異質なものである仏壇は、どうしても一昨日度会から聞いた、首を吊った女の話と結びつけずにはいられない。北川辺は未だに成仏できていない霊がこの部屋に現れるのではないかと考えてしまい、冷や汗が噴き出てしまった。
「お茶を出しますね」
不意打ち気味に、印西が声をかけた。幽霊などといった怖い想像の真っ最中だった北川辺は、びっくりして小さく縦に痙攣して後ろを向く。そこには、机に目を落としてコップに緑茶を注ぐ印西の姿だけがあった。
「あの……1つ訊いてもいいですか?」
北川辺は遠慮がちに印西に言った。
「仏壇のことですか?」
彼女の心労も知らないで、印西は何食わぬ顔で核心を突いた。
「はい……。なんで仏壇が置かれているのかなって……。あと、できればなんでベッドが2つあるのかもお願いします……」
「それは、ここに置くのが一番しっくりくるからなんです」
「つまり?」
「長くなりますが、大丈夫ですか?」
「なら先にベッドについて聞かせてください」
「仏壇もベッドも同じような理由なので、まとめて話しますね」
「お願いします」
その返答を聞いた印西は、仏壇に顔を向けて話し始めた。
「まず、あの仏壇は僕の死んだ彼女のものです。骨壺の中には、彼女の父親から譲ってもらった遺骨が入っています。わざわざ遺骨をもらった以上は供養しようと思い、ここで魂入れもしてもらいました。ですが、やはりこれは彼女の代わりであって彼女ではないんです。これを彼女と同一視することは、僕にとってすごく嫌なことなんです。用意された代わりのものに浮気しているみたいで。僕は彼女の体さえあれば良いわけではありませんから。だから彼女の枕元じゃなくて横に置いているんです。あくまで彼女の横にある存在として」
印西は悲しそうに説明した。
「そうなんですね……」
北川辺にはなんとか絞り出せたそれしか、掛ける言葉が思いつかなかった。
「逆に家具は、ここが彼女の居場所だと願って置いています。『眠りは小さな死』という言葉を知っていますか? 彼女の死も小さなもので、いつかはそれから覚めて、ここで共に生活できたらいいのにと思います。逆もまた然りですが。彼女の仏壇を寝室に置いているのも、そのせいです」
「……」
北川辺には返せる言葉もなく、ただ押し黙っていた。
「気にしても仕方がないことですから。今できることは彼女のことを想い、覚えておくことだけです」
「そうですよね……」
カーテンで閉じられたこの執着の部屋は、2人共が遺影の向こうの彼女に気を向けたせいで随分と重い雰囲気になった。
「まあ、こんなことを話すために貴女を呼んだわけではありません」
「私、指名されてたんですね……」
重い空気なんて最初から無かったかのような印西の口調に北川辺は困惑した。
「はい。早速尋ねますが、貴女の正体はなんですか?」
「え、何を急におっしゃるんですか?」
全く事態が飲み込めていない彼女を尻目に、印西は仏壇に手を突っ込み、位牌を取り出した。そして、それを裏返して彼女の差し出した。
「とぼけても無駄ですよ。これを読んでください」
「小美玉司……。え、なんで……?」
「こんな偶然もあるんですね。ですがこれは私の知っている『北川辺玲』が貴女と同一人物であることが判明しただけです。ここからが本題です。なんで貴女は生きているんですか?」
「あの人を止められなかった私が、そんなに恨めしいですか……?」
冷静に問い続ける印西に対し、北川辺は終始呆気にとられ上の空で言葉を返すしかなかった。