第9話 石長比売 その六
廊下を早足で進む。
思ったより長く風呂を満喫してしまった。後には怪我を負った茨木童子達が控えていると言うのに、私は肝心な時に馬鹿をしでかす。
今頃部屋では玉藻前が私の事を小馬鹿にしているかもしれない。それはそれで神に対して無礼なのだが、彼奴は柊達が何度注意しても態度を改めることはなかった。大妖怪故の"余裕"だろう。あの態度は言外に"神など、恐るるに足らず"と言い表している。
その態度に毎度柊達はいい顔をしなかったが、彼奴の裏表の無い性格は私としては好ましい。茨木童子も同様だ。
「すまない。遅くなった!」
部屋の前に着くなり、後ろを追従していた和が襖を開けるより早く自分で勢いよく開く。
横から「あっ……!」という残念がる声が聞こえたが、あえて見ない事にした。
部屋には玉藻前とその側仕え二人。茨木童子、朱蓮がおり、見張りで結が待機していた。
私が襖を開けるなり、結が私に近寄り、「おかえりなさいませ、石長比売様」と一礼する。
ただ風呂に行っていただけなのに仰々しいと思ってしまうが、言っても「巫女として当然です!」と力説されてしまう姿を幻視してしまい、言葉に出して言う気にもならない。
「ただいま結。それで……これは一体どういう状況なのだ?」
部屋を見渡す。全員私など気にも留めず、外に意識を割いていた。そこには頑丈そうな首桶を担いだ二人の妖狐と玉藻前の弟である月夜が立っていた。
月夜は髪や着物が血で濡れており、私の元までその匂いが漂ってくる。だが、これは月夜の血ではない。少し離れているが、月夜に怪我をしている様子はない。あれは返り血だ。
「おお、やっと戻ってきたか、神 石長比売よ。弟の月夜が戻って来た。風呂を満喫した後で悪いが、共に報告を聞いてもらおうか」
報告、ということは取り逃した酒呑童子の事だな。まぁ、その返り血と妖狐二人が担いでいる首桶を見れば、結果はわかったも同然だ。金桶からは濃度の濃い血が地面へと少しずつ垂れている。おそらくあの中にあるのは頭だろう。
「確かに、風呂上がりで聞きたい報告ではないな……」
私は和の用意した座布団に座り、「報告を頼む」と一言言葉を発する。
「月夜」
玉藻前が顎をしゃくって合図を送る。
「では簡潔に」
一人の妖が部屋にいる全ての視線を集める。
「鬼の首領、酒呑童子の首は取った。頭はこの中だ――開けろ」
やはり、あの首桶の中は頭か。せっかく風呂上がりで気分がよかったのだが、血生臭い話だ。
月夜の指示で妖狐二人が首桶を地面に降ろす。その時、下に溜まった血溜まりにより、べちゃっという嫌な音がなる。音を聞くだけでも気分が悪い。
妖狐二人は降ろした首桶の鍵を開け、蓋を取る。すると、むせかえる血の匂いが吹き抜ける風に流され、部屋に充満する。
私は仮面の下で顔を歪める。続いて側にいた和と結も同様に顔を歪めた。
茨木童子達は慣れているのか、その顔に変化はない。
「確認を頼む」
月夜と妖狐二人が一歩退がる。
私の位置からだと、頭部のみが見える。顔は桶に隠れて見えない。
一応酒呑童子の顔は覚えているが、確認すべきは私ではない。
「ふむ、儂が確認しよう」
そう言って玉藻前が立ち上がろうとする。しかし――
「いや、俺がする」
――茨木童子がそれを制す。
少し眉を顰め、ぎこちない動きで立ち上がる。元気そうに振る舞っていたが、やはり傷は痛むらしい。
立ち上がった茨木童子は部屋を抜け、縁側を通り過ぎ、外に出る。そして、首桶の中に躊躇なく手を突っ込み、通常より一回りも二回りも大きいそれを持ち上げた。
途端、部屋にいた幾人かが息を呑む。茨木童子は無表情でそれを見る。
「………」
「茨木」
確認を取るという意味で茨木童子の名を呼ぶ朱蓮。しかし、その声はどこか憂わしげだ。
「ああ、間違いねぇ――酒呑童子の首だ」
感情のない顔と声で明言する。
「だろうな。僅かにこびり付いた妖気の残滓も、儂の知っている酒呑童子のものだ。彼奴で間違いあるまい」
玉藻前の呟いたその言葉が、本当の意味で戦が終わった事を告げた。
「終わったな」
「ああ……」
血の滴る頭を――自分の頭と同じ位置に――持ち上げたまま、茨木童子は応用なく答えた。
「ひでぇ面してやがる……」
茨木童子がそう言った通り、酒呑童子の表情は苦悶と絶望、そして憎悪が入り混じった恐ろしい顔だった。
最期まで生にしがみつき、もがいた結果がこの有様か。
哀れな男だ。
「ようやく肩の荷がおりたな。これで安心して風呂に入れるというものだ」
「貴方はいつも満喫していたではないですか!」
黒縄丸達が必死に命を燃やしていようとも、神域にいる妖達が毎夜不安を募らせようともも、玉藻前だけは優雅に風呂につかっていた。
神経が図太いとか、そんな類のものではなかったな。あれは。側仕えの妖狐達も流石に困り顔だったのが印象的だった。
「その首についてはまた後日話し合うとして、其方達、まずは風呂に入ってくるが良い。傷を癒すのが先だ」
「…………そうだな」
活発な茨木童子らしくもなく、静かに応答する。
途端、興味が失せたように首桶に押し込み戻し、次の瞬間には溌剌とした顔をする。
「よし、風呂行こうぜ!」
手についた血を自身の着物で拭い、部屋に上がまたその瞬間――
「あー! その汚い足で部屋に上がるな!」
――結が勢いよく吠える。普段の彼女からは想像もできないほど大きな声だな。見れば和も驚いている。
素直に驚いた。結もこのように大声を出すのだな。意外な一面を知った。
「これで足を拭け!」
どこから出したのか、白い布地を荒々しく茨木童子に押し付ける形で渡す。
「おぉ、悪りぃな」
布地を受け取った茨木童子は自身の足についた土を拭き落とし、その布地を結に返す。
布地を回収した結はため息をつく。
これだから妖者は、とか思っているのだろう。そんな感情の入り混じったため息だ。
私の後ろに控える柊に至っては、最早何も言わなくなった。いや、言わなくなったというより、これは諦めた表情だろうか。どこか遠い目をしているような気がする。
「では神 石長比売よ、風呂を借りるぞ」
お前は入る必要ないだろ。そんな言葉が喉まで出かかったが、今更な話だ。もう好きにしてくれ。
「結、浴場までの案内を頼む」
「かしこまりました――では、案内をします。私について来てください」
少し膨れた顔で玉藻前達を連れ、部屋を後にする。その際、玉藻前の側仕えの二人の内、一人は玉藻前の世話をするためついて行き、もう一人は待機となった。
待機のため残った妖狐は気を遣ってか、社の外に出てしまう。べつにいても問題はないのだが、妖一人この部屋に私達といるのは気が引けるらしい。
残された私と柊、和は広くなった部屋で大きく息を吐いた。
なんというか、疲れがどっと出た。
「まったく、濃い一日だ」
♢♢♢♢♢
「温かい……」
湯船に浸かった朱蓮の最初の一言がそれだった。
「すげぇ、入った途端に傷の痛みが引いてくぜ!」
温泉の効能により、体に刻まれた大小様々な傷の痛みが和らぐ。しかし、傷が治っているわけではない。あくまで痛みを和らげ、本来生物に備わっている治癒能力を多少向上させているだけだ。傷が癒えるにはまだ時間がかかる。
「うん。心なしか、疲れも取れた気がする」
「はぁ〜……風呂なんて入ったの、何年振りだろうなぁ〜……」
全身を包む温かな湯に抱かれ、茨木童子の顔は自然と綻ぶ。
いつもは季節問わず、里近くに流れる清流で体を洗う。夏場などの暑い季節は丁度いいが、秋の終わり頃や冬の真っ只中、春先などは水の温度も低く、触れた瞬間に肌を突き刺すような痛みが走る。
川から上がった後はいつも――黒縄丸が用意した――焚き火にあたり、体を震わせながら暖を取る。
百年以上も続ければ多少は慣れるが、やはり辛いものは辛い。刀傷を受けた方がまだましだと叫びたくなるほどだ。
「小屋に風呂があると最高だなぁ……」
「小屋って……茨木はこれから"鬼の総大将"になるんだから、小屋じゃなくて屋敷に住むことになると思うよ」
「え?! そうなのか?」
「そりゃそうだよ。"鬼の総大将"が掘建小屋なんかに住んでるなんて知れたら、鬼どころか支配地全ての妖が他の支配地の妖に舐められちゃうじゃないか」
「はぁ!? 住んでるとこにまで文句言ってくる奴がいんのかよ!?」
信じられないような驚きの顔をする。
しかし、実際住んでいるところで揚げ足を取ったり、自分との力の差を推測って来たりする輩は少なくはない。
大きく立派な屋敷であればあるほど、その妖の力は強大である事に繋がる。何故なら、屋敷に住める妖というのは、大概が力ある者であり、力あるからこそ屋敷に住めるのだ。
故に、力ある者、特に支配地を束ねる者ならば、大きく立派な屋敷に住むのは、ある種の責務に近いだろう。
「そんな小っせぇ事で文句言ってくる奴の気がしれねぇぜ」
これからのことを考えただけで渋い顔になってゆく。先程は大見得切って"鬼の総大将"になると言ったが、早速取り消したい気分だ。
面倒な事は黒縄丸がなんとかしてくれるのだろうが、それは最初の内だけだ。ゆくゆくは自分で処理していかなくてはならなくなる。頭の良くない茨木童子でもそれぐらいは理解る。
まだ何も始まっていないというのに、今から精神的な圧力がかかってくるようだ。
「んだよ。統治者ってやっぱめんどくせぇじゃねぇか……!」
「そういうものだ。仕方ないと割り切るほかあるまい」
早速弱音を吐く茨木童子の隣へ――いつのまにかいた――玉藻前が座る。側には女の妖狐が控え、玉藻前の世話を焼く。ちなみに女妖狐の名前は嵐月という。
玉藻前は湯船に浸かるなりぐっと体を伸ばし、統治者とは存外大変なものだということを軽く茨木童子に教える。
例えば広大な支配地の視察。これはそこに住む妖達がちゃんと生活できているかどうか、何かしらの脅威にあっていないかなどを見るためだ。毎日とは言わないが、定期的に見に行く必要がある。
そして、視察ついでに自身が健在であると支配地内の妖達に知らしめ、ちゃんと支配地を統治しているという事も忘れずに主張しておく。
地味だが、これが統治するにあたって意外と重要だったりするらしい。
「うげぇ……」
聞くは簡単だが、やっている事は実に面倒だ。茨木童子の顔が歪む。
「お前も苦労してんだなぁ……」
湯船の縁に頭を乗っけ、苦虫を噛み潰したような顔で空を仰ぐ。
「お前もこれからその仲間になるのだ。歓迎するぞ」
「いらねぇよ、そんな歓迎……」
暫く無言が続く。その時、茨木童子は何を思ってか、目だけを動かして玉藻前の胸部を見る。そこにはぷかぷかと浮かぶ形の良い立派な果実が二つ。同じ女である茨木童子でさえ釘付けにされる破壊力を秘めており、男なら誰しもがその強大な力によって吸い寄せられるであろう。
「……………」
「おい、その無遠慮な視線はどうにかならんのか?」
「いや、お前乳でかくね?」
「おぬしにも立派なもんがついとるだろうが」
まるで他人事のように言う茨木童子だが、本人も立派なものをぶら下げている。
普段着物を着ている姿は細く見えるのだが、どうやら着痩せするようだ。
視界の端では朱蓮が自分の胸を気にしている様子が見られるが、朱蓮は二人に比べて小さく見えるだけで、それなりに大きい。
「ところで茨木童子よ」
少し下品な話し故、話題を変える事にする。
「なんだよ」
「いつ黒縄丸と契りを結ぶのだ?」
「……………は?」
間抜けな声が漏れる。
「いやな、これからおぬしは"鬼の総大将"となり、支配地を統治するわけであろう? そうするとやはりつがいが必要になってくるわけだ。儂としては、その相手は黒縄丸と思っていたのだが、違うのか?」
「そ、そうなのか茨木!?」
あまりに唐突過ぎる内容の話に、朱蓮は今日一番の驚きと関心を寄せる。
「………」
茨木童子は薄く苦い笑みを作るだけで何も答えない。しかし、無言を貫くと言う事は、それ即ち肯定を意味しているのと同じである。
「い、茨木と兄者が……め、夫婦に!?」
湯船につかり、体が温まってきたが故か。それとも二人が夫婦になるという話にあてられてか。朱蓮の顔が何故がほんのり赤く染まる。しかし、すぐにその赤みは引く。
二人が一緒になるのは素直に喜ばしい。が、茨木童子は今までずっと男として生きてきた。いくら女であるという自覚はあっても、何十年もの間男として生きた時間は本物だ。本人の感性などもほぼ男に染まっている。
男として育ってきた茨木童子が、急に男の元へ嫁げるのだろうか。そんな不安がよぎる。
さっきまでの興奮は冷め――正面を向いたまま――不安げな視線を茨木童子に向ける。
無表情だ。何を考え、何を思っているのか読み取ることが出来ない。
「なんだ、男の元へ嫁ぐのはやはり嫌か?」
「そんなんじゃねぇよ。ただ……」
「ただ?」
「黒縄丸は、俺のことどう思ってんだろうなって……」
朱蓮と玉藻前は黙って話を聞く。
「俺はさ、ずっと男として生きてきたし、そういう風に振る舞ってきた。けどよ、それを後悔しちゃいねぇぜ。俺はそうやって自分の身を護って生きてきたんだからよ」
里において、女は性のはけ口という役割しか持たなかった。
夜這いをかけられ、力ずくで犯される。尊厳も何もかも踏み躙られ、ぼろ雑巾のように捨てられる。
故に男として生き、襲われるのを未然に防いでいた。
「正直、俺そこら辺にいる男よりよっぽど強ぇし、お前ら二人みたいに女らしさのかけらもねぇ」
確かに。茨木童子は女らしくない。がさつで男勝りで、髪はぼさぼさ。口調も荒く、何をするも大雑把。おまけに色気もない。
そして、黒縄丸はそういう女らしさのない茨木童子を一番近くで見てきた人物である。
「だから、あいつは俺のこと、女としてみてねんじゃねぇかって、な……俺みたいな女らしくもない奴と契りを結ぶなんて……」
言葉の節々から伝わる茨木童子の想い。男として生き、だけど女を捨てきれず。行き場のない想いは、胸を締め付ける。
「面倒な奴だな。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れるのが強者の特権だ。惚れた相手なら尚更な」
「……惚れたとかじゃねぇよ。ただ、男と契るなら、あいつが一番ましってだけだ」
幼い頃よりずっと一緒に育ってきた黒縄丸なら良いが、他の男は正直受け付けない。想像しただけでも身の毛がよだつ。
もし仮に、黒縄丸以外の男と契りを結ぶ結果になったとしたら、今日一日言った言葉を全て取り消し、統治者の地位を捨てる。
自分勝手と言えばそうなのだが。しかし、やはり黒縄丸以外の男は考えられないというのか茨木童子の本心だ。
「はいはい、惚気話ご馳走様…………ところであれだな、茨木童子は統治者なるのだから当然屋敷に住むわけだな。という事は、その屋敷の当主、ということになるのか」
「それがどうかしたのですか?」
何をそんな当たり前のことを今更、と疑問符が浮かぶ。
「うむ。そうなると茨木童子が嫁ぐのではなく、黒縄丸が婿に来る、という事になるのかな、と思ってな」
「あー……確かに、言われてみるとそうですね。茨木が統治者になるのですから、嫁ぐというのは違和感がありますね。どちらかと言えば、今義姉上の言った通り、兄者が婿に行く方がしっくりきます。
統治者のはずの茨木が兄者に嫁いでしまえば、それは見方によっては茨木より兄者の方が力関係は上、と捉えられてしまうかもしれません。そうなると派閥が出来上がって面倒なことになりかねませんね」
「ふむ、可能性としてはなくはない、か……」
それから茨木童子を挟んで話が盛り上がり、玉藻前が朱蓮に話を振る。話題は朱蓮の結婚生活だ。
可愛い義妹と楽しい話がしたいとう考えが四。実弟の夫婦生活が気になるが六だ。
月夜は普段からあまり喋らず、大人しい性格だ。話を振っても短い会話で終わってしまう。
別に仲が悪いわけではない。ただ、弟の月夜の口数が少なく、話したがらないだけだ。無愛想と言えば話が早いかもしれない。それを踏まえた上で、朱蓮と二人きりの時はどうしているのか少し気になる。もしかしたら姉である玉藻前でも見たことのないような事をしているかもしれない。実はとてもお喋りになっているとか。
玉藻前の好奇心が引き寄せられる。
朱蓮は上機嫌で自分の夫の話を始める。少し前まで命を懸けた戦いをしていたとは思えぬ変わり様だ。
最初は月夜様がとてもお優しく、と始まり。続いて月夜様のふとした仕草がとても絵になって、とこれまた月夜の話になる。
自分の夫の話をするのが楽しいのか、朱蓮の口は止まらない。とても生き生きしていた。
そして――月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。月夜様が。と、話が全く途切れない。確かに夫婦生活の事が気になって話を振った。月夜の様子が気になって質問した。だが、今は質問した事を後悔し始めている。
横耳で聞いていた茨木童子と嵐月も途中から顔を引き攣らせ、今では玉藻前と一緒に三人仲良く朱蓮の間断無い惚気話を聞き続けている。
よく夫の事だけでこれだけ長く話ができるなと思う。しかしそれは、裏を返せばそれだけ強く愛しているということになるのだろう。そこに関しては素直に喜ばしいところだ。だが、もう限界だ。聴いている身としてはお腹いっぱいである。だが、茨木童子や玉藻前の都合など知った事ではない朱蓮は夫と自分が相思相愛である様を赤裸々に語る。
結果、生々しく刺激の強い話に当てられた嵐月が鼻血を垂れ流し、心がふわふわと妄想世界へ旅立つ。
一方、玉藻前と茨木童子は上機嫌で幸せそうに話す朱蓮が微笑ましく、話を途中で止めることが出来なかった。
今まで見た事がないぐらい眼が輝き、守ってあげたい笑顔を咲かせていた。
もうやめろとは言えない。こうなったらとことんまで話を聞いてあげよう。
そう意気込む二人だったが、ここは温泉、しかも湯船の中である。
場所が悪かった。加えて朱蓮の話に終わりが全く訪れない。おかわり連発だ。
よって、呆気なく限界を迎えてしまい――頭から湯気が立ち上るほど――真っ赤にのぼせてしまう。
「もう、無理……」
「げ、限か……い、突破……」
「あ、義姉上!? 茨木!?」
朱蓮は慌てて話を切り上げ、二人を湯船から引っ張り出す。近くにいた嵐月に手伝ってくれ、と叫ぶが、嵐月は鼻血を出したままは空を見上げ、「ほへー……」という声を漏らしたままこちらの世界に戻ってこない。ふわふわした世界にいるのを幻視する。
結局、騒ぎを聞きつけた結が対処して、その場は事なきを得た。その際「大妖怪ともあろう者が湯あたりとは、情けない……」と大きくため息をついていたのは内緒だ。
ほどなくして意識を取り戻した二人は――朱蓮から全力で謝られつつ――用意された浴衣を着る。
「本当に申し訳ない。話に夢中になり過ぎて、つい……!!」
べつに謝るほどのことでもない。元はと言えば朱蓮の生々しい惚気話を止めなかった二人が悪い。限界が近いと知りながらも無理をした結果だ。責任の所在は玉藻前と茨木童子にある。
「謝んなって。湯あたりぐらい、よくあんだろ」
「いや、大妖怪の場合はそうそうあるものではないから!」
大妖怪ともなればその保有する妖気の大きさも相まって、その分身体も頑丈だ。故に、湯あたりなど起こすはずがない。起こすはずがなかったのだが、今回は珍しく、本当に珍しく湯あたりを起こした。
確率で言うなら、一日三回雷に撃たれる、という事態が七日間連続で起こるようなものだ。
「ま、いいじゃねぇか。死ぬわけでもなし」
「いや、湯あたりは下手したら死ぬからな」
湯あたりで気を失い、溺死するという事例は数多くある。それは人も妖も同じだ。どれだけ莫大な妖気を持とうが、どれだけ剣の腕が凄かろうが、気を失っている間に溺れてしまえば他愛もない。
「あーもう! こんな所でぐだぐだしてねぇで、とにかく部屋戻ろうぜ。な?」
確かに、いつまでも脱衣所にいてもやる事はないし、意味はない。それに、元気そうに振る舞ってはいるが。茨木童子と朱蓮はつい先ほどまで戦場に立っていたのだ。かなり疲労を蓄えているはずである。早く休ませてやるのが良かろう。
「そうだな。取り敢えず、神 石長比売の所へ行くか」
腰まで伸びた長い髪をいくらか手に取り、ふっと妖気の含まれた息を吹きかける。すると、濡れていた髪が一瞬にして乾く。
「ついでだ、茨木童子と朱蓮も」
二人に向かって優しく息を吹きかける。するとやはり、二人の髪も一瞬にして乾く。
瞬く間に髪を乾かすこの妖気の使い方。覚えれば色々な事に使え、非常に便利になるはずだ。
「うっひょー、便利だなそれ! 俺にも教えてくれよ!」
自分の乾いた髪をいじりながら、好奇心剥き出しの無邪気な笑顔を見せる。
すると、玉藻前と朱蓮の二人が視線が示し合わせたかのように茨木童子へと向く。二人の見るその先は目ではなく、茨木童子のぼさぼさ頭だ。
「な、なんだよ?」
無言の圧力に気圧され、茨木童子の視線は玉藻前から朱蓮へ。朱蓮から玉藻前、と何度も往復する。
「茨木、その髪どうにかならない?」
「お前、一応女であろう。櫛ぐらい通したらどうなんだ、まったく。ちょっとこっち来て座れ!」
此度の戦とその結果により、茨木童子が男として生きてゆく理由はない。いや、男として生きても問題はないが、おそらくその生き方はこれからしなくなる確率のほうが高い。元々女として生きていた場合、男に襲われる危険があったから男である事を振る舞っていたに過ぎない。そしてそれは酒呑童子の治世であった事が大きな要因だ。
しかし、酒呑童子は討たれた。先もいったように、最早やる意味は無い。
「な、なにすんだよ!?」
「櫛を通すんだ。大人しくしとれ!」
茨木はこれからは女として生きていく事になる。おそらく黒縄丸を婿として迎えいると予想されることから、ほぼ間違いないはずだ。
環境の変化、求められることの変化に戸惑うことも多いだろう。
しかし、内面的な部分をすぐ直せと言っても、こればかりは困難である。その者の癖や性格を直すなどなかなか出来るものではない。
明日から直せ、はいわかりました、と言って直っているわけがないのだ。付け焼き刃などもっての外だ。きっとすぐにぼろが出る。特に、茨木童子を見れば一目瞭然だ。そんな器用な事が出来るわけがない。故に、内面的なものに関しては、多少の時間はかかっても仕方ないと言える。玉藻前と朱蓮はそう思っている。
だが、外見は違う。外見はその気になればどうとでも出来る。それこそ姿勢、所作、髪型、服装、化粧など、変えれば女としての外面は整えられる。
どれも一筋縄ではいかないが、内面を変えるよりはまだ簡単だ。
だからまずは、一番変えやすい髪型から変える。このぼさぼさの女らしさのかけらもない髪に櫛を通し、多少それらしくする。それだけで見た目は全く違ってくるはずだ。と、最もな理由を言うならこんなところだろう。
実際は同じ女としてがさつな茨木童子を見ていられなかったというのが二人の本音だ。特に髪。
「髪は女の命なのだぞ。手入れぐらいせんか」
呆れを含んだ言葉をこぼし、玉藻前は茨木童子の手を引っ張る。そして、近くにあった椅子に無理やり座らせ、今もぼーっとしている嵐月に向かって「嵐月、櫛をくれ」と言う。しかし――
「ほへー………」
――返事がない。嵐月はまだ妄想世界にいるようだ。
「嵐月!」
未だ戻ってこない嵐月に仕方ない、と軽く頭を小突き、妄想世界から現実世界へ引き戻す。
「はっ?! 私は何を!!」
「櫛をくれ、嵐月」
「は、はい。かしこまりました!」
嵐月は巾着の中から黒い漆塗りの櫛を取り出し、それを玉藻前に手渡す。
櫛を受け取った玉藻前は早速茨木童子の髪にその櫛を通すが。
「……引っかかる」
玉藻前は顔を顰めた。髪の手入れなど生まれてこのかた一度もした事がない茨木童子の髪は複雑に絡まり、櫛が通らない。
無理矢理通そうと試みるが、やはり引っかかる。
これは櫛ではどうにもならないと思った玉藻前は「仕方ない。嵐月、鋏だ」と、絡まった髪を切ることにした。
「はい。こちらを」
「え? 切んのか?」
「お前の髪は切らねばどうにもならん。それに、切ると言ってもそこまでばっさり切り落とすつもりはない。あくまで整える程度だ。ほれ、前を向け。切るぞ」
「え、ちょっ……!」
鋏を受け取った玉藻前は、茨木童子からの許可を待たず手際よく絡まった髪を切り、乱雑な髪を整える。
「義姉上、髪を切るのがお上手ですね」
迷いのないその動きは手慣れたもので、少々意外だ、と朱蓮が感心する。
「昔、月夜の髪を切ったりしていたからな、これぐらいは出来る」
そう口にした玉藻前の表情は柔らかい。昔を思い出して懐かしんでいるのだろう。普段は見られない珍しい顔だ。
しかし、髪を切る手は止まらない。それから十分と経たずに整え終わってしまう。
「ふむ、こんなものか……嵐月、風で切った髪を飛ばせ、ついでに集めて外にでも捨ててこい」
「かしこまりました」
嵐月に指示を出し、切り落とした髪を集めさせている間に、ようやく櫛を通す。すると、櫛は――多少の引っかかりを覚えるが――最後まで通る。そうして、何度も繰り返すと。
「おお、すごい。女みたいだ!」
茨木童子は元から女なのだが、そこはあえて何も言わない。
しかし、朱蓮が驚くのも無理はない。その変わり様は一目瞭然だった。
ぼさぼさだった髪は元々癖がないため真っ直となり、雪の如く白い髪は光を浴びて煌めき、より一層美しく、そして女としての色香を纏う。
「やはり髪型一つで印象が変わるな。少しは女らしく見えるぞ」
「……お、おう」
女らしく見えると言われて少し照れる。そういう仕草も女らしく見えるのだが、それを言うと恥ずかしがって凄い勢いで言葉を被せてきそうだから言わなかった。
「さて、今度こそ神 石長比売の元へ行くか。ずいぶん待たせてしまった」
「そういえばあの巫女はどこ行ったんだ?」
巫女、とは結のことである。
湯あたりした際に朧げだが見た気がしたので、その姿を探す。
「結さんは外で待ってるよ。さ、行こ」
朱蓮に背中を押され、茨木童子達は脱衣所を出る。すると、朱蓮のいう通り扉のすぐ隣に結が待機していた。
「やっと出て来ましたか。待ち侘びましたよ」
「石長比売様がお待ちです。行きますよ」と言い、返事を待たずして歩き出す。
態度があからさまに冷たい。前を歩く背中から、何故妖如きに、という負の感情がひしひしと伝わってくる。
茨木童子は隣を歩く朱蓮に顔を近づけ、耳元で小さく問う。
「俺らなんか悪いことした? すっげぇ、嫌われてるような気がすんだけど?」
朱蓮も同じく、小さく返答する。
「本来"社"ていうのは神の住居だから、私達妖がいるのが嫌なんだよ」
「はぁ? そんだけ!?」
「うん。多分そうだと思うよ。ここに入る前も、柊さん達すごく嫌がってたし」
「なんつうか、あれだな。神のまわりってめんどくせぇな……」
「………」
朱蓮は苦笑いを浮かべる。神へ対して不敬とは思いつつも、茨木童子の言うことも理解出来るからだ。
神やそのまわりの存在は少し堅苦しい。
「石長比売様、只今戻りました」
部屋の前まで戻ってきた結が中にいる石長比売に声をかけると、中から「入れ」と一言返事が返ってくる。
結はその場に座り、襖を開ける。何気ない動きだが、その所作は綺麗だ。
「おかえり。風呂はどうだった?」
「おう、気持ちよかったぜ。温泉最高だな!」
そう返事を返した茨木童子は風呂に行く前より少し元気そうだった。温泉の効能が効いたと思っていいのだろう。
「そうか、それは良かった」
部屋に戻った茨木童子達は各々好きなところに座る。位置はさっき座っていたところとほぼ同じだ。
「さて、お前達も疲れているだろう。私に言われずともわかっているとは思うが、今日はもう休め。本当にご苦労だった」
軽く労いの言葉を述べ、続けて「せっかくだ、泊まっていけ」と続ける。すると、やはりと言うべきか、結と和が猛反対する。
「いけませんっ!!」と、今まで見たことがないぐらいの剣幕だ。
その二人とは逆に、柊は諦めているためか、特に何も言わずとても静かだ。なんというか、もうどうとでもなれ、という空気が伝わってくる。
一方、茨木童子達はというと。石長比売の提案を素直に嬉しくは思ったが、流石に猛反対する二人を見てその提案を丁重に断った。こんなに猛反対する二人を押し切って泊まると後味が悪い。正直休まるものも休まらない。
結局二人は外にある玉藻前の天幕に泊まるという流れになった。
「そんじゃ、風呂ありがとよ! 気持ちよかったぜ!」
「お邪魔しました。おやすみなさい」
「ではまた明日だ。おやすみ、神 石長比売よ」
「ああ、おやすみ。また明日」
三人は石長比売に礼を言い、社を後にした。この一帯の運命を決める大戦が終わった後とは思えぬ、淡白な終わり方だ。それ故か、三人を見送った石長比売は黒縄丸と出会ってから今日までが夢なのではと自身の記憶を疑う。
しかし、時折臭う血の匂いと神域に響く妖達の喧騒が夢ではなく現実であると告げる。
「本当に、終わったのだな……」
万感の思いが小さな呟きとなって、誰にも聞き取られることなく喧騒に消える。
「さて、私達はもう一仕事だ。もう少しだけ頑張ってくれ!」
後ろに控える柊達に向けて言うと、元気のいい返事が返ってくる。
石長比売は満足げに頷く。その時、石長比売はあることに気づく。
「あ、しまった……まだやる事があるのに風呂に入ってしまった……」
その後、汗をかいた石長比売はまた風呂を満喫するのだった。