第7話 石長比売 その四
早朝の山道。
神域へと続くこの道は、普段は物静かで澄んだ森の匂いがする落ち着いた雰囲気のする場所だ。
しかし、この日は違った。
「兄者、兄者……待ってくれ兄者!」
余裕のない叫びが山道に響く。
「せめて傷の手当てを……そのままでは死んでしまう!!」
一歩踏み出す度、山道に赤黒い斑模様を描く。地面に落ちたそれは少しずつ吸い込まれ、通った後を艶やかに悍ましく彩る。
通って来た道を振り返り、朱蓮は青ざめた。
ここまでこんな光景がずっと続いている。前を歩く兄の黒縄丸は全身深い斬傷だらけで、最早見るも耐えない姿をしていた。
特に酷いのは右の脇腹。ついさっきまで中の臓器が溢れ出ていた。
しかし、こともあろうに黒縄丸はその臓器を掴み、自分で腹の中に戻したのだ。
そのいかれた光景を目の当たりにした味方の鬼達も流石に言葉を失い、一歩引いていた。
そばにいた朱蓮も当然その光景に息を呑み、吐き気すらもよおした。
「兄者、お願いだ。少しだけでいい。止まってくれ!!」
「ならん。今こうしている間にも、動いている者達がいる。止まってなどいられるか!」
「しかし……!!」
「しつこいぞ。それ以上は何も言うな!」
黒縄丸は足早に神域へ向かう。だが、その足取りは不安定で、真っ直ぐ歩けていない。
当然だ。激しい戦の連続と、その戦いで負った傷の痛み、そして出血。死に至るには十分すぎる理由だ。
朱蓮は前を歩く黒縄丸に並び、肩を貸す。
「もう何も言わない。だが、死ぬことは許さんぞ、兄者!」
「ああ、わかっている……」
肩の支えを借り、少し楽になる。
二人は遅々として進む。
神域はもうすぐだ。
近づけば神域の警護をしている巫女達か妖狐達が見えてくるはずだ。
「兄者……」
「なんだ?」
「痛むか?」
痛く無いはずがない。そんなのはわかり切っていた。だが、聞かずにいられなかった。
無言でいたら、肩を貸している黒縄丸が死んでしまうのではないかと思ったから。
「平気だ……傷口も塞がってきている。それに、痛みにも慣れた」
「そうか……」
「……お前はどうなんだ。その刺し傷、痛くはないか?」
朱蓮は左胸の下にある刺し傷に手を添える。刀によるものだ。
妖は総じて回復が早い。見た目は痛々しいが、死にはしないだろう。だが、やはり心配になってしまうのは兄としての役目のようなものなのかもしれない。
「兄者に比べれば大したことはない。小さな穴が空いた程度だ」
「ふっ、頼もしいな」
「そういう風に育ってきたからな!」
「……そうだったな」
黒縄丸と朱蓮は育ちが良くない。いや二人に限らず、鬼という妖はその全てにおいて育つ環境というものは悪辣だ。
親は子を産んで数年は面倒を見るが、すぐに捨ててしまう。当然、黒縄丸と朱蓮も例外ではなかった。
捨てられた鬼は生きる為になんでもする。そう、なんでもだ。だが、まだ幼かった朱蓮にそれをさせるのは非常に酷であった。
生きる為には仕方のない事だとは重々承知していたが、大事な妹の手を汚させたくはなかった。
鬼達の生きる世の環境は最悪だ。住む場所も、食べ物も、周りの趣味嗜好も、生き方も、その全てが堕ちるところまで堕ちていた。
その中で生きていけば、黒縄丸も朱蓮も周りの連中と同じになってしまう。
しかし、それだけは我慢ならなかった。自分はともかく、妹の朱蓮だけは真っ当に生きて欲しかった。
だから、黒縄丸は必死に走った。走って、走って。先の見えない茨の道を走り続けた。
少しでも妹に楽を。少しでもいい暮らしを。
そして走り、戦い続けて、ようやくこぎつけた。それが、"白面金毛九尾の狐 玉藻前"の弟、"月夜"との縁談だった。
それは奇跡にも等しい出来すぎた話だった。
強い警戒心を抱いたが、黒縄丸はその話に食いついた。
これできっと、妹が幸せになれると、そう信じて。
今思えば非常に危険な選択だったと、当時の自分を叱咤したい気持ちに襲われる。
ほぼ勘を頼りに決めた縁談だったが、結果的にはうまくいって良かったと、今更ながら安堵する自分がいた。
朱蓮も良く月夜の話をするようになり、二人の中は良好である事もその様子から窺い知れた。
「朱蓮」
「なんだ兄者?」
「月夜とはうまくいっているか?」
「え……ど、どうしたんだ急に?」
急な話に朱蓮の顔に赤みがさす。
「いや、少し気になってな。他意はない」
「えっと……そうだな――」
そこから濁流のように月夜との甘ったるい話が始まり、聞いたのが間違いだったと後悔しはじめた頃、いくつかの気配が黒縄丸達に近づいて来るのを察知する。
おそらく神域の外を警護している妖狐達だろう。
「朱蓮、ここからは一人で歩く」
「……わかった」
本当ならば最後まで肩を貸してあげるのが道理だが、黒縄丸にも矜持というものがある。女に肩を借りたままでは格好がつかないのだろう。
「兄者、無理はするなよ」
「心配無用だ。行くぞ」
先程より軽い足取りで進む。傷口は黒縄丸本人が言った通り、血で固まって塞がっているようだ。その証拠に、血が流れていない。だが、それは一時的なものだ。無理をすれば傷は開き、また出血する。
これ以上血を流せば命に関わる。故に、少し神経質なくらい用心しておかなければならない。
朱蓮は横目で黒縄丸を気にしつつ、歩幅を合わせて隣を歩く。すると、山道の先から妖狐達が出迎える。
「ああ……黒縄丸殿、なんとおいたわしい!」
痛々しく血に濡れた黒縄丸の姿に妖狐達から悲鳴があがる。
「急ぎ手当てを――」
「いらん。それより、俺は神 石長比売に話がある。通してくれ」
「し、しかし黒縄丸様、酷いお怪我を……どうか手当てだけでも!」
周りの妖狐達より人一倍心配そうにするのは綺麗な妖狐の女性だ。
歳は黒縄丸と同じぐらい。背は頭ひとつ分低く、黒縄丸を見上げるようにみつめている。
後ろ髪だけを長く三つ編みにし、他は短く切り揃えた夕陽色の髪が特徴的だ。切れ長の眼には髪と同じく夕陽色の眼が鎮座していた。
「火月か……悪いが急いでいる。どいてくれ」
正面にいる火月を手で押し退け、黒縄丸は先を進む。
「黒縄丸様!」
火月の心配の叫びも虚しく、黒縄丸は行ってしまう。
火月は横にいた朱蓮に顔を向け必死の形相で懇願する。
「朱蓮様。どうか、どうか朱蓮様からも説得を……!!」
しかし、朱蓮は首を縦には振らなかった。
「すまない……」
その言葉の意味するところは、おそらく既に説得を試みた、ということなのだろうと、火月は悟る。
ならばせめてと思った火月は急ぎ足で黒縄丸を追い、支えるように隣に並んだ。
「朱蓮様」
火月と黒縄丸が二人並んでいるのを眺めていると後ろから声がかかる。
「なに、風月?」
風月と呼ばれた壮年の妖狐は「せめて朱蓮様だけでも、お手当を……」と言う。
周りにいる妖狐達も同じように思っている為か、既に手当てをする準備をしていた。
朱蓮の負っている怪我もかなり酷く、妖狐達の顔は険しく歪む。だが、朱蓮はそれを断ってしまう。
「すまない。気持ちは有難いが、それは後にしてほしい」
「し、しかし……!」
「兄者が無理をしているのだ。妹の私も多少の無理はするさ!」
そう穏やかに笑い。朱蓮は黒縄丸の後を追う。
「お、お待ちください!」
「朱蓮様!」
「朱蓮様、お待ちを……!」
そうして、「お手当てを……」「どうか、手当てを……!」と必死にお願いして来る妖狐達を尻目に、黒縄丸と朱蓮は神域へと辿り着く。
その頃には妖狐達も「もう諦めました。お好きになさってください……」と半分呆れてため息をこぼしていた。
しかし、最後まで火月だけは食い下がった。
「黒縄丸さま、どうかお願いです。お手当を……このままでは死んでしまいますっ!」
「しつこい」
黒縄丸は泣きそうな顔で叫ぶ火月を少し苛立った様子で一蹴し、神域に入って行く。その後を朱蓮が続き、火月達が後からついていく。
神域に入ると、そこはごった返していた。凄まじい数の妖達だ。知っていたとはいえ、少し衝撃を受ける。
「こうしてみると、やはり多いな……」
黒縄丸は小さく呟き、妖達の間を進む。すると、傷口が開いたのか、赤黒い血が石畳を濡らす。
「あ……黒縄丸様、なんという……!」
「黒縄丸様……!」
「黒縄丸様、おいたわしゅう……」
血濡れの妖が黒縄丸と知ると、妖達の喧騒は消え、小さな悲鳴とざわめきとなって神域へとこだまする。
全ての妖が黒縄丸を心配の眼差しで見ていた。
それだけ黒縄丸が慕われているということなのだろう。
こんな状況にも関わらず、慕われている兄の姿見て、朱蓮は胸が熱くなるのを感じた。その時、前方から強烈な気配がやって来る。
「これは、これは……凄まじいな」
騒めきを打ち消すように正面からやってきたのは、大妖怪"玉藻前"だ。朱蓮にとっては義理の姉にあたる。
大妖怪の登場に騒めきと悲鳴が止み、妖達が無言で道を開ける。
「死にかけだな、黒縄丸よ」
「この程度で死ぬ俺ではない……」
「よく吠える奴だ……それよりも、朱蓮」
「は、はい、義姉上!」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ね上がる朱蓮。いくら義理の姉であっても相手は大妖怪 玉藻前だ。緊張で体が強張る。
そんな朱蓮の様子が可愛いのか、玉藻前は愉快そうに、愛おしげに笑う。
「無事、とは程遠いが……よく帰ってきた。これでも心配したのだぞ。かなりな」
いつもより優しい口調でそう言う。
本当に心配していたのだろう。その顔は心底安心したようだった。
「も、申し訳ありません。ご心配をおかけしました………あ、あの、それで、月夜様は?」
生き死にのかかった戦いの後だ。夫に無事である事を教えてあげたい、という想いからでた言葉だが。本音は、とにかく早く会いたいという気持ちが正直なところだ。
朱蓮は上目遣いで恐る恐る尋ねる。
「ふむ、残念だが月夜は少し出ていてな、ここにはおらん。なに、すぐに戻ってこようて」
そんな朱蓮の心内を察してか、玉藻前は愉快そうに笑い、煙管をふかす。
「で、黒縄丸よ。首は刎ねたのか?」
それが誰を指すかは聞かなくとも理解した。
薄い笑みを浮かべ、飄々としているように見えても、本心では余程酒呑童子の生死が気になるらしい。
「それについては皆が揃ってから話す」
「もったいつけよる……まぁ、良い」
そこからは玉藻前と共に本殿を目指す。道中黒縄丸が立ちくらみで倒れそうになり、ちょっとした騒ぎになるが、それは黒縄丸本人が黙らせた。
そうして歩く内、見覚えのある人物を見つける。石長比売の側仕えの一人である柊だ。
柊は黒縄丸を見つけると、目を丸くする。それは当然、そのあられもない姿からだろう。
今の黒縄丸の姿は凄惨の一言だ。
「こ、黒縄丸殿……なんという……」
言葉が見つからないのか、柊は口元を手で押さえたまま次の言葉を発しない。
「柊殿、神 石長比売は何処に?」
「し、しばし待たれよ。すぐに呼んでまいる!」
慌ててその場を後に、柊は足早に社の中へと消えていった。
戻って来るまでの間、玉藻前は護衛の妖狐達が用意した椅子に座り、優雅に煙管をふかす。
「さて、黒縄丸よ。神 石長比売来るまで少し時間がある。話をしようではないか」
「………」
黒縄丸は眼だけを玉藻前に向ける。話だけは聞いてやるという意思表示だ。
玉藻前は薄く笑い、「この前の話、少しは考えてくれたか?」と切り出した。
朱蓮達は首を傾げる。黒縄丸と玉藻前が何やら内緒話をしている。
こんな時ではあるが、内緒話というものは重要なものにしろ、そうでないにしろ、気になるものだ。
朱蓮達は内容を聞き取ろうと、静かに集中して二人の会話に耳を傾ける。
「どうなのだ?」
「………」
黒縄丸は視線を外し、正面を見据える。
「黙りか……それとも、口を開く体力すら残っていないのか?」
その言葉にはっとした火月が黒縄丸の顔を心配そうに覗き込む。
もしかしたら立っているのもやっとで、限界なのかもしれない。そう思っての行動だ。
「黒縄丸様……」
「………」
黒縄丸は一瞬火月を見ると、直ぐに玉藻前へ視線を送る。その眼は長年妹として見てきた朱蓮にははっきりと伝わった。同じく、玉藻前もその眼の奥にある真意を理解し、小さくため息を吐く。
"断る"という眼だった。
「なるほど、残念だ……」
それだけ呟くと、興味を失ったように視線を外し、煙管を吹かしながら石長比売が来るのを待つ。その時、一瞬だけ玉藻前の視線が火月と絡む。
「な、何か?」
「いや、なんでもない…………すまないな」
「?」
言葉の意味がわからず、火月は首を傾げる。ここ最近の記憶を辿っても、謝罪されるような事はされていない。寧ろ、玉藻前からは申し訳なるほど良くしてもらっている。
玉藻前は自身に仕える者達にはめっぽう甘い。当然側で仕える火月にも並々ならぬ愛情を注いでいた。
大切に、大切にされていた。だから、感謝こそすれど、謝られるようなことなど一つもないのだ。
しかし、玉藻前は違った。謝らなければならなかった。何故なら、今この場で一つの縁談が破談した。
黒縄丸と火月の縁談だ。
元々、弟の月夜と黒縄丸の妹である朱蓮の婚約(二人はもう契りを結んでいる)だけで十分満足していたのだが、ある時側仕えの一人である火月の黒縄丸を見る目が僅かながら熱を帯びていることに気がついた。
余計なお節介かもと思ったが、玉藻前は黒縄丸に縁談の話を持ちかけた。当然、黒縄丸はいい顔をしなかった。それどころか怪しむように眉間に皺を寄せ、強い警戒心を露わにした。
そもそも、月夜と朱蓮の縁談の話を持ちかけたの時でさえ並々ならぬ警戒心を持っていたのだ。更に自分も縁談の話を持ちかけられたら警戒するのは当然だ。
しかし、この時ばかりは損益の事など一つも考えなかった。ただ、火月が幸せになってくれるなら、と彼女を想っての行動だった。だが、悲しい事に黒縄丸は何か裏があるのではと、疑う視線ばかり向けてくる。だから玉藻前は言った。「裏も表もない。真剣に考えてくれ」と。いつもの薄い笑みも、軽薄な態度も全てなりを潜め、誠心誠意真摯な思いで言った。黒縄丸は最後まで警戒を解いてはくれなかったが、一応は了承してくれたのが幸いであった。
望み薄ではあったが、これでこの縁談が上手くいけば、と今日までずっと思っていたのだが。今、見事に破談した。
火月の知らないところで。勝手に話を持ちかけ、勝手に終わらせてしまった。
彼女の想いは、これで一生届くことはない。彼女が何かをするまでもなく、他人がその想いを終わらせてしまった。少しでも楽観的に捉えてしまった自分が情けなく、恥ずかしい。
余計なお世話やありがた迷惑という言葉はこの事なのだろうと、玉藻前は重い罪悪感に襲われる。
こんな事なら、あの時この話を持ちかけなければ、と何度も考えてしまう。だが、進んだ時はもう戻りはしない。「後悔とはいつも悩ましく、辛いものだな……」そう呟かずにはいられなかった。
「黒縄丸よ、最後に一つ聞きたい」
「……」
黒縄丸は顎をしゃくって先を促す。
「其方から見て、どう思う?」
それは当然、火月を"女"としてどう思う、という意味での質問だった。最早無駄な問いではあるが、一応聞いておきたかった。
黒縄丸は軽く息を吐くようにこう答えた。
「……悪くはない」
少なくとも、可能性はあったのだろう。そう思わずにはいられない一言だった。
「…………そうか」
今度こそ、玉藻前は何も言わなくなった。
そしてその数分後、柊達巫女を伴い、石長比売が姿を現す。
「すまない。またせ、た……」
黒縄丸が来たとの知らせを受け、石長比売は急いで駆けつけたのだが。真っ赤に染まった黒縄丸の凄惨な姿を見て面の下で息を呑む。
足元には血溜まりが出来ており、鉄臭い匂いが少し離れた石長比売の元まで届く。
「こ、黒縄丸……其方なんという……!」
ここは来るまでに同じような反応をみて来た黒縄丸は軽くため息を吐く。
神に対して無礼だとは思いつつも石長比売を無視して話を進める。
「知らせておかなければならない事がある。まずは話を聞いてくれ」
神域が静まり返る。緊張で空気が張り詰め、唾を飲み込む音すら聞こえて来る。
誰もが黒縄丸に耳を傾け、次の言葉を待つ。
そして、永遠とも思える静寂の中、運命の一言が放たれる。
「戦は勝った。もう、自由だ」
その言葉は静かな神域全体に広がり、全ての者に染み込んでゆく。そして、じわじわとその意味を理解し受け入れた途端、火山の噴火の如き大歓声があがる。
「やったーっ!!」
「自由だ。俺達は自由だ!!」
「もう怯えて暮らさなくて済む。本当に良かった!」
「ありがとうございます。ありがとうございます!」
「夢みたいだ。こんな日が来るなんて……!!」
全ての妖が歓喜し、踊り、祝う。誰もが戦の勝利を喜ぶ。神も、巫女も、妖も。自然と顔が綻ぶ。だが、玉藻前の顔は晴れなかった。それどころか鋭い眼光を黒縄丸に向け、その先を促した。
「黒縄丸、奴の首はどうした?」
燃え盛る炎に水をぶっかけられたように歓声が止む。
玉藻前が知りたいのは戦に勝ったかどうかではない。酒呑童子の首を刎ねたかどうかだ。
戦に勝ったのは素直に喜ばしい事ではある。しかし、敵の首領の首を討ち取ったという言葉を聞くまでは喜べないのだ。
黒縄丸はそんな玉藻前の思いを知ってか知らずか、頭を深く下げる。
「すまない。戦には勝ったが、酒呑童子はとり逃した……本当にすまない」
「………朱蓮」
確認を取るため、玉藻前は眼を朱蓮に向ける。すると、朱蓮は下唇を噛み、重苦しく頷く。それは見間違いでもなく、思い違いでもなく、黒縄丸の言葉を肯定するものだった。
「………………なるほど」
静かに言葉が溢れる。すると、常に一定の気温を保っている筈の神域に寒気がするような、そんな錯覚を覚える。その原因は言わずと知れた大妖怪 玉藻前だ。
「大将首を逃したなど、本来なら罵声の一つや二つ浴びせられて当然の大失態ではあるが………まぁよい。こんな事もあろうかと後詰めは用意してある。感謝するのだな、黒縄丸よ」
「………?!」
「後詰めだと?」
何も言わない黒縄丸の代わりに、石長比売が聞き返す。
「うむ、もしもの時のために弟の月夜を行かせてある。あとは血の匂いを辿って首を取ってくるだろう。弱りきった酒呑童子など恐るるにたらんわ」
月夜の実力は黒縄丸にやや劣るものの、妖の世では間違いなく上位に食い込む強さである。故に、戦に敗北した手負の酒呑童子など相手にならない。
「半刻もせぬ内に首を持ってくるだろうよ。それまではゆっくりしていようではないか。のう、黒縄丸」
「それには私も賛成だ。傷の手当てぐらいしておけ」
石長比売の言葉に同意するように、火月が激しく頭を振る。
「……悪いが断る。休んでいる暇など無いのでな」
黒縄丸は踵を返し、出口へと向かって歩き出す。
「お、おい黒縄丸。其方そんな傷でどこへ……!」
「戦は終わったが、まだいくらか残党が残っている。そいつらの始末をしなければならん」
瀕死の重傷を負ってもなおまだ戦う気概を見せる黒縄丸に、石長比売や巫女達は呆気に取られた。一方で妖狐達は尊敬と畏怖の念を抱き、火月は黒縄丸の前に立ち、首を横に振って「もうこれ以上は……!」と通せんぼする。
そんな中、玉藻前だけは呆れてため息を吐いた。
「忙しい奴だな。少しぐらい休んでもばちは当たるまい」
「そうもいかん」
そう言って前に立つ火月を押し退ける。最早誰の呼びかけにも応えるつもりは無いようであった。
「左様か。好きにせい……死んでも知らぬぞ」
その忠告を聞いてもなお、黒縄丸の脚が止まることはなく、神域を出て行こうとした――その瞬間。
神域に一人の鬼が姿を現す。
「ほほう……」
その鬼が姿を現した途端、玉藻前は一瞬眼を見開き、次の瞬間には面白いものを見つけたように笑みを深めた。
石長比売達や他の妖達はその浮世絵離れした鬼の存在に目を奪われる。
真っ白な短髪と蒼い角の鬼だった。全身を甲冑で身を包み、ぼろぼろだったのだろう着物は更にぼろぼろだ。
その鬼は黒縄丸に負けず劣らずの重傷で、本来真っ白な筈の白髪は血に濡れて真っ赤だ。腕も脚も刀傷で酷い裂傷が出来ており、腹には刺し傷が四箇所もあいていた。しかし、その立ち姿は安定しており、黒縄丸よりかは遥かに生き生きしているように思えた。あくまで黒縄丸と比べればという話ではあるが。
「これはこれは……久しいな、茨木童子」
白い鬼こと茨木童子は玉藻前に一度眼をやると、苦虫を噛み潰したような顔を作り視線を外す。そして、正面にいる黒縄丸へとその視線を移し、そばまで歩いてゆくと、腰に手を当て眉を吊り上げた。
「おっせんだよ、馬鹿。てめぇがちんたらしてっから残党狩り終わっちまったぞ!」
その見た目からは想像も出来ないほど荒い口調で怒鳴る。
「すまん。負担をかけたな」
「まぁ良いけどよ。お前そんなだし、来たところであんま変わらなかっただろうぜ!」
「……本当にすまんな」
「いい、気にすんな。それより手当てしとけ。お前に死なれたら困るんだからよ」
「ああ、わかった」
「さてと……」
茨木童子は黒縄丸の横を通り過ぎ、眼を動かして周りにいる者達の位置を確認する。刀はいつでも抜けるように手が添えられており、その研ぎ澄まされた警戒心は滲むような圧となって見るものを圧倒する。
「んで、なんでてめぇがこんなとこにいんだ?」
茨木童子の蒼玉は本来この場にはいない筈の大妖怪 玉藻前に向けられ、その後順番に妖狐達へと流れるように向けられる。
妖狐達は特に何かをされたわけではないが、その強烈な眼光につい身構える。
茨木童子から醸し出される重圧は半端なものではなかった。
「お前達、退がれ」
「し、しかし……!」
「心配いらん。戦うつもりは無い」
命令ならば仕方なし、と妖狐達は渋々退がるが、なおも警戒は続けた。
「………」
茨木童子の蒼玉が玉藻前を射抜く。その眼は敵意が混じっており、場合によってはいつでも斬りかかる腹づもりなのだろうと察する。
「ふふっ、そう睨むな。儂はただ黒縄丸に頼まれたからこの場にいるだけだ。他意はない」
「頼まれただ?」
一度後ろで――火月と朱蓮に――手当てを受ける黒縄丸に眼をやり目を細めると、すぐに正面に向け直す。
「早い話しが利害が一致した、と言う事だ。あまり深く考える必要はない」
にやにやと薄い笑みを浮かべながら煙管をふかす。その態度に若干苛立ちを覚えるが、玉藻前は初めて会った時からいつもこんな感じだった事を思い出す。
真面目に相手をするだけ体力の無駄である事は茨木童子も理解していた。
「ふ〜ん………あっそ」
茨木童子は頭を使うことが苦手だ。難しい話はよくわからない。いつだってそういうややこしい類のものは黒縄丸に任せて、もとい押し付けてきた。だから、黒縄丸がそうしなければならなかったと判断したならそれでいいし、何も文句は無い。
茨木童子は素直に今の状況を受け入れ、納得した。そして次の瞬間には玉藻前から興味を失ったように視線を外し、お次は石長比売に眼を向ける。その眼は先程玉藻前に向けていたような敵意は一切なく、寧ろ、好奇心や不思議なものを見る眼だった。
「お前誰だ。つかなんだその顔の布っきれは、前見えてんのか?」
遠慮というものを知らない茨木童子は、普通なら触れない部分にずかずかと踏み込む。その見た目に反して、繊細さの欠片も無い。
「貴様、石長比売様に対して無礼な……!」
まるで敬意のこもっていないその物言いに、柊を筆頭に巫女達の眉間に皺が深くより、射殺すような視線を四方八方から茨木童子に浴びせる。だが、特に何も感じていないのか、はたまた気にしていないのか、茨木童子は首を左右に振って骨を鳴らしながら、その視線を飄々と受け流していた。
その様を見て、耐え切れんとばかりに玉藻前がくつくつと笑う。
「く、くふふふ……!」
「おやめ下さい。流石に無礼でございます!」
側に控える若い男性の妖狐が窘めるが、玉藻前は涙目で「し、しかしだな……!」と笑いが止まらないようで、自前の扇子で口元を隠す。
一方、茨木童子の背後で手当てを受ける黒縄丸は額に手を当てた状態で「はぁ……」と大きくため息を吐く。
相手は仮にも神だ。当然の態度というものがある筈なのだが、茨木童子はそんな作法は一切習っていないし、知りもしない。というより、習ったり教えられたりする環境がなかったのだ。故に仕方のない事ではあるのだが、それにしたって言い方と言うものがある。
黒縄丸は手当ても途中に立ち上がり、茨木童子の隣に並ぶと、彼女の代わりに頭を下げて謝罪する。
「申し訳ない。茨木も悪気があったわけではないのだ。どうか許して欲しい」
「悪気がなければあのような物言いは良いとでも?」
青筋を浮かべながら努めて静かに問う柊に言い返す言葉もない黒縄丸は頭を下げ続け、茨木童子は隣で「別に謝る程の事でもねぇだろ。器の小せぇ奴等」と無責任にぼやく。
巫女達の顔に青筋が浮かぶ。
「本当に無礼な男ですね。この場で八つ裂きにしてあげましょうか?」
笑っていない目で柊がそう告げると、周りにいた巫女達も同意するように、満面の笑みで応える。
言外に「喜んで手を貸します!」だろう。
「やめないか、お前達。黒縄丸、其方も頭を上げよ」
助け舟が渡される。
「柊、よい。私は気にしてはおらん。和、結、お前達もだ。気を鎮めよ」
「石長比売様、しかし……!」
「石長比売様は妖共に甘過ぎます!」
一体このやりとりは何度目だろうかと内心ため息をつく。だが、それを決して表には出さない。和も結も柊も、みんな石長比売を思ってこその言動である。だから、疲れたような態度をしては彼女達に失礼であり、その想いを無碍にしてしまうのだ。
「茨木童子と言ったな。私はこのあたり一帯の山々を統治する山神、石長比売だ。よろしく頼む。それとこの顔の布についてだが、あまり触れないでくれるとありがたい」
「ふ〜ん……神ねぇ」
訝しげに見つめる茨木童子にどうしたものかと少し首を傾げる。
「何か?」
「いや。神ってのはもっと仰々しく威張り腐ってんのを想像してたんだけどよ……お前を見る限りじゃそうでもねぇみたいだな」
「いや、その認識は間違ってはいないぞ、茨木童子。私以外の神は、今其方が言ったように仰々しく威張った連中が殆どだ。私のような神は稀だ」
「へー……いたん、てやつか?」
「ははっ、そうとも言えるな」
「石長比売様……!」
「良い、柊。事実だ」
「おいお前、ひいらぎつったか? さっきからうるせぇぞ。人が話してる時ぐらい静かにしろよ。母ちゃんから習わなかったのかよ」
「貴様こそ、その無礼な口の利き方はどうにかならないのか。神の御前であるぞ!」
「無礼だっつんなら、さっきから人の話に横からがやがや割り込んでくるお前もじゃねぇか。しかも俺と話してんのはお前が拝んでる神様だぜ。なに自分のこと棚に上げてんだ」
最後に頭を指で軽く小突きながら「馬鹿だろ、お前……」と呆れたように吐き捨てる。
|正論すぎる物言いに言い返す言葉もない柊は顔を真っ赤にして拳を握り、その顔に恥ずかしさと悔しさが滲み出る。
そんな二人のやり取りに、流石の石長比売も笑いが込み上げて、次の瞬間には声を出して笑う。
「ふ、ふはははははははっ!」
珍しく笑う石長比売の姿に巫女達も開いた口が閉まらない。こうして声を出して笑う姿は何百年と仕えてきた柊でも二回か三回程度だった。
「気に入ったぞ、茨木童子。其方のように表裏の無い者は好ましい! いや、この場合清々しいと言った方が良いのか?」
「どっちでもおんなじだろ」
「そうかもな。さて、遅くなったがこれ以上の立ち話はお前達の体に障る。取り敢えず中に入るといい。話はそこで聞く」
一瞬、柊が何かを言いかけるが、それを口にすることはなかった。言ったが最後、また茨木童子から色々指摘されて恥をかく様が想像できたからだ。
言う事が正論なだけにたちが悪い。
何も言えない柊の珍しい様子に、こう言う一面も悪くない、と心の中で零しつつ、石長比売は柊と和、結を連れて社の奥、別棟に向かう。その際、茨木童子達に「さ、お前達もついて来い」と一言告げ、先を進む。その後を茨木童子、黒縄丸、朱蓮、玉藻前とその側近がついて行く。
「ほぇ〜……すげえ、床が軋まねぇ!」
あたりを見渡し、破れていない襖や音をたてない床に感心する。そんな茨木童子の様子に、前を歩く玉藻前が質問する。
「お前達どんな屋敷に住んでおったのだ?」
軽い気持ちで聞いた質問だったのだが、黒縄丸からの返答に衝撃を受ける。
「屋敷に住んでいたのは酒呑童子だけだ。俺達は用事がある時にその屋敷に上がるぐらいで、普段過ごしていたのは倒壊寸前の小屋か洞窟だ」
「小屋と言っても、申し訳程度の屋根と壁があるだけでしたけど……」
「壁と屋根が有るだけましだったがな。扉はなかったが、雨風はしのげた……」
「床なんて板を置いただけのものだったので、雨の日は水浸しでしたけど」
そう朱蓮補足すると、更に茨木童子が「しかも女なんていつ襲われるかわかったもんじゃねぇから、手の届くところに刀置いて立ったまま寝るんだぜ!」あっけらかんと付け足す。
「朱蓮も立ったまま寝てたよな?」
「うん。十年以上も立ったまま寝てたから、寧ろそれが普通だったかな……逆に寝転んで眠るなんて、月夜様のところへ嫁ぐまで非常識だと思ってたぐらいだし」
「そうそう。俺らの常識ってやつは、外に出りゃ全く真逆なんだよな。女は立って寝る。男は座って寝るが普通だと思ってたしよ!」
「お前はいつも大の字で寝てたがな。おかげでオレは眠れない夜ばかりだった……」
昔を思い出してか、黒縄丸が遠い目でぼやき、その様を見て茨木童子が肩を叩きながら笑う。
「おかげ俺はぐっすり眠れたぜ。悪りぃな!」
本人達は軽い気持ちで話をしているのだろうが、流石に笑い飛ばせない劣悪すぎる環境に、石長比売と追従する柊達は絶句し、玉藻前でさえ顔を引き攣らせた。
「お前達、よくそんな環境でまともに育ったな……!」
「兄者が外に行く事が多かったので、帰って来るたびに私達に外の事を教えてくれたんです。それこそ常識と言うものを一から十まで事細かく教えてくれました。昔はどうしてそんな事を教えるのかと不思議に思っていましたが、今に思えば本当に有難いと思います。もし兄者が私達に外の事を教えてくれなかったら、今頃私は私ではなかったでしょうから」
「………」
他の鬼に比べ、黒縄丸は里の外に行く事が圧倒的に多く、殆ど留守にしていた。というのも、妹である朱蓮の嫁ぎ先を見つけるのに奔走していたのだ。何年も、何年もいい嫁ぎ先を探し、その副産物として改めて常識を学んでいた。
当時は外の常識に驚くばかりで、自分達がどれだけ劣悪で非常識な生活を送っていたのかと眩暈を起こすほどだった。
しかし、その苦難のおかげもあり、朱蓮にしっかりとした常識を教えられたのは重畳だったと言える。
「改めて聞くと、最悪だな。鬼というものは……」
「否定はしない。実際最悪な連中の集まりだ。だが――」
「すまないが、その続きは後にしてもらえるか。出来るなら座って話を聞きたい」
黒縄丸の話の途中で石長比売が割り込む。
部屋はすぐそこなので、立って話すより落ち着いて話を進めたいというのが石長比売の本音だ。特に今後についての話合いは何千という妖達の未来を左右するものである為、この土地を治める山神として腰を据えてしっかりと考えなければならない義務がある。
「神ってのも楽じゃねぇな……」
「そういうものだ。神というものは……」
そうして一行は目的の部屋にたどり着くと、各々好きに座る。
しかしそんな中、玉藻前は早速と言わんばかりに襖を開け、縁側に腰掛けて煙管をふかす。わざわざ部屋の外に出たのは、主役はこの辺り一帯を治める石長比売と、今後妖達を束ねて行くであろう鬼の黒縄丸達であり、自分はあくまで助太刀に来た部外者である事を示唆しているのだろう。
黒縄丸は玉藻前を横目で見ながら気遣ってくれた事に軽く感謝の眼差しを送り、石長比売の真正面に座る。
「さて、早速話し合い、と言いたいところだが。まず茨木童子の手当てが先だな。和」
「はっ!」
「手当てを」
「かしこまりました」
和はあらかじめ用意しておいた包帯や消毒液(強めの酒)を用いて茨木童子の手当てを慣れた手つきで行なうが。その顔は険しい。怪我の具合が思ったよりも悪いようだ。
「こんな傷でよく意識を保っていられますね。素直に感心します」
「こんなもん慣れっこだ。怪我してねぇ時の方が珍しいくらいだぜ。な?」
手当てを受けながら朱蓮に相槌を求める。
「はは……確かに」
眉を八の字に乾いた笑い声が漏れる。実際月夜の元に嫁ぐ前は生傷が絶えな日常が普通だった。改めてよく今まで生きてこられたものだと自分自身感心する。
「………終わりました。ですが、あくまで応急処置ですので無理をするとすぐに傷口が開いてしまいます。お気を付けてください」
「おう。悪りぃな!」
和は軽く会釈するとその場を立ち、すぐに石長比売の後ろに控える。
そうして茨木童子の手当てが終わると、石長比売は黒縄丸から朱蓮、茨木童子の順に視線を合わせ、言外に「始めるぞ」と確認を取る。そして、最後に玉藻前に顔を向け、同じく確認を取ろうとするが、それよりも早く玉藻前が手をヒラヒラとさせ、「儂の事は気にせず始めよ」と薄い笑みを浮かべながら言う。
石長比売は了承の意味を込めて頷くと、正面へと向き直り、改めて口を開く。
「さて、今度こそ今後についての話しをしようではないか」
こうして、短くも濃密な時間が幕を開ける。