第4話 石長比売 その一
私は醜い。
私はその昔、妹の木花咲耶姫と共に天照大神のお孫に当たる、邇邇芸命という神の元に嫁いだ。父である大山津見も、私達二人を自信を持って送り出してくれた。「きっと良き縁となるだろう。幸せになりなさい」と、父は優しく私たち二人の幸せを願ってくれた。私はそれが嬉しかった。いつも厳格で愛想笑いもしない父が、初めて私達のために微笑んでくれたから。だから、私は私の幸せのためにも、父の期待に応えるためにも、夫となる邇邇芸命を生涯支えようと決めた。だが、それが果たされることはなかった。
邇邇芸命は妹のだけを花嫁として迎え、私を送り返した。当然納得など出来なかった。これでは送り出してくれた父に会わす顔がなかったから。
理由を求めた、妹だけを嫁に迎え、私を送り返すその理由を。すると、邇邇芸命はこう言った。
ーー貴様のような醜女など要らん!
言葉を失った。心が凍てついた。
私は社を半ば強制的に追い出され、ただただ、呆然と駕籠にゆられ続けた。
父の顔に泥を塗ってしまった。
父の期待に応えられなかった。
私は……幸せになれなかった。
父の元に帰ったらどうしよう……取り敢えず、謝ろう。許してもらえるとは思えないが今の私にはそれぐらいしか思いつかない。
私は近くにあった手鏡を手に取り、それを覗き込んだ。
「酷い……醜い顔だ……」
自分でも分からぬ間にそんな言葉が漏れた。
鏡の中には、腐ったような目と、右の額から頬にかけて、焼け爛れたような跡のある、醜悪な女が映っていた。
私だ。
力無く鏡を投げ捨て、私は大きく自嘲のため息をつく。
「送り返されて当然、か……」
鏡に映る自分の姿を見て、私は納得してしまった。なるほど確かに、醜い顔だった。邇邇芸命が私を送り返すのも無理はない。
決して邇邇芸命に対して恋慕のような感情を抱いていたわけではない。政略的な婚姻だった。神々だけでなく、人間や妖達の間でもよくある事だ。故に、嫁ぐにあたってしっかり心構えというものをしていた。これから夫となるであろう相手を"愛する"努力も惜しまぬつもりであった。しかし、その相手から醜いと拒絶され、挙げ句の果てには半ば強制的に送り返されたその事実は、想像以上に私の心を抉った。
私の心は静かに凪いでいた。波も立たず、波紋すら起きず、奈落に続く穴だけが顔をのぞかせ、どこまでも暗く冷たい。
「……ああ、そうだ。せめて……せめて……」
そこまで口にして、先を言葉にする事はなかった。言えば惨めな自分が更に惨めに思えたから。
そんな私に気を使ってか、駕籠の外を歩く柊達は、最後まで口を開く事はなかった。仮に話しかけられたとしても、私は何も答えることが出来なかっただろう。きっと素っ気ない返事を返すだけだ。
暫くして、私達は父のいる社へと到着した。
当然、社は私の突然の帰省に慌ただしくなる。その慌てようを見ると、本当に申し訳がない気持ちでいっぱいだ。
私は柊に命じ、白い布を持って来させるように言いつけた。何故そんなものが必要なのか訝しんだが、何も聞かずに持ってきてくれた。
私は駕籠の中きら一言礼だけを言うと、その布に紐を通し、自らの顔を覆った。
「い、石長比売様、なにを……!!」
「よい……これで、よい……」
顔を隠し、私は駕籠から降りた。刹那、柊が今にも泣きそうな顔をしているのが見えた。不謹慎なのかもしれないが、悲しんでくれている彼女を見て、私の心に少しだけ陽の光が差した気がした。同時に、優しい子に育ってくれた事を何より喜んだ。
思えば、柊が私の世話をするようになったのは、まだ彼女が七つの頃だ。それから今日に至るまで、早二十年となる。最早実の妹と言っても差し支えないだろう。
ああ。この娘は幸せにならなければならない。良い嫁ぎ先を探してあげよう。こんなに悲しむ顔は見たくない。悲しむのは、私だけでいい。
そこまで思って、慌ただしく騒ついていた周囲が静まり返る。
その理由は明白。この社の主である父が姿を現したのだ。
「石長比売、其方は邇邇芸命のところへ嫁いだ筈だが、何故帰って来たのだ? その顔を隠している布はなんだ?」
厳格な父の顔に困惑の色が混じっている。嫁として送り出した筈の娘の一人が突然帰ってきたのだ、当然と言えば当然の反応だろう。
私は緊張を和らげるように、小さく呼吸を整え、包み隠さず真っ直ぐ答えた。
「"貴様のような醜女など要らん"。そうおっしゃられ、こうして送り返されました。そしてこの面は、私の醜悪な顔を隠すためのものでございます」
「……!!」
父にしては珍しく、驚きに目を見開いていた。いや、この時のこの表情は、驚きというよりかは衝撃を受けて、という解釈の方がしっくりくるかもしれない。
「石長比売よ。それは誠、なのだな?」
「…………嘘、偽りはございません」
「そうか………」
そう一言零すと、父は踵を返し「長旅で疲れたであろう。今日はゆっくり休むと良い」そう言い残し、その場を去ろうとする。しかし、そんな父を私は引き止める。
「父上」
「……まだ何か?」
父はその場で立ち止まる。しかし、決して振り返る事はしない。私のことなど見たくもないのだろう。だが、それならそれで構わない。父の顔に泥を塗ったのだから、これぐらいは寧ろ当然。予想していたことである。
私は頭を深々と下げた。しかし、背中を向けている父には、私のこの姿は決して見えていない。だが、それでもいい。これは私が一人納得してやっていることであり、自己満足のためのものだから。
「………申し訳、ありません」
ただ一言。そう謝った。それ以外に、言葉が見つからなかった。
顔に泥を塗ってごめんなさい。
期待に応えられなくてごめんなさい。
幸せになれなくて、ごめんなさい。
私は頭を下げて続けた。零れ落ちそうになる涙を堪えながら――父がその場からいなくなっても――ずっと。
一年後。私は父の社を出た。追い出されたわけではなく、単純に私が耐えられなかった。それは、決して父が私を蔑ろにしただとか、そういう理由からではない。寧ろその逆、父は私に優しかった。優しすぎた。
父の従者をしている真から話を聞いたのだが、あの後、父は顔を真っ赤にさせて怒りを露わにしたらしい。その矛先は私、と思いきや、私を送り返した邇邇芸命であったそうだ。
その日の内に文を送りつけ、翌日には邇邇芸命の元へゆき、ほぼ一方的に怒鳴り散らしたそうだ。
―― 石長比売を花嫁として差し上げたのは、天孫が岩のように強く永遠のものとなるように。木花咲耶姫を差し上げたのは天孫が花のように美しく繁栄するようにと、それぞれ意味を持って差し出したのだ! 天孫の寿命は短くなるだろう。ゆめゆめ忘れぬことだ!
と、こう言い放ったらしい。それを聞いて笑みが零れてしまった。厳格だと思っていた父は、存外娘に甘いらしい。
それからというもの、父は"厳格"というものが抜け落ちたように私を甘やかして始めた。それ自体特に思う事はなかったが、今まで積み上げて来た厳しい父の姿が少しずつ崩れていったのは笑えた。そして、その優しさが、私の心を更に抉っていった。
私は父の顔に泥を塗り、期待にすら応えることが出来なかった。なのに、父は私を叱咤せず、優しさだけを与えた。嬉しいと思う反面、その与え続けられる優しさは、私にとって苦く、辛いものだった。
罪悪感で押し潰されそうになった私は、逃げるように社を出た。そして、とある山脈に私自身の社を造り、山神としてそのあたり一帯を治めることとなった。
それから程なくして、妹が子を産んだと知らせが入った。柊達は私に気を使っていたが、私としては妹が幸せならそれでよかった。今更邇邇芸命対して特に思うところはない。妹に子が産まれたことも素直に喜んだ。
そんな折にとある妖の一団が私の社へと赴いて来た。
当時、私が社を構えるあたり一帯を支配していた大妖怪、酒呑童子だ。
額から伸びた赤みがかった剛角。黒灰の癖っ毛。脚よりも太い剛腕。七尺(二.一メートル)はある巨躯。威圧感のある顔。そして何より、神である私ですら気圧される妖気の強さ。なるほど、他の鬼達が従うわけだ。一人だけ飛び抜けている。
「お初にお目にかかる。主が石長比売か?」
「いかにも、私が石長比売だ。貴様は鬼の首領、酒呑童子で相違ないな?」
「ふんっ。主のような神でも俺の事を知っているか。なんだその布は、そんなに自分の顔を曝け出すのが恥ずかしいか? それとも見せられぬ顔でもしているのか?」
太く威厳のある声。しかし、神を前にしてその言葉遣いと態度はどうなのだ。私は気にしないが、後ろに控える柊達はあまりいい顔をしないぞ。現に柊達の眉が真ん中に寄りかかっている。
「ふふっ……」
「何がおかしい? それとも自嘲でもしたのか?」
「いや、気にするな。少し貴様達が滑稽に映ったのでな。他意はない」
「……!!」
「随分と私の事を見下すな、酒呑童子よ。しかし、そんな見下すような神の元に、わざわざこうして顔を出しに来た貴様はらは、一体なんなのであろうな?」
「貴様……!!」
「私はこれでも山神だ。当然、それだけの神通力を持ち合わせている。つまり、大方貴様らは私のこの神通力を恐れ、自分達に降りかからぬよう、少しでも顔を売っておこう、そういう腹づもりなのであろう?」
「……!」
「なんだ、図星か? 愚かな男だ……」
事実を突かれ、押し黙る。先程までの勢いは何処へやら。怒りで顔を真っ赤にする酒呑童子達を見て、後ろで柊達が堪えるように嗤う。
これ以上は恥の上塗りと考えた酒呑童子は、鼻息荒くその場を去る。おそらく、二度と来ることはないであろう。去り際に覗かせた射殺すような眼光がそう物語っていた。
酒呑童子が去り、張り詰めていた空気が多少和らぐ。しかし、私の視線は前に固定されたままだった。
「さて、そこの鬼よ。何故この場に残ったのだ? 貴様の主君である酒呑童子はもう帰ったぞ。後を追わぬのか?」
本殿前にはまだ一人の鬼がいた。黒髪赤目のまだ幼さの残る男だ。おそらくまだ成人して間もない鬼であろう。しかし、内に隠す妖力は酒呑童子の取り巻き共を凌駕していた。その気になれば、かなりの数の妖を従えることが出来るだろう。この若さにしてこれだけの妖力とは、なかなかに恐れ入る。末恐ろしいとはこの事であろう。
「どうした、何故答えぬ」
先の話が通じなかったのか、鬼は答えぬまま私を見つめ続けた。柊達も怪訝に思ったのか、最悪の事態を想定して身構え始める。だが、鬼は思わぬ行動に出る。
鬼はその場で深々と頭を下げた。酒呑童子や周りの粗暴な連中との違いに私も柊達も一瞬の戸惑いを見せる。
「………なんの真似だ?」
「俺達は分かっていて神に無礼を働いた。あの男に代わって、俺が謝罪する――すまない」
口の聞き方はまだなっていないが、その姿には誠意のようなものが見て取れた。
「それと、無礼を働いた身で済まないが、どうか俺の願いを聞き入れてほしい」
「貴様っ――」
「柊、私は構わぬ」
本来なら聞く耳持たぬが道理であるが、こうして一人残り、謝罪をする鬼に免じて話だけでも聞く事にした。
「申してみよ」
「俺達は近々、反乱を起こすつもりだ。その時、里にいる者達をここに匿って欲しい」
「………!!」
「相手は"鬼の首領"酒呑童子。戦いは苛烈なものになるだろう。だから、戦に参加しない者達は、巻き添え喰らわぬために避難させたい」
「神域に妖を招けと?」
「そう言っている」
「………」
神域は神の住まう領域。今回のように、その土地を見守る神に顔を見せる意味を含めて、挨拶に来るのならばまだしも、神域を避難場所にするなど非常識極まりない。普通ならば神罰が降ってもおかしくはない。それを目の前の鬼も理解っているだろうに。
つまり、それだけ逼迫しているのだろう。最早頼れるものが周りにいないのだ。
酒呑童子の悪行により、このあたりに住んでいた妖は皆さまかを奪われ姿を消した。鬼に大きな恨みを持っているだろうそんな状況下で他の妖に助けを求められるはずもない。ならば、必然的にこの鬼が助けを求めるのは、どちらにも与していない神である私という事になる。
神々も妖も、ままならぬものよ。
「鬼よ。名を述べよ」
「……黒縄丸」
「黒縄丸……黒縄地獄から取ったのか?」
「知らん。幼馴染みが付けた。おそらくあいつも意味など知らんだろう」
「なるほど。して、黒縄丸よ。勝算はあるのか?」
「酒呑童子と一対一に持ち込めば、そこに勝機はある」
なんと、あの酒呑童子と一対一で戦って勝てると申すか。なかなか面白い。あの男は粗暴で女好きと碌でもないが、強さだけは本物だからな。
「ほう……其方、自分の腕に余程自信があるらしいな」
「俺ではない」
「なに?」
「俺の幼馴染みが殺る」
黒縄丸ではなく、幼馴染みの方が酒呑童子と死合うのか。では、その者は黒縄丸よりも強いという事なのだな。感じ取れる妖力から、黒縄丸は相当な実力者。酒呑童子に敵わなくとも、食らいつけるだけの強さはあるだろう。その黒縄丸を差し置いて、幼馴染みとやらが酒呑童子と一対一の勝負とな。
ふむ、なるほど。これは妖の世が騒がしくなりそうだな。
「黒縄丸よ。その幼馴染みとやらは強いのか?」
「少なくも俺よりは強い。今まで幾度となく剣を交えたが、勝てたのは二回だけだ。それも条件付きでな」
黒縄丸は腕を組み、一瞬悔しそうな顔を見せる。その一瞬見せた顔は年相応の子供のようで、少し可愛く思えた。
「ふむ、なるほど……」
これまで、碌なことがない神生であった。嫁いだ先の男に送り返され、挙句実家では惨めに慰められ続ける始末。もう今更だ。私が何をしたところで、もう誰も驚くことはあるまい、なら、少しぐらい――神にとって――常識外れな事をしても咎められることはなかろう。
「黒縄丸よ。其方の願い聞き入れよう」
「?!」
「なっ! 石長比売様、何を?!」
「柊」
言い募ろうとする柊を手を小さくかざして静す。それでも何か言いたいのか、何度か口をぱくぱく動かす。しかし、最後には口を結び、言いたい事を我慢する。
「黒縄丸よ。先も言ったように、お主の願いは聞き入れよう。しかし、何故神である私が、妖の願いを聞き入れるか、お主も疑問であろう?」
「………」
ふむ、黒縄丸から頼んだとはいえ、やはり警戒しておるな。それも当然か、私は神で黒縄丸は妖、どちらが上かははっきりしている。それに、私達は初対面だ。今日会ったばかりの自分の願いが聞き入られるとは思ってもいなかったのだろう。その証拠に、疑うような視線を私に向けている。
「率直に言う。単なる気まぐれだ」
「なっ?!」
「気まぐれ、だと?」
「そうだ。単なる神の気まぐれだ。そう難しく考える必要はない。
しかしそうだな、強いて言うなら、こうして新しく社を建てたというのに、まだ祝いの宴もしていない。宴は多い方が盛り上がると言うもの。違うか、黒縄丸よ?」
「……!」
黒縄丸は一瞬目を見を大きく張る。感心したのか驚いたのか、はたまたその両方か。ここまで無表情を貫いていた黒縄丸と違い、少し間抜けだ。
しかし、すぐに元の無愛想な顔に戻る。よく見れば綺麗な顔立ちをしている。まだ幼さは残るが男前だ。
「神 石長比売……感謝する」
「よい、気にするな。先も言ったが、ただの気まぐれだ。感謝される程のものではない」
「そうか……」
一言そう言うと、黒縄丸は黙り込んでしまう。だが、目に鎮座する二つの紅玉は私を見つめ続ける。
透き通るような紅い瞳は、黒縄丸の心を映し出すように、一片の曇りも、淀みもない。
私は相変わらず顔を布で覆っているが、この時、黒縄丸とは目が合っているような気がしていた。
「なんだ? まだ何かあるのか?」
私にまだ用があるのかと思い、問うてみる。こうなったらとことんまで聞いてやろう。その願いを聞き入れるかは別としてな。
だが、次に口を開いた黒縄丸の言葉は、私の想像もしないものであった。
「あんた、いい女だな」
優しい、柔らかい笑み。途端、私の心臓が跳ねた。
そんな事を言われたのは初めてだ。一瞬にして顔が熱くなる。きっと、私の顔は真っ赤だろう。
「なっ、なななっ何をっ?!」
不意打ちだ。なんだその笑顔は、反則ではないか。
「石長比売様、落ち着いてくださいませ!」
そうして動揺する私達を尻目に、黒縄丸は踵を返す。
「では、俺はこれこら戦の準備があるのでな、帰えらせてもらう」
「ま、ままま待て。其方さっき、私に言ったことは、ど、どどっど、どう言う意味だっ!」
ああ、なんと情けない。こんな成人して間もないであろう鬼に、神として何千年も生きる私が言葉一つで動揺しているなんて。いかんいかん、威厳を保たねば。そう気合を入れ直したのも束の間。また黒縄丸の言葉に私の心は掻き乱される。
「そのままの意味だ。顔は見えぬが、心は清く美しい。だから、あんたはいい女だ」
「はうっ!!」
「い、石長比売様っ?!」
その後暫く身悶え、正気を取り戻した時には黒縄丸の姿は無くなっていた。巫女達の話では、「また来る」と一言残し、帰って行ったそうだ。
決して深い意味で言ったわけでは無いのだろうが、それでも黒縄丸の私への評価は素直に嬉しい。"醜い"と言われて送り返された私としては、百のお世辞より、その一言が何よりも鮮烈に心をうった。
胸のあたりがぽかぽかと温かい。この気持ちを例えるならなんと言うのだろうか。そんな名も知れぬ気持ちを抱えつつ、私は避難民受け入れの準備に取り掛かる。
この場所に社を建てる前に、私は周辺の妖達を少し調べてある。どのような地形なのか。また、どのような妖達が住んでいるのかなどだ。それにより、このあたり一帯に住む妖達のおおよその数も把握している。数にして、約九千と七百。内半分は"鬼"である。つまり、五千近くが"鬼"達なのである。
おそらく戦が始まれば、半分はこの神域に避難してくると見た方が良いだろう。数にして二千五百ぐらい。中々の数だ。
鬼という妖は戦いに長けているが、だからといって全てが全て戦える鬼とは限らない。当然の話、戦えぬ鬼もいる。となると、おおよそ半分で備えでおけば安心であろう。
と思っていたのだが。暫くして再び現れた黒縄丸からの話に、さしもの私も顔を歪まずにはいられない。
「他の妖達も、だと……?!」
「ああ、決戦は冬になりそうだからな。それに、"鬼"だけ安全地帯に避難したと知れれば、更なる反感を買う恐れがある。そうなれば、例え酒呑童子に勝ったとしても、この辺りを平定するのにまた時間が掛かる。精も根も出し切った後に、他の妖達から余計なちょっかいをかけられると面倒だ。だからそう言ったいざこざを無くすためにも、このあたり一帯に住む妖を全てここに避難させたい。ただでさえ酒呑童子の独裁で妖達の怒りも溜まっている。そんな事で爆発させたくは無い」
鬼だけでも二千強。そこに他の妖も含めると、六千人近くなる。どう考えても無茶が過ぎる。寝床はなんとかなるだろうが、兵糧はどうするのだ。二千だけでも際どいというのに、そこはさらに四千もの妖を養う程の余裕などない。そんな事、黒縄丸ならとうに理解している筈である。
「流石に無茶が過ぎるぞ、黒縄丸よ……」
「だが、やってもらわねば困る。鬼だけ優遇するわけにはいかない」
「言いたい事は理解る。要は、全て平等に扱う、と言うことを他の妖達に知らしめたいのであろう。自分達は酒呑童子のように妖達を虐げないと」
「………」
「しかし黒縄丸よ。仮に、鬼を含めて六千もの妖を此処に非難させたとして、食べ物はどうする。正直に言うが、それだけの大群の食糧は無いぞ。一日だけなら全体に行き渡らせることも出来ようが、その後は無理だ。神だからと言ってなんでも出来るわけではない。黒縄丸よ。其方ら、よもや、全て我らに任せっきり、と言う訳ではあるまいな?」
「そこまで投げやりでは無い。だが、妖達の命がかかっている。どうにかしてくれとしか言えん」
後ろから柊達の隠しきれない怒りを感じる。神に対してここまで遠慮なく自分勝手な事を言うのだ、神に使える柊達としては到底見過ごせまい。だが、神である私が黒縄丸の無礼を許している為に、何も言えない。
歯痒い気持ちもあるだろうが、我慢して欲しい。
「……どうにか出来るものではないと思うが?」
「此方も戦で余裕がない。当然、此方も出来る限りの事はするつもりだが……」
つまり、自分達が蓄えてある兵糧は戦で必要だから、他に回すことが出来ないと。確かに筋は通っているが、それ少々強引ではないか、黒縄丸よ。
私は面の下で厳しい視線で黒縄丸を見る。視線に気づいている黒縄丸に変化はない。能面のような顔を相変わらず私に向けている。
何を考えているか、神である私でも見抜けない。
こんなので本当にあの酒呑童子を討てるのか。どうにも杜撰に思えてならない。しかし、最早乗り掛かった船である。今更降りる事は叶わん。
「はぁ……分かった。なんとかしよう」
「石長比売様。お言葉ですが、先程石長比売様がおっしゃられたように、どうにかなる話ではございません。どうか、ご再考を!」
柊の言うことも最もだが。神に二言はない。
「無茶であるのは重々承知している。既に許容範囲を超えている事もな……だが、最早後戻り出来ぬ状況だ。とことんまで付き合ってくれ」
「貴様っ! 先程から聞いておれば、よくもぬけぬけとっ!!」
「柊、少し静かに」
「しかしっ!」
「柊……二度は言いませんよ」
「畏まりました……!」
渋々ながら、柊は後ろに退がる。
「黒縄丸。其方の言う通り、こうなればとことんまで付き合う。あとは好きにせよ」
黒縄丸は軽く頭を下げると踵を返し、その場を後にした。
黒縄丸が神域から出てゆくと、後ろに控えていた柊達が納得出来ない様子で声を出す。
「石長比売様。妖如きに何故ここまでされるのです。六千もの妖をここで匿うなど、不可能なのは石長比売様が一番理解されているはずです。にも関わらず、何故ここまで無茶を通すのです!」
何故無茶を通すのか。それは、神に二言はない、と言うのもそうだが、今を変えようとする黒縄丸の姿に、力になってやりたいと思ったのも一つだ。杜撰なところはあるが、私に向けていた目は、常に真剣で、強い意思が宿っていた。不退転の決意とでも言うのか、黒縄丸達に引き下がると言う選択肢はないのであろう。それだけの覚悟を持って戦に挑もうとしている。ならばこそ、微力ながら背中を押してやるのも、この地を治める者の務めである。
「この戦で妖達の運命が決まります。今より良くなるか、それとも、悪くなるか……当然、私は良くなって欲しいと願っています。ですから、少しでも黒縄丸の憂いを消してあげたいのです」
憂い無くば、黒縄丸達は後ろを気にせず存分に戦える。それで少しでも勝てる見込みが上がるのなら、無茶を通しても良いと思うのだ。
「それは、あの黒縄丸に勝って欲しい、そう仰るのですか?」
「当然ではないですか。誰でも平和になって欲しいと願うものでしょう」
「あの黒縄丸が酒呑童子より圧政を強いるとは思えわれないのですか?」
「思いません。でなければ、神に頭を下げる必要はありませんから。それに、この地を治める神として、酒呑童子のような妖が統べるより、黒縄丸達のような者が統治してくれている方が、私としても都合が良いのです」
「つまり、互いに利用していると?」
「悪く言えばそうなりますね。しかし、私は……」
黒縄丸に死んでほしくない。単純にそう思っていた。口に出せばきっと柊に怒られてしまうだろう。神が妖になどあってはならない。だが、これは私の本心だった。
まったく、私も軽い女だ。一言褒められただけで、この体たらく。余程"愛"に飢えているらしい。
「とにかく、最早後の祭りです。私の勝手で迷惑を掛けますが。出来る事はしましょう。手伝ってくれますね?」
酷い話だ。柊達が断れないのを知っているくせに。
主神を諌めるのもの下の者の役目ではあるが、私が強く言えば断る事は出来ない。それが神に使える巫女としての務め。故に、反対など出来るはずもない。
「はい。全ては御心のままに」
予想していた言葉が返ってくる。その事実に申し訳なく思う。これから忙しくなるのは主に柊達だ。私は大まかな指示を出すだけで、特にこれといった事はしない。仮に何か手伝うと言っても、柊達がそれをさせないだろう。神がしもべのする事を手伝うなど、あってはならないのだ。それに、私が手を出してしまったら、次は柊達の存在意義を問われてしまう。だから、私は何も出来ない。する事は許されない。
「冬まであと二月もありません。急ぎますよ!」
「はっ!」
それからは走り回る毎日だった。
神域内は基本的に温暖な気候で、万が一にも凍え死ぬという事態は無いだろうが、きちんと寝床は用意しておく事に越した事はない。しかし、六千ともなると私達だけでは無理がある。そこで、父に協力を仰いだところ――決して良い顔はしなかったが――条件付きで承諾してくれた。
条件付きというのは、それなりの人数を協力に貸し出すが、期間は決戦のある冬まで。それ以降は一切手を貸さない、というものだ。本音を言うなら、それ以降も手を貸して欲しいものだが、これ以上は高望みと言えよう。寧ろ父が手を貸してくれただけでもありがたい。
「真達がいてくれて助かります。これなら冬までにはなんとかなりそうですね。しかし、やはり問題は……」
「はい。石長比売様がお考えの通り、食料が足りません」
やはりと言うべきか、ぶつかった問題に難色を示す。
「……ここの備蓄を合わせるとどのくらいですか?」
「六千分にはとどきます。ですが、二日目には尽きる計算になります」
柊の返答を聞き受け、私は面の下で渋い顔をする。
「………戦と言っても、鬼同士の内戦です。規模は人間達がするような大きなものではありませんが、それでも一日で方がつくとは到底思えません。相手は酒呑童子率いる猛者達。故に、この戦はかなり厳しいものの筈です。当然、戦況次第では短期で終わるとは思いますが、楽観的に捉えると不足の事態に陥った際、足元をすくまれます。
備えあれば憂いなし。食料は最低でも五日分は欲しいところですね……」
「しかし、これ以上の食料の確保は困難です。山から取れる恵みも、最早殆どなく、今あるものを取り過ぎると翌年に響きます」
「真の言う通り、取り過ぎると翌年に影響を及ぼし、餓死する者も出てくるかと……しかし、妖というものは我々が口にするものとは違い、泥や苔などを主食にする者もいます。そういった者を差し引けば、おおよそ三千人分の食料が浮きます」
「確かに、言われてみればそうですね……しかし、例えそうであったとしても、現状よりもう一日分確保できるだけ……しかも、その類の妖が実際どの程度いるか分かりませんし、しっかり調査した上で準備を進めないと、取り返しがつかなくなる……それこそ、本当に餓死者が出てしまう」
「ですが、今から調査をしたとしても、冬の決戦には到底間に合いません」
柊の言う通り、今から調査を進めても、冬には間に合わない。この広大な山々を巡り、妖一人一人に聞き込みをするなど不可能だ。
「やはり食料以上に、問題は時間ですね……」
「石長比売様、ご提案があります。その黒縄丸という鬼に、決戦を来年にまで引き延ばすよう命じれば良いのではないでしょうか?」
確かに、そうすれば食料の確保は十分に出来る。その上、受け入れの準備も出来る。しかし、こちらの都合で黒縄丸達の予定を狂わすと、全体の士気に関わる。
もう鬼達はその気になっている筈だ。そこへ要らぬ横槍でも入れようものなら、この決戦、最悪の事態を想定しなくてはならない。
「真の提案は、私達にとっては都合が良いです。しかし、これから決戦を迎える彼ら鬼達にとっては最悪の申し出でしょう。なにせ上がりに上がった士気を奈落の底にまで落とされるのですから」
「仰る通りです。しかし――」
「真。これは妖達の運命を決める戦です。我々の都合でどうこうして良い問題ではありません」
万全を期すならば、真の提案が最も正しい。だが、これは鬼達の戦いである。余計な口は挟まず、手を差し伸べる程度で良い。
「……!」
「食料に関しては私の方でなんとかしましょう。貴女達は受け入れ態勢を万全にして下さい。それと、"結界"の準備も忘れぬように」
「「はっ!」」
その後二ヶ月。食料に関してはなんとか目処が立ち、ようやく一息つくことが出来た。
決戦まで残すところ五日に迫っていた。本当に危ないところだ。こう言うのを紙一重というのだろう。我ながらよく間に合ったというのが本音である。
「やってみるものだな……」
食料に関しては、いちかばちかであった。他の神に頭を下げ、食料を提供してもらうように願い出た。
しかし、妖に手を差し伸べるという行為に、当然神々はいい顔をしなかった。頭を下げ、上げた時には蔑むような、嘲笑を含んだ嗤みを私に向けた。だが、今更だ。そんな事は私にとって大した事ではない。この軽い頭で数千の命が助かるのなら、喜んで私は下げよう。それが、この地を治める神としての務めだ。
しかし、柊と真には泣いて怒られてしまった。他の神達から嗤われる私の姿が見るに耐えなかったのだろう。だが、これで準備は整った。食料も頭を下げた甲斐もあり、七日分確保出来た。これだけあれば憂いは無い。あとは黒縄丸達の成功を祈るのみである。