第3話 屋敷 そのニ
静寂の世界に降る白い花。
息を吐けば、それは白くなって空気に溶けて消える。
心地よい布団の温もりが今日の始まりを躊躇わせる。
時刻は昼時。陽が真上に差し掛かったくらいだろうか。曇天が覆う鉛色の空は暗く重い。まるで今の雪花丸の心を映し出しているかのようだった。
「雪花丸様、お食事の用意ができておりますが……」
「………いらない。お腹すいてない」
部屋の外。襖越しに声をかけた紅緒へそっけない返事を返し、布団の中にくるまる。
今は誰とも会いたくない。
「……畏まりました。何かあればすぐにお呼びください。すぐにご用意致します」
襖越しに頭を下げ、紅緒は去ってゆく。その事に若干の寂しさを感じつつも、雪花丸は布団から出ようとはしなかった。
頬が痛む。腹も腕も、痛い所だらけだ。何より、胸の奥深くから抉れるような痛みがする。
苦しい。辛い。この痛みは母親である茨木童子の事を考えると決まって起こる。
(母上……)
早朝の鍛錬。いつも通りの日常だった。そこへ珍しく母が来た。決して表には出さなかったが、母親に相手してもらえる嬉しさで雪花丸の心は躍った。だが、それも一瞬であった。母は父以上に厳しく、そして冷たかった。容赦なく体を打ち付けられ、舞い上がっていた雪花丸の心を地の底へと引き摺り下ろした。
分かっている。母は自分の為を思って厳しくしてくれているのだ。だから悩む必要はない。こうして心を痛める必要もない。寧ろここまでしてくれているのだと感謝せねばならない。けれど、顔色ひとつ変えずに迫り来るあの光景は、今も雪花丸の脳裏に強くはっきりと焼き付いている。そして耳に残る「立ちなさい」という淡々とした冷たい声。
知らず知らずに体が震えた。
(母上は僕のこと……)
そこまで考えてすぐに追い払った。そんなことがある筈がない。いくら自分に対して厳しいからと言って、それを結びつけるのは間違っている。今朝のこともあって、気弱になっているだけだ。雪花丸は頬を叩き、気持ちを切り替える。悩んでも仕方ない。割り切ろう。そう思い、重い体を持ち上げ、後ろ髪を引かれながらも布団から出る。
「寒い……」
障子を開ける。外は雪が降り、今朝見た時よりも少し積もっていた。
雪花丸は自室をあとに、居間へ向かって廊下を歩く。すると、別の部屋から丁度翠色の髪をした女中が姿を現した。
キリッとした顔立ちと頭の右横からねじれるように生えた二股の角。短く切り揃えられた翠色の髪と切長の目には翠の玉と眼鏡。背丈は高く、百七十ぐらいある。そんな仕事のできる女の空気を身に纏い、"翠玉"は雪花丸に向かって優しく笑む。
「おや、これは雪花丸様、お目覚めになられたのですね。これからどちらへ?」
「居間に行くところ……」
「左様でございますか。では、居間までご一緒しましょう」
「………」
雪花丸はじっと翠玉を見つめる。その瞳は呆れを含んでいた。
「な、何か?」
「まだ屋敷の中覚えられないの?」
「〜〜っ!!」
翠玉の顔が真っ赤に染まる。
雪花丸は一瞬眉を八の字に曲げると、翠玉の横を通る。その後を翠玉が後をついていく。
「翠玉ここに来てもう四年なんだよ。いい加減覚えないと紅緒に怒られるよ」
「わ、分かってはいるのですが、こればっかりは……」
翠玉は額に手を当てながら頭を悩ます。
仕事に関して特に駄目なところは無い。寧ろなんでもそつなくこなす器用な使用人である。しかし、そんな翠玉にも欠点があった。それは極度の方向音痴である。
部屋の位置などはしっかりと覚えているのだが、なにぶん屋敷が広いためによく迷う。三日に一度は迷子になる。
「最近では壁に〈居間はこっち〉〈浴場はこっち〉などの貼り紙がしてありまして……完全に私が迷子にならない為に張ってあるんです。流石に少し悲しくなります」
「それは自業自得じゃないの?」
「それを言われるとぐうの音も出ません……」
何度か角を曲がり廊下をまっすぐに進む。そして、一際立派な襖が目に入る。居間への入り口だ。
「じゃあ、僕はここまでだから。あとは大丈夫? 一人でちゃんと目的地まで辿り着ける? 最後までついて行った方がいい? それとも誰か呼ぶ?」
「雪花丸様、そこまで心配されると寧ろ辛いです……」
一瞬目尻に涙が溜まる。心配されるってこんなにも悲しいものなのかと。翠玉は長い人生の中で、心配されることが決していい事ではないことを今日この時悟った。
その後、たまたま通り掛かった藤花と合流し、翠玉はその場を後にした。その時の藤花の翠玉を見る目が若干憐れんで見えたのはきっと気のせいである。
雪花丸は翠玉達が去っていくのを見送った後、襖を開き、居間に入ろうとして足を止める。
居間には黒縄丸がいた。湯気の上る茶を啜り、そばには"蒼風"という名の女中が後ろで控えていた。
蒼風はその名の通り癖っ毛のある――肩まで伸ばした――蒼い髪の鬼で、年齢は雪花丸より二つ上だ。額の真ん中からは白い艶やかなツノが一本生えている。垂れ目気味の目はおっとりとした印象を抱かせ、その中には空色の眼が鎮座している。しかし、雪花丸は知っている。この一見大人しそうな蒼風は決して見た目通りの性格ではないことを。
蒼風はその見た目からは想像もつかないくらいに攻撃的な性格をしている。以前たまたま出会した場面では、蒼風が楽しみにしていたお菓子を"羅生丸"という男の鬼が知らずに食べてしまい、それに怒った蒼風がキレて馬乗りでボコボコにしていた光景だった。その時は近くに"羅刹"と翠玉がいてことなきを得たが、後から見た羅生丸の顔はぱんぱんに膨れ上がり、最早誰だかわからないぐらいだった。それを今でも鮮明に憶えている雪花丸は、正直蒼風が苦手である。いつ自分が羅生丸の二の舞になるのか分かったものではないからだ。だから、居間に入るのをつい躊躇ってしまう。
「どうした雪花丸。入ってこないのか?」
黒縄丸に言われて、渋々と言った感じて一歩踏み入れる。そもそもこちらから何かをしない限り、蒼風はなにもしてこない。雪花丸は横目で蒼風を気にしつつも、黒縄丸の正面に座る。
「おはようございます。父上」
「おはよう、雪花丸。とは言うものの、もう昼時なのだがな……体は大事ないか?」
「まだ少し痛みますが、特に支障はありません」
「そうか……すまなかったな」
「……え?」
雪花丸は何故父である黒縄丸が謝るのか分からなかった。体があちらこちら痛いのは母、茨木童子との修行による結果だ。つまり、自分の未熟さ故のこの有様なのだ。自分に落ち度はあれど、黒縄丸が悪いことなどなに一つとしてありはしない。しかし、次の黒縄丸の話しで納得がいく。
「茨木のことだ」
「母上の?」
黒縄丸は無言で頷くと、続きを話す。
「茨木には手加減をしろと釘を刺しておいたのだが、まさかあそこまでするとは思わなかった。それに、私ももっと早くに止めに入るべきだった。すまん」
きっとここで悪いのは自分だと言い張っても押し問答になるだけだ。雪花丸は素直に謝罪を受け入れる。
「父上、頭をお上げください。僕は気にしてはいません」
「そうか、そう言ってくれると助かる……言い訳がましく聞こえるかもしれないが。きっと茨木は気持ちが舞い上がっていたんだろう……」
「……?」
「早い話がお前の相手を出来るのが単純に嬉しかったのだ。産まれてから今日に至るまで、茨木はお前を構ってやれなかったからな。だから今日、お前相手に稽古をつけられるの嬉しかったのだ。
あんなぶっきらぼうな奴だが、心の底では雪花丸のことを誰よりも大事にしている。勿論私もお前のことが大事だ。私は、出来ることなら何も知らず、この里で何事もなく過ごしていて欲しいと思っている。だが、茨木は私と考えが少し違っていてな。とにかく強く育てようとしている。それは今世が戦国の世というのもそうだが、里の外は危険が多い。人も妖も、そこかしこに敵がいる。茨木が厳しくお前に稽古をつけるのは、これらを危なげなく対処出来るようにする為なのだろう。茨木は茨木なりに悩んで、考えて、お前を育てようとしている。やり方はかなり不器用だがな」
「……??」
雪花丸の頭の上に疑問符が浮かんでいるのを幻視する。まだ子供の雪花丸に親の気持ちを伝えたところで理解は難しいだろう。これは将来雪花丸が子を持たねば分からないかもしれない。
(十二の子供には早かったか……)
その後しばらくして、まだ食事をとっていなかった雪花丸は遅めの昼食を取る。
朝食を食べていなかった為に、中はすっからかんだ。空いた腹に勢いよく収めて行く。その食べっぷりは見ていて清々しい。そして数分と経たずに全て平らげた。
「ごちそうさま…………父上。母上はどちらにおられますか?」
食器を下げて居間を出ていく翠玉を心配そうに横目で見送りながら、雪花丸は――湯呑みから湯気が上る茶を啜る――黒縄丸に尋ねる。
「茨木なら今朝早くに屋敷を出たぞ。本当は明日までいる予定だったのだが、急遽用が入ったようでな」
「そうですか……」
「何か用でもあったのか?」
「いえ、ただ……少しお話がしたかっただけです。ただ、それだけです」
これはおそらく、雪花丸なりの精一杯の甘えなのだろう。そう思った。すると、黒縄丸の顔が自然に綻ぶ。
雪花丸は同年代の子供達と比べて非常に大人しく、そして聡い。手のかからない子である。親としては良い子に育ってくれたことを素直に嬉しく思うが、その反面もう少し子供らしく我儘を言って欲しいと思っていた。だが、普段から忙しそう方々を飛び回る両親を見て、果たして我が儘など言えるだろうか。聡い雪花丸の事だ、きっと迷惑になると思って口には出さないだろう。だからこそ、黒縄丸は嬉しかった。大人しい雪花丸にも、子供らしい一面があった事が。
茨木童子がこの場にいたらどんな顔をするだろうか。やはり、男児たるもの甘えてはならぬと一喝するだろうか。いや意外と驚いた顔をして、次の瞬間には口元を僅かに綻ばすかもしれない。しかし、茨木童子はこの場にいない。そんな妄想を掻き立てても無意味である。
「次に戻ってくるのは二月後だ。その時に話をするといい。茨木も喜ぶ」
「はい」
残念そうに俯く。聡いといってもやはり子供だ。親に甘えたいのだろう。特に雪花丸は親といる時間が少ない。普段から離れ離れともなれば尚更のこと、親の愛情が恋しい筈だ。だから余計に強く求めてしまうのかもしれない。
「雪花丸。少し出かけようか」
「?」
何処に行くのかもわからぬまま。雪花丸は木漏れ日の差す――雪の積もった――清流沿いの道を歩いていた。前を黒縄丸が進み、最後尾を蒼風が追従する。
「父上、どちらに向かわれているのですか?」
「決めていない」
「??」
「私も茨木と同じで屋敷にいることが殆どない。だから、こうして屋敷にいる間だけでも、お前との時間を大切にしたいのだ。許せ、私の我儘だ」
「そ、そのような……僕は……」
立ち止まり振り返った黒縄丸の顔は、少し申し訳なさそうだった。眉を八の字に曲げ、雪花丸を見る目は優しい。しかし、その瞳の奥に揺れるのは、決して優しさだけではない。息子に対する申し訳ない気持ちと罪悪感が見え隠れしていた。だが、それを幼い雪花丸に見抜く事が出来るはずもない。
手を伸ばし、黒縄丸の着物の端を小さく掴む。
「父上と一緒にいられて……嬉しいです」
決して体全体を使って喜ぶわけでもなく。小さく喜ぶその不器用な姿が茨木童子と重なる。やはり似たもの親子だと苦笑いが零れた。
「そうか」
着物を掴む小さな手をそのままに、黒縄丸は再び歩き出す。
暫く当てもなく歩いていると、清流を離れて木々によって出来た隧道を通る。途端、一面雪に覆われていた銀世界が消える。視界を覆うのは苔や草木などの燃えるような緑。肌を刺すような寒さはなく、寧ろ暖かい。
「こ、これは一体……!」
「………!!」
少し隧道を通ってみれば全くの別世界。これには蒼風と雪花丸は戸惑いと驚きを隠せない。
「此処は神域だ。二人共、私から離れるなよ」
喉を鳴らす。妖気とも違う異様な力の波動が常に全方位から叩きつけられ、体が強張る。
雪花丸や蒼風が普段から感じ取る"妖気"は、なんとなくそこにいるな、という感じなのだが。この異様な気配は、まるで命を掴まれているような、そんな感覚だ。
当然、良い気分ではない。この気配に慣れている黒縄丸はともかくとして、初めて経験する雪花丸と蒼風は生きた心地がしない。
「黒縄丸様。これは、神気……でしょうか?」
蒼風がおずおずと尋ねると、黒縄丸が肩越しに少し振り返ると、一言「そうだ」と言う。
そもそも神域とは。文字通り"神"の住まう領域を指す。つまり、神気とは神が放つ力の波動である。
「此処におられるのは山神のお一神で、石長比売様という。長年に亘り、我ら鬼を見守って頂いていている、とても寛大でお優しいお方だ。ただ、癇癪を起こすととても怖いおひとでな。昔怒らせてしまった時は大変だった。酒を飲ませて、これでもかというぐらいに酔わせてやっと落ち着いて頂いた事があったのだ。お前たち二人も、石長比売様には失礼のないようにな」
「は、はい」
「かしこまりました……」
獣道のような道なき道を暫く進む。周囲には大小様々な岩が点在し、艶やかな苔が覆っていた。木々は広い間隔で生えているものの、上を見上げれば葉が天を隠している。だからといって視界が暗いわけではない。昼間のようにはっきりと先の方まで見える。
「父上、どうして石長比売様のところへ行かれるのですか?」
「ここ最近忙しくて来られなかったからな。久しくお会いしていないし、顔だけでもお見せしに行こうと思ったのだ。それに、大きくなったお前をまた見せてやりたくてな」
「また?」
怪訝な顔で首を傾げる仕草に可愛いいと思いつつ、黒縄丸は先を話す。
「雪花丸は憶えていないだろうな。あれはまだお前が生まれてすぐの時だった。子が産まれたという事で、この地をお守り頂いている石長比売様に、日頃の感謝を込めてご挨拶に赴いたのだが。その際、ついでにお前の事をお見せしたのだ。そしたら石長比売様が大層お喜びになってな。よほど可愛かったのだろう。その日は一日ずっとお前を抱気抱えて離さなかった。正直そのまま返してくれないのではと心配に思ったほどだぞ」
当時はそのはしゃぎように茨木童子も目を白黒させた程で、滅多に感情を表に出さない石長比売には珍しい一面であった。これには側仕えの巫女達も驚き、終始呆然としていたのを憶えている。空いた口が塞がらないとはこの事だろうと苦笑いが浮かんだのは良い思い出である。
「それからも何度かお前を連れて行くと、いつも我が子のように可愛がっておられた。雪花丸も雪花丸で、石長比売様には良く懐いていたしな。しかし、そのせいで茨木がいつも拗ねるのだ。これがまた機嫌を取るのが大変で……」
「拗ねる? 母上がですか?」
「ああ。自分にではなく石長比売様にばかり雪花丸が懐くから、それでな……」
初めての子育て故でもあるが、不器用な茨木童子は雪花丸への扱いが上手くなかった。持ち運びする時は足を持って運んだり、風呂に一緒に入った時はそのまま沈めたりと、黒縄丸が肝を冷やしたのは一度や二度では済まない。最早雑を通り越して暴挙であった。しかし、それでも茨木童子が雪花丸をとても可愛がっていたのは理解出来た。今では少し厳し過ぎる愛情表現をしてはいるが、それも茨木童子なりの愛し方である事は黒縄丸も理解している。
そんな茨木童子を差し置いて、雪花丸を奪い取る勢いで愛でまくっていた石長比売。当然茨木童子はおもしろくない。加えて雪花丸が石長比売に懐いていたのも後を押し、来るたびに機嫌が悪くなった。可愛い息子が石長比売に愛想を振りまくのがよほど嫌だったのだろう。今でも拗ねた茨木童子の表情が鮮明に蘇る。その時はこんな顔も出来るのかと、可笑しくて、安心した。
「だが、石長比売様に舌打ちを飛ばした挙句、お前を強引に奪い返した時は度肝を抜かれた。あれには流石の石長比売様も唖然としておられた、ははは……」
当時を思い出し、乾いた笑い声が漏れる。今でこそ笑い話で済ませるが、その時の茨木童子の行いは言い訳の余地もなく無礼に当たる。ましてや相手はこの地を治める山神である。本気で怒らせてしまえば鬼の里などの綺麗さっぱり消えて無くなっていただろう。たまたま石長比売が寛大で優しい人格の持ち主であったから事なきを得たものの、あれが別の山神であったならば、神罰が降っていたのは明白である。
「昔から短気ではあったが、まさかあのような事をするとは夢にも思わなかった……」
「母上は短気なのですか? とてもそのようには見えないですが……」
「ここだけの話、とんでもなく短気だ」
「!」
「蒼風は一度、茨木が怒ったところを見た事があったな」
今より十年前の事である。まだ女中として入ったばかりの蒼風が、先輩である紅緒に連れられて屋敷の廊下を歩いている時だった。何処からともなく体の芯まで響く衝撃音が里中に轟いた。何事かと現場に駆けつけてみれば、そこにはめちゃくちゃになった屋敷の一角で、文字通り鬼の形相で怒る茨木童子の姿があったのだ。
「はい……凄まじい剣幕でございました」
「何故怒っていたか知っているか?」
「い、いえ。駆けつけた時には既にお怒りでしたので……」
瓦礫とかした屋敷の一角で凄まじい妖気と怒気を放つ茨木童子を前に足がすくみ、ただその場で震えながら立ち尽くす事しか出来なかった。最早理由など気にする余裕もなかったのだ。その後も恐ろしくて理由を聞けず、知らぬまま今日に至る。
「実はな、その日より七日前に"四巨頭"で顔合わせがあったのだが、その帰り際に山本殿から見上げの饅頭を頂いたのだ。なんでもかなり珍しい味がすると言われていてな、それで……」
「お、お口に合わなかったと……」
優しく包むように言うが、要は不味かったなだろう。そしてそれは正解だった。
「ああ。なんせ菓子好きの茨木が怒髪天だったからな。あんなに怒っていたのを見るのは五十年ぶりであった。あの後も茨木はしばらく機嫌が悪くてな、山本殿から頂いた物は二度と口にしないと吐き捨てていた。私は口にはしなかったが、相当不味かったらしい……」
「さ、左様でございますか……」
内心なんとも下らない事だと呆れつつも、逆に言えばそれだけの事であそこまで怒るのだと改めて勉強になった。
(お館様がそこまで短気だとは……それにしても、菓子が口に合わなかっただけであそこまでお怒りになるとは。まったく困ったお方ですね)
などと無礼とは思いつつも、率直な感想を抱いている横では。雪花丸が少し後ろを歩く蒼風を肩越しに覗く。
(蒼風と母上って少し似てる……)
不味い菓子を食べて屋敷の一角を吹き飛ばす程怒った茨木童子と、菓子を食われて相手を血祭りにあげた蒼風。理由は違えど菓子が絡んでいるあたり似た物同士である。
それから暫く道を進んでゆくと、獣道のような場所から綺麗に舗装された石畳が姿を表す。周囲の木々や岩にはびっしりと苔が生えているのにも関わらず、石畳だけは汚れひとつとしてない。
まったくこの場にそぐわないその存在に戸惑う雪花丸と蒼風。おそらく近いのだろうと悟る。
「さて、あと少し歩けば石長比売様の社に着く。心の準備は良いか?」
「は、はい。頑張ります!」
「も、問題ございません!」
と、元気よく返事をする二人は体が強張っていた。
(これから神に会うのだから、緊張するなと言う方が無理な話か……)
苦笑いを浮かべ、黒縄丸はその場に立ち止まる。
「二人とも。先も言ったが、石長比売様は寛大なお方だ。そう緊張せずとも良い。深呼吸して少し落ち着きなさい」
そう言われ、雪花丸と蒼風は自分たちの体だ強張っていることに気づく。黒縄丸の言う通り、二人は大きく深呼吸何度か繰り返す。森の新鮮な空気が肺を満たし、徐々に気持ちが落ち着いてゆく。
まだ少し緊張しているが、寧ろ程よい。二人の準備が整い、再び歩き出す。
黒縄丸自身はさほど緊張していない。もう幾度となく石長比売には会っているため、当然と言えば当然である。
(成長した雪花丸を目にした石長比売様はどのような反応を示されるのだろうか……少し不安だ)
きっと以前と変わらず大はしゃぎするのだろうと思いつつ、これでもかと愛でられ続ける雪花丸の姿が目に浮かぶ。おそらく雪花丸は戸惑うだろうと、黒縄丸は苦笑いをする。
そうして石畳を歩いていると、左右に漆喰の塗られた壁と、艶やかな朱い漆塗りの灯籠が目に入る。自然に囲まれた静かな雰囲気から一変。雪花丸と蒼風はその荘厳な雰囲気に、本当の意味で"神域"に踏み入れたのだとようやく自覚する。
木々のさんざめく中、灯籠の中で火がゆらゆらと揺れ、草鞋が石畳に擦れる音が鳴る。
長くまっすぐな石畳の先には、大きく立派な朱い漆塗りの鳥居。そしてその更に奥には、これまた立派な社が佇んでいる。
「屋敷より大きいです……」
「神が住んでいるからな。当然さ」
鳥居の前までやって来ると、黒縄丸は道の真ん中から外れ、左端による。そして一礼する。黒縄丸に続き、雪花丸と蒼風も一礼すると、左足から境内に踏み入れる。雪花丸と蒼風も後をついてゆく。すると、社から――腰まで伸びた長い髪を一つに束ねた黒髪黒目の――巫女装束の女性が一人、こちらに歩いて来る。
「ようこそおいでくださいました、黒縄丸殿」
「柊殿、石長比売様は居られるか?」
「はい。こちらへ」
そう言って案内されたのは本殿の前。
「お連れしますゆえ、暫しお待ちを」
社は神の住まいである。神の許可なく上がることは許されない。故に、こうして外で待機するのである。
それから暫くして、同じ巫女装束の数人を引き連れ、柊が戻ってくる。
「石長比売様がお越しになります。皆、頭を下げなさい」
黒縄丸、雪花丸はその場に膝をつき、頭を下げる。そして、後ろで控える蒼風はその場で正座をして頭を下げた。すると、今まで感じたことのない重圧を引き連れ、厳かな気配が近づいて来る。
廊下を歩く音と、着物の擦れる音が異様に大きく聴こえる。落ち着いた黒縄丸とは打って変わり、雪花丸と蒼風は緊張に汗が滲み、そのまま頬を伝う。寛大で優しい方だと聞いてはいるが、やはり神を前にすると緊張する。ましてや今日はなんの準備も無しに突然連れてこられたのだ無理もない。
「面をあげよ」
しゃがれた女性の凛とした声が響く。
頭を上げる。途端、雪花丸と蒼風は目を見開き、息を呑んだ。その視線の先には、黒い髪を肩まで伸ばし、艶やかな緑と紫を基調とした着物を見に纏った女性が佇んでいた。
体から神気を放ち、雪花丸達を圧倒する。その存在感、まさに神である。
その堂々たる佇まいとしゃがれ声も相まり、美しさよりもかっこよさが際立つ。
しかし、何故顔を白い布で覆っているのだろうか。雪花丸は首を傾げる。
「数年ぶりか、黒縄丸よ」
「石長比売様も、息災でなによりでございます。こうしてお目にかかること、恐悦し――」
「そのような堅苦しい挨拶は不要だと何度言えば分かるのだ。まったく……まぁ良い。とにかく楽にせよ」
一体何度目のやり取りだろうと、内心ため息をつく。こういった堅苦しいのを嫌う石長比売は、昔から黒縄丸に「形式じみた挨拶はよせ。普通にしろ」と口が酸っぱくなる程言い聞かせているのだが、今のを含めてまったくやめる気配がない。あいも変わらず真面目な奴だと呆れつつ、おそらく、何度言ったところでこの堅苦しい挨拶をやめるつもりはないのだろうと割り切る。
「さて、今日は何用で参ったのか、聞かせてもらおうか」
「はい。本日は息子を連れてまいりました。随分お連れしていませんでしたので。それに、石長比売様もお会いしたいのではと……ほら、雪花丸」
黒縄丸に促され、雪花丸は緊張した面もちで立ち上がる。
「は、初めまして、雪花丸と言います。ど、どうかお見知り置きを!」
その瞬間、石長比売が纏っていた厳かな空気ががらりと一変した。
「お……おお! 雪花丸か?!」
「は、はい……雪花丸、です!」
石長比売は社の階段を降り、小走りで雪花丸の前まで来ると、膝を折って目線を合わせる。
手を両頬に添え、まじまじと雪花丸の顔を見つめる。
突然のことでついていけない雪花丸は目を白黒させ、体が固まる。一瞬何かしでかしたのかとと思ったが、その添えられた手はとても柔らかく、まるで硝子を扱うように優しいものだった。
「もうこんなに大きく……前見た時はまだ小さな赤子だったというのに!」
「………?」
「覚えていないのも当然だ。お前がまだ生まれて間もない頃の話だからな。何度かお前を抱いた事もあるのだぞ」
「ち、父上からお聞きしております。石長比売様がと、とても可愛がって、くれたと……」
恥ずかしそう(上目遣いで)に言葉を紡ぐ。萎んでゆく声がいい意味で弱々しくなって行き、小動物を彷彿とさせる。
「あぁ〜……なんと可愛らしい! 柊、茶と菓子を用意せよ!」
「い、石長比売様。少々落ちつかれては?」
「何を言う。私は落ち着いているぞ。さぁ、雪花丸、中で茶菓子でも食べて話でもしようか。黒縄丸、蒼風、其方達も上がってゆけ」
「石長比売様、以前申し上げたように妖者をーー」
「さぁ行くぞ、雪花丸!」
流れるような動きで雪花丸の手を引き、最後まで注意する間も無く社の中へと入って行く。雪花丸もまたその場の勢いに流され、訳もわからぬまま石長比売に連れられ、社の中へとついて行った。
「い、石長比売様っ?!」
「行ってしまわれた。相変わらずなお方だ」
「言ってる場合ですか。もうこうなったら仕方ありません。貴方達もついて来なさい!」
「妖者を社に入れてはならないと言っているのに……!」と愚痴のようなものをこぼし、柊は社の中へ消えていった石長比売と雪花丸を追う。続いて黒縄丸と蒼風がその後に続く。
「あの、黒縄丸様……」
「どうした?」
「本当に良いのでしょうか?」
「何がだ?」
「今柊殿が"妖者は社に入れてはならない"と言っておられたので……」
「一応許可は降りているから心配はないさ。それに石長比売様が"上がってゆけ"と仰られたのだ。行かない方が無礼だと思うぞ」
「た、確かに……」
「そういう事だ。ほら、行こう」
「は、はい!」
黒縄丸と蒼風は社へ上がり、廊下を進む。黒縄丸はまるで知っているかのように廊下を迷うことなく進み、別棟のとある部屋の前までやって来る。中からは石長比売と柊の声が聞こえ、何やら注意を受けているようであった。
相変わらず仲のいい二人だと安心すると共に、黒縄丸は通ってきた廊下とこの目の前にある襖を見て懐かしさが込み上げる。
「ここに来るのも久しぶりだな……」
「失礼します」と一言声を掛け、黒縄丸は襖に手をかける。
開けてみれば、案の定石長比売が柊に注意を受けていた。そして注意を受けている石長比売の膝の上には雪花丸が座っていて、目を白黒させながら困惑の表情をしていた。
「遅かったな黒縄丸。迷子にでもなっていたのか?」
「いいえ、少し懐かしく思いまして……」
「そうか、其方がここに来るのも数百年ぶりか。時が経つのは早いものだ。それより、二人ともそんなとこに立ってないで座るが良い。今嘉が茶と菓子を持ってくる」
「では、遠慮なく」
石長比売に促され、黒縄丸はあらかじめ用意されていた座布団に腰を下ろす。柊が用意してくれたのだろう。続いて蒼風が恐る恐る座る。
神域の、しかも神の住まう社の中に居るという事実が重圧となって蒼風を襲う。黒縄丸は気になって様子を伺ってみれば、緊張で体がかちこちだった。
「蒼風、そんなに緊張しずとも……」
「し、しかし黒縄丸様。か、神の住まいに私のようなものが……お、恐れ多い!」
落ち着いた黒縄丸とは対照的に蒼風は緊張というよりかはまるで混乱しているような状態だ。一方で雪花丸はというと、意外と落ち着いており、さっきから石長比売にほっぺをいじられている。
無防備な息子の様子に愛らしさを感じつつ、嘉が運んできた茶を「いただきます」と言って啜る。
「美味い……」
独特な茶の苦味と香りが舌を撫で、鼻腔いっぱいに広がる。蒼風も出された茶を啜り、少し気持ちを落ち着かせた。そんな時だった。雪花丸がおもむろにこんな質問をした。
「父上と石長比売様はどのようにして出会われたのですか?」
「私と黒縄丸の出会いか………聞いてあまり面白いものではないぞ」
石長比売の声色が甘い艶のあるものから真剣なものへと変わる。少々重い話である事を雪花丸は察知するが、「お聞かせください」と告げる。
一度黒縄丸に視線を向け、話しても良いか確認を取る。黒縄丸は一瞬悩むが、次の瞬間には優しい眼差しで頷く。
「本当に良いのか。正直子供にはまだ早い気がするのだが」
「いずれは知る事です。それに、本人がそれを望んでいますので」
「………解った。では話すとしよう。少し長くなるぞ」
「はい、お願いします!」
花が咲いたように目を輝かせる。
「くっ、可愛いやつめ……!」
雪花丸の頭を撫で回し、石長比売は大きく息を吸い込んで「どこから話したものか……」と顎に手を添えて悩む。
「そうだな。私と黒縄丸の出会いを話す前に、まず私の事を話さねば始まらないか……」
記憶をたどりながらゆっくり口を開き、この部屋にいる者全てに聞こえるように語り聞かせる。それは、長く遠い過去の話。
「私がこの地に来る前の話だ――」
隧道=トンネル