第10話 語り終え
「……と、こんな感じだ。お前自身、実際に戦というものを体験していないからわからないだろうが。本当に大変な三日間だったのだぞ。特にお前の父と母や他の鬼達はな」
主観での話を大体話し終えた。数百年も前の話でうろ覚えな部分もあったが、柊や黒縄丸の反応を見るに間違ったことは話していないようだ。
まだ話には面白いものが沢山あるのだが、全部を語るととんでもなく長くなる。流石に数百年分を一気に語ると日を跨ぐどころの話ではない。だが、そうだな……この子が産まれた時の話ぐらいは聞かせてやった方がいいかもしれん。いや、それはこの子が話して欲しいと思った時の方がいいか。というか、私ではなく黒縄丸や茨木童子から聞いた方が良いのではないか。
ふむ、考えてはみたが。この二人が当時の話をするところが全く想像出来んな。特に茨木童子。
やはり私が話聞かせてやった方が良いか。
「………」
話を聞き終えた雪花丸は言葉を発さない。そのふんわりとした髪を撫でながら、私の膝の上に座る雪花丸の顔を覗き込む。
「どうしたのだ、雪花丸?」
雪花丸は目を白黒させていた。今の話の中で何かおかしな点でもあったのだろうか。いや、もしかしたら刺激が強かったのかも知れない。かなり血生臭いところもあったからな。
やはり子供にはまだ早かったか。
と、思っていたのも束の間。雪花丸が黒縄丸を見ながら恐る恐る尋ねた。
「父上。僕には別の母上がいるのですか?」
「??」
黒縄丸が不意打ちのような質問に驚き、同時に、その意味がわからず首を少し傾げる。
私の後ろにいる柊も同様に、目を白黒させていた。わかるぞ柊、私もどうして雪花丸がそのようなことを聞いたのか全くわからん。
「どうしてそう思うんだ?」
黒縄丸は困惑気味の表情で努めて冷静に聞き返す。
「僕の知っている母上と、今のお話の母上が違います」
なるほど、今ので合点がいった。
黒縄丸と柊も理解の色を浮かべる。
「そういう事ですか。確かに、先ほど石長比売様がお話された過去の茨木童子と現在の茨木童子はかけ離れていますね」
「そうだな。今の茨木童子だけを見て育ったこの子からすれば、過去の粗暴な茨木童子は名前が同じ別人にしか思えないだろうな」
私は実際に茨木童子の変わりようを見てきたから同一人物だとわかるが。もし私が雪花丸のように現在の茨木童子だけしか知らないとするなら、過去の話に出てくる茨木童子はやはり別人だと思うだろう。
「お前の母か変わったのはここ数年の話だからな。正直私達もいまだに慣れん」
茨木童子はこの子が産まれるまでは粗暴で大雑把な性格のままだった。
まぁ、黒縄丸と契りを結んだ事もあり、多少女らしくはなっていたが、それでも男勝りを地で行くような生き方は変わらずであった。
腹に子がいるというのに走り回るわ、酒は飲むわ、小競り合いがあったら介入するわで見守っていた私達は毎日気が気ではなかった。今思い返してもどうかしているとしか思えん。心配して和と嘉が泊まり込みで監視すると申し出たぐらいだったからな。そこに朱蓮も加わり、毎日が騒がしいのなんの。
「お前の母はそれはもう無茶苦茶でな。何をするもお構いなしだった。まぁ、当時は子を身籠るという事がどういうことなのか全く知らなかったらしいからな」
そもそも、茨木童子は酒呑童子が統治していた劣悪な環境下で生まれ育っており、当然のように教育などというものは生まれて一度も受けていない。それ故に戦う以外のことに関してはほぼ無知に近かった。いやはや、無知とは本当に恐ろしい。
流石の黒縄丸も妊娠などに関しての知識は無かったらしい。当時は必要ないと判断していて、敢えてその知識を得ようとしなかった、とのことだ。
そこで、和と嘉が茨木童子に妊娠や赤子、出産についてを懇切丁寧に説明し、身籠るとはどういうことなのかを教えた。その時は私もその場にいたから良く覚えている。これ以上ないぐらいわかりやすい説明だった。
しかし、当の茨木童子は「大丈夫、大丈夫!」「大袈裟だっての!」の一点張りでまるで話を聞かず――腹の子に負担のかかる――危険な行動をやめなかった。
それで結局と言うか、最終的にと言うか、茨木童子の目に余る行動に黒縄丸が怒り、強烈な説教をくらわせたおかげでおとなしくなった。"怒髪天を衝く"とはああ言うことなのだろうな。あんなに怒った黒縄丸は後にも先にもあの時だけだ。
それから月日は流れ、それまでの騒がしい日々が嘘のように過ぎ去り、出産の日がやって来た。
外に出れば息は白く虚空に溶けて消え、肌は指先からほんのり赤く染まり痛みが走る。そんな白い日だった。
破水したと嘉から知らせを受け、私は神域を飛び出し、茨木童子達がいる屋敷へ急ぎ向かった。
もしかしたら、当時出産を一番楽しみにしていたのは私だったかもしれない。
出産が近くなればなるほど自室で一人浮き足立っていた。今思えば、私が出産するわけでもないのに何をしていたんだと、自分自身が残念な奴に思えて仕方ない。
「お前が産まれると知らせがあった時はすごかったのだぞ。神域にいた巫女が皆屋敷に集まってな、おかけでこの社がすっからかんになってしまった。神として何千年と生きているが、社が空になったのを見たのはあれが初めてだった。はっはっはっ!!」
「柊様も参られたのですか?」
「はい、私もその場にいました。それどころか貴方を一番最初に取り上げたのは私です」
「取り上げる??」
柊の言っていることがいまいちわかっていない雪花丸は首を傾げる。
「この場合の"取り上げる"と言うのは、出産の介助をして生まれた赤子の処置をする一連の行為の事です。と言っても、まだわかりませんね」
子供の雪花丸が理解するにはまだ早いか。こういう知識はもっと大人になってからで良いのかもしれないな。そうだな、あと六年、いや八年ぐらいしてからで良いのではないだろうか。
「もう少し大きくなったら父か母に聞くと良い。それまでは知らぬままでも問題はない」
「覚えなくてはいけない事なのですか?」
「う〜ん……お前は男だから絶対とは言い切れんが、一応知識として覚えていた方が良いな。知らぬは損しか生まぬが、知っていれば何かの役に立つ。知識は持っているに越したことはないぞ」
「………」
雪花丸の顔を覗き込む。何やら難しい顔をしていた。
「……どうかしたか、雪花丸?」
「あの――いえ、あとでお聞きします」
雪花丸は何度か口をぱくぱくと開き、質問を投げかけてこようとした。しかし、踏みとどまった。どうやら自分持つ疑問より話の続きが気になるらしい。
「さて何処まで話たか……ああ、社が空っぽになったところだったな。その後はなんのことはない。大妖怪の玉藻前やその弟の月夜。お前の叔母にあたる朱蓮や鬼達が集まり、お前が産まれるのをいまや遅しと待っていた」
今思い返せば、私や玉藻前達は屋敷内で待機していたから良いものを。他の鬼や巫女達は外で待機だったな。よくあの曇天の空の下で何時間も待てたものだ。そのおかげと言ってはなんだが、何人か風邪をひいてしまっていた。
巫女達は申し訳なさそうにしていたが、正直気づいてやれなかった私の方が悪いから謝らないで欲しかったのは内緒だ。
「私は部屋の外で待っていたから、中の様子を詳しくは知らぬのだが、柊から聞いた話では、それはもうすごい闘いだったそうだぞ」
「闘い? 母上は誰かと戦っておられたのですか?」
「そうとも言えるが、少し違うな。いいか、雪花丸。出産というものは身体に大きく負担をかける。人間であろうと、妖であろうと、ましてや神であろうと変わらない。女は文字通り"命を賭けて子を産む"のだ」
「そ、そんなに大変なのですか?」
「うむ。私は出産を経験した事がないからどれ程のものなのか知らないが。それはもう痛いらしいぞ。あの茨木童子が泣きながら助けを求めたぐらいだからな!」
当時、中が気になって襖の間から覗いた際に見えた茨木童子の泣き顔を思い出し、面の下で意地の悪い笑みを浮かべてしまう。こういう時、私は性格が悪いと自覚してしまうから嫌だ。
「母上が泣いていたのですか?!」
「ああ、そうだとも。ぎゃん泣きだった」
なんと言ったって、屋敷の外にまで叫び声が届いていたぐらいだからな。おまけに不安定になった妖気が漏れ出して、雷鳴が轟く始末だった。
「お前が産まれた直後が一番大変だった。出産を終えて気を抜いた茨木童子から更に妖気が漏れ出してな、もう屋敷内も外も雷が降り注いで阿鼻叫喚の地獄絵図だ」
「あの時は本当に大変でした。一緒に出産の手伝いをしていた凪が漏れ出した妖気の直撃を受けて黒焦げになってしまいましたから」
赤子が産まれて皆で喜んでいたのも束の間だった。部屋の襖が開いたかと思えば、柊と結が二人がかりで黒い物体を運び出してきたのだ。その時は私も玉藻前も何事かと思ってな、それで近づいてみれば真っ黒になった巫女だという事に気付き、二人して――驚きのあまり――変な声がでてしまった。
勿論、理由は察していた。茨木童子から漏れ出した妖気による影響だろうと。しかし、そこはどうでもよかった。肝心なのは、この黒焦げは誰だ、ということだった。
――おい、これ生きとんのか?! まる焦げではないか!!
――ひ、柊! こ、これは……だだ、だ、誰なのだ?!!
微動だなしない黒い物体に動揺を隠せず動揺しまくった。それもそうだろう。茨木童子が何時間も出産の痛みに耐え、ようやく赤子が産まれたその直後にまる焦げの巫女だぞ。驚くなと言う方が無理があるだろ。寧ろ動揺しないやつとかいるのか。
本来ならとっくに喜ばしい雰囲気になっていてもおかしくなかったのに。
結局、柊が答えるより早く、黒焦げが自己申告して正体がわかった。
――…………な……な、凪で、ござい、ま……す……。
――凪か!!?
今思い出してもよく生きていたなと感心する。
余談だが、柊によれば、妖気の雷を受けた瞬間、体の中にあるはずの凪の骨が強く点滅して見えたとか、見えなかったとか。
とにかく、色々あったが出産は無事終えたのは確かだ。
「産まれた僕はどうなったのですか?」
「お前は産まれてすぐに臍の緒を切られて元気よくないていたぞ。産声というやつだな」
「産声?」
「赤子が産まれてすぐに上げる声のことです。ちなみに産声を上げなかった場合は仮死と呼ばれ、最悪何かしらの障害を持つ事があります」
「では産まれてすぐに泣かないといけないのですか?」
「平たく言えばそういう事になります」
「産まれてすぐの赤子は泣いて当たり前、そう思っておけば良い」
話す事に夢中で、いつの間にか止まっていた手を動かし、また頭を撫で始める。
「話を元に戻すが、赤子のお前はすぐに茨木童子に渡されてな、その時のお前を抱いた茨木童子のことは強く印象に残っている。あんな優しい顔を見たのは後にも先にもあの時だけかもしれん……」
あの時は本当に衝撃を受けたものだ。産まれた赤子よりも、茨木童子に目を奪われた。
産声を上げるこの子をその腕に抱いた茨木童子は"鬼の総大将"茨木童子ではなかった。
一人の"母親"の顔をしていた。
――みろ黒縄丸。俺の子だ……俺の子が産まれたぞ! 俺の子が……!
――ああ。頑張ったな……本当によく頑張ったな、茨木……!
少し興奮気味な、それでいて今まで一度も見たことがないような優しい顔をしていた。
あのがさつで男勝りの茨木童子が、まるで割れ物を扱うように優しく大事に抱きかかえ、そして――泣いて喜んでいた。
――すげぇ……本当に産まれた……!
あの茨木童子が母親になったと思うと、昔も今も本当に感慨深い。
「話は変わるのだが、茨木は大の勉強嫌いだ。それは今も昔も変わらない。だが、お前が産まれてから"母親らしく成る"と言って猛勉強しだしたんだ。それこそ所作から言葉遣いから色々な」
茨木童子はこの子を産んで変わった。変わる努力をした。
より女らしく。より母親らしく。そして、鬼という妖の頂点に君臨するに相応しい大妖怪へと変わった。
全てはこの子の母親として恥ずかしくない為に。
「最初は朱蓮殿にそういったことを教えてもらう予定のようでしたが。元々彼女の所作や言葉遣いなどは黒縄丸殿から伝え聞いたものなので、言い方は悪いですが正しいものではありません。それに、彼女は妖狐の月夜殿のところへ嫁いだ身ですから、頻繁にこちらへ帰ってくるというのも現実的ではありませんでした。結果、茨木童子殿は毎日ここに通い詰める事になり、私達が学問や正しい所作などを教える事になりました」
雪花丸は膝の上に座った状態で私を見上げ「石長比売様もですか?」と尋ねてくる。おそらく、私も茨木童子に何か教えたりしたのか、という意味だろう。
ふむ、何を教えたか。ほとんど朧げで覚えていないな。確か、私達"神"について軽く教えたような。教えなかったような。
「まぁ、少しだけな。と言っても、私の教えた事など世の常識や私達"神"についてだけで、大した事は教えていない。それよりも柊達の方がよっぽどためになる事を教えていたぞ」
「そうなのですか?」
「ためになる事と言いますが、私達が主に教えたのは、先ほど石長比売様がおっしゃられたのと同様、世の常識です。つまり、誰もが知っている事や当たり前の事を教えました」
しかし、茨木童子が今まで培ってきた常識と世の常識が乖離し過ぎていた為に、物事の解釈や受け取り方に大きな差異が生まれ、これにより『これはこう言うもの』だと教えてもすんなりと受け入れられず、授業中に問題を出したらぶっ飛んだ答えを返してくる。
例えば、『旅の途中、団子屋を見つけた。自分は腹が減っている。どうする?』と言う問題に対し、茨木童子はこう答えた。「誰かに取られる前に全部奪う」という解答をした。
その時、問題を出した結が呆けた顔を晒し、少しの間言葉が出なかったのは言うまでもない。
育った環境ゆえにそうしなければ生きてゆけなかったのだ。その考え方は仕方のない事だと理解は出来た。が、やはり人の世や妖界ではその考え方は通用しない。寧ろ罪人扱いになってしまう。
それがまかり通っていたのは酒呑童子が支配していがゆえの劣悪な環境によるところが大きい。そういう常識が植え付けられたのもその環境故だ。
ちゃんとした支配地であれば、生活面は人の世とあまり変わらず、食べ物などの物資は銭を使って売買が行われる。だが、そんなものなど一切ない環境で育った茨木童子は『生きる為に奪う』という事こそ正しいと信じていた。
柊達は唸った。なんと言ったって、根本的なところから変えてゆかねばならなかったからな。
だから、本当の意味で一から教える事にした。
銭はどうやって得るのかだとか、子供は学舎に行って知識を得るだとか、法は守らねばならないとか、そう言った基本的事を教えた。
しかし、ここでまた問題が生じた。
「銭ってなんだ?」「売買ってなんだ?」「仕事ってなんだ」「法ってのんだ?」と、そもそもその言葉の意味するところがわからない茨木童子は全てに疑問を抱いたのだ。
「一教えたとしてもその一に対して十の疑問が浮かび上がり、その十の疑問を解消する為に私達は二十の説明を要しました」
「そうでもしないと理解して吸収出来なかったからな。仕方あるまい」
「正直苦労はしましたが、その分教え甲斐はありました。これは本当です……二度とやりたくはありませんが」
「はははっ、生まれた環境や経験などで世の見方や考え方が違うと聞くが、茨木童子はまさにそれだったな……」
「はい」
教える側の柊達も大変だっただろうが、覚える側の茨木童子もさぞ大変だっただろう。自分が今まで信じてきた常識は世の中からすれば非常識だったのだから、そう簡単に受け入れらるはずもない。衝撃は大きかったはずだ。
だが、それでも茨木童子は学んだ。頭の中の自分が教えられたものに対して間違っていると言ってきても、それを割り切り受け入れた。
「今の茨木童子は文字通り努力の結晶だ。並大抵の覚悟ではあそこまで変わる事は出来まい。子を想う母の力と言うやつだ――」
あ、そう言えば。
「――ところで雪花丸よ。何か聞きたいことがあったのではなかったか?」
「あとでお聞きします」と言っていたし、忘れぬうちに聞いてあげた方がよかろう。後に回すと私まで忘れてしまいそうだ。
あまり記憶力に自信ないからな。
「なんでも聞くとよい。私がわかる範囲でなら教えてやる」
なんでもと言ったが、わからぬ事を聞かれては答えあぐねるから不安になって最後に保険をかけてしまった。神以前に大人として情けない。
「えっと、では……どうしたら母上や父上のような立派な大人になれるのですか?」
「ほう……"鬼"ではなく"大人"ときたか……」
"鬼"と言うのであれば強くなればよいの一言で解決したのだが、"立派な大人"か。これはその者個人によって定義が違う。だから難しい。私の思う"立派な大人"と雪花丸の思う"立派な大人"は全く違うだろう。故に、一概にこうすれば良いと簡単には言えない。だが一つだけ、"大人"になる為に重要な事がある。いや、これは私がそう思っているだけで、絶対にそうであるとは限らない。しかし、少なくとも私はこれが大事だと思っている。
「学べ、雪花丸よ」
「学ぶ? 勉学のことですか?」
「ある意味そうなのだが、少し違う。そうではない――雪花丸、旅をするのだ」
「旅を、ですか?」
私は頷く。
「そうだ。旅をして外の世界を知れ、雪花丸。色々な事にふれ、色々な人と出会い、色々な場所を巡れ。そうすれば見えるものが違ってくる。だが、心するのだ。旅とは楽しいことばかりではない。苦しみや痛みが伴うものだ。だがそれを捨ててはならぬ。その苦しみや痛みはお前が成長するための糧なのだ」
膝の上でじっと私を見る雪花丸の目を覗き込む。まだ十二歳の子供でありながら、その目は真剣そのもの。私の発する言葉を一言も聞き逃してはならないと耳を傾けている。
黒縄丸がよく聡い子だと自慢していたが。なるほど、本当に聡い子だ。
「苦しい事から目を背けたくなる時もあるだろう。痛みを伴うことから逃げたくなる時もあるだろう。全て忘れてしまいたくなる時もあるだろう。だが、それでも足を止めてはならぬ。どんなに苦しくても、辛くても、忘れてはいけないことがあるのだ。
お前は傷付き、絶望し、生きることを投げ出したくなるかもしれない。だが、折れてはならぬ。どれだけうちのめされようと、どれだけ悲しい別れがあろうと、たとえ絶望に染め上げられようと、それでも生きてゆかねばならぬ。
雪花丸よ。"生きる"とはなにか、その意味を知るのだ。その意味を知った時、お前は"立派な大人"になる」
はっきり言って根拠と言えるものはない。だが、苦しみや痛みを知り、それを受け入れ知った時、人は初めて成長する。少なくとも、私はそう思っている。
"成長"に大事なものは勉学に励む事でも、協調性を持つ事でも、ましてや強くなる事でもない。
"痛み"を知る事だ。
「雪花丸。ただ漫然と生きるな。与えらる事に慣れるな。"ちゃんと生きろ"。立派な大人になりたいのであれば、自分で答えを探すのだ」
「旅に出れば答えは見つかるのですか?」
「それは、お前次第だな雪花丸。何事も経験というやつだ」
「……なんだか難しいです」
「はははっ、そうだろうな。子供のお前にはまだ理解出来まい!」
十二の雪花丸に今の話はやはり難しいか。ああいうのは大人にならなければ理解出来ないだろうな。だが、それを知る為の旅でもある。
それにしても、難しい顔をするこやつもまたかわいいものだ。
そういえば、かわいいで甘い出したが。"かわいい子には旅をさせよ"という言葉がある。
苦しい思いや辛い事を経験するほど成長するため、敢えてかわいいい我が子を厳しい世の中に送り出す事の意だ。
まさに、雪花丸がそれだ。この子が真に成長するには今のように里の中だけで生きていてはならぬ。それではこの子は何も知らぬまま育ち、ろくな大人にならない。この子がかわいいなら、愛おしいなら、危険とわかっていても旅に出すべきだ。
まともな大人に育て上げたいのであれば、自分の目で、肌でこの世を感じさせてやらなければならない。黒縄丸もその辺りは理解しているはずだ。彼奴も外の世界で色々と学び、見聞を広げた身だからな。
だが、黒縄丸には出来ない。茨木童子も同様だ。何故なら、此奴らは今の雪花丸と違い、壮絶な人生を歩んできたからだ。
これは私の持論だが。若いうちに辛い人生を歩むと、自分の子には同じ思いをしてほしくないが為に甘やかしがちになる。
結局のところ何が言いたいかというとだ。二人して雪花丸に甘い、という事だ。
辛い思いをしてほしくないという気持ちは痛いほどわかるが、それではこの子のためにはならない。
「黒縄丸よ」
「はい」
「其方ももうわかっているはずだ。このままではいけないと」
「………」
黒縄丸は能面の様な表情を貼り付ける。きっと頭の中で雪花丸の事を考えているのだろう。この子のためにはどうすれば良いのか、何が最善か。どうすればこの子はちゃんと育つのか。そんな事を考えているのかもしれない。
「やはり――」
少しして、黒縄丸がゆっくり口を開いた。
「やはり、何も知らぬまま平和に、というのは無理なのでしょうか?」
「………」
黒縄丸よ、お前は本当に優しい奴だ。今の発言も本当に雪花丸の事を想ってでた言葉なのだろう。その優しさは尊重するし尊敬もする。だが、お前は父親失格だ。
「無理だな。この子がそれを望んでいない」
「…………子を育てるというのは難しいものですね」
小さくため息混じりに溢れたその言葉は重い。子のいない私でさえ同情せざるを得なかった。
「……そうだな」
しばしの沈黙が降りる。
子を育てる親の気持ちは私にはわからないが。今の黒縄丸を見て思うのは、かなり複雑な気持ちなのだろうという事だ。
賛成と反対が鬩ぎ合っているのかもしれない。まさか子育てがこれ程までに考えさせられる物だとは思いもよらなかっただろう。ましてや黒縄丸達はまともに子を育てる親を見たことがない。その為、どうしてやれば良いのかわからず、ほぼ手探り状態だ。
二人とも雪花丸の為に色々努力しているようだが、少しからぶっている様にも見える。
さて、それはさておき。雪花丸はどうするのだろうか。旅に出よと言ってはみたものの、はたして本人にその気があるのだろうか。立派な大人になりたいと言うから勧めてみたが、正直私自身無責任だったかもしれない。
雪花丸も危険は承知の上で考えているはずだが、今は戦国の世だ。危険度という意味ではかなりなもの。旅に出るには時期的に早かったかもしれないな。
しかし、こういう時代だからこそ見えてくるものもある。悩ましいものだ。
私は膝の上にちょこんと座る雪花丸をその腕に包み、顔を覗く。
「雪花丸。お前はどうしたい? 旅に出るか。それとも、今のまま里の中で平穏に暮らすか?」
「僕は………」
声を小さく窄め、助けを乞う様な視線を黒縄丸に向ける。
すると、黒縄丸は眉を八の字に曲げ、嬉しそうな、だけどどこか寂しそうに笑む。
我が子が自分を頼ってくれることが素直に嬉しい反面、雪花丸がこうして悩んでいるという事は、それは旅に出たいと思っているということであり、親離れをしようとしているその事実に少しの寂しさを感じているのだろう。
「雪花丸。お前には少し酷かもしれないが。こればかりは自分で考えて、悩んで、それから決めるんだ。だが、だからと言って今すぐ決める必要はない。お前はまだ幼い。水を差す様で悪いが、旅に出るならあと五年待っても遅くはないはずだ。とにかく、まだ時間はある」
この親バカめ、と言いたいところだが。正直最後に関しては私も賛成ではある。雪花丸はまだ十二と小さい。確かに黒縄丸の言う通り、あと五年ほど待っても遅くはないだろう。それに、妖の寿命は人間のそれとは違う。五年待ったぐらいなんてことないだろう。
「………わかりました。もう少し考えてみます」
「では、今日のところはお開きにしよう。また何か相談事があれば来るとよい。あ、それ以外で来ても良いからな! はっはっはっはっ!」
簡素な昔語りを終え、黒縄丸達が身支度を整える。身支度というが、帰る準備などありはしない。ただ立って帰るだけだ。
社を出て、神域の出口まで共に行く。その道中、雪花丸が外の世界について色々と質問を投げかけてきた。どうやらもう里の外に興味津々の様だ。
私は滅多な事で人里に行く事はないから詳しくは知らない。その為、大概は柊か黒縄丸が答える。
しかし、雪花丸が質問を投げかける度に黒縄丸が複雑な顔をするのは笑える。よほど子離れができないらしい。まぁ、まだ雪花丸は十二の子どもだからな。可愛くて仕方ないのだろう。
「では石長比売様、私達はこれで」
「ああ。気をつけて帰るのだぞ。と言っても、この辺りは殆ど危険はないのだがな」
黒縄丸は苦笑いを浮かべ、最後に会釈をすると向こう側に消えていった。その後を青風が追い、最後に雪花丸が「また来ます、石長比売様!」と言って帰って行った。
三人が帰り、神域が少し静かになった気がする。勿論神域は常に静かでそんな事はない。寧ろこれは気持ちの問題だ。
「柊よ」
「なんでございましょう?」
「あの小さなままで時が止まってくれぬだろうか……」
「何をおっしゃっておられるのですか……」
呆れた声が後ろから聞こえてくる。
まて、絶対こういう事を考えているのは私だけではないだろ。絶対他にも同じ考えを持つ者がいるはずだ。だってかわいいままでいてほしいと思うだろ。
私は踵を返し、社へと歩みを進める。
「それにしても、時が経つのは早いな。あの雪花丸があんなに大きく成っていたとは……」
「最後に見たのは確か寝返りを打った頃でしたので、そう感じるのも無理はないかと」
「そうか……時間は残酷だな……」
「………」
数日後。雪花丸が手紙を置いて里から消えたと知らせが入るのだが、この時の私はそれを知る由もない。