幸せの物語(仮) 起
筆が走る。
散らばった何枚もの広告の裏、所狭しと物語が書かれていく。
それはいわゆる異世界転生モノで、現実から異世界へと渡った青年の女性が、悪しき魔王に立ち向かう話だ。
伝説の剣を振るい、魔法のケープをはためかせる。
旅の中での様々な出会いに、胸に勇気を刻む。数多の試練を乗り越えて、絆を紡ぐ。
紆余曲折。冒険の果てに、ついに魔王を滅ぼす。
たったそれだけの単純明快な物語がつらつらと並んでいる。
そのまま物珍しい展開もなく、終わりへと向かう。
たったそれだけの話。
戦いの後、彼女は英雄となり、光に満ちた生涯を送る。
誰もに愛されたまま、平和な世界を、満ち足りた心で過ごす。
何も起きる必要は無い。
これは幸せの物語。
徹頭徹尾、彼女が幸せになるための物語。
最期の一文が終わった。
締めの言葉はもちろん「めでたしめでたし」だ。
筆を置いて窓を覗けば、そこには何も無かった。真っ暗な空は何も写さず、人のような置物が一つ、ぽつんと佇んでいるだけ。
落窪んだ目元に、不摂生が分かる無精髭。一目でその無様が伝わってくる醜い人形だ。これを作った奴は、大層趣味が悪いのだろう。慣れ親しんだ嫌悪感を適当にあしらって、置物はひとりでに動き出すと、そのままベッドに倒れ込んだ。
いつぶりの眠りになるだろうか。あの日から、ろくに眠っていなかった。
物語は書き終わった。することはあと一つだけで、それも明日にならなければ行うことが出来ない。予め準備しておくべきかとも考えたが、今の無様な格好では、気持ちも乗らなかったであろうことは容易に想像できる。改めて行うのがやはり正解だった。
ゆっくりとまぶたが落ちていって、自分が眠りに落ちていくのが分かる。
世界は閉じて、僕以外を詰め込んで、ゆらゆらと離れていく。
眠る瞬間を捉えるのは初めての経験だが、特に感動もない。
早く明日になればいい。そんな願いも抱かない。
なすがままに目を瞑り、なすがままに眠りにつく。
明日はきっといい日になる。予感ではなく、決意を固めて。
←→←→←→
目を覚ましたのは朝の十時きっかり。我ながらいい目覚めだ。人間、目的があると目覚めもいい。そして目覚めがいい日は大抵いい日になる。
これは二十年と少しを通した結論であり、今日も真を証明することになるだろう。なにせ、今日は特別な日だ。
躊躇なくベッドから出て、そのままにシャワーを浴びる。
普段はこんなことはしないが、今日はする。特別をより特別にするには、日頃より良い行いをしなければいけない。
体を洗って、次は身だしなみ。電動髭剃りのスイッチを入れる。
ひとりの家に鳴り響く起動音はとても良い。コンクリートに描かれた風刺絵のように、その元来の姿を意識させる。そしてその意識がコンクリートに価値を与える。
ここで言うコンクリート壁は孤独のことだ。そしてこの孤独こそが僕を肯定するのである。
服を着替えて、適当な上着を羽織って、家を出て、向かう先はホームセンター。
二百メートル程度の道のりをのんびりと歩く。点滅する青信号を渡らないくらいにはのんびりと。
焦る必要はどこにもない。ホームセンターで縄を買ったなら、そのあとは家で、ひとりで出来てしまう。
本当は家でなくてもいいし、公園でも、神社の裏手でも、人がいなければ大抵の場所で行える。
それでも家を選んだのは、単純に様式美というやつだ。
目的地手前の信号機。赤く染ったそれを眩しく眺む。入念に準備をしたつもりだったが、人々が一方向に流れる様子に風刺を思うような純粋さは、家に置いてきてしまった。日常を日常以上にする魔法はあの日以降途切れている。
無能な人形になって立ち尽くすまま数秒。
縦横車が止まって、三つ数えて、青に変わる。
何となく、白い線に乗った。今も昔も続く伝統文化。落ちたら死と、軽率に言う、過去の記憶が見える。
僕がそうだったように、今の子供たちもここを選ぶのだろう。
大人になってからは遊ばなくなって、黒も白も混ぜこぜで歩いている。むしろその意識すらなく、境なしに線を踏みしめても、何も変わらなくなってしまっている。
こんなことで感傷に浸れるなんて、恵まれているのかいないのか。どちらにしてもこんな世界はクソ喰らえだが。
ひとつ、ふたつ、歩を進める。いつも通りの一歩では、もう白線だけを踏むことは出来ない。
いつのまにやら死に近づいたことを実感する。
三つ目の足が、幼少の頃の死にかざされたが、もう、少しの躊躇いも無かった。
成長した。だから、死に近づいた。それだけの話。
微かに上げた足を前に運ぼうとして、そして、
体が、動かなくなった。
動作すら思い通りにならない、文字通りの人形の如く。
それは、超常現象と言っていいのかもしれない。幽霊にも異星人にも出会ったことの無い素人ですら、確信してしまうほどに異常だった。
気づけば周囲から人は消え、十数時間を吹き飛ばして、世界は夜へと至っていた。
横断歩道に縫い止められた僕を照らすのは月明かりと、眩く光るハイライト。
これは持論だが、物事には順序がある。そしてその順序によって、心の準備が整う。
つまり、僕が言いたいのは。
最期は同じとしても、自分で首を吊るのと、トラックに轢かれるのでは、全く違うということだ。
縞模様の余りの所でため息をついた僕は、定められたように意識を飛ばすのだった。
←→←→←→
意識が戻る、という感覚はなかった。ずっとこで景色を眺めていたような感覚があった。かといって記憶が無い訳ではない。トラックに轢かれて気を失ったことも分かっているし、もちろん小説を書き終えた事も、それよりも前のことだって覚えていた。
奇妙な感覚だ。
そして、奇妙な場所だ。
果てのない花畑の中に、ぽつんとパラソルが立てられている。そこに日陰はなく、そもそも太陽が照らすこともなく、ただ丸机と椅子、そして、ティーセットが並べられている。
一本一本の花が、一枚一枚の花弁が、世界を鮮やかに彩る中で僕はというと、机を囲うように三つ並べられた椅子の、その一つに腰を掛けている。
自分から座ろうとした訳ではない。初めから座っていた。
その上、動こうという意識を揉み消されているように動くことが出来なかった。
だからといって、さして問題は無いのだが。
することも無く待つこと数分。体感なので実際は数秒かもしれないし、そもそも時間の概念が当てはまるのかも分からないが、恐らく一、二分。ひとつの瞬きの間に、女神が現れた。
「やあやあ。待たせて済まないね」
僕の中で最も適切な表現が女神だったと言うだけで、本当はそれが何なのかは分からない。女なのかも、そもそも性別があるのかも分からない。とにかく、やたらと超越的な何かだ。なにせ、後頭部からは小ぶりな後光がさしている。
シスター服とウエディングドレスを合わせたような服を着て、ベールで目元を隠しているが、その奥には微笑が佇んでいるのだろう。なんとも『聖』と言った感じだ。
「あなたが神様ってやつです?」
直感で分かっていたものの、とりあえず、気になったことを確認しておく。
「まあ、神とも言えるのかもしれないね。でも、一応は管理者と名乗らせてもらうよ。カッコよく呼びたければアドミニストレータでもいい」
「管理者ということは、何か管理しておいでで」
「そうだね。私は世界を管理しているんだ。それと、アドミニストレータでもいいのだよ?」
自称管理者は相変わらず緩やかに微笑んだまま。顔を見ずともわかるのは、管理者としての能力なのかもしれない。
「世界っていうと、平行世界とか」
「平行世界とは少し違うね。少なくとも、君が言う平行世界ではない。私が管理しているのは...そうだね。異世界、と言うのかな」
異世界、という言葉に少し心がはねる。なんとも見知った響きだ。
そして、こんな話を『僕に』するということは、この管理者には目的があるのだろう。
例えば。
「...そんな話を僕にして、どうするんです?異世界転生でもさせる気ですか。生憎と、あなたもご存知でしょうけど、私は死ぬつもりだったんです。異世界転生なら断らせて頂きますよ」
もちろん、世界の管理者と言うくらいだから、僕が書いていた物語も、しようとしていたことも、その根源も知っているはずで。
だからこそ、僕が断ることも予想出来たはず。
この質問に意味は無い。早く本題を言えという催促でしかない。
管理者もそれは分かっているのだろう。
三日月に笑みを深めて続ける。
「君なら断ると思っていたよ。でも本当に断るのは、私の話をもう少し聞いてからにして貰えるかな。きっと、聞いたら君は断らないだろうけどね」
その笑みは、なんとも人間味に溢れている。
この先の展開を心待ちにしているような顔だ。言い換えるならば、僕にも言い表せるくらいに俗っぽい。
「それは楽しみですね。では、聞かせて貰えますか」
僕も同じように、俗っぽい笑みで応じる。
「ああ、聞かせてあげようじゃないか。君に行ってもらいたい世界には、既に一人赴いているんだ。それも聖女、いや勇者としてね。その人物の名前は...」
なるほど。
詳しく話を聞いて、俄然納得がいった。
思わず笑みがこぼれる。確かにこれならば断らない。この管理者は僕のことをよく理解しているようだ。
まさか『彼女』の名前が出てくるとは。
「どうかな?気に入って頂けたかな?」
僕がどう答えるのかも分かっているのだろう。それはもういい顔をしている。
管理者とは良い友人になれそうだ。なにせ、僕も今同じ顔をしているのだから。
自分の思い描く未来に、ほくそ笑む顔を。
「ええ、とても気に入りました。ところで、何に転生するか選んでもいいんですか?」
「もちろんだとも。君がなりたいものは分かっているよ。なにせ、彼女は聖女で勇者だからね。ならば、君にはあれしかないというものさ」
「そうですね。あれしかない」
「ふっふっふっ。全く君は面白いね。普通の人間はこの状況で、そんな役職は選ばないよ」
そうだろうか。僕としては一択なのだが。
「では、君の転生先に行こう。ああ、やることがたくさんだよ。なにせ、君がなるのは魔王だからね」
管理者が笑う。そこに、出会い頭に感じた神聖さは欠片もなかった。
ただ、玩具の箱を開ける子供のように。
「ふふふふ」
零れた笑みを皮切りに、螺旋を描くように景色がねじ曲がっていく。空が引き伸ばされて、ちぎれて、花も雲も何もかもが足元に吸い込まれる。
エレベーターのような慣性は感じなかったが、渦巻く景色がそう思わせているのか、下にさがっていくような錯覚を覚える。錯覚と言ったが、実際に下降している可能性もあるし、反対に上昇している可能性もある。管理者にしてみれば、慣性の法則なんて、どうとでもなるだろう。空間に何がしかがあって移動するのか、実際に動いているのか。僕には不明だ。
しかし、これが異世界への移動手段ということならそれなりに相応しいのでは無いだろうか。
未知に向かうために、未知の手段を使うというのはなかなか乙なものである。
物珍しげに感心する僕の横で、管理者は慣れた様子で空に腰掛けて、くつくつと笑っている。
「それにしても、君は本当に面白い男だよね」
どうやら未だに僕の選択がツボを刺激しているらしい。
「そうですかね。合理的な選択だと思いますけど」
「ああ、合理的さ。でも、それが面白いんだ。普通はそれほど合理的にはなれないのだからね」
「そういうものですか」
「そういうものさ。ああ、君とは良い友人になれそうだ。それにしても.....ふっふっふっ」
「そんなに面白いですかね」
管理者のツボはよく分からない。
至って当然じゃないか。なにせ。
「面白いとも。まさか、彼女の最大の敵になることで、彼女の幸せを確定させるなんてね。普通はそうは選ばないよ」
そう、彼女の往く道を阻むのが魔王ならば僕が魔王になればいい。たったそれだけの単純なこと。
「話を聞く限り、僕の書いた世界と似てそうでしたから。それなら、これが一番安心できる」
「そうだね。それは正しい。正しいとも」
なんとも含みのある言い方だ。
「管理者の目的は知らないけど、僕みたいな人間は扱いやすいでしょうね」
「おやおや、勘ぐらないでくれよ。目的も何も、君の願いを叶えてあげたいだけだよ」
胡散臭い笑顔で胡散臭いことを言っているのだが、奇妙にもそこには真実味がある。
仮にそう思うのも管理者としての力だというのなら、それはもう仕方がない。信じてしまったものは、既に信じてしまった。
彼女の幸せを確保するためならどんな自傷も厭わない。覚悟を決めるようなことでもない。
「さあ、もうすぐ到着だ。最後の確認をしよう」
それを合図にして宙に火が灯った。青く揺らぐ、熱を感じない炎だ。ミミズが地面を這うように文字を書き連ねる。
しかし、そこに浮かぶのはどれもどうでもいいことだ。魔界だの人間界だの関係ない。魔王だの勇者だの、そんな名前は重要じゃない。君が生きる世界がある。それだけの話だ。
「基本情報はこんなところだ。さあ、準備はいいかい?」
全く聞いていなかった管理者の説明が終わると、床に白い滲みが出来る。先ほどとは対照的に、世界の入口と言うには、なんとも地味な穴だ。実際のところ、人間にしてみればご大層に聞こえても、管理者には隣の部屋に行く程度の感覚なのだろう。
「では行こうか」
管理者が指を鳴らす。光源は光を強め、世界を単色に染め上げる。塞ぐ白の中で、管理者の言葉がやけに強く響いた。
「ようこそ、異世界へ」