見習い魔術師リッツと死体を動かす精霊神
リッツ少年に会ったのは金曜月で、そのとき戦士アシュトンは45歳だった。
30年前に王都の冒険者ギルドに登録し、常に第1線でクエストに挑み続けてはきたものの、fresh manだった頃の仲間達は引退して郷里に帰るか、どことも知れぬ場所でlostするか、所帯をもって新しい商売を始めるかで、冒険者という稼業を続けているものはわずかだった。
『北の高原に抜ける洞窟に湧いた粘液状生物を駆除して欲しい。定員4名まで』
fresh man向けと言えるこのクエストの報酬は、金貨1枚。
駄賃馬、食料などの費用を差し引けば、銅貨1枚が残るか残らないかというこのクエストを、アシュトンが引き受ける気になったのは、古い仲間に誘われたからだった。
仲間は小人で、種族的特徴のために30年前とほぼ変わらない、陽気な顔と声で、アシュトンに声をかけてきた。
そして、アシュトンの返事を聞く前に、集めてくる、と短い言葉を残して、ギルドに集った冒険者たちの甲冑を縫うようにして消えた。
30年前と変わらず、主語も目的語も欠落したその物言いと強引さが懐かしくて、アシュトンは苦笑した。
クエストの定員は4人で、2人分はアシュトンと小人で埋まっている。頭のてっぺんがアシュトンの腰にも届かない小人でも、1人と数えられてしまう。
30年前の彼はこのことをとても不満に思っていた。
が、冒険者として経験を積んだ今はちがう。小人ほど頼もしい戦力はいない。索敵と罠の解除が遺跡や洞窟の探索に必須なのは常識だが、何よりも重宝するのは、彼らの判断力だ。
魔力にも筋力にも乏しい小人たちは、弱い分、危機察知能力はずば抜けている。引き時、クエスト放棄の見極めを正確にしてくれる彼らを、アシュトンは尊敬している。
ギルドのカウンターで、アシュトンは所定の手続きを進めた。あとは小人が戻ってくるのを待つだけだ。が、いつまでたっても小人は姿を現さない。戦士はどうしたものかと考えあぐねる。
小人が集めてくるのは残りの2人だ。ギルドにいた冒険者たちから見つくろっても良かったのに、小人は外に向かって駆け出した。アテがあるのだろう。けれど、ずいぶんと時間がかかっている。もう、窓からさす陽が黄色くなっている。ギルドは日没と共に閉鎖される。
アシュトンはぎりぎりまで粘ったが、結局小人は戻ってこなかった。
だから、クエスト受注の手続きだけを最後までして、宿に向かうことにした。明日、クエストに小人たちを追加すればよい、と戦士は思う。
以前の彼なら小人に立腹をしたものだが、経験を積んだ現在はそんな気も起きない。
むしろ、小人に振り回された時代を懐かしく振り返る余裕があり、苦笑で頬が緩みすらする。
そんな道すがら、彼はふと、貧民街にそのひげ面を向けた。
fresh manの頃は、貧民街の民宿で寝泊りをしたものだ。
低い報酬のクエストをこなしながら、民宿の近くの汚い酒場で、薄いエールを片手に、仲間達と大言を壮語し合ったものだ。全員が本気だった。
魔族の打尽と魔宮の攻略。聖騎士の叙勲、賢者の称号の獲得。
目標はいくらでもあったし、未来という言葉は永遠と同じだった。
仲間同士で大言を茶化し合い、ムキになりあい、たまに決闘に発展しかけて、小人に冷水をたらいごとぶちまけられて、我に返ったりした。
あれから30年。冒険者としての経験を重ねたアシュトンは、ランクAのクエストも受注ができるようになり、最高級とまでは言えないまでも、表通りの宿屋に拠点を構えるくらいには、蓄財も順調にしている。
だからアシュトンの足は自然と貧民街から遠のいていた。
最後に民泊を利用したのがいつなのか、彼は思い出すことができないままに、アシュトンは貧民街の酒場に向かうべく、足鎧を赤土の道に踏み出した。小人と再会した記念に、今夜はあの酒場で酔おう、と思ったからだ。
貧民街の路地には強烈な臭いが充満していた。
豚や犬の糞尿。粗末な板の上に置かれた肉。肉から流れ出て板を染める血。
血にむらがる蠅を払いながら肉を焼く女たち。走り回る子ども。雑多に混ざりあう声と音。
この全てに、アシュトンは既視感を覚えた。全部が生き生きと、停止している。
30年前から変わらないこの光景に、彼は自分1人が取り残された気がした。
冒険者は、弱気になった時が潮時だと言われている。
― 弱気になったわけじゃない。ただ、寂しくなっただけだ。―
夕闇の中で眉をひそめながら、アシュトンは酒場への歩みをはやめた。
……到着した酒場は、以前と同じく客で埋まっていたが、アシュトンはがく然とした。
通りに面した壁を取り払った作りは相変わらずだ。が、看板が変わっている。
30年前は『 Moral Bar』と釘でひっかいたような文字で刻まれていたそれが、今は『Katze Hob』と流れるような書体で銘打たれている。
ぼう然とするアシュトンに向かって、小人がテーブルを縫うようにして走ってきた。
そのまま戦士の籠手を紅葉のような手でつかみ、酒場の奥に引っ張っていく。
なすがままになっていたアシュトンは、最奥部のカウンターに陣取っていた2人を見て、声をあげた。
旧友たちがいた。
胸の前に流れる黒髪が艶やかだった美貌の魔術師は、生え際が頭頂部まで後退していた。血色も悪く頬も骨が浮いているが、目に宿る知性は深みが増したようだ。
ひょろ長い体躯だった僧侶は口元に幅の広い髭をたくわえている。ずいぶんとたくましくなったようだ。僧侶に変装をした戦士のような容貌だが、瞳は澄んでいる。信仰の神性。
「現役なんだな。お前らは。とっくに引退したと思ってたぜ」
アシュトンがやっとしぼり出した言葉に3人が笑った。
※※※※※※※※
路地の闇に敷き詰められた光の象形たちには一定の規則があって、アシュトンは象形が文字だと分かった。が、どこの国のいつの時代の文字かは、さっぱり分からなかったし、胸の前に広げた羊皮紙から光を生み出しては路地の赤土に落とす人物の意図についても、皆目見当がつかなかった。
「魔術師なのか?」
声をかけながら、アシュトンは剣の柄に手をかけようとして、自分が丸腰だと気が付く。
冒険者として生きてきた30年。戦士は数多くのクエストで、無数の剣を潰してきた。
が、剣そのものから距離を置いたことは一度たりともない。
― 俺はどこに置いてきちまった?―
一切の記憶がないことに、アシュトンは混乱する。
そもそも、何故こんな路地にかかしのように立っているのか。
俺がいた場所は、もっと強烈で、苛烈だった。絶望があふれていた。
粘液状生物駆除で金貨1枚? 大嘘だ。いたのは粘液状生物だけじゃなかった。俺は……。
「見習いですけど、魔術師です」
よどみのない静かな声に、アシュトンの思考は中断された。
というよりも、何を考えれば良いのか、分からなくなってしまった。
それは冒険者歴30年目の失態。正誤に関わらず、判断のつかない状況で止まったままだと、死ぬ。
そして死んでしまえば、肉体は消滅してしまい、二度と復活することはない。
いや、消滅ならまだいい。一番恐ろしいのは……。
「安心して下さい。僕の名前はリッツです。貴方の名前は?」
「アシュトンだ。俺は……」
「無理に思い出さなくても大丈夫です」
リッツと名のった人物の顔面を、羊皮紙から溢れる光が下から照らしている。
丸顔。目も鼻も口も大きすぎず、小さすぎないためか、丸眼鏡がやけに大きく見える。
眼鏡のレンズは薄い。この上部に黒髪がかかっているため、眉は見えない。
年のころは15歳前後だと、アシュトンは顔立ちから判断する。精悍でもないし、小人ほど幼くもない。中背で、大柄のアシュトンを見上げる彼のあごは、戦士の胸元の位置にある。
膝丈の茶色のチュニックにゆったりとしたズボン。はいているのは革の短靴だ。
チュニックの裾には汚れがこびりついている。泥。パンくず。エールの染み。
― エールの染み? ―
「『Katze Hob』の小僧か? 眼鏡をしているから、気付かなかった」
「はい」
リッツ少年は首肯しつつ、手元で羊皮紙を丸めた。同時に光が羊皮の内側に収束。
路地が闇に呑まれたので、アシュトンは少年の表情を読むことができなくなった。
「ついてきてください」
「どこに行く?」
戦士に背を向けて歩き出したリッツ少年。
少年に首をかしげるアシュトン。
「酒場です。先生が飲んだくれています」
振り返らずに、リッツ少年は答えた。静かな声だった。
※※※※※※※※
アシュトンの記憶を埋めていた喧噪は、「『Katze Hob』の酒場から完全に消えていた。
酔客たちが床に落として割った皿も、ぶちまけられた料理も完璧に清掃されていた。
ただ、客たちの息づかいが。熱気が何かの名残のように、暗がりを温めていた。
「先生。起きて下さい。お客様です」
「む……」
先生と呼ばれた人物が、リッツ少年の掲げたランプに顔面を照らされながら、カウンターから上体を起こした時、アシュトンは失望を覚えた。
水に絵の具を溶かしたように流れる赤髪。
紐締めされた黒のコットの腰は細く、椅子から床に垂れるスカートの裾は広い。襟ぐりが大きく開いた未発達の胸元には、よだれが垂れている。
細い顎を突き出すようにして、戦士を見上げる瞳は黒くうつろだ。
低い鼻梁の横に散らばりたてのそばかすも、人物の若さを物語っている。
若い、とアシュトンは思った。力にあふれている、という意味での若さではない。ただの未熟な放埓。見習い魔術師を自称するリッツ少年が『先生』とあおぐからには、この少女も魔術師なのだろう。が、戦士が剣を友とするように、魔術師は知識を糧とせねばならない。
深夜の酒場で飲んだくれている時間は、若い魔術師にはないはずだ。そして、戦士にせよ魔術師にせよ、意欲に欠ける冒険者に、見込みはない。才能を自負した上での怠惰にしても、限度がある。
10年後にはクエストで消滅しているだろう。
運よく生き残っても、こなせるクエストのランクはBがせいぜいだろう。
つまり、怠惰な、fresh manに未来はない。冒険者稼業を引退するにしても、器量がたいして良いとは言えないこの少女の見た目では、嫁の貰い手も……。
「リッツ。何の嫌がらせだ? このold manは、今我輩に失礼なことを考えたぞ」
「珍しいので。そして、まだ救えると判断したので、お連れしました」
アシュトンにあてていた視線を、リッツ少年に移して、少女は苛立ちをその声ににじませる。
そんな彼女に、リッツ少年は冷ややかと言えるほどに静かな声と顔で応えた。
「まあ、確かに珍しいがな。だが、もう赤曜月だ。このold manは……」
「先生」
「何だ」
「まだ金曜月です。追憶の神秘は有効です」
「むう……」
言葉に詰まる少女を前に、リッツ少年は首を横に振った。
「エールの飲み過ぎです。酔っ払うにしても限度があります。どこまでポンコツになれば気が済むんですか。先生は偉大なんですから、もっと……」
「old man。幸運だな。お前はただで救われる。まあ、いつもはあれだ。この不肖の弟子に経験を積ませるために、冒険者どもに金すら払って、クエストに同行させているんだ。だから気にしなくても良い。が、不肖の弟子が救うのはお前だけだ。よほどの幸運がない限り、本当にお前だけだ。ちゃんと覚えておくと良いさ」
リッツ少年の言葉をさえぎるようにして、少女はアシュトンを見上げ、言った。
口元に浮かぶのは、憐みの微笑み。
そんな彼女にどう返事をすれば良いのか分からず、戸惑うアシュトン。
「こっちです」
とアシュトンと少女に背を向けて歩き出すリッツ少年。
訳が分からないままに、少年のあとを追おうとしたアシュトンの脳裏に、何かがひらめいた。
強烈な記憶。絶望。
「あ、あああ。ああああ……!!!!!!」
「アシュトンさん?」
「あああああ。お、俺は……」
「落ち着いて下さい。せっかくここまで……」
「いや、好都合だ。実践訓練だ。魔法陣抜きで、追憶の神秘を使いこなしてみせろ」
間に入った少女を、少年は信じられないといった面持ちで凝視した。
「いいんですか? 下手したらここだって」
「かまわん。どうせ借家だ」
「またそういう迷惑な……」
「するのか? しないのか? もう、このold manはもたんぞ」
アシュトンの視界を暴風が覆う。
密度の濃い、暴力的な闇の奔流。
「王立騎士団に要請して、くれ!!!! 万単位の死人が出る……!!!! 神話級の化け物が、来るん、だ!!! メデゥーサ、古代の呪われた女王が、この王都に向かっている!!!! 小人が鱗を見つけたんだ!!!!!!」
アシュトンは暴風に鎧手を突き出し、少年をつかもうとした。
が、その手はリッツ少年をすり抜けてしまった。
「……え?」
ぼう然とするアシュトン。
暴風の中、戦士を冷ややかに見上げるリッツ少年。
「それがアシュトンさん。貴方の死因なのですか?」
「俺は、死んだのか?」
「死にましたが、まだ間に合います。なので、ちゃんと思い出して下さい。誰が貴方を殺しましたか?」
問いかける少年が胸の前に広げた羊皮紙から、光が漏れた。
それは象形文字となって、暴風に乗り渦を巻き、全てを埋め尽くしていく。
― 誰が俺を殺したかって? そりゃあ……。―
「洞窟のスケルトンどもだ。腐った肉すらなくなって、白い骨になっちまった奴らが、俺を殺しやがったんだ」
※※※※※※※※
北の高原に抜ける洞窟に、アシュトンの一行は2日で到達した。
蟻の巣のように複雑な形状の洞窟を、小人は迷いなく歩き、アシュトンたちを導いた。
一行は難なく粘液状生物に至り、駆除を実行した。
全員が、何の不安も感じなかった。
魔術師の火炎魔法の威力は粘液状生物を蒸発させるに十分な、レベル5だったし、アシュトンの盾は灼熱の中伸びてくる触手を完璧に防いだ。
火炎によって地獄となった洞窟は一行の体力を削いだが、僧侶の祈りも回復の奇蹟を呼ぶのに十分な、レベル5だった。
レベル5は突き抜けた才能がない冒険者が至る最高の技能であり、取得者はAランクのクエストでこれを行使する。つまり、アシュトンの一行にとっては、スライムの駆除というクエストは、冒険ですらない。
クエストという体裁を取った、同窓会。これが正しかった。
それは、小人が洞窟の乾いた地底に、空色の鱗を発見するまでは。
「逃げないと、死ぬ」
「何ですか? それは」
小人に首を傾げる僧侶。
僧侶を強い瞳で見上げる小人。
「メデューサ。ここを通った。歩いて上に向かった。俺たちとは別の道、通った。でも、これは湿っている。剥がれてから、時間がたっていない。つまり」
「まだ、洞窟は抜けていない、か。我々は絶体絶命だな。正直、散歩のつもりで来たのだが……」
考え込む魔術師を、アシュトンはにらみつけた。
「考える話じゃねえだろう? 俺たちは、神話の化け物の接近を、王都に報せなきゃなんねえ。時間はねえ。急いでこの洞窟を出て……」
「入口ではちあわせる。石になる。死ぬ」
子どもの見た目らしくない、低い声を出す小人に、アシュトンはいら立った。
「なら、どうすりゃいい? 別の出口を探すか? 北に抜けて逃げるか? そしたら、万単位の人間が死ぬんだぞ!?」
※※※※※※※※
「それで、別の王都側の出口を探したんですね」
「ああ。そうだ。小人が探した。苔むした石がずれると分かった。風が吹いてきた。王都側の温かい風だ。俺たちは全員で石のへりをつかんで、力を込めた。何とか通れる透き間が開いて、見たこともない地下道に出た。石がたくさんひび割れていたが、昔は舗装されていたのが分かった。出口に向かって進んでいく途中、うずの低い山があった。だがそれは山じゃないって、俺はすぐに分かった。小人は俺の2秒前に気付いた。動き出したからな。眠っていた虫が手足を伸ばして、動かすみたいに、べらぼうな数の手が壁や天井に伸びて、ガシャガシャと音を立てながら、俺たちの方に向かってきた。スケルトン、と叫びかけた小人の襟をつかんで、俺は後ろに放り投げて、パーティの奴らに、来た道を戻れと叫んで、盾を構えた。俺はそのままスケルトン共に突っ込んだ」
そこまで言って、アシュトンは気付いた。
黒の暴風が凪を迎えていることに。
そして……。
景色が一変していることに。
もう、ここは酒場ではない。
暗がりには、座席もカウンターもない。
少女もおらず、床は床ではなく、ひび割れた石が連続する地面、と変わり果てている。
リッツ少年がチュニックの胸の前に広げる羊皮紙。そこから洩れる光が照らす天井は、低くたれこめた雲のような凹凸を描いている。
「ここは……!?」
「追憶の神秘は金曜月にだけ使うことができる魔法です。現世を迷う死者が旅立てるようにと、最後の場所まで戻れるように、神秘は金色を帯びます。術者は神秘に乗って、その場所に足も馬も風も鳥も使わずに、移動することができます。実際、貴方は戻って、僕は戻る貴方について来ました」
淡々と言うリッツ少年の指は、洞窟の薄闇に、神秘の文字を描き始めている。
呼応するように、羊皮紙から洩れる光が届かない、闇の奥から、無数の音が響く。
それは骨が割れる音。伸びる音。
闇に浮かび上がるのは、赤い点。それは2つ、4つ、8つと倍々で増えていき、50以上にまでなったそれらは、骸骨たちの瞳の灯りだ。アシュトンは息を呑み、盾を構えようとするが、背にはない。この地下道のどこかで、放してしまった……それを。
構える者がいた。手放してしまった剣も手にして。
長年愛用した鎧に身をつつむ、その人間の顔に、アシュトンは見覚えがあった。
水鏡で、ずっと目にしてきた、彼自身だ。
ちがいは、瞳が骸骨たちと同じ色をしていること。
「おい。小僧」
「はい。何でしょう」
「あいつは誰だ?」
「アシュトンさん。貴方ですよ。正確には、貴方の死体を動かす精霊神です。あの神様は新鮮な死体が好きですから、貴方の死体も気に入ったんでしょうね」
アシュトンは咆哮した。
足は地面を蹴ろうとする。が、感触はない。踵は瓦礫の床をすり抜ける。
それでも彼は自分の死体に突進する。
死体は傲慢に笑い、歯をむき出す。
変色した手で剣を振り上げ、振り下ろす。
それは合図。
アシュトンの死体の前方に、骸骨たちが一斉に飛び出た。
瞬間。
全てが停止した。
骸骨たちは躍り出る足を宙に蹴り上げたまま、両手を広げたまま、ただその瞳の光だけが、闇に回帰していく。そうして出来上がったのは、複雑な、タンポポの綿毛のような形状の、彫刻。
「何だ? これ?」
石になった死体の前でアシュトンは戸惑い、リッツ少年を振り向こうとした。
同時に、少年の声が地下道に響いた。
「振り向かないでください!!」
アシュトンが応える前に、死体の彫像に亀裂が走った。
「……ほう。神の呪いを解くか。さすがは精霊神。腐っても、神は神じゃのう」
愉快そうな、それ以上に不快そうな、妖艶な、それでいて幼い声が響く。
― メデューサ? ―
戦士は直感した。彼は何が進行しているのか、分からない。
が、状況は理解している。
前方には彼の死体が、ひび割れた石を地面に落としながら、生まれようとしている。
後方にはメデューサ。少女の姿をした妖艶な古代の女王。神話の怪物。
となりには見習い魔術師の少年、リッツ。
― どうする? どうすればいい? ―
何をどうしても、絶体絶命は変わらない。なら、それならば、取るべき選択は1つ。
少年を逃がすことだ。死ぬ前に、仲間たちを逃がしたように。
……と、戦士が考えた瞬間。
となりの少年、リッツは叫んだ。
「今です!!! 飛びかかって下さい!!!! 貴方の死体に!!!!」
少年の右手は死体の腕をつかんでいた。
アシュトンの死体は、膝から崩れ落ちる。
何が起きているのか、起きようとしているのか、分からないままに、アシュトンは自分の肉体に飛びついた。
鎧には弾かれなかった。
温かな水流に呑み込まれるような感覚。
暗い視界が、レース状の波のような何かに覆われ、意識が引きずり込まれる。
「イヤッタZEEEEEEEEEE!!!!!!!!!!」
邪悪な歓喜に満ちた声に、アシュトンが我に返ると、彼は地下道の瓦礫の上に、仰向けになっていた。
そんな彼を見下ろすのは、リッツ少年。瞳が赤い。
それは骸骨たちと同じ色。アシュトンの死体を動かしていた、精霊神と同じ色。
「カラダダ!!!! カラダダ!!!!! オレHAトウトウイキTAカラダヲテNIイレタAAAAAA!!!!!!!」
「ふむ。大罪の魔女の弟子よ。そなたは相変わらずじゃのう。一言で断ずるに、未熟じゃ」
― 大罪の魔女、だって? ―
耳を疑うアシュトンに目もくれず、後方を振り返る精霊神。
「ウミガミNOバイタガYOOOOOOOOO!!!! オレSAMAヲムシスンジャネEEEEEEEE!!!!!!!!!」
突き出された手の先に浮かぶのは、神秘。
それは闇を鉤のようにえぐり、円環を描き、円環はいくつも生まれては重なる。
ほとばしるのは紫にふちどられた光。闇をうがつ稲妻。
アシュトンは驚愕した。驚愕しっぱなしだったが、一番驚愕した。おかげでひげの豊かな顎が外れた。
稲妻が、石の柱に代わり、仰向けのままのアシュトンの頭部の10cm先に、轟音と共に落下したからだ。
「NA?」
「……大罪の魔女の弟子をどうしようが、精霊神、うぬの勝手じゃ。だがの、女王であるわらわを愚弄するのは許せん。海神の売女とは。精霊上がり風情が、不敬にもほどがあるわ!!!!」
「ウルセEEEEEEEE!!!!!!!!!」
精霊神の絶叫。
描かれる魔法陣と放たれては石化していく雷光。
それは盾と矛の勝負。
勝利したのは、女王だった。
雷光を放つ精霊神の神秘が尽きた頃合いで、雷光の石柱を粉砕。
アシュトンは女王が何をしたのか、分からなかったし、そもそも見た瞬間石になるので視認も不可能だったが、重い打撃音は聞いた。それは頭蓋すら震えるような重い音だったし、実際、石柱は粉々に吹き飛んだ。
もし、精霊神が手のひらの先から防御魔法陣を出すのが、少しでも遅れていたら、アシュトンもリッツ少年の肉体もまとめて原形を留めない肉塊となっていたかもしれない。
だからそれは幸運なことだったと、アシュトンは理解した。
そして、この魔法陣の発動を最後に、精霊神の神秘が、本当に尽きたことも。
「……!!!!! バイタガAAAAAAAA!!!!!!!」
「うるさい。しつこい。語彙が貧弱な神など、つまらんわ」
アシュトンはこのやり取りと、続く、びしっという音だけを聞いた。
彼は目を必死につむっていた。開くことはできなかった。
神話の怪物の至近距離に、自分がいることが、冒険者は分かっていたからだ。
※※※※※※※※
気が付くと、アシュトンは王都の拠点としている宿屋の寝台で、天井を見上げていた。
「良かった。気が付きましたか」
覗き込んできたのは、リッツ少年だった。
眼鏡はしていない。額には包帯が巻かれている。
「小僧」
「そろそろ名前を憶えて下さい。僕の名前はリッツです。フルネームは、リッツ・ゲートマンです」
少年の口調は、相変わらず冷ややかだった。
珍しい色の果実の皮を剥きながら、リッツ少年が説明したところによると、メデゥーサは王都を襲わずに、去ったとのことだった。
「小僧……リッツ、お前が退治した……わけはねえよな。お前じゃ無理だ。あれは神話クラスの化け物だもんな」
「あの女王様は、確かに神話クラスですし、僕も額を指で弾かれて、こんなざまですがね。退治するとか、そういう関係じゃないんですよ。あの女王様は、先生の古い友人なんです」
アシュトンは絶句した。
神話の怪物と、あの少女が友人関係だという、この少年の言葉が真実ならば、王都は重大な脅威を抱えていることになる。
神話の怪物は、巨大な災厄であり、討伐するべき敵だ。
が、実際は王都の騎士団が全兵力の半分を失って、ようやく撃退できるのが実情だ。
そんな脅威と内通する存在がいる。しかも、それが伝説の……。
「大罪の魔女、だと? おい、リッツ。お前分かってんのか? 俺たちは、殺さなきゃなんねえんだぞ?」
アシュトンは起き上がり、両手でリッツ少年のチュニックの襟元をつかんだ。
そんな戦士を、リッツ少年は悲しい目で見据えた。
その右手は、アシュトンの手首をつかむ。
「僕の右手は形のないものを奪うんです」
声が戦士の鼓膜に届いた時には、彼は分からなくなっていた。
彼自身の存在が。言語が。記憶が。
「そして僕の左手は、奪ったものを与えるんです」
宙の一点を見つめ、よだれを垂らすアシュトンの耳に、リッツ少年はささやく。
戦士の両手は、少年の襟からはなれているが、少年は戦士の手首から、右手をはなさない。
左手は果実を握っている。そして、果実は発光する。
丸い表面には、いくつもの神秘が象形の文字として浮かび、沈むように消える。
最終的に、アシュトンは仰向けに崩れ、その巨体を寝台の布とばねが受け止めた。
そんな彼にため息を小さく1つついてから、リッツ少年は腰元から短刀を抜き、切っ先を果実にあてて、注意深く、切れ込みを入れていく。
30分後。液状にすり下ろされた果実を、リッツ少年はアシュトンの、だらしなく開いた口に注いだ。
その目は真剣そのもの。
全てを注ぎ切り、戦士の喉がごくりと音を立てた時、リッツ少年はもう一度、今度は大きくため息をついてから、アシュトンの拠点をあとにすべく、扉に向かった。
※※※※※※※※
戦士アシュトンは、気が付くと寝台の上で、天井を見上げていた。
窓の外から、陽が斜めに射し込んでくる。
陽には楽隊の音が溶けている。
赤曜月に南国の使節団が王都を表敬訪問する。
これを迎えるのが楽隊の音であり、平和と友好の風物詩となっている。
つまり……。
「赤曜月、なのか?」
がばりと身を起こし、戦士アシュトンは驚愕。
彼の中の暦は、金曜月の半ばまでしかない。
何があったのか。
彼は分からない。が、とても重要な、致命的な何かがあった。
それだけは事実だと、彼は思った。
とにかく状況を確かめるべく、ギルドに向かう。
何かがあった時には、1も2もなく、ギルドの情報網にアクセスする。
これは冒険者としての習慣だが、習性とも言いかえられる。
実際、戦士アシュトンはギルドで、8月の最後の週に、彼がクエストを受けたことを知ることができた。
当該クエストのランクはE。
『北の高原に抜ける洞窟に湧いた粘液状生物を駆除して欲しい。定員4名まで』
いぶかしげなアシュトンに、受付係は微笑みつつ、達成の確認は取れていると説明した。
「俺は覚えていないんだ」
戸惑うアシュトンに、受付係は不思議な顔をした。
「このクエストって、皆さん、そうおっしゃるんですよね。Eランクのクエストにしては、不思議過ぎますけど、当方としましても、Eランクですから……。それに、誰も消滅なさっておられませんし。もしかしたら、あの。言いにくいんですけど……」
受付係が上目遣いで、アシュトンを凝視した。
昔の仲間で集まって、悪い茸でも食べたのか、と疑われているのが、アシュトンは分かった。
経験豊富な冒険者である自分が、そんなことをするはずはない、とアシュトンは憤慨しかける。
が、達成の認印が押された依頼票に目を落とすと、彼の自信は失われていく。
依頼表にはクエスト参加者全員の名前と、生還の〇印がやはり全員分、記されている。
そして、アシュトンは小人も、魔術師も、僧侶も、全員の顔を見知っている。
彼らは、戦士アシュトンがfresh manを共に駆け抜けた仲間たちだ。
昔に戻った気になって、羽目を外してしまっても、不思議ではない。
あるいは、記憶を失うほどのサブクエストが発生して、全員で無謀に挑み、生還したのか。
どちらにしても、真実を確かめるすべはない。
― それでも……。―
もしかしたら、幸運だったのかもしれない、とアシュトンはクエストの報酬を受け取りながら、思った。そして、潮時だとも。
Eランクのクエストで前後不覚におちいるということは、もう最前線には出れない、ということだ。
受付係の視線からも、彼はそれを感じている。
では、冒険者を引退して、どうするか。拠点の宿屋はギルドの口利きで利用させてもらっている。
剣士の冒険者が転職をする場合、王都から離れた辺境の自警団に雇われることが多い。
または、酒場の用心棒か。
しかし高級店はどこも競争率が激しい。
なら、貧民街か。いや、いさぎよく、辺境の仕事を紹介してもらうか。
逡巡の末、アシュトンはギルドに、退職届のみを提出した。
受付係は営業用の笑顔を満面に、拠点の引き払いは今月いっぱいで結構です、と言った。
アシュトンは礼を言い、銀行への積立金、退職金の払い出し票を受け取って、その足で貧民街に向かった。
『男気酒場』で雇ってもらおう、と彼は思った。
そして、今回のクエストの仲間たちとの、再会を待つのだ。
あの酒場でなら、fresh man時代を共に過ごした仲間たちを、待てる気がする。
確信に近い希望を胸に、戦士アシュトンは貧民街への歩を進めた。