23. 儀式
ゆっくりと、足先から静かに泉へと浸す。まだ陽の昇っていない早朝の空気はひんやりと凪いでいて、肌寒さよりも心地好さを感じる。
けれども足から伝わる水の冷たさはまるで刺すようで、震えそうになるのをどうにか堪えた。
泉に差す薄明るい光の元、中程まで進んだところで立ち止まり、腰の辺りまで水に浸かりながら目の前に立つヒトを見上げる。
長く黒い髪。白い肌に赤い瞳。凛々しくも優しい笑みを浮かべる美しいこの御方こそは、私がこれから仕える貴き女神。
犯した不敬を償う為にこの方に仕える覚悟を決めたが―――ちらりと、意識が後方の水辺へと向く。そこには既に全身を水で濡らした、小柄で貧相な娘が立っていた。
卑しい育ちの娘。イファリス様に拾われなければ、その辺で野垂れ死んでいただろう娘。そしてこれから、私の上に立つ娘。
黒い感情が腹の底から湧き上がって来そうになり、我に返って女神の御前であり神聖な"儀式"の場だと己を律した。
イファリス様はそんな私を咎めることもなく、ただ静かに私を見守っていた。
呼吸を一つ置き、心を鎮め、両手を交差させて胸の上部に当てる。
そして軽く身を屈めて女神に頭を垂れれば、涼やかな朝の空気に融け入るような響きで御言葉が聞こえる。
「汝、マリエラ・リエ・シュワグナー。その身を以て我が身に仕え、その魂を以て我が心に応えることを許す。神なるものに添う覚悟あらば、供物を以てそれを示すが良い」
女神としての荘厳なる御言葉に、身体の芯が震える。
何を捧げるかは事前に確認されていた為、差し出されたナイフに手を伸ばす。これは、我が故国カランドの王宮から献上品として神殿へ運ばれたもの。カランド特産である薄紅色のククラ石が散りばめられた金の柄を握り、白く煌めく刀身に己の顔が写る。
躊躇ったのは一瞬だった。
背中に伸びる母譲りと言われた淡い小麦色の髪に手をやり、一纏めに掴んでから根元にナイフの刃を当てる。
手を切らないように気を付けなさいよ、と事前にイファリス様に言い付けられていたことを思い出しながら、私は刃を滑らせた。
ザッ、と案外呆気ない音と共に、長年侍女たちによって手入れされてきた私の髪は離れた。左手に掴んだ淡い小麦色の束を少しだけ眺めてから、ナイフを持った右手を添えてそれを泉の中に浸す。
冷たく揺蕩う泉の水は、やがてあたたかな光を一面に浮かべ、それが収まる頃には握っていた筈の髪は跡形もなく消えていた。
捧げてしまった。ああ、これで。
「その覚悟、しかと受け取りました」
口調が普段のものへと戻ったイファリス様を見上げると、優しく微笑んで泉の水を両手で掬い上げられた。
ぽたぽたと溢れる水が私の頭上に降り注ぎ、ゆっくりと身体に染み渡っていく。
水を私に降らし終えたイファリス様は、真っ直ぐに赤い瞳で私を見下ろす。
「此れより貴女は、正式に私の神官となりました。俗世を離れ、私に仕える証に相応しい名を授けます」
いつの間にか昇り始めていた朝の光が、泉にいる私たちを白く照らし出す。
「"シーファ"。それが神官としての貴女の名です。そう名乗りなさい」
賜った名が我が身に染み渡り、私は泉の水が胸部にまで浸るのも構わず、女神イファリスに跪いた。
「賜りし名に恥じぬ働きを、女神イファリスにお誓い申し上げます」
軽くなった首元に、風が朝日の温もりを運んだ。
* * *
儀式の禊は、イファリス様に森の神殿に連れて来られたその日に始まっていた。
何のことはない。イファリス様の神力が宿るこの森の泉の水を摂取し、一日一度は必ず水浴びをすること。そして、イファリス様がお作りになる食事を共に摂ることだった。
始め女神自らが炊事場に立たれることに私が難色を示すと、「じゃあ貴女作れる?」と問われて黙る他なかった。あの貧相な娘など論外だ。
イファリス様曰く、女神である身には本来人間と同じ食事はいらないのだという。しかし降臨なされて日の浅いイファリス様は、この地に少しでも早く馴染むべく、この辺り一帯で採れる食物を積極的に取り込むことにしたのだそうだ。それで得られる力は微々たるものだが、やらないよりはマシなのだという。
そして私たち神官候補も、イファリス様と食事や水浴びを共にすることで女神の神力に少しずつ馴染み、来る儀式本番で問題なく事が運ぶように慣らしていった。
だからと言って、一日一食は必ずリシュプの実が食後に出されることには閉口したが。あれは間違いなく高級食材であり、貴族である我らでさえそう容易く入手出来るものではない。
しかもそれをあまり聞いたことのない中小商会相手に卸すと知った時には、唖然としたものだ。女神が人間相手に商売をすることもそうだが、稀少価値のある食材を大した後ろ盾も実績も持たないような商会に卸すだなんて。
けれどそのお金で、私たちが普段使いする最低限の小物や食器を買ったのだと知れば何も言えなくなってしまった。水浴びの時に渡される少し肌触りの良いタオルや、食事に使う食器や調理器具が始めからこの神殿にあったとは思えなかったが、そういった経緯があったなんて。え?私を拐かした時に購入してた?残りの品は後で運ばせる?
あの時イファリス様に抱えられて呆然としていた私に、その時の記憶は一切なかった。
「ねぇマリエラ、これの名前はわかる?」
神殿に連れて来られた翌日、食事と水浴び以外にすることがなく、所在なさげに佇んでいた私にイファリス様が問うた。
その手にあったのは小さな赤い実で、イファリス様が事あるごとに食べているものだった。
突然の問いに戸惑いながら記憶を漁ると、さして難しくもなくよく見るものだと気が付いた。
「は、はい。それは、ヤシスの実です」
「ヤシスの実?」
「今の時期によく採れる木の実の一種です。栽培もしやすく、付近の森や林にもよく生っているので、市井の者たちがよく食べているそうです」
「へぇ、そうなの」
手に持った複数の赤い実をまじまじと見て、また一つ頬張った……かと、思ったら、何故か私にも2、3差し出された。
「あ、あの?」
「ん?嫌いだった?」
「いっいいえとんでもない!しかしこれは、女神イファリスの……」
「別にいいわよ。深く気にしないで、これも禊の一環と思って食べちゃいなさい」
メイルにも渡してくるわ、とすたすたと去ってしまった女神の後ろ姿を見送って、私は手の中にある渡された赤い実を見下ろした。
禊の一環。そう言われてしまえば、断ることなど出来ない。何より女神からの下施を無下にするなど、ありえないことだ。
一つ口にすると、甘酸っぱい風味が広がる。
どこにでもあるものと思って気にも留めていなかったが、女神の森にもあるのか。
そんな当たり前かも知れないことをぼんやり思いながら、残りの実も噛み砕いた。
女神イファリスがこの地に降りて最初に口にしたのがその実なのだと知ったのは、それから随分後のこと。
* * *
「大丈夫?どこかおかしなところとかはない?」
考えに耽っていた意識を浮上させると、貧相な―――否、メイルの頭を拭きながらイファリス様がこちらを見ていた。
儀式を終えて直ぐにタオルを渡されはしたが、神殿に戻って着替えをしてから再び髪の水気を取るように促された。風邪を引くといけないから、と。
「今の時期は暖かいみたいだけど、身体を冷やすのは良くないものね。神官になっても身体は人間なんだから、体調管理は怠っちゃ駄目よ?」
儀式の時の厳かな雰囲気はなく、まるで町娘のような気安い態度でこちらに微笑み掛ける。
はい、と頷いてから短くなった髪をタオルでゆっくりと拭く。こんなに髪が短い記憶は子供の頃にもなくて、首元がやたらと冷える気がした。
ぼぅっと頭を拭いていると、メイルの髪を拭き終えたイファリス様はこちらにも手を伸ばした。
その白く細い指が私の手に触れるまで全く気が付かなくて、一瞬反応が遅れてしまった。
「い、イファリス様、」
「あと身体もそうだけど、正式に私と契約したことで色々と変化が起こると思うわ。具体的に何がっていうとちょっと説明が面倒なんだけど、二人ともおかしいなって思うことがあったらすぐ私に報告なさい。私も初めての神官契約だから、何かと気が回らないことばかりだと思うし」
戸惑う私を無視して説明を加えるイファリス様の手は、優しく頭を拭いてくださった。不敬を働いた罰を受けている筈の私を分け隔てる気はないのだと、何となくその手つきが語っている気がした。
頭を拭き終えてタオルを取ると、眉を下げてイファリス様は笑う。
「全く思いっきりいったものね」
その目線は私の首元に注がれていて、すぐに何のことだか気が付いた。
けれど何故か言葉に詰まって何も言えずにいると、イファリス様はポンポンと私の頭を叩く。
「その思い切りの良さは嫌いじゃないわ。毛先を整えるから……あ、そうだ確かアレがあったわね」
ちょっと待ってて、とイファリス様はメイルの分のタオルも回収してどこかへ行ってしまう。
メイルと二人、取り残されて石造りの部屋に沈黙が落ちる。
イファリス様抜きで彼女と二人きりにされると、どうにも息が詰まる。未だに一言も会話を交わしたことはないし、何なら碌に目線すら合ったこともない。―――9割方、私が避けているのだけど。
しかしこの先避けては通れない問題の一つではあるけれど、今のところイファリス様に解決を促されているということもない。単に正式に神官契約をしていなかった為かも知れないが、無理に仲良くさせる気もないように思えた。
しかしそれにいつまでも甘えていては……と難しい顔で考え込み始めた時、軽やかにイファリス様が手に何かを持って戻って来た。
「お待たせー。ね、シーファ。ちょっとこれ被って見せて」
呼ばれた名前に一瞬反応が遅れる。そうだ、私はもうシーファなのだ。父と母から貰った名前はもうない。
慌ててイファリス様が両手で広げたものを見ると。それはカランド王家からの献上品の中にあった薄絹だった。
一見真っ白に見えるそれは光を受けると淡く黄色に輝き、それはまるで―――
「ね、ちょっとシーファの髪の色に似てるでしょ?」
私の後ろに回って、まるで花嫁の被るベールのようにその生地を当てる。
何と答えるべきかわからず、思い付いたことを口走った。
「それ、は、カランドの西部で作られるラシャマ織りです。由緒ある伝統を誇るカランドの名産の一つであり、中でも細かな小鳥と草木模様が編み込まれたものは一等価値ある職人が手掛けたものとされています」
「うん、すっごく細かく編み込んであるわね。滑らかで薄いのに生地もしっかりしてるし。小鳥と草のモチーフには何かあるのかしら?」
突然薄絹の由来についてつらつらと語りだした私を咎めることもなく、イファリス様はあちこち角度を変えて生地と私を見比べる。
カランド王家から女神に献上されたこの生地にも、当然小鳥と草木は編み込まれていた。
「小鳥は平和と安寧の象徴、草木はヤシスのもので……繁栄の意味が、込められています」
基本どこにでも繁殖するヤシスは、その生体から途切れることのない繁栄を意味する紋として用いられることもある。
古くは侵略の象徴としても忌み嫌われることもあったが、どこでも育つだけで他の植物を脅かすほどの繁殖力はなく、その意味は次第に薄れていったのだという。
「ふーん、つまりは縁起物ってことね。いいじゃない」
気に入ったのかイファリス様はうんうんと頷き、次いでメイルにも目をやった。
「ね、どうよメイル。似合うと思わない?」
そこで彼女に振るのか、とギクリと肩を揺らすと、動揺したのはあちらも同じで、戸惑いながら視線をこちらに向ける。
「は、はい。えっと、その……綺麗、だと思います」
「うん、よし!」
その答えに満足したのか、イファリス様は私の頭に被せられたままのラシャマ織りに手を翳す。
何が起きるのかと身構えれば、ふわっと暖かい風が白い光と共に足元から湧き上がった。
びくっ、と身体を硬くし、ぎゅっと目を瞑って身を縮こませる。
やがて風は頭上へと収束し、光も収まったようで恐る恐る目を見開く。
目の前には満足気なイファリス様が腕を組んで立っており、少し離れたところでは目をキラキラとさせながらメイルが呆けた顔でこちらを見ていた。
一体何が、と戸惑っていると、イファリス様がどこからか手鏡を取り出して私の前に掲げた。
「力作よ」
どこか胸を張って言うイファリス様に、何のことかと鏡を覗き込めば……
何の加工もされていなかった筈のラシャマ織りの生地が、金の留め具や織り込みが施された立派なベールへと変貌していた。
まるで失った髪を補うように背中まで伸びるそれは、ため息が出るほど見事だった。
「短い髪だと寂しいし、これからはそれを使いなさい」
軽い調子で言われた言葉にぎょっと目を剥く。
「し、しかしっ、このラシャマ織りはイファリス様への献上品で……!」
「私に献上された物を、私がどう使おうと勝手でしょう?」
きょとんとした顔で返されるが、ラシャマ織りはリシュプと並んで最高級品として取引される代物だ。しかもこれは今のカランドが持ち得る最高品質と言っても過言ではない。わかりやすく言えば、城付きで土地が買える。
それが己の頭専用に女神によって加工されて鎮座している事実に、くらりと目眩がしそうになった。頭に城付きの土地が乗っている。しかも、普段使いしろと。
し、しかし、これもまた女神直々の下施の品。突き返すのはあまりにも…………あまりにも、不敬。(力強い言い聞かせ)
今度出来上がってくる神官服にも合うといいわねー♪などと、呑気に跳ねながら去っていく女神の後ろ姿を、じっとりと睨んでしまったのはどうか許して頂きたい。




