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「余命1ヶ月なんです」
そう、彼女は言った。まだ幼さを残す顔に、およそ似つかわしくない大人びた微笑を浮かべて。
自分と少女しかいない事務所内は一瞬、時を止めたようだった。
ゆっくり口の中の唾液を飲み込んで、出し方を忘れたみたいに、ひとつひとつ動作を確かめながら、声を出す。
「……それで、なんでまた、うちに応募を?」
手の中のA4大の白い紙には、少女の名前と年齢、生年月日、住所、最終学歴欄にはこの近くの高校名が書かれており、生年月日から見るに、この春2年生になったらしいことが分かった。
「死ぬ前に、こちらで働いてみたくて」
相変わらず隙のない笑顔。もしかしたら聞き違いではと一縷の望みに賭けてみたが、幻想は打ち砕かれた。嘘を吐いている様子もない。
「それは、当店を気に入って下さっているということで、宜しいでしょうか?」
「はい」
「ありがとうございます。して、どのあたりを気に入られたので?」
「前からお洒落なお店だなあって気になってて、何度か友達と一緒にきたりして、雰囲気もメニューもすっかり気に入りました」
「はぁ……」
答えになっていない。とりあえず雰囲気が良いと思っておいていいだろうか。
「そしたらバイト募集始めてるじゃないですか、これは絶対面接受けなきゃって」
頭が痛くなってきた……1ヶ月だって? なんであとそれだけで死ぬって時にバイトなんだ?
(もっとこう――あるだろ、なんか)
食べたかったものを食べるとか、友達1人ひとりと最後の別れを惜しむとか、親と旅行でも行くとか。
この世に生を享けて32年、自慢じゃないが、真っ当な人生を歩んできたと思う。そんな凡人の俺には、咄嗟にこの程度のことしか思いつかなかった。
「申し訳ありませんが、今回の募集は長期スタッフなので、1ヶ月では……」
「やっぱり、そうですよね……私も玉砕覚悟ではあったんですけど」
「失礼ですが、どこかにご病気でも?」
余命1ヶ月というくらいだ、本来ならもうずっと入院していて、これ以上手の施しようもなく、余生を精一杯楽しもう……みたいな悲壮なオーラが、ちょっとくらい出ていてもいいと思うのだが。相変わらず目の前の少女は、ふわふわと笑っている。
「いえ、体は至って健康です」
「……え?」
「強いて言えば頭ですね。脳みそ」
「脳……みそ……」
脳腫瘍、脳梗塞、アルツハイマー。すぐに浮かんできたそれらは、しかし余命1ヶ月という段階になって、病院から出られるものなんだろうか。こんなしっかりした足取りと物言いで、バイトの面接を受けにくるなんて、どう考えてもおかしい。専門医以外にはほぼ知られていない、不治の病とか?
「多分、店長さんの考えてるような病気じゃありませんよ」
「何か大変な、治らないものなんですか?」
「そうかも、知れません……」
ここにきて初めて、彼女が陰った表情で俯いた。こんな若い身空で、余命宣告を受けるなんて気の毒だが、だからと言ってうちで雇う義理もない。勤務中に倒れられでもしたら、面倒なことになる。彼女が言ったような、いい雰囲気も損なわれてしまうし。
俺は一介の喫茶店オーナーであって、ボランティア精神溢れる善人じゃない。
「では、今回はご縁がなかったということで」
「あ、はい。お時間取らせてすみませんでした」
「いえいえ。残り1ヶ月を悔いなく過ごされることを、お祈りしています」
「どうも、失礼しました」
少女はプレーンな白いTシャツにジーンズという、面接に合わせた格好の身を翻し、躍るような歩調で事務所から出て行った。
(これで……良かったんだよな?)
少し鼓動が速い。死を間近にした人間と、言葉を交わしたのは初めてで、何を言えばいいのか見当もつかなかった。だからとにかく事務的に、ビジネスライクに徹して、最低限の情を示して見せたのだが。
(もうすぐ死ぬ、ってどんな気分なんだろ)
彼女の倍は生きている俺なのに、まるで想像できない。平均寿命が70代だの80代だの言っている国で、半分も生きていない30代の若造が、そんな発想をする方がおかしいが。
とりあえず面接は終わった、もう余命1ヶ月の少女と俺は、全く関係ない赤の他人に戻った。数十分後には、次の面接を受けに他の応募者がくる。さっさと忘れて日常に戻ろう。
彼女に再会したのは、本気で存在を忘れる寸前まできていた、1週間後だった。
(なんだ、あれ)
高校生か中学生くらいの細っこい女の子が、あまり柄がいいとは言えない男に声をかけられている。それだけなら珍しくもないのだが、女の子の方も、それに対して乗り気な態度に見えた。
決して正義感が強い方ではない。まして野次馬根性で近付こうとしているわけでもない。ただ、あの柳の枝のような少女に、見覚えがある気がしたから。
「き、君」
(うわ、だっせ……どもった)
街中でよく知らない女の子――しかも男に声をかけられている――に話しかけたのは生まれて初めてで、第一声で早くも躓いた。振り向いた20代くらいの若い男は、胡乱げに俺の頭から爪先までじろじろ睨んできたが、少女の方はなぜかぱあっと目を輝かせた。
「あっ、店長さん!」
「やっぱり君か」
あの余命1ヶ月娘だった。10メートル圏内まで近付いた時点で確信していたが、できれば予感は当たらないでほしかったな。
「何、おっさん誰?」
「この前面接受けた喫茶店の店長さん」
「フーン、でも今は俺が話してっから、てんちょーさんは帰ってよ」
「そういうわけにはいかないなぁ」
少女の肩に伸びた男の腕を遮るように、引き攣った笑顔で体を割り込ませた。どんな意図があって、こんな碌でもない男に引っ掛かったのか知れないが、清純な少女が穢されようとしているのを、黙って見過ごせるほど人間腐っちゃいないつもりだ。
「なんなんだよ!」
「彼女は今から俺と食事に行くことになった。悪いが君は他を当たってくれ」
「はぁ? かっこつけてんじゃねーぞっ」
押しのけようとする手を躱しつつ、少女を後ろに追いやる。彼女は抵抗せずに、大人しく俺の背中に隠れた。それを見て男は諦めたのか、大きく舌打ちを残し、足音高く歩き去っていった。
見えなくなるまで男が去った方向を睨んでから、がばっと振り向き、細い肩を両手で掴む。
「君は馬鹿か!?」
「えっ?」
思ったより大きい声が出た。何を非難されたのかわからないという顔で、少女が目を丸くする。
「あんな男について行って、どうするつもりだったんだ」
「どうって……」
「酒を飲まされて、ホテルに連れ込まれて、やり捨てられるのが落ちだぞ!」
「あ、そっか。お酒っていう可能性もあったのかぁ」
自分では発見できなかった宝物の在り処を教えてもらった。例えるならそんな嬉しそうな笑顔で、彼女は目を輝かせている。混乱で頭が痛くなってきた。
「ナンパされて困ってたんじゃないのか?」
「ナンパだったけど、別に困ってないです」
きょとん。そんな効果音をつけるに相応しい顔だ。
「じゃあ……君は酒を飲まされてやり捨てられたかったのか?」
「ちょっとニュアンス違うけど、大体合ってます」
(???)
疑問符で頭が埋め尽くされる。1週間前の会話の時より酷い頭痛になってきた。
「待ってくれ、君はあと1ヶ月……いやもう3週間くらいか。それだけ経ったら死んでしまう病気なんだろ?」
「はい」
「じゃあなんでこんなことをしてるんだ」
「死ぬ前に初体験ぐらいしておきたかったので」
「は、つ……?」
「考えてみればまだ処女なんですよね、私」
いかにも『どうだ説得力があるだろう』と言いたげに、堂々とそんな台詞を口にする。通りすがる人々の大半が無視して歩き去ったが、彼女の顔をちらちらと見て眉を顰めたり、ニヤニヤと下心丸出しな視線を投げる奴もいた。
「なんだか勘違いさせてしまったようで、すみませんでした。それじゃあ」
「待った待った待った! 行かせられるわけないだろう」
踵を返してどこかへ行こうとするので、彼女の左肩を掴み直すと、あの微笑を崩して、やっと少し迷惑そうな顔を見せた。
「何か御用ですか?」
「さっき言っただろう、君は今から俺と食事に行くんだ」
「えっ、本当ですか? じゃああなたのお店がいい!」
「うちか……」
閉店作業を終えて、バイトも全員帰り、俺も帰宅途中だったのだが仕方ない。2人分くらいなら、何か材料がある筈だ。ファミレスや居酒屋では、込み入った話もしにくいし。
足取り軽く先を行く彼女を複雑な気分で見つつ、今きた道をそのまま戻る。今日は終電でも帰れないかも知れない。彼女は一体どこに住んでいるんだろうか……最悪タクシー代くらいは覚悟しておこう。
「わぁ、閉店後ってこんな風になるんですね」
店に着いて鍵を開け、明かりをつけると、少女が感嘆の息を零した。白を基調に、パステルグリーンとブルーで味付けされた店内は、あちこちテーブルなどを探して回った甲斐あって、自分でもいい出来だと思う。ここまで気に入ってくれた子がいるのは、経営者としては嬉しい限りだが……。
「てきとうに椅子下ろして座ってて」
「はーい」
声音はご機嫌だ。貸し切りのようなものだから、はしゃぐ気持ちも解らなくはない。
キッチンに入り、冷蔵庫から明日に回す食材を確認。良かった、パスタなら作れそうだ。鍋にたっぷり水を入れて、コンロに火を点ける。まだ使える今日の残りから、茄子と玉葱、それに挽き肉を出して、野菜を一口大に。炒めてから、カットトマトとコンソメを溶かした水を加えたら、その間に沸騰した鍋に塩を入れて、パスタケースから2人分の束を取り出し投入。あとは様子を見ながら煮込むだけだ。
「トマトソース、食べられるよね?」
「はい、大好物です」
にこにこと頷く顔に陰りは見えない。脳の病気って、どういう感じで表に現れてくるんだろう。今のところそんな兆候は――ナンパのことを含めなければ――なく、彼女が言った通り、至って健康そうに見えた。
「家の人に連絡しなくていいのかい」
「友達の家に泊まっていることになってるので」
「……なってる?」
「はい」
(頭痛が……)
余命幾ばくもなくて、酒を飲まされてやり捨てられたくて、家出中?
やはり凡人の理解できる範囲を超えているようだ。下手に常識を説いて、帰れと強要したところで従いそうにないし、ひとまず様子を見た方がいいか。
「簡単なものだけど、どうぞ」
「店長さんお手製のパスタが食べられるなんて、感激ですー」
「そんな大したもんじゃないよ」
「店長さんが私の為だけに作ってくれたのが重要なんです」
彼女は行儀良く手を合わせ、いただきますと呟いた。面接の時から、清楚できちんとしてるなとは思っていたが、この子は育ちがいいらしい。パスタをフォークに巻きつけるのも、口に運ぶ所作も綺麗だし、ちゃんと飲み込んでから、手で口を隠しつつおいしいと言ってくれた。
「落ちたけど面接受けて良かった~。まさか店長さんに街中で話しかけられるなんて、思ってもみませんでした」
「あんなところを見たら、普通黙ってられないだろう。援助交際でもしようとしてるのかと思ったよ」
「お金に興味はありません。死ぬ前にやり残したことを、全部片付けておきたいんです」
「死ぬ前死ぬ前って、本当に君はもうすぐ死んでしまうのか? 俺にはとてもそんな風に見えないんだが」
「死にますよ、今月末には」
目の前で、俺の作ったパスタを美味そうに食べている少女が、来月にはもうこの世界にいないなんて、誰が信じるだろうか。少なくとも俺なら信じない。
「お医者さんはなんて言ってるの」
「お手上げだそうです。薬も効きません」
「ご両親は?」
「すごく心配してくれてますけど、親に治せる病気ではないので」
「まあそりゃそうだろうけど……よくそんな状態で友達の家に行くなんて許してくれたね」
「少しでも気が楽になるならって」
「そうか……」
俺がこの子の親だったら、同じことを考えるかも知れない。せめて命が尽きるまでは、幸せな気持ちでいてほしいと。
「やだな、そんな深刻な顔しないで下さい。あなたは親類でも友達でもないんですよ」
「赤の他人でも宇宙人でも、知ってる人間が死ぬなんて聞いて、落ち着いていられるわけがない」
「店長さんは、優しい人ですね」
ふっと目を眇めて笑った少女は、どこか泣きそうに見えた。
「君はまだ生きたいんだろう?」
確信を持って問いを投げた。彼女は一瞬瞠目し、悲しげに視線を下げて、口端を無理矢理上げた。
「わかりません……死にたいとは言いませんけど、生きたいとも思えません」
「……どういう、意味だ?」
俯いた前髪を見詰める。暫し手を止めて、押し黙った彼女が口を開くまで、俺も何も言えなかった。
「生きている意味がわからないんです。何の為に生まれて、何の為に子孫を残して、そして死んで……」
駄目だ、その先を言ってはいけない。
「私が生まれた意味ってなんでしょう?」
「まさか……君は」
「今月末、日付が変わるのを確認したら」
顔を上げた彼女の瞳は、決意を湛えて輝いていた。
「首を吊って、死にます」