9 シルクハットとつば広帽
厄介なことに巻き込まれた。
ひたすらそういう印象しかない。
こうなってしまったら、赤眼鏡たちから逃げる必要はない――というか逃げても意味がないわけだし、気分転換に寄り道をして帰るか。
そんなことを考えて駅前に向かう。
駅ビルの中のゲームショップやCDショップ、書店を巡るのはいい暇つぶしにもなる。
そういえば、新しい靴がそろそろ欲しいと思っていたんだった。
ここ最近、駅前には競うようにして新しいビルが建てられている。
テナントも増えて、利用客も増えているらしい。
まあ、オレなんかは決まった店でしか買い物をしないし、ブランドショップなんて縁がないから、ただ人が多くて煩わしいとしか思わないけれど。
眼鏡をかけていると、あちらこちらに花が咲き誇っているのが見えて、匂いは感じないはずなのに、むせ返りそうになる。
黒眼鏡の話だと、花には確かに匂いがあるけれど、オレたちにそれを嗅ぐ事はできないらしい。
それでも、これだけ視覚に訴えられると、幻の香りを嗅いでもおかしくないと思う。
俺は眉根を寄せながら、高くてキレイなビルの横を通り過ぎ、少し年季の入った中途半端な高さのビルに向かう。
信号にひっかかってぼーっと待っている間にも、様々な花が目に入る。
そして気づく。確かに誰もが花を咲かせているけれど、その花の状態には色々あるのだということに。
沢山の花を見比べるとよくわかる。
一概には言えないけれど、若い子の花は瑞々しいものが多くて、年配になるとやはりどこか元気がないように見える。
ふと、黒いものが目に留まった。
シルクハット?
横断歩道の反対側。信号待ちをする人の中に、シルクハットをかぶった男の人が立っている。
背が高い。白いタイをしている。タキシードを着ているみたいだ。
この街で、そんな服装をしている人を見るのは初めてだった。
近くでコンサートか何かがあるのかもしれない。
――いや、コンサートではシルクハットをかぶって演奏したりしないか。
役者か何かかな。
そんなことを考えていると、その人もこちらを見ていることに気づいた。
目が合う。
二十代くらいの青年だ。
笑った?
にこりと、口の端を上げたように見えた。
信号が変わって、周囲の人が歩き始める。
押されるようにしてオレも横断歩道に踏み込む。
シルクハットの青年は動かない。その場でじっとしている。
なんなんだ?
あと数歩ほどに近づいた時、突然、青年はオレに背を向けて歩き出した。
「え?」
遠ざかる背中をなんとはなしに見送りながら、首を捻る。
確かに、オレに対して笑いかけていた。
知り合いじゃないのは間違いない。
なんだったんだ――?
「黄菊、綺麗に咲いたわね」
ふいに耳もとで女の人の声がした。
驚いて振り返る。
白いつば広帽子をかぶって、白いワンピースを着た女性が立っていた。
つばのせいで、顔は見えない。
胸にはレモン色の花が咲いている。
聞いたことのない声だった。
誰だ?
なんでオレの花が見える?
オレたちの他にも、花の見える奴らがいるのか?
つばの下からちらりと見えた赤い口が、にやりと笑う。
ぞくり、と冷たいものが背中を這い上がってくる。
オレは数歩あとずさった。
まずい。
本能がそれを訴える。
理由はわからないけれど、こいつはやばい。
「無防備ね。でも、こちらにとっては好都合。ずっと狙っていたのよ」
クスクスクスと嬉しそうに笑う。
狙っていた? オレを?
少なくとも、好意を抱いていたとかつきあいたいとかって意味の『狙う』じゃないことは間違いない。
オレは、信号が点滅し始めていた横断歩道を走って引き返す。
人ごみに紛れながら、逃げ切るしかない。
ぶつかりそうになる通行人をなんとかかわしながら、オレはひたすら走った。




