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7. たどり着かぬ家路

「ところで水上さん。何故私たちは追い出されてしまったのでしょう。」


 「くわうらりえ」という女性はおっとりとした声でそう言いながら、首を傾げていた。あの後、本人かどうかの確認と、会食を行ったのだが、昼過ぎになって楠が突然鞄から書類の束を取り出して少女に観閲させると、殆ど直ぐに俺たちは給炭塔の外へと追いやられたのである。日野もまた屋外に追いやられていたが、どうも煙草を買い込みに行きたいらしく、別行動と相成った。結果、二人だけが取り残された。


「それが分らないんです。俺もついこの間来たばかりなので。」

「それは……そうなんですね。」


 彼女は陸軍大臣畠山久伍の側仕えをしていた。軍籍の無い者であったが、その頭脳を買われて、勤続二年で早くも秘書官までのし上がったと聞く。しかし、実際目の前に居るのは到底そうとは思えない、おっとりとした女性であった。


「時間が許すのであれば、枇杷島というところにある、昔の家の方へ行ってみたいのですが。」

「それなら、大体夕食までに帰れるようにすれば良いという事らしいし、行ってみますか。」


 彼女はその言葉を聞くと、穏やかに笑った。彼女は恐らく二十代前半であったが、その容姿はそれ以上に若いと感じさせるものだった。確かに身長は高いほうだが、顔や肌には若さを感じさせるところがあった。


「そういえば、貴女の名前、なんて書くんです。」

「ああ、読みにくいですよね……すみません。カイコの食べる桑に浦賀の浦とカタカナでリヱ、『え』はワ行の方のヱです。」

「そうなのですか。いやはや。」


 名は育ちを表すとは言うが、カタカナ名というのは収入的には高くない層の出である事を示すものであった。中流階級以下には今も多数見られる名前であるが、少なくとも上流階級でこのテの名前をつけることは昔から皆無である。


「じゃあ、リヱさん、早速ですが枇杷島まで出ますか。」

「名岐電車まで歩きますか?」

「うーん、そうですね。選ぶのが難しいところですが。」


 そう言って、彼女は少し腕組みをして考えていたが、

「やっぱり国府宮から名岐電車の方が良いですよね。」

と言って、急に歩き出した。彼女の印象からして、歩く速さは遅いものかと思ったが、実際には結構な早足だった。


「あ、待ってください。すぐ案内しますから。」

「いいんです。水上さんは私についてきてください。この辺りは良く知っていますから。」


 そう言ってこちらを振り返ったリヱの表情は、優しさの中にも自信に満ち溢れたものを感じさせた。彼女はここ数日の非日常のうち、久々に出会った普通の人間であった。


「そういえば……」

「何ですか?」


 彼女のことばに、俺はなるべく明るい調子で丁寧に返事をした。


「敬語、使ってくださらなくて良いんですよ?」

「え、ああ、何と言うか申し訳ない。そちらも敬語でなくて良いよ。」

「いえ、大丈夫です。私はこの方が慣れていますので。」

「あ、そうなんですか……。」


 ぼす、ぼす、と砂地の道路に靴がめり込む。


「また敬語になっちゃってますよ?」


 桑浦女史はそんなふうに微笑みながら言った。昼下がりの稲沢市街は静まり返っている。市街と言っても、今はほとんどの市域がスラム化しているのだから、その営みのサイクルは住宅街と変わらない。


「ああ、やっぱり釣られて敬語になっちゃうなぁ。」

「そこまで無理なさらなくていいんですよ。貴方が楽なら敬語でもいいんです。」


 目の前から大きなオート三輪がバラックを掻き分けるように走ってきた。土煙を巻き上げ、ギュルギュルと煩いエンジン音を吹かしている。時々ガタガタと上下に揺れるそれは、もはや東京では見ることもない前時代の遺物であったが、ここでは現役で走っているらしかった。


「なつかしいなぁ、三輪自動車。」


 ぽつりと彼女は言った。後方に消えていったくすんだ水色の車体を一瞥してみたが、生まれてこの方自分にとっては殆ど縁の無いものだったから、余り感慨は湧いてこなかった。


「名古屋に居た時は、よく親のミジェットの助手席に乗ったものですよ。」

「やっぱり、この辺は輸送需要が強いから。」


 大小の工場が点在し、日本の産業を長きに渡って支えてきた中部地方では、自動車保有率も一定の高さを保っており、バラックの中にすら自動車が止まっている事がある。果たして、その自動車たちが車検を通したものかは怪しいが。


「ええ、少なくない家がトラックを持っていましたね。」

「東京じゃあ外車ばかりだからね。ああいう日本の車を見る機会も少ないもので。」

「そういえばそうですね。」


 元は真っ直ぐの道だったのかも知れないが、バラックを考えなしに建築しすぎたせいで道はグネグネと折れ曲がっていた。稲沢駅からしばらくは電柱も左右に傾き放題で、電線が至る所から垂れ下がっている。これで本当に電気を通しているのだろうか、と問いたい様な有様である。


「寒いな。」

「そうですねぇ。」


 昼過ぎの最も気温の上がる時間帯とはいえ、もう冬に差し掛かった陽気は我々に心寒さ以外の何も与えなかった。寒いと人は無言になるのである。


 今日は冬用の軍服だけを着てきたが、しばらくすれば外套も必要になるだろうと思った。


「桑浦さんは畠山陸軍大将と近しい?」

「あ、リヱで良いですよ。」

「いや、それは流石に。」


 彼女をいきなり下の名前で呼ぶというのも悪いので、それは心の中に留めておくこととした。


「まぁ、よく知ってますね。」

「……畠山大将はどんな人なんだ?」

「どんな人、と言われても……まぁ、いわゆる偉い人ですよね。」


 彼女は言い淀んでいた。やはり、畠山には何ともいえぬ微妙な感情があるのだろう。俺は今も変わらず彼のことを殺したいと思っている。この女性は彼の事をどう思っているのだろうか。そして、彼を殺そうとした俺の事をどう思うだろうか。


「まぁ畠山は、偉い人、だな。」

「というか世間一般に言う、傲慢な人です。私はあの人のこと、嫌いです。」


 それは真剣な顔であった。しかし、その顔に憎しみの色はまったくと言っていいほど見られなかった。それは単純な嫌悪の念であったのだ。


「もうすぐ国府宮の駅の近く?」

「ええ。そうですね。」

「ああー。」


 道も随分と整理のついたものになり、舗装こそ剥げてはいるが、ようやく道らしき道となってきたのが見て取れた。所々人影もあり、ようやく普通の世界へと戻ってきた気分になる。


「こっちは随分と普通なかんじだなぁ。」

「たしかに。普通の下町にある駅って感じですね。」


 踏切を渡ると、駅前に出る。昼下がりの周辺は人は居るものの、妙に静かである。古びてはいるが、街の中心として堂々たる風格を保ったその駅舎の前には数台のタクシーが屯していた。


「この辺りでタクシーって需要はあるのか。」

「どうなんでしょう。」


 駅舎へと足を踏み入れると、機械油の匂いが鼻を突いた。


「でも、バラックをどうしても避けたい人はタクシーを借りるかもしれませんね。」

「ああ、そういう事か。」

「ぜんぶ推測ですよ。」


 彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。改札の向こうでは電車がちょうど発車したところらしかった。電車がレールを踏む音と同時にぎりぎりと金属の軋む甲高い音が聞こえた。


「枇杷島まで二人。」


 千円札を差し入れ、指を二本立てて窓口に向かってそういうと、駅員は怪訝な顔をして「どっちの?」と訊いてきた。リヱの方をみると、仕方ないといったような表情であった。


「三百二十円区間、二枚お願いします。」

 

 彼女がそう言うと、すぐにも釣銭と一緒に二枚の切符が出てきたのである。


「なるほど、東と西があるのか。」


 路線図に示された「東枇杷島」と「西枇杷島」という駅名を見ながら、そう呟いた。リヱのほうは俺の隣にひょこっと立って、「実のところ運賃は変わらないんですけどね。」と言った。


「これ、お釣りです。あと、切符。」


 じゃらり、と小銭が俺の手の上に降ってくる。そして最後に切符がはらり。ポケットから財布を取り出して、中に小銭を流し込んだ。


「運賃変わらないなら、わざわざ聞く必要もないじゃあないか。」

「国鉄に枇杷島駅がありますから、連絡切符と勘違いを避けたいんじゃないですか。」


 俺は「へぇ。」と相槌を打って、改札員に切符を渡した。ジョキっと切符の厚紙に鋏が入れられて、返ってきた。改札を抜けると、「新名古屋方面」と極太の手書きで書かれたボードが踏切を渡って反対側に見えた。人もまばらな構内には深緑色をしたとても古そうな電車が停まっている。


「あれかな。」

「新名古屋行きの普通だから間違いなくそうですね。」


 ホームへのスロープを上がると、鈍重なその電車は更なる威圧感を持って我々の目の前に鎮座していた。確かに先頭は流線型の『速そうな』フォルムであるが、その実、車体中に補強板がゴテゴテと張り巡らされており、西洋の中世騎士を思わせる重厚感である。


「変な電車だなぁ。こりゃ。」

「住んでた時は時々見ましたよ、これ。」


 ホームから車両までは結構な段差があった。車内に入るとニス塗りの総木造で、これまた不安なほどに古ぼけていた。


「私が暮らしてた頃は電車も賑わってたんですけどね。」

「はぁ。名古屋に来てからずっと、百年くらい前にタイムスリップした気分だ。」


 隣のホームに行きに乗ったのと同じ、マルーンとベージュの電車が停まった。扉が開いても、降りる乗客はまばらで、車内にも数えられるほどという、正に空気を運んでいるといって過言でない有様である。隣の電車は、すぐにドアを閉めると静かに発車していった。幾人かの乗客がこちらの電車に乗り込んできて、木でできた床板が軋んだ。


「いつからこうなったんでしょうね。」


 ぼそっと呟いた彼女を見てみる。その表情は決して暗いものなどではなかったが、この時代の流れの中で取り残されてしまった場所について幾つか思う所はあるようであった。


「さぁな。」


 ドアがごろごろと音を立てて閉まり、チンチンと二回鈴が鳴ると、電車は轟音を立てて発車した。線路の継ぎ目を渡るたびに上下に大きく揺れる。その揺れと呼応するようにサッシが揺れてガラスが大きな音を立てた。

 

 少し加速してくると、モータの音と車体が共振してぶるぶると震える。俺の体にもその揺れはもろに伝わってきて、歯がガチガチと音を立てるかというようなものである。


「水上さ――しゅ―――あ――。」


 この轟音の中、リヱは何かを聞いてきたようだったが、殆どかき消されてまったく聞こえなかった。


「すまない、良く聞こえないんだが。」

「水上さんって、何か趣味とか、あるんですか!」


 今度は語気を強くして言った。趣味、趣味と言うとなんだろう。


「軍事が趣味だし、仕事だよ。」


 そう俺が答えると、彼女は「へぇ」というような顔をして、数回頷いて見せた。


「趣味が仕事って、真面目すぎますよ。」

「割と、そういう人間は多いだろう。」


 電車が速く走ると、強い縦揺れがはじまった。ゆさゆさと縦と横に揺さぶられる。つり革が左右へと大きく振り子運動をしている。ぎしぎしと何かの部品が悲鳴を上げるような音を立てていた。


「じゃあ、真面目な人が多すぎるんですかね。」

「あ、俺は別に仕事をすることが趣味ってわけじゃないからな。」

「あれ、そうなんですか。」

「趣味を仕事にしたんだよ。」


 電車が減速し始めた。暫く周囲は田んぼが続いていたが、それが急に住宅街となって、するとこじんまりとしたホームが現れた。甲高いブレーキ音を立てて電車が停まると、ドアが開く。乗客が一人乗ると直ぐにドアが閉まり、再び電車は発車した。


……。


「生物学というのは、凄く新しい学問だという事をご存知ですか。」


 けたたましい音を立てて走る電車の中で、ふいにリヱがそんな事を言った。


「そうなのか。知らなかった。」


 そういえば、進化論なども、比較的新しい年代にやっと議論されだしたものだと聞くことはあった。


「グレゴール・ヨハン・メンデルが遺伝の法則を発見したのが一八六五年で、その頃物理学は既に量子論の萌芽である黒体輻射が発見されて研究が進められていたんです。」

「ちょっと待ってくれ。俺はそういう微粒子的な何やらには明るくないんだ。」


 しかし、次にリヱが言った事に、俺はまったく理解が及ばなかった。俺はマクロな力学しかやっていないし、更に言えば生物の知識も全く無い。彼女の話は殆ど俺の知らない知識ばかりであった。


「黒体輻射というのは物質に関わらず、温度に依存して同じ色の光を物体が放射するという話です。電球を思い浮かべると良いと思いますが、あの光も黒体輻射と同じ原理です。」

「まぁ、そういう話があるってことは分かった。」


 彼女は丁寧にも説明を付け加えたが、それでも俺には分かるところの話ではなかった。本当はこういう理解できない話をされるのは御免被りたいところだが、どうせ電車の中は暇なので、彼女の話を黙って聞くことにした。


「メンデルの業績はしかも三〇年以上忘れ去られ、結局一九〇〇年に再発見されたんですが、この時にはもうマックス・プランクがプランクの公式を完成させていた訳です。」

「で、プランクの公式って何だ。」


 俺がそう聞くと、彼女はさもそれを分からない事が不思議と言わんばかりの顔で、


「エネルギー密度の波長分布を表す式です。」


と答えた。この調子だといつまで経っても埒が明きそうにない。


「猿でも分かるように解説してくれ。」

「レイリー・ジーンズ式とウィーン式を内挿法的に――」


 知らない式と知らない式に何かを内挿すると言われても全く理解出来ないのは当たり前の事である。そもそも数式を口で説明する事は難しいし、それをこの場で理解するとなれば、尚更である。俺は彼女に結論を急ぐように言う事にした。


「もう良いよ。その調子なら一生掛けても分からない。結論から言ってくれ。」

「エネルギー等分配則が成立しないことから、エネルギー量子という考えが発明されたってことです。」

「はぁ……エネルギー量子ってのは何なんだ。」

「要するに、エネルギーというモノが飛び飛びの値しか取れないという前期量子論を決定付けた話です。」


 そんな話をどこかで聞いたこともある、と思った。高等学校だったか、あるいは大学だったかは覚えていないが、「この世に於ける常識的な事実」として量子論の話題が挙がった時、エネルギーが実際には連続値ではないという話もしていた気はする。


「全く分からない解説を有難う。」


 俺はほとんど皮肉の意味でそう言ったが、リヱはいつもと変わらぬ微笑のままに「どういたしまして。」と返した。しかし彼女は俺の真意を理解していない訳ではなかった。


「ようするに、物理学が貴方の全く分からない話をやっている時期に、生物学は進化するかしないか、遺伝するかしないか、という話で停滞してしまっていたという事ですよ。」


 彼女は少々意地悪な笑みを浮かべて、そう俺をいびった。彼女はお高く留まった優等生のような人間だと思っていたので、そういう言葉が彼女の口から発せられた事は全く意外だった。


「君は思ったより嫌味ったらしい事を言うのだな。」


 俺は小さい声でそう言った。


 電車はこの会話の間に幾度か駅に停車しては少ない乗客を入れ替えて発車する事を続けていた。その度に轟音を立て、車輪を軋ませ、限界とも思えるほどに車体を揺らし続けた。しかし、彼女はそれを意に介することは無かった。


「我々が生物への探求をしてこなかったのは正に『自己の聖域化』とでも言えましょう。」


 彼女は理知的な表情のままに話を続けた。


「これまた変な言葉を。」

「あはは、これは私の造語ですよ。」


 そう言って彼女は笑ったが、その後すぐに再び真剣な顔に戻った。


 彼女の頬に反対側の窓から入った午後の陽が当たった。電車はカーブに差し掛かって、その光は彼女のふっくらと瑞々しく美しい唇をちょうど生々しく照らしているところだった。


「で、それはどういう意味だ。」

「人間と他の生物を隔絶し、人間に対する科学的探究を諦める事ですかね。」

「ふむ。」


 導入はややこしかったが、彼女の言わんとする事には確かに一理あった。有史以来、我々は自分の過去を神という一点に集約し、それに触れる事を禁忌としてきた。更に言えば、人間を高等な生物であると定義し、他の生物との関連を否定し、進化論が認められるまで人間は人間として誕生したという思想に終始し続けた。それは我々が紀元前から物理現象や化学反応に元素説を支持した事とは真逆のことである。


「我々は、往々にして自身を客観的に見ることができないのですよ。我々は自身の起源を神の領域として禁足地にしたのです。」


 そう言う彼女は至って真剣な様子だった。


「だから、生物学は長年博物学の一領域に甘んじ、人間に対する探求も、定性的にはなされても、定量的には行われてこなかったという事です。」


 たしかに、著名な哲学者も殆どが自らについて科学的手法を用いて評価する事はなかった。更に言えば、今なお我々の肉体を科学で以って解析する事について懐疑的な声があるのは確かだ。


「それで……つまり、君は何が言いたいのだ?」


 そう、俺は彼女の方を向いて、問うた。


「我々が一番理解していない事は、自分についてだという事ですよ。」

「ようするに、我々は自分の事を理解し得ないという事か?」


 彼女は微笑みながら「おしいけど、すこし違いますね」と言った。


「私たちの精神は自分の事を全て理解できるだけの能力を持っていないという事です。」


 俺はそんな事を考えたことも無かったから、彼女の言う話は新鮮だった。それと同時に、余りにも脈絡の無いその言説に恐怖すら覚えた。彼女は椅子に座ったまま、少し伸びをしていた。俺は彼女に実直な感想を伝えることにした。


「きみは面白いことを考えているんだな。」

「折角、あなたたちと行動するんですから、たまには私の考えている事も伝えたいと思いまして。」


 揺れる車内で、彼女はひたすらに俺の瞳を見つめていた。絶対にその目線が振れることは無かった。俺は彼女がそのおっとりとした性格の後ろにひた隠しにしている何かを見るのがとても恐ろしい気分になった。先頃の問いには、身分の差を打ち破って大臣秘書にまで上り詰めた彼女にすら解決できない、もっと深遠な問題が隠れているように思われたのである。


『まもなく、西枇杷島。扉にご注意ください。』


 電車は再び減速し、見るとあたりはすっかり住宅街となっていた。前向きに慣性力が掛って、すこしの衝撃と共にホームへと停車した。


「降りましょうか。」

「ああ。」


 とん、と段差の下にあるホームに降り立つ。肌寒い冬の風に当てられる。西日がまぶしい。我々以外に降りた者は居なかった。幅三メートルもないというような狭いホームは端で更に絞り込まれて、平均台のような感じである。


「懐かしいです。よく使ったなぁ。」

「狭いホームだな。」

「昔からです。」


 構内踏切を渡って改札で駅員に切符を渡す。外へ出ると、ここも稲沢のそれと違わぬバラック街と化している。小さな駅舎の庇の下にもたむろする浮浪者が数人見受けられた。


 彼女はあたりを見回しながらも無言で歩いていた。バラックの張り出した建物の上にはかつてそれが商店だったという事を示す看板の類がいくつもあった。ここでも電柱は傾き、稲沢よりも酷いのは車すら入れないほどに道幅に迫り出している事である。


 道端では浮浪者がダンボールの上にその煤けた体を横たえている。無造作に生活用具が置かれ、道はまるでこのバラックの持ち主たちの庭のようになっていた。道を歩くと腐臭が鼻を突き、到底文化的とはいえない生活環境である。


 彼女は、桑浦リヱは、それを見て何も言わなかった。変わり果てた故郷を見る彼女の気持ちはどのようなものなのだろうか。彼女は今何を思っているのだろうか。


(わかるわけ、ないだろう。)


 辺りは夕暮れに差し掛かっている。道はやはりここでもグネグネと折れ曲がってずっと進んでいる。トタンで作られた三階建ての奇妙な構造物のある交差点で右に曲がる。道幅が気持ち広がったような感じがした。


「実家に行く前に、あの堤防の上に、ちょっとだけ行きたいんです。」

「分った。」


 突き当たりには高く堤防があった。川に近づくほどにバラックも少なくなり、空き地もちらほらある。やっとのこと、息苦しさから解放された気分になった。


 堤防まで辿りつくと、手近な階段を昇っていくのである。粗いコンクリートで出来たそれは、メンテナンスが行き届いていない事を如実に示すように複雑にひび割れて、その隙間から雑草が姿を見せていた。しかしながら、堤防の上は十分歩く事ができる。それは、今でもこの堤防の上に多くの人がやってくる証左であった。


「ああ、」


 彼女がはたと声を漏らした。目の前には、名古屋駅周辺の超高層ビルの群れが夕日に照らし出されている。その下では川の水面が空の燈色を反射して美しく輝いていた。


「綺麗な景色だ。」

「いえ、この景色、嫌いでした。でも、昔からこの景色だけは変わってないと知ってたんです。だから。」


 恐らく十年以上変わらない風景。それがこの夕暮れの照らし出すビルたちの姿であったのだろう。これが、変貌してしまった彼女の暮らした街を示す、唯一かもしれない風景であったのだ。


「変わらないなぁ……。権威主義の汚いビル。最悪の景色ですよ。……今も昔も。」


 そう言う彼女の顔は喜びに満ち溢れていた。彼女は懐から何かを取り出して、それを口に据えた。ジッポライターで先に火をつけたが、酷くむせて咳き込んだ。


「おい、大丈夫か。」

「いえ、大丈夫ですから……。ほんとうに大丈夫です。」


 そうは言うが、彼女はげほげほと煙を吐き出していた。彼女の持っているたばこを取り上げて足元で踏み消した。


「慣れないなら、吸うなよ。」

「とはいっても自由化運動をしている女性は煙草を吸うものだと聞いたのですが。」


 そんな話があるのか、と思った。確かに女性が煙草を吸うというのは珍しいから、それを敢えて破っていく事こそが革新を望む事を喩えているのかも知れないが。


「それが本当だった所で、それをしない事も自由だろう。」


 そうやって言った俺の方を見て彼女は少し首をかしげて不思議そうな表情をしていたが、じきに川の方へと向き直って、ライターをポケットの中にしまい込んだ。


「そうですね、やめておきます。」


 俺は一息ついて、改めて川の方を眺めていた。河川敷の野原では、夕日に当てられながら子供たちが遊んでいる。堤防の上には夫婦が居て、その様子を見守っている。別に夫婦は幸せそうでもなんでもなく、むしろ無表情である。一方で、子供たちは底抜けの笑顔のうちに遊んでいる。とはいえ、これが幸福と言うべき光景であることに違いはなかった。もしかすると、子供たちの笑顔にこそ、我々の閉塞感を打開する為の答えがあるのではないかと思ったぐらいである。


「ね、水上さん。そろそろ家を見に行きたいです。」


 彼女は歩き出した。俺もそれを追っていく。優しい夕日が彼女の影を堤防の下まで長く落としていた。堤防の法面に体育座りで座って夕日に黄昏る高校生の恋人たちが見えていた。キャッチボールをする親子、散歩をする老夫婦。こんなに幸せな場所があって良いのだろうかと思うほどである。それなのに、ここは、皮肉にも、あのバラック街の裏なのである。彼らはバラック街の住民なのかもしれない。しかし、ここに来れば、まだ彼らが豊かであった頃と変わらず、その夕景を享受できるのである。


「きみは、この場所がすきか。」

「景色は嫌いですけど、ここは大好きですよ。」

「そうか。」


 後ろを振り返ると、名古屋駅へ向かう電車が川を丁度越えていくところだった。俺たちはゆっくりと、堤防の上いっぱいに敷かれた小石を踏みしめて、そこを進んでいった。


「そういえば、」

「何だ?」

「水上さんも思い出の場所って、ありますか?」


 うーん、と悩んで、川の向こうの摩天楼とその下に続く木造の家々を見遣った。思い出というと、どこだろう。少年時代など思い出すには昔過ぎる。一番古い記憶と言えば、乳母車に乗せられてなぜか建設現場を見に行ったことと、祖母とミニカーで遊んでいたことくらいである。


「強いて言うなら、家かな。」


 そう言うと、彼女は

「やっぱりそうですよね。」

と言った。


 夕日は沈みつつあった。東の空は既に青みがかっていて、その下の屋根屋根が夕日を反射して眩しく浮かび上がっている。土手の上はにぶい赤紫色に染め上げられて、あたりは寒々しさを増していた。

 

「私は帰る家がないんです。もしくは、幾つもあり過ぎる。」


 前触れ無く彼女が発したその言葉の意味を隅々まで理解することは、今の俺には到底無理なことだったが、その言葉が意味深長なことだけは十分理解できた。


「そうか。」


 だから、ぽつりと俺が返したその言葉は、いつもと同じ返しではあったが、しかしいつもより何か含みを持って発せられたものだということを俺ははっきり認識していたのだ。


「ここで階段を下りてすぐが『私の家』です。」


 彼女が立ち止まって言ったその先には、やはり他の家と変わりも無く、バラックにその外郭を占拠されてしまった小さな民家があった。とん、とん、と階段を下りていくと、バラックで建て増しされて殆ど原型を留めない「彼女の家」が近くにせまってきた。


「これが、きみの家だったのか。」

「はい。」


 空は既に暗くなっていた。辺りも既に相当に暗く、明かりがなくては歩けないほどである。ここには街灯もないし、家々から漏れ出る光も微々たる物である。目の前の家には今、明かりというものは灯っていなかった。


「あの辺りに私の部屋がありました。当時は、何もなかったけど、楽しかったかなぁ。」


 彼女がそう疑問形で言ったのは、人間の記憶に於ける本質であり、宿命であるところの結末であったのだろう。もはや今の彼女にこの家で暮らしていた時の感情をありありと思い出すことはできまい。


「ここ。この辺りに花壇があって、花を植えてました。夏休みにはアサガオとかを植えたりして。」


 しかし、彼女の指す先には、そこには何やら分らない錆びた鉄屑が積み上げられているだけだったが、かつて花壇があり、花があり、それに水をやる少女時代の桑浦リヱが居たことは間違いのないことであった。彼女はまた家の方を見ると、はたと何かに気付いたようであった。


「明かりだ。」


 目の前の小さくぼろぼろの一軒家には確かに明かりが灯っていた。それは小さく弱々しく、ゆらめき、薄くなったり強くなったりする。だが、それは明かりに違いないのである。


 我々に気付いたのか、家から小さい、恐らく三歳かそこらの少女が出てきて、こちらを見た。不審がるような、もしくは怖がるような、そんな目であった。リヱが、その娘の方にすこし歩いて近寄った。しかし、世とは無情なものである。その幼子は背後からやってきた母親によって抱え上げられ、再び家の中へと入れられてしまった。リヱはこちらを向いて、やれやれというような顔をした。


「きみの家もまた、変わってしまったのは、仕方の無いことだよ。」

「いえ、何も変わっていませんよ。」


 彼女は晴れやかな顔をしていた。少なくとも、暗くて殆ど分らないその表情を推し測るとすれば、そうに違いなかった。


「だって、ここには前と変わらずに少女とその家族が暮らしているんです。何も、何も変わっていません。」


 俺はその言葉を聞き届けると、持ってきていた小さなランタンにマッチを擦って火を入れた。そのほのかな明かりを顔が照らせる位の位置まで持ち上げて、彼女に言う。


「帰ろうか。」

「はい。」

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