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6. 過去と今

**


「ああ、ちょっと幾つかカメラ店にアテを付けているから、そこを回る。」


 天賞堂のモダンなビルディングの前で、楠は立ち止まってそう言った。銀座に来てから、適当に周辺を歩いていたのだが、それでは埒が明かないので、もう買い物をしようと俺が提案したのである。


「それはどこだ?」

「とりあえずレモン堂に行って、次にタツミ写真機店だな。」

「と、言われても場所が全く分らないからなぁ。」


 まぁついてこればいい、と楠はとぼとぼ歩き出した。ここ数年で進む都市の高層化に反するように、銀座界隈は今も背の低いビルばかりである。無駄というほどに広く取られた歩道に多くの人々が歩いていた。


「なぁ、楠。許嫁とはどうなんだ?」

「ぼちぼち、かなぁ。」


 楠は顔を少し曇らせた。当時、彼には許嫁が居た。俺は一度だけ紹介してもらった事が有ったが、気立ての良い女だったと思う。実際のところ、彼は許嫁との関係に相当気を遣っていたらしく、聞くところには第一印象ほど善人じみた人間ではなかったようである。


「ぼちぼちってなぁ。」

「そう言う他ないだろう。変わりないよ。」

「変わりないのは良い事だよ。」


 そんな乱雑な返事を俺が返した事に、楠は余り好い気がしないようであった。


「しかしまぁ、水上も寮生活からそろそろ解放だろう?いったい何処に住むんだ。」

「いまいち考えていないんだが、神奈川の実家に帰ろうと思って。」

「神奈川ァ?!」


 そもそも自宅勤務が許されるのは特殊な例で高官若しくは技官か妻子持ちであることが条件であった。当時軍規がどんどん緩くなっていたというのもあったのだが、流石に東京で勤務しているというのに神奈川から通うと言うのは危機管理の面から言って遠すぎるというのは重々承知しているところだった。楠が驚くのも当たり前であって、俺は彼の驚く顔を見るべくして見たと言う感じだった。


「クビになった親父の事もあるし、兄さんはエリートコースで忙しいし。誰かが実家を守らないと、どうしようもないからさ。」

「ああ、お前も色々大変だったな、そういえば。」


 楠がそう笑いながら言った。この時は、俺の父親が軍部を追放された話は俺にとってただの笑い話のようなものであった。それはただの軍内で派閥闘争に敗れて追放されたバカな親父を皮肉るジョークのタネでしかなかったのである。当時は背後に家族を引き裂くような悪事が進んでいるなどということは我々にとって知る由も無かったのだから。


「ああ、まぁ電車で座れるようになると思うし、むしろ今より疲れないんじゃないかな。」

「そりゃいいこったな。」


 俺と楠はそう言って小さく笑った。そういう風に俺たちは本当に他愛のない会話をしながら歩いていた。しばらく歩くと大通りに出るのだが、その角地、尖塔のある白亜の建築の前で楠は立ち止まった。


「ここだよ。」

「おいおい、教会じゃないか。」


 そこには「銀座教会」とはっきり記されていた。建築もいかにも教会といった感じで、その概形こそ近代ビル建築の体裁を取っていたが、その装飾は立派な教会建築と言って差し支えないものであった。


「何でも建替資金が足りないとかで雑居ビルのように一部区画を貸し出してるらしい。」

「建替とは勿体無い。綺麗な建築なのに。」

「時流だから仕方が無いさ。」


 近頃の好景気によるスクラップ・アンド・ビルドで、東京市周辺の様子は様変わりしている。とはいっても、新しい建築の殆どは重厚な装飾建築の延長線にあるような物が多く、結局建物が大きく偉そうになっただけではないかという感想を抱く有様である。


 この建物も例外ではなく、時の波に流されて消えていく運命にあったのである。中は色々と改装されていて、教会らしくは無かった。エレベータで登って行くと、一角に「レモン堂」と書かれた看板が掛っていた。


「うーん。」


 中に入るなり、右奥のショウケースにかぶりつきの姿勢になった楠は暫く所狭しと並べられたカメラの一群を見ていたが、「これじゃあない」とか「あれでもない」とか独り言を呟きつつ、逡巡しているようであった。


「そもそも何を探しているんだ。」

「言っても分らんだろう。」

「まぁまぁ、言ってみるまで分らないじゃないか。」

「……ゼンザブロニカS2とニッコールの七十五ミリF2.8、あと三十度プリズムが欲しい。」

「本当に分らなかった。」


 ほら見たものかというような顔で楠がこちらを見てきた。俺も一端の理系であるはずなのだが、カメラには余り詳しくなかった。そもそも写真を撮るという事がいまいち好きでなかったのである。それは、写真を撮っているときに全く風景を見ていないことに高校生のころにふと気付いた時からであった。


「ちょっとトイレ借りてくる。」


 楠はそう言い残して店を出て行った。暫く、店内に並べられたカメラを見ていた。古そうな言葉で言えば「魂を吸い取られる」という表現がされるように、誕生した時よりこの黒い箱は何か特別で崇高なものであるような扱いを受けてきた。絵筆が道具でしかないのとは違って、カメラはより高度な相棒としての存在として位置づけられてきたのである。


 そして、カメラは常に精密なる現代社会の枢軸を担い、またマニア的精神主義の中心地帯にあった。現代はどのような測定にも光学機器が欠かせず、多くの局面でカメラの性能が問われる。さらに娯楽では、近年の記録偏重主義によって、何事も写真に収めんとするようである。


 だが、俺には巷の人々が構えるカメラが武器のようにしか見えなかった。カメラを構えると、周りが全く見えなかったのである。それは銃を的に向けるときの感覚と似たモノがあった。鈍重な機械の塊であるそれの外殻と、内部のガラスが幾重にも折り重なった細密なる構造の間の矛盾に、俺はどうしても違和感を堪え切れなかった。


「いやいや、遅くなってすまない。」

「良いよ。で、どうするんだ。」


 楠が戻ってくると、俺はそんな下らない妄想をやめることにした。


「やっぱりここには無さそうだから、タツミ写真機店に行くよ。」

「そうか。」


 そう言って、俺たちは店を出た。店員がハッキリと通る声で「有難うございました」と言うのが聞こえた。果たして彼らは何も買わなかった我々の何に対して感謝しているのだろうかと、他愛も無い疑問を抱いたが、そんな事を考えられるのも今になってみれば当時は余裕があったからなのだろう。


「そういや、最近仕事はどうなんだ。」


 ふいに楠がそう尋ねた。


「んー、ぼちぼち、かなぁ。」

「人の真似をするな。」


 実際、仕事はぼちぼちというより、余り良くない感じであった。戦争も無く、そもそも破壊工作が戦術上重要視されなくなってきた現状で、その計画立案を担当する専門の技師というのは些か肩身の狭いものがあったのである。


「あんまりだよ。正直最近民間でやる爆破作業の手伝いばかりだ。」

「いい訓練になるんじゃないか。」

「もう爆破解体業者を設立して一儲けした方が早いんじゃないかと思ってる。」

「会社名は水上エクスプロウジヨン株式会社に決定だな。」

「全くセンスがない。」


 我々は銀座教会のビルを出て、再び銀座の街中を歩いていた。夕方の銀座は特に買い物客で溢れている。誰も彼も上品な服を着てお高く留まっていて、何と言うか奇怪な街である。銀座は東京の精神的中央地であり、東京は日本の中枢である。日本を世界で最も豊かな国であると言い張るとすれば、ここは世界の中心と言って過言ではないのだ。変な場所にもなるはずである。


「最近は本当に景気が良いな。」

「十年後にはどうなってるか分ったもんじゃあないよ。」

「不吉な事を言うなよ。」

「ドイツが攻めてくるかも。」


 そんな事を言って俺たちは笑いあった。暗くなるにつれて、街中に明かりが灯り、ネオンが輝きだす。辺りはいよいよ賑わいを増してきて、歩くにも蛇行を強いられるようになってきた。


「混んでるなぁ。」

「ああ、そうだな。」

「こいつら何しにきてるんだろうか。」

「それは俺たちも同じじゃあないか。」


 銀座は不思議な街である。歩いていると、何か不思議な気分になるのである。美しく整列したビルディングと広い歩道が醸し出す異常なほどの作為感と、時折見える細い路地にある確かな歴史の地層とがその特異性を助長していた。考えても見れば、銀座は開国以後、常に日本の国家的中心にあった。それは明治維新の直後に煉瓦街として外国への示威の意味も込めて整備された時から変わっていない。

 

「本当に変な場所だ。」


 交差点を渡り、東銀座の方へと歩いていく。三原橋交差点の手前ぐらいにタツミ写真機店はあった。広い店内に小奇麗にカメラが整列しており、さながら最高級店といった感じである。道に向けて飾られている高級カメラを眺めていると、センサに反応してしまったのか、入り口の自動ドアが開いてしまった。


「おっと。」


 中を伺うと、店員と思しき背広を着た壮年の紳士がにこやかにゆっくりと会釈をした。俺もまた、それに応じるように小さく頭を下げ、店内に入っていった。


「いらっしゃいませ。」


 主人は物腰柔らかな声でそう言った。先ほどの店よりも更に珍妙なカメラが並んでいた。恐らく古いものだろうか、蛇腹が付いているものや、レンズが二つ、三つ付いているものもあった。何と言うか、多くの目に見られているような気がして、少し気分が悪くなった。


「あ、どうも。」

「ああ、楠さん。いつもお世話になっております。」


 一方の楠は随分となれた感じで入ってきた。店内に入るなり、彼は周りのガラスケースに目もくれず、主人の居るカウンターの前に向かった。


「いやね、ブロニカとアイレベルファインダと標準レンズが必要でしてね。」

「それなら確かあったと思いますけどね。」


 そう言うと主人はカウンターの下から鍵の束を取り出して、ゆっくりとした足つきで左手前にあったショウウインドウへと向かった。主人は慣れた手つきで鍵を開けると、ガラス戸をゆっくりと開け、その中の一台を取り出した。


「標準レンズは付いてますね。ウエストレベルは付属になりますけど、良いですか。」

「ええ。良いですとも。ところでプリズムファインダは。」

「アイレベルはね、多分店の奥にこの前入ったのがまだあると思いますから、ちょっとシャッターとかレンズとか確認しといて貰ってね。」


 そう言うと、主人はガラス戸を閉めて鍵を掛け、カメラを楠に預けると店の奥へと消えてしまった。一方の楠はカウンターへと戻ると、テーブルクロスが敷いてあるところにカメラを置いて、レンズを取り外し、掲げて見定める事を始めた。


「水上も見るか?」

「いや、俺は良いよ。三原橋の辺りを少し歩いてくる。」

「そうか。」


 そういうと、何かをぶつくさと呟きながらレンズを見つめる楠を背に、俺は店の外に出たのである。特にする事もないので、三原橋地下街の方へと歩いた。暫くはあたりをポケットに手を突っ込みながら、少し揺らぐような足取りで歩いた。既に夕日に空は赤らんでいて、徐々にビル群の稜線へとその色を引き下ろし、最後には全てをその色に染めて行った。


 少し裏通りを歩くと、誰もが無言で歩いている。ここには何の人間的繋がりも存在しない。各人が全て個としてのみ存在しているのである。楠とカメラ屋に行くのは実は苦手であった。というのも、静かに店内に陳列されたカメラの数々から受ける威圧感と、取り憑かれたようにカメラを物色する楠に抱く疎外感がどうしても嫌いだった。勿論、俺の勝手な感想でしかないので、彼には何も言わないのだが。


「はぁ……。」


 表通りから自動車のエンジン音が聞こえていた。少々アンニュイな気分のまま、道端でたそがれてみる。ポケットの奥底に忍ばせてあった十本入りのピースから一本取り出して咥えてみた。火をつけるためにマッチを探したのだが、どうも俺は煙草だけ持っていてマッチは持って来ていないようであった。そもそも、たばこは余り好きではないので、咥えていたものを適当にまた箱の中に押し込んだ。一息ついて、こういう時に煙草が美味しく吸えると雰囲気がいいのだろうと思った。


 あれは殆ど周辺を一周しかけて、時間も丁度いいので、再び写真機店に向かう為に表通りに出ようとしていたときのことだった。


「おいお前、俺はお前を基地の近くで見たことがあるぞ。貴様軍人だろう。」


 後ろの方でそんな声がした。まさか俺に掛けられたものではあるまい。まさか。


「聞いているのか、権益を独占する醜い寄生虫。そこの男、お前に言ってるんだ。」


 銀座に着てまで、不逞者に絡まれるなどという事は全く予測していなかった。一先ず、無視して歩く事にした方が良いと思った。こういう場合は無視しておくのが一番なのである。取り合ったら、余計にややこしいことになりかね……。


「痛ッ。」


 俺は背中を思い切り蹴られて、路面に倒れ伏していた。


「お前、何をするんだ!痛いじゃあないか!」


 俺は殆ど激昂するように言った。まさか、こんな面倒ごとに巻き込まれようとは思わなかったので、驚きと焦りを隠し得なかった。


「お前らが日本をダメにしてるんだ。全部お前らのせいだ。政治から経済から商業から、この世の中では全部お前ら様の為に動いているようなモンじゃあないか。馬鹿らしいったらありゃしねえぜ。」


 立ち上がろうと仰向けになると、目の前に立ちはだかる男が見えた。身なりは薄汚い和服で、頭もぼさぼさのよく手入れされていない様子であった。しかし、ガタイだけは良く、深い彫り込みの顔には二つの細く鋭い眼がぎらぎらと光っていた。男は体を起こそうとする俺を更に蹴りつけて、そのまま倒した。痛い。


「糞ッ垂れ、何がしたいのか全く分からんぞ!」

「お前は分らなくて良い。ただ殴られろ。殴られろ!死ぬまで殴ってやるからな。」


 男はそう言うと俺に掴み掛かり、次の瞬間にはこぶしを高く上げて俺の顔面めがけて振り下ろした。幸い一撃は頬に当たり、凄く痛いがまだ良い方である。


「おい、少しは抵抗しねえのか。軍人が見下げたもんだな。」


 至近距離で男がそういったのを聞いたとき、その息が相当酒臭い事に気付いた。この男は酔って錯乱しているだけなのだと思った。しかし、体力が極端にない俺にとっては泥酔した男を撃退することすら難しい事だった。


「勘弁してくれ。俺を殴って何になるんだ。」

「お前、勘弁してくれだって? するわけがないだろう。この景気の影で俺は失業だ!何でだ!俺の周りもどんどん失職してる。一体どうしてこんな事になってるってんだ?お前らのせいだろう!」


 そういうと、突然俺の腹を殴りつけた。次に男は俺の顔を再び殴りつけようとした。しかし、俺は無様にもジタバタとのた打ち回ったので、それは外れて男のこぶしはアスファルトへと直撃した。男は相当痛がって、一瞬俺を拘束する腕を緩めた。その隙を見て、俺はそこから逃げ出して、表通りへと出ることにしたのである。


 夕方の銀座に突然飛び出した目から頬にかけて痣を作った無様な青年に、多くの通行人は興味を示さなかった。例外はただ一度、若い夫婦の連れた子供が俺の顔を見て笑った事だけだった。夫婦は子供の頭をはたくと、小さく会釈をして足早に立ち去った。


「なにしてんだ、水上。」


 ふと見ると、カメラ店の買い物袋を抱えた楠が居た。


「いや、ちょっといざこざがあって。」

「そうか。」

「……きみは冷淡なおとこだな。」


 軍人である俺にとって、先刻の出来事ほど衝撃的なことは無かった。少なくとも、俺はこの身を呈して国を護っている筈なのだ。何故、理不尽にも殴られねばならないのか。だからこそ、その楠の淡白な返事に納得が行かなかった。


「話さない事には何も分からんだろうに。」

「……そうだな。」

「水上だって冷淡な返事をするじゃあないか。」

「いや、すまない。」


 楠がそう諭すのに、未熟な俺にはどうしても自分の気持ちに踏ん切りが付かなかった。こういう気分になっては、どういう風にそれを変えれば良いのか、なす術がなかったのである。


「まったくお前は難儀なやつだなぁ……」


 楠はそんな様子の俺を見かねてか、財布を開いて、一枚の名刺大の厚紙を取り出して俺に見せた。そこには「喫茶店」と書かれていて、特殊な書体で何と読むのか分からない店名のロゴと、所在地が印刷してあった。


「この近くに、美味いオムレツのある喫茶店があるんだよ。奢るから、話を聴かせてくれ。」

「……なんというか、すまない。」


 流石に、奢られるというのは申し訳なかった。とにもかくにも、その喫茶店で落ち着いてその顛末を整理できれば、それが俺にとっては一番良い事だと俺は思ったし、楠もそう考えたからこうやって言ったのだろう。



…………。

 「うまい。」


 “yours”と付名されたその店は、天然木で仕上げられた小奇麗な店内と、少し暗めの照明に小さめのイスと机を配した、至って普通の喫茶店であった。しかし、いざ座ってみると、これが妙に落ち着く。


 メニューを見る前から頼んでいたオムライスは量こそ少ないが、柔らかいオムレツをゆっくりとほどくと、中から黄金色の半熟身が出てくる。それにケチャップを少しスプーンで混ぜ込んで、ライスと共に食すのである。すると、これは所謂オムライスとは全く違う味なのだ。


 ふつう、オムライスはライスを卵でくるりと巻き、そこにケチャップで味と潤いを与えるのであるが、このオムライスは、その半熟身がケチャップやライスと混ざり合う事で更にうるわしい口当たりとなっていた。そして、すべてが少しずつ溶け合うことで、調和が生まれるのである。


「こんな店があったのか。」

「昼は混んでいて入れないほどの時も有るが、夜はそうでもないみたいだ。」


 俺はセットで注文したアイスミルクティを一口、飲んだ。喫茶店特有の甘ったるいそれは、このオムライスに却って良く合っているように思われた。


「で、何があったんだ。そろそろ本題に入っても良い頃合だろう。」

「……ああ、話すよ。」


 俺は座席に深く掛けなおして、襟元を少し整えた。


「結論から言えば、不逞者に殴られたというだけなんだが、」

「そんな事は百も承知だよ。」

「そこから説明しないと話にならんだろうに。」


 折角の話の筋を折られたので、抗議の意味も込めて、少しだけ反論をした。楠はそんな俺を「いつもの水上だ」と笑って見ていたが。


「いや、まぁその暴漢ってのが俺を殴るときに『お前らが日本を駄目にしてる』とか『お前らの為に社会が回ってるのはおかしい』とかそういう事を言われてな。訳もわからず殴られたんだよ。」

「そりゃ酷い。」

「何が酷いってさ、俺は何もしてないんだ。しかも私服のときに軍人だと見抜かれて殴られるなんて。」

「世の中、そういうやつも居るってことだろう。頭がおかしいんだよ。」


 楠はひとまず俺をなだめることを優先させているようであったが、俺は表面を取り繕う言葉だけでは全く納得することができなかった。なぜならそれは俺にとって、何か猛烈な違和感を想起させる出来事に他ならなかったからである。


「あれがたまたま頭の狂った男から殴られたというだけの事とは到底思えないんだ。」


 そう俺が言うと、楠は少し困ったような顔をして、斜め上の方向を眺めて考え込むような仕草をした。店内の有線放送か何かのバックグラウンドミュージックは、最近流行りの欧米音楽を先頃からずっと奏で続けていた。


「水上、例えばの話だが。」

「ああ。」


 楠は俺の方に向き直ると、そう切り出した。


「君の四十人のクラスにやんちゃな人間は居たか。」

「もちろんとも。」

「それは何人くらい居た?」

「四人か五人だな。」


 楠は一息ついて、うーん、と唸った。


「奴らのやんちゃが一回でも理不尽で無いことがあったか。」

「それは、ないな。だが、つまり何が言いたいんだ。」

「この世界の人間は、行動に道義なんて求めないんだよ。そういう人間は先生がげんこつを見舞うしかない。」


 それを聞いて俺は少し首を傾げた。すると、それに呼応するように楠も首を傾げて見せたので、俺は何と言うか可笑しい気分になって「ふふっ」と笑った。

 俺はとある事に思い当たったので、すこし意地悪な返しをしてみることにした。


「ところで、」


 楠は俺がそう言うのを聞いて、笑うのをやめて椅子に掛けなおしつつ、応えた。


「何だ?」

「クラスの俺以外全員がやんちゃだったら、」

「ああ。」

「そのやんちゃは最早理不尽ではないんじゃないか。」


 楠は不思議そうな顔をして、「何故だ?」と聞いた。俺は、それに対して一つの明確な答えを用意し得たのである。そしてそれは、もしかして俺を殴った人間に覚えた恐怖を代弁する最も良い言葉だったのかもしれない。


「そのクラスの理とやらは、もはや俺以外全員の方、つまりやんちゃをする事にあるはずだ。」


 それを聞いて、楠はまた考え込むような格好をしたが、結局その疑問に応える事は無かったのである。俺たちはその後、いつも通りの他愛も無い会話を楽しく続け、そして結局割り勘で金を払って店を後にした。


 後日談を付け加えれば、これ以降、楠とまともに二人で出掛ける機会は殆ど無くなり、数年間続いた交友関係は一つの区切りを迎えた。その後も、互いの近況を会って伝え合う事は何度かあったが、殆ど無意味な会話に時間を割くことなどは終ぞ、この時以降なかったのである。


**


「と言う感じで殴られて倒れ伏してだな、本当に大変だったんだよ。今全部思い出したさ。」

「そりゃまた大層なときに後を付けられていたのだな。」


 少女はあの何事も無いような数枚の写真の裏に隠された大層な思い出話に全く驚きと感心、そして感動の念を抑えきれないようだった。いや、実際は俺がこの時裏通りで暴漢に襲われたという話を聞いて、殆ど嘲笑のような反応をしているだけである。


「何しろ、その暴漢がデカくて怖くてねぇ。難儀したもんだよ。」

「キミの小枝みたいな腕では到底のけられないだろう事は分かるよ。」


 そう言われて、自分の腕を少し眺めてみる。そこまで細いモノではないと思っているのだが。……確かに筋肉は全く無いが、その分贅肉は付いているから、ガリガリというほどでは無いはずである。


「ジョークでも傷付くよ。」

「実際、水上君って筋力は全くと言っていいほどないだろうに。」

「否定はしない。昔から運動は嫌いでね。」


 少し嫌らしいような口調で俺がそんな事を言うと、少女は「やっぱりそうだろうと思ったよ。」と言いながらけらけらと笑っていた。その時、一瞬だけ彼女の顔がくにゃりと歪んだのを見て、彼女にも人間らしい綻びという物があるのだと、俺は不用意にもある種の安心感を覚えた。


「にしても、随分そりゃ暗示的な昔話だな。」


 部屋の端のソファで静かに話を聴いていた日野がふいにそう言った。


「当時はこんな事になるなど思いもしなかったからなぁ。十年でずいぶん変わったもんだよ。」

「十年前ってどんな感じだったんだ。オレはまだ此処に居なかったから分らないんだが。」

「就職も良かったし、娯楽も有り余って溢れてたよ。国中無駄なもので溢れてて、それが幸せだった。」

「へぇ。そりゃ随分と変わったもんだな。今じゃ必要なものすら無い。」


 そう言うと、日野は一本煙草を取り出して、口の中に押し込んだ。


「日野君、今日は禁煙だよ。」


 少女が素早く近寄って、日野の口から煙草を取り去った。すると、日野は何とも不満そうな顔をして、

「こういうふうに、少ない娯楽すら取り上げられちまうんだからよォ。」

と、文句を言った。


「まったくキミはねぇ、客人が来るっていうのに部屋の中を煙だらけにするつもりかい。」

「どうせ壁も穴だらけだし、すぐに抜けてくだろ。」


 しかし、日野は少女の手から取り返した煙草を再び箱の中に戻し、ポケットの中にしまった。日野はあからさまに溜息を付くと、いかにも手持ち無沙汰というような感じで腕をぶらつかせていたが、リキュール用のグラスにポッドから水を注ぐと、それを飲み干した。


「客が来るってだけで煙草も吸えねえ酒も飲めねえとは、どんなに重要な客でも来て欲しくねえな。」

「何を言うんだい。彼女が来ないと何も始まらないんだよ。」

「そんな事は百も承知だが、なぁ。」


 日野は「これ以上人間が増えたら息苦しくて堪らねえぜ。」と呟きながら足を組み替えた。時々、たばこを吹かす様な真似をする仕草をしていたが、それも馬鹿らしいと気付いたのか遂に諦めて腕組みをし、目を瞑った。


 それからは暫く会話の無い時間が続いた。時折、この妙な空気をどうにかしたくなって、少女に話しかけてみたりしたのだが、何しろ話題が無いので、大体は二三言で会話が終わってしまったのである。その間、数分の時間が数十分にも数時間にも感じられた。


 もちろんそれも、ドアがノックされるまでの話であった。


 三回、ドアをノックされる音が聞こえると、無言で少女はドアに向かって歩いていった。粛々として、その姿はまるで何かの宗教儀式に臨むシャーマンのようであった。


 日野が咳払いをするのが聞こえた。秘密の合言葉や、何かの認証システムみたいなものがあると思っていたのだが、少女はただドア越しに外の様子を伺っただけで承知したようで、古ぼけて馬鹿になった安っぽい鍵を軋ませながら回して、次の瞬間には扉を開いていた。


「ど……どうも、既にご紹介には預かっていると思うのですが、桑浦です。」


 おどおどとした女性の声が聞こえた。良くは見えないのだが、外には眼鏡をかけた髪の長い長身の女性と、その後ろに楠らしい影が見えた。


「その節はお世話になってます。」


 聞き慣れた楠の声がした。それに続いて、少女はあの不気味で事務的な笑顔で応えた。


「やぁ、どうも。ようこそ『給炭塔』へ。上がりたまえ。」


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