5. 幕間
目覚めると、黴の臭いが鼻を突いた。果たしてここは何処なのだろうか。一瞬そんな思考が頭をよぎった。寝ぼけた俺の考えの中では、俺は普通の軍人として、まだ普通の生活を送っているつもりだった。滑稽な事だ。
意味もなく、近くにあったアルミサッシの窓を開ける。何かに何度も引っ掛かるかのように重々しい挙動だったので、いっそう力を込めて窓を抉じ開ける。冷たい風が入ってきた。
「ん、ああ……。」
一面に並んだトタン波板の屋根が見えた。その合間から道路の土煙と家庭の排煙が混じり合うようにして立ちのぼっている。それを目の前に昇った陽の光が照らしている。それは美しさとは相反する光景であった筈だが、美しく見えた気もした。
「そういえばそうだったな」
この錆び付いた構造物の中で朝を迎えた理由を俺はようやく思い出して、自分に諭すように小声でそう呟いた。驚いた事に、それは恐ろしく罪深い事であるはずだったが、何故だか些細な日常の行為と同化した既成事実として、俺の意識に受容されていた。一息ついて、少しばかりサッシに載せていた自分の手を眺めてみる。いつもと同じ手だった。一昨日の出来事への後悔の為に嗚咽を上げようと思ったが、声にならなかった。
「おい、水上!メシだぞ、起きろ!」
ちょうど、階下から日野の呼ぶ声が聞こえた。混濁した感情を差し置いて、今は彼女らと朝食を共にする必要があると思った。身支度をしなければならない。
「水上、聞いてんのか。」
見ると寝巻き姿の日野がドアを開けて立っていた。俺は自分の事ばかり考えて、日野の呼びかけに応える事を忘れていたらしかった。
「あ、直ぐに支度して行くよ。」
「いや、別にそのままでも良いんだが。」
一瞬寝巻きのままで朝食を食べようかと考えたが、他人の家に上がりこんで、そういう事をすると言うのはマナーがなっていないかもしれないと悩んだ。そこで、今日に限ってはひとまず着替えてから朝食を摂る事にすると決めた。
「それは有難い、が、しかし客人にも礼儀と言うものがあると思う。今日だけは少しだけ待ってくれないか。」
「そうか。」
苦々しくも笑みを浮かべ、マジメな男だ、と小声で言いながら日野が出て行くのを見送って、俺は身支度を始めた。床に乱雑においてある旅行鞄を引き出して、中に入っている衣類を確認する。軍服一式と、着てきたスーツが一着。ただそれだけではあるが、悩むのには十分であった。曲がりなりにも軍籍にある者として、軍服を着るのはこの日本において義務であり、礼儀である。しかし、今の俺には軍服を着る権利と言うものが存在しないように思えた。更に言えば、少女や日野は反体制派のテロリストなのである。軍服を着るなど当て付けに等しいとすら思える。
「軍服、着れば良いじゃん。」
「勝手に入ってくるなよ。はしたない。」
日野がまたも勝手にドアを開けて入ってきていた。彼女は不遜にもドア横で腕組みをして、偉そうにしていた。
「お前がさっさと着替えないからだよ。ほら、早く着替えろって。」
「きみが出て行かないと着替えられやしないだろう。」
「そりゃ失礼。」
わざとらしく返事をして部屋を出た日野を見送って、それからいつものように軍服を着る支度をする。軍服と言っても、今持っているのは外出用の礼服のみである。シャツを着込み、スラックスを穿いてベルトを締める。上着を着て、その上からもベルトを締めた。
礼服には上品な形をした勲章がじゃらじゃらと下品についていた。そういえば、この礼服は先月あった閲兵式に着ていったままだった。閲兵式と言っても、言わば軍事パレードのようなものだ。この国には長く戦争という物が無かった。だから、兵士が得るべき勲章も無い。軍部はそれを恥だと感じ、閲兵式の度に飾りの勲章を兵士に大量配布して、それを着ける様に指示していた。そして、閲兵式以降は殆どフォーマルな用事と言うものが無かったので、これを着る必要もなかった。その為に礼服に偽の勲章がイヤというほど付いていたのである。
「おお、勲章がいっぱいじゃねえか。」
日野がふいに声を掛けてきた。制服に纏わり付いた忌まわしい程の偽勲章をむしり取っている真っ最中だった。また勝手に入ってきたのかと、彼女を部屋の外へ押し出しつつ
「これは全部ニセモノの勲章だよ。」
と彼女に説明をすると、妙に納得した顔になったので何とも奇妙なものだった。「何でそんなにしっくりきたような顔をするんだ」と訊いたところ、
「だって、勲章なんて全部ニセモノみたいなモンだろ?世の人間は男の勲章だとか何とか言うけどさぁ、勲章って結局ご都合次第で恣意的に決めてるだけじゃないか。所詮全部ニセモンだよ。」
と、少し得意げに答えて見せた。
「別に俺はそういう意味でニセモノだって言った訳じゃないんだが。」
日野の全く要領を得ない返答にはほとほと呆れ返る。彼女は時折、会話の中に意味も無く自分の考えを反映させる癖があった。日野アキラという人間は、傍から見ればもしやシュルレアリスムか何かの世界に住んでいるのかもしれないと思うような、そんな奇妙な思考を持ったある種耽美的な女であるという事を認識してすら、それは奇妙な事である。
「分ってるよ、分ってる。全く興が無い男だなぁ。」
「何が分ってるっていうんだ全く……。」
着替え終わると「飯を食おう」と伝えた。それを聞いて、日野は「やっとか」等と言いつつ、いつもの明朗な笑顔を浮かべて部屋の前を立ち去った。もちろん、俺もそのすぐ後ろに着いていった。
**
「やあ、昨日は良く眠れたかい?」
階下に下りるなり、少女のそんな無思慮な声を聞いて俺は不快な気分になった。こんな状況でよく眠れるはずも無いだろう。それくらい少女も知るところであろうに、敢えてその定型的な言葉を変えなかった事に軽蔑を覚えた。
「いや、眠れるはずも無いよな。それくらいの事も配慮できなくて……すまない。」
少女がそうやって謝った事に、俺は少し驚いた。と共に、昨日からずっとこの少女に対して抱いていた分裂感を改めて感じ取った。俺は彼女に対して怒る事は最早無かった。この期に及んで俺の心から怒りの念というものは何故か消えていた。
「いや、良い。それより早く飯にしよう。」
「そうだな。ああ、今朝はフル・ブレックファストだぞ。そこのダイニングテーブルで待ちたまえ。」
聞きなれない単語に困惑しつつも、俺は台所に消えていく割烹着姿の少女を見送った。それから暫く、台所からは何かを切ったり、煮込んだり、焼いたりという、ありふれた様な食事を用意する音が聞こえている。その間、俺は暇な時間を持て余すことになった。横では日野が何やら英字新聞を気難しそうな顔で読んでいた。
「そういや、お前って何で日本語名で日本語話すんだ?」
ふと聞いてみた。日野は新聞を読むのを少しやめてこちらを向くと、すこぶる不思議そうな顔をした。
「何でって、そりゃ今時日本語かドイツ語か話さないと生きていけないしなぁ……。名前は何でなんだろう。」
「そんなもんか。」
俺は単純に納得してしまったので、腕組みをしてその言葉についてゆっくりと咀嚼する様に考えていた。日野は付け加えるようにして強い語調で
「お前それ他のアメリカ人の前で言うなよ。」
と俺に注意した。
「あ、そうか。何というか申し訳ない。」
「良いんだけどさ、こっちだってある意味でお前らに媚びて日本語名にして日本語話してるんだから、理由なんて聞かれたら、ほんと惨めな気分になるぜ。」
何もそこまでしなくて良いのに、と思ったが、そもそも日本語が話せなければ食っていけないような状況にあるのだから、その理由を聞くと言うのはひたすらに無理解という事を露呈するだけであったのだ。
「まあまあ、日本人なんて多くが旧連合国の現状を知らないさ。そもそも人間なんて身の回りのことですら把握しきれないと言うのに。」
そう台所から少女がフォローしたのを聞いて、何か申し訳ない気分になった。
「実際、お前らが何かしたからオレたちがこうやってクソみたいな生活してる訳じゃないしな。」
そう言いつつ、再び日野は新聞を開いて、英語だらけのページに目を落としていた。しかし、英語は何とも奇怪である。どうしても記号の羅列にしか見えない。
「にしても、新聞は英字なんだな。」
そうやって日野に話しかけると、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、まだそのハナシ引き摺んのか?」
はっとして「すまない」と謝ると、日野は苦笑いを浮かべていた。溜息を一つついてテーブルに向き合うと、白い手がすうっと伸びて、何やら豪勢な食事の載った洋食器を差し入れていた。
「ほら、朝食ができたよ。」
洋食器の上にはウインナーソーセージ、豆の煮物、目玉焼き、キノコの炒め物、その他良く分からないものも幾つか有る。そもそも、現代日本に於いては朝食と言えば白飯に味噌汁と付け合せを幾つかというのが主流である。洋風朝食はホテル等で供されるが、もっと簡素である事が普通だった。
「この朝食は……とても豪華だな。」
躊躇することなくこの豪勢な飯を貪り食っている日野を横目にして、俺は躊躇するようにそう言った。
「これはフル・ブレックファストと言ってね、英国式の朝食だよ。」
「へぇ。」
豆の煮物のようなものをナイフとフォークで掬い上げて、目の前にかざして見る。ほのかなトマトの香りがした。赤茶色のそれは良く煮てあるようで、ナイフをあてがうと潰れてしまいそうに柔らかい。
「それはベイクトビーンズというんだよ。」
「ん、これは焼いてあるのか。」
「いやいや、日本語的に言えばマメのトマト煮込みだね。」
そう言ってしまうと身も蓋も無いと思いつつも、一口食す。なんのことはない、マメをトマトで煮たらこういう味になるだろうという味だった。和食のように味の複雑さがあるわけでもなく、ただただ塩味と酸味があるだけである。
「どうだい。海の向こうの味は。」
まずい、などと言うつもりはさらさら無かった。この蕩けた豆をナイフとフォークで身長に掬って口に押し込む行為に、俺は何か特別なものを感じていた。味ではない何か、それこそが彼女の言う“海の向こうの味”であるとしたら、この料理は絶品である。
「良い。」
「そりゃ結構。」
人間というのは不思議な生き物だ、と思いつつ様々な料理に手を付けていた。どれも、旨いとは殆ど言いがたい物ばかりである。これは別に少女の作り方が悪いなどという事ではない。全て素のままだから、どう調理しようと素のままの味なのである。しかし、不思議な事にこの料理を食べるごとに、新たな冒険をするようでとても楽しかった。
「時に、何故君がこの料理を良いと感じるか分かるかね。」
顔を上げると、向かいの席に座ってフォークとナイフを取った少女が、妙に真剣な顔をしてこちらを眺めていた。
「いいや、俺もちょうどその事を不思議に思っていたところだった。」
少女は件の不気味な笑みを浮かべている。それを見て俺は顔をしかめた。俺はこの顔が嫌いだ。彼女がこの顔をする時は必ず小難しい事を言う。しかも、大抵その小難しい理論の結果は俺には都合が悪い事だった。
「いやいや、今度言う事は別に何も変なことじゃあないよ。すまないね。楽に構えたまえ。」
「あまり信用は出来んな。」
そうはいいつつも、席に少し浅く座りなおして、腕組みをしつつ彼女の話を聞く準備をした。彼女の話は時としてほぼ恒久的と言って良いほどに長く続くので、料理が冷める程の長話でないことを願った。
「食というのはね、何も味だけが食じゃあないんだよ。カタチ、彩り、香り、それ以外にも大切な事が多くある。分るかね?」
「……何だろう……皿か?」
そういうと、少女は感心したような顔をして幾度か頷き、「それもその一つだが、」と言い、続けた。
「食の周りにある、言わば環境のような物も、確かに食の良し悪しを左右する。例えばそれは、食事をする場の雰囲気とか、君の言う食器とかだ。だがボクの言いたいことはもっと違う。」
彼女はフォークを手で持ち上げて見せた。
「それは定型化された操作だよ。食と言うのは古来、定型化された儀式のような性質を多分に持ち合わせてきた。ナイフとフォークで几帳面にマメを掬い上げて食べるという一連の動作の非日常性こそが、君がこの食事を美味いと感じた理由なのだよ。」
そういえば、そんな思案もしたなと思った。彼女はまだ話す事をやめる気配が無かった。
「そもそも、この国は七十年前以来和食だらけだ。東京には海外料理を出す店も数多いが、そんなものは富裕層の特権だ。君だって“洋食”は食した事があろうが、“海外の料理”を食した事は少ないのではないだろうか?」
適当に相槌を打ちつつも、これはまた面倒な話が始まったと思った。明らかに話の雲行きが怪しかった。この日本人が海外の食文化を知らないという「だけ」の「瑣末な」話がこれからどんな政治の話に繋がるのかと思うと、嫌な気分になる。
「まぁ、そういう事だ。」
しかし、少女の話はそこで終わった。
「驚いたな。俺はてっきり『日本人は海外を知らなさ過ぎる』だの『これが民主主義の味だ』だのご高説を垂れて下さるのかと思ったよ。」
「だから最初に違うと言ったじゃあないか。ボクは純粋にこういう朝食もあるという話がしたかっただけだよ。君がこの料理体系を奇異に感じるなら、それだけだ。まぁ、幾らでも政治的なことに絡めて言う事は出来るけどね。」
少女はそう言って再びフォークとナイフを取った。
「でも、さっきの話は重要なことだよ。それだけは確かだ。」
「どうだか。」
少女が食事に戻るのを見て、俺もウインナーを食うことにした。トマトソースに付けて口に入れると既にぬるくなっていて、脂っこさが喉苦しい。今までこの料理を美味いと感じたのは確かに特異な作法のせいもあるが、何より温かかったからだと思った。
「なぁ、話は戻るのだが、」
思い出したように俺が日野にそう問いかけた理由を詳しくは自分でも理解し得なかった。ただ、不意にそれが気に掛ったのである。突然思考の奥底から今までの言動の記憶に付随する疑問が励起されたといったところであっただろうか。
「お前は何で日本をどう思ってるんだ。俺たちの事、嫌いじゃないのか。憎くないのか。」
日野は口をすぼめるような仕草をして、「お前は本当にデリカシーの言うものの片片も持たない奴なんだな」と独り言のように愚痴った。
「俺もそんな事は重々承知しているが、どうしてもこれを聞いて置かないと、気がすまない。」
目の前で食事を終えた少女がゆっくり立ち上がって、皿を幾枚か片付けつつ、台所の方へ消えていった。日野はそれを一旦目で追ってから、口を開いた。
「オレの中では……なんつーか日本人とかアメリカ人とか、そういうモノが無いっていうか……」
「そういうモノ?」
「とにかく!いわゆる『国民』とか『人種』とかそういうのには興味が無いから、お前や他のいろんな人に対する恨みなんてのはないってことだよ。」
そう言い終わってから、彼女は悩んだような顔をしていた。俺はなぜそんな表情をするのかという事まで聞くことは出来なかった。彼女が言いたいのは、恐らく彼女の見ているのは全て個人である人間でしかないという事だったと思う。俺もその言葉を聞いて、すこし考え込んでしまった。何故だろう。
「相互理解は深まったかね、諸君。話は変わるが、今日は来客がある。」
俺たちがやっとのこと我に返ったのは、少女の呼びかけるその声が聞こえた時であった。しかしながら、その来客が最後には我々の思考を転覆させるほどの問題を我々に投げかける事になろうとはこの時ちっとも想像しなかったのである。
**
「もうすぐか。」
朝食後、少女の話を聞いた我々はそそくさと片づけをし、身支度をして、客人の到着を待った。給炭塔の中はかなり張り詰めた空気が漂っている。俺がここに来たのはほんの昨日の夜の事からの事であるから詳しくは分らないが、恐らく異常なほどに少女も日野も緊張していた。
「なぁ、ヤツは本当に一人でここまで来れんのか?」
日野は引き攣った顔でそんな事を言っている。確かに、客人とは到底このスラムにはそぐわぬ人間であった。日野の問いかけに対し、少女は気難しい面持ちのままであった。
「今度の件は吉槻孝明代議士の仲介でやっている。見送りの一人くらいは付けているだろう。」
“ヨシツキタカアキラ”という名前に全く聞き覚えは無かった。何せ、日本の議会制度は有名無実である。戦後の一時期には議会が注目されたこともあったが、結局のところ議会は無能であるという結論しか出なかったから、それ以来議会は用を成していないという話は社会史の講義中に教諭がよく言うこぼれ話の筆頭であった。
「代議士の紹介か。」
「何か問題でも?」
少女がそうやって言った事に「いや特に」と答えると、彼女は受け流すようであった。代議士の支援を受けるとは言うが、実際のところ代議士が普段何をしているのかすらはっきりしないし、果たしてどういう風の吹き回しで代議士とテロリストが結託するようになったのかなどと言うことを想像する事は余りにも難しかった。
「面倒臭えな。タカちゃんの付き人怖エんだよなぁ。」
「タカちゃん、ってその代議士の事か。」
小言を呟いた日野に俺がそうやって問いかけると、日野は軽く「ああ」と頷いた。代議士と言われれば、確かに権勢を思いのままにするという印象はある。屈強な付き人が常に警備しているのだろうか。ともすれば、代議士は裏社会を牛耳っている首領みたいなものなのだろうか。とはいうものの、『タカチャン』などという軽率な渾名から察するに、そこまで考える必要もないように思われた。
「オレがこの人に拾われた後にな、こいつは誰かと協力するという事を知らなかったから、ずっとタカちゃんが協力してくれたんだよ。お前の部屋は元々タカちゃんが此処に来る時の部屋だったんだぜ?」
「また随分と懐かしい話を……。」
少女は少し気恥ずかしそうであったが、その瞳には過去を懐かしむ色も見えた。
「つまるところ、その代議士は此処を作る一つの要因になった人間ってことか。」
「要因ってのは変だが、タカちゃんが居ないと出来なかったって事だけは自信を持って言えるな。」
日野は俺の問いかけにそう答えると、遠くを見るような目をして、考え事に耽っているようであった。
「そうか。」
俺は一言だけ、そう答える事にした。癖と言うわけではないが、次の考えが思いつかない時にはよく適当な返事をしておいてから考える事が多かった。今度も、彼女らが今まで経験してきたであろう、様々の冒険譚を妄想していた。果たして、俺がつまらぬ計画を立てている間に彼女らはどのような策を立案し、実行してきたというのだろうか。
(しかし、正直俺にとってはどうでも良いことだ。)
ふと、携帯電話を取り出してみた。そういえば、一昨日から滅多に携帯を開いていない事に気付いた。急転直下の事態に携帯を開く暇も無かったからか、もしくは……。とにもかくにも、俺は何度も携帯電話を開いたり閉じたりすることを繰り返していた。
(何か、そういう雰囲気じゃないからだろうか。)
携帯をこうやって使うのが、余りにもこの場所にそぐわないから、使っていないというのもあるのかもしれなかった。ふと見ると、待受画面には「未読99件」と表示されていた。半分は取るに足らぬ迷惑な広告の類であったが、ちらほらと友人や、古くからの知り合い、同僚などからのものもあった。
『新聞で見ました』
『本当なの?』
『見たなら返事をくれ。』
『今からでも遅く無いから出頭しろ』
『お久しぶりです』
ざっと、そのような題名が並んでいた。俺は気になった物の中身を幾つか見ていた。多くは「本当に君がやったのか」と問うものや、「罪を認めて出頭するように」と説得するものであったが、ひとつだけ、……ただひとつだけ違うものがあったのである。「お久しぶりです」と題されたそれの送り主は懐かしすぎる名前であった。
「楠善一郎」という人間は、俺が陸軍でまだ新人であった頃からの友人である。彼は当時確か千葉地区憲兵隊所属で、入隊時期としては同期に近かった。しかし何より我々が親しかったのは、部署も任務地もまるっきり違ったからであった。つまり、彼とは仕事を超えた関係で付き合うことが出来たのである。当時は軍規が今よりも厳しく、技官であったとしても寮で勤務する事が命じられていた。俺は偶然その寮に空きがなかった為に東京にある予備寮に入る事になり、そこに楠もいたのだ。
「水上 中尉殿
お久しぶりです。このような事に至って再び連絡をする形になってしまったことを、残念に思います。
中尉殿もご存知かとは思いますが、我々憲兵隊では貴方を指名手配しております。しかし私は吉槻衆院議員の依頼の下に、給炭塔まで桑浦リヱ女史を送り届けるように申し付けられております。
吉槻氏からは、当分給炭塔付きでやって欲しいとの言伝が有りましたので、その点取り計らいをお願いしたく存じます。新名古屋八時五十六分発の新岐阜行高速で向かいますので、そちらへの到着は恐らく九時二十分前後になるかと思います。何卒宜しくお願い致します。
楠善一郎」
しばらく画面を眺めてから、俺はゆっくりと携帯を閉じた。まず、面倒な気分になった。憲兵で過去の友人である彼と今邂逅するというのは、手錠を掛けられ掛ける関係と、かつて仲良く歓談しあったという記憶の微妙なシーソーの上に立たされるという事に他ならない。しかし、暫くすると何処からか邂逅を歓待する気分が湧いてきた。それはつまり、過去の友人に会うという事への期待と、あわよくば憲兵隊の思惑を掬い取る事が出来るであろうという打算から来るものであった。
「お前、楠善一郎という男を知っているか。」
「ああ、」
それでも、俺は楠のことを信じられずに居た。少女に、彼の事を知っているかと聞いたのも、その不安から来るものであったに違いない。少女は、俺の口からその名前が出た事に少々驚いたようだった。
「憲兵隊の内通者だよ。協力してもらっている。」
彼に掛けていた疑いは一瞬にして氷解した。少女は続けて俺の周りを歩いて回りながら、
「何でまた彼の事を聞くんだい。」と言った。
後ろの方からその言葉が聞こえたのは、少女がいつのまにか右肩越しに俺の携帯電話を覗き込んでいたからであった。
「連絡があってね、君が今まさに見ているのがそれだよ。」
「なるほど、エスコート役は君の知り合いか。」
「彼とは軍の寮生活時代からの仲だ。」
少女は小ぶりな体躯に似合わない早々とした足取りでデスクに向かい、いくつか書類の束を取り出した。端々も揃わぬその紙の束は、新しいと思しきものから、端が擦り切れてうっすらとクリーム色を呈したものまで雑多の様相であった。
「我々も足元を掬われたくないのでね、彼の身辺調査をやったのだが、これらはその時の資料なのだよ。」
「なぜまたそれを?」
「調査中に十年以上前に興信所がやったのが出てきてね。君のことも書いてあるんじゃないかと思って。」
少女は少し意地悪そうな笑顔を浮かべながら、紙の山をごそごそと探していた。しかし、よくもここまで丹念に調べたものである。恐らく、彼女らも仕方なくやっていることだと分かる。しかし、俺の素性もこのようにして丸裸になっていると思うと、否応無しに憂鬱な気分にならざるを得なかった。
「にしても、楠くんが送ってくれるとなると、少しは気分も晴れるってもんだ。」
日野が突然そんな事を言った。
「ヤツはあれで男前だからなぁ。」
「そうじゃなくて、タカちゃんの部下の黒服に比べるとな……。」
「なんだ、そういうことか。」
そう俺が言うと、日野は軽く、ふふっと笑っていた。たまには女の子っぽい仕草もするものなのだと思った。それも当たり前のことである。何故なら彼女もまた紛れも無くうら若き十代の少女なのであった。
「お、面白いものがあったぞ。」
ずっと少女は紙の束の中から俺の過去を探ろうとしていたが、遂に見つけたらしく、数枚の写真を持って俺の目の前の机へとやってきた。
「君と楠くんが銀座を歩いている所の写真、という解説がしてある。」
机の上には、私服姿で銀座を闊歩する十年程前の俺達の姿がハッキリと写っていた。はたして何の用事だったのか、殆ど忘却してしまっている。思い出せる気もするのだが。
「『寮生が私服で外出する事は軍規違反である』だとさ。十年前の君はやんちゃだったのだな。」
「いや、当時は皆やってた事だよ。元々そんな条項なんて有名無実だろう。」
今思えば、軍部の腐敗は端々の軍人の意識にも露骨に表れていたのだろう。当時こそ、景気も良く、軍や政権に対する不満もなかったから何も考えていなかったが、今となってみればあの時の奔放な行動こそが、その後の腐敗と崩壊を示唆していたのだ。
「この写真のお前の顔、面白ェな。」
「勘弁してくれ。」
「半目でタコ口なのが最高にアホっぽい。」
「撮るタイミングの問題でしかなくて、俺には何の責任もないだろうに。」
少女は、写真が添付された報告資料を暫く眺めていたが、再び口を開いて
「銀座教会へ入った後にタツミ写真機店に入った、とあるがこれは何だ?」
と訊いた。急に記憶が鮮烈な幾つかの連鎖を以って俺の頭の中を飛び交い、まるでついこの間のことのような詳細な記憶として想起された。そうだった、この時俺は銀座で楠の用事に付き合っていたのである。彼は丁度証拠記録用の写真機を探していて、それを写真店に買いに行くところだったのだ。
「ああ、楠の買い物に付き合っていたんだよ。」
「銀座教会で買い物ができるか?」
「当時はできた。」
当時の銀座教会は様々な理由で建物の一部を商店に貸し出していたのである。そこに当時は舶来カメラ専門店が出店していた。今は別の場所に店舗を借りなおしていると聞くが。