4. 深夜談義
「お前は静かに寝れねェのかよ。」
そう言いながら日野が入ってきて俺が起きたのは大体深夜二時半くらいのことだったと思う。正確に時計を見たわけではないのだが、何となくそれぐらいだろうと思った。
「すまん、自分でも気付かないうちに寝返りをうってしまって。」
「まぁ、良いよ……。」
彼女はドアにもたれ掛かって、少し居心地悪そうにそう言った。その後暫く用も無いのに彼女はその場所で暫く部屋全体を興味深そうに見つめていた。
「これが男の部屋って奴か。」
「いや、俺は何も触ってない。」
そういうと、彼女は少し残念そうな顔をしていた。
「……聴いてたぞ、さっきの話。」
彼女から掛けられた言葉に、俺は何も反応を返すことはしなかった。同情の類の感情から掛けられるそういったような言葉を俺が嫌悪していたというのもあるが、なによりこれ以上弱みを掴まれたくないという気持ちもあったのである。
「……そうだな、昔話をしよう。」
彼女は俺が何も答えようという気がないのを察したのか、少し真剣な目をして、話をし始めた。寝るときに一つだけ点けておいたガスランプの光が彼女の顔に光と影の深い輪郭を落としている。
「端的に言うと、オレは帰る家が無いんだ。」
俺は、ベッドのヘッドボードに腰を持たれかけさせるようにして座りなおした。
「アメリカ移民法って知ってるか。」
「……確か一九六〇年代に制定された法律だったな。」
彼女は「あ、喋った」と呟いて、少し嬉しそうにしていた。
「オレの父親はアレで移り住んだ移民を管理する部局……というより実際は米国戦争で敗北したアメリカの占領事務局だったんだが……まぁ、その部局である在米国移民統治局の局長をしていたらしい。」
「君はアメリカ帰りだったのか。」
彼女は時折二本指で煙草を吸うような仕草をしてはそれに気付いて止めることを繰り返していた。俺は何だか彼女が不憫になったので「煙草、吸ってもいいぞ。」と声を掛けた。すると彼女は有り難そうに懐からラークの箱を取り出し、煙草を一本取った。
「当時、海外勤めの官僚ってのは勤める国に愛人を持つのが流行ってた。ってのも、日本に居ると締め付けがキツくて、色々うるさいだろう。でも、海外ならバレることもないし、やりたい放題やってたんだ。」
彼女は左手に、右手にと煙草を持ち替えて、勿体ぶる様に、愛でる様に煙草を触っていたが、ついに煙草をその瑞々しい唇の間に押し込むと、マッチで火をつけた。
「母さんも、その愛人の一人だった。いや、愛人にならなきゃ糊口を凌げなかったんだ。そして二人の間にオレは生まれて“しまった”。」
俺は彼女に「アメリカ帰り」等という言葉を使った事を後悔した。彼女は目を細めて、床に目線を落としていた。彼女の吐いた煙草の煙がランプの光を乱反射して鈍く光った気がした。
「当時のアメリカは最も酷い時で、街では避妊具すらろくに手に入らなかったらしい。父親はそれでも母さんと寝たんだよ。それで妊娠させてしまった。」
俺は彼女が出自を語るのを静かに聞いていた。こういう話をどこかで聴いたことがある。確か「官僚孤児」とかなんとか言ったと思う。少なくとも、こういう数々の日本人官僚が犯した不祥事はそんな無味乾燥な蔑称でまとめられ、忘れ去られていた。
「妊娠したと聞きつけた父親は母さんを捨てた。子育てどころか、養育費も何も払わなかった。」
彼女はそういうと、煙草を深く吸った。その後目を瞑って、肺に煙を焼付けていた。しばらくすると煙を目一杯吐いた。
「今もだが、当時のアメリカでは特に、仕事がほとんどなかった。不景気だったからね。……だから母さんは売春宿に身売りをするしかなかった。」
彼女が煙草を吸うと、そのまだ初々しさの残る顔の上に赤い光芒が浮かんでは消えた。
「しばらくはそうしながら母さんはオレと暮らしてたんだが。優しい人だったよ。でも母さんはオレが中学一年生の時、売春宿で性病をうつされてあっという間に衰弱して死んじゃった。残ったオレは何をして良いのか判らなかった。」
十三歳か十四歳の歳幾ばくも無い少女が、戦時賠償で経済破綻してボロボロになった国で、母を失って一人きりになるなど、俺の想像を遥かに絶することだった。彼女は余り進んで話したいという気分には見えなかったが、それでも続けた。
「色んなことをして金を稼ごうとしたよ。スリ、窃盗、麻薬の売人、運び屋、詐欺。数えればキリは無いけど、全部思ったように稼げるモンじゃなかった。でも、最後まで殺人と、母親を嬲り殺した売春宿の仕事をする勇気は無かった。そしたら、中三のころには一つとして仕事が無くなっちゃってね。今度こそ、売春宿に転がり込んでやろうかって思ってた。」
「それで、売春宿で働いたのか。」
そう俺が言うと彼女は大笑いして「いや、そんなわけない」と答えた。
「オレが売春?日本でも話になんないよ。応募したんだけどね、断られたんだ。『ウチにはもう売春婦が溢れるほど居るからお前みたいなオトコオンナは要らない』ってね。オレが男みたいな風体してたのもあるけど、結局の所、皆考えることは同じだったってことさ。」
売春宿というのは世界各国どこを見ても、働き口の無い女性の最後のセーフティーネットになっている。それが溢れかえっているというのは、本当に働く場所がないということである。しかし、特に、政府が配給をすることすらできないまでに困窮していた数年前のアメリカなら、これは有り得る事であった。
「それからは、どうしようか迷ったんだけどね。もしかして日本に行けば働き口も見つかるんじゃないかと思ったんだ。だから日本へ行く事にしたんだよ。」
「とはいうが、カネはどうしたんだ。」
俺がそう聞くと、彼女は「よく聞いてくれた」というような顔をした。
「貨物船の船室に紛れ込んだんだよ。上手い事ね。」
「そりゃ、随分良い方策だ。」
俺が言ったことを聞いて、彼女は昔を懐かしむように優しく笑った。
「まぁ、俺の発想じゃなく、とある日本人貿易商の入れ知恵なんだがな。」
「いずれにしろ、日本に来る手段はどうにかなったわけだ。」
「ああ、――」
そう語る彼女の眼は優しくも、とても力強いものだった。
「――だけど、日本に来ても働き口なんて全然見つからなくてさ。それこそ日本人街で育ったから日本語は話せたんだが、日本の国籍もないし、ツテとかそういうのもなかったわけで。」
彼女は短くなったタバコを灰皿に押し付けて揉み消しながらそんな風に言った。俺は、彼女が話しているのをただただ黙って聞いていた。
「だから、その貨物船が着いた港だった名古屋港の辺りでずっと乞食をしてたんだけどね、それをあの美少女様が拾い上げてくれたってわけ。」
そこまで聞いて、しばらく、この話にどう応えれば良いのか迷った。率直な感想を述べるべきか、はたまた何か気の効いた事を言うべきなのか。
しかし、俺に機転に富んだ事が言える筈も無かったというのもまた事実であった。俺はただ思ったことを述べるだけしか出来なかった。
「それは……何と言って良いのか判らないが、君はつらい人生を送ってきたんだな。」
それを聞いて彼女は優しい笑顔で首を横に振った。
「オレは幸せモノだよ。あんな優しい母さんと少しの間でも暮らせたし、なによりあの少女がオレを拾ってくれたからね。それに――」
俺は彼女の表情に懺悔の念が表れるのを見た。
「――こうやって彼女の下で色んな人の人生を狂わせているっていうのに、不平を垂れるなんて問題外だよ。」
彼女はとても寂しそうな顔をしていた。彼女らはテロ組織の構成員である前に、一人の乙女でもあった。乙女としての彼女は、その時に非道とも言えるような行為をどこかで許容できずに居るようだった。
一方の俺は、時に残酷で、時に可憐なその重ね合わせを未だに理解できずに居た。
「なぜ、君はここで少女を手伝っているんだ。」
「オレが思うに、それを聞くのは愚問だと思うんだがな。」
俺は彼女の本意を測りかねた。俺には少なくとも彼女らが自分の身を危険に晒し、暴力に訴える訳が判らなかった。
「じゃあ、なんでお前は陸軍省のビルを爆破したりしたんだ?」
彼女は俺にそう問うた。しかし、確かにそれは復讐のためだったかもしれないが、果たして俺をここまで何が駆り立てたのだろうか。
「それは……判らない。俺は復讐のためにコトを始めた筈なんだが。どうも、結局俺は何がしたかったのか判らない。だから後悔しているし、二度とあんな事はしたくない。」
「……お前はこの阿呆みたいな世界を変えたいとか、そういう事を思ったことはないのか。」
彼女がそう言ったその言葉を聞いて、俺は何か納得したような感情を覚えた。確かに、思い返してみれば、そのような考えを持ち始めた頃から話がどんどんと大きくなっていったように想起された。
「オレは馬鹿げたこの世界を変えたいからこうやって、やってるんだ。暴虐非道な政府を打倒し、自由で美しい、幸せな国を作りたいんだ。お前だってそうなんじゃ、ないのか。」
俺は彼女の言っていることを暫く聞いていたが、全くそれに同意することは出来なかった。俺には彼女の主張が至極幼稚な物にしか聞こえなかったのである。それは第一に、「自由で美しい幸せな国」などという子供だましの夢物語など有り得ないと俺が知っていたからだった。更には、彼女達のやっていることは、大義の為には多くの犠牲を払っても良いという事だったのだ。
「お前のいう、幸せな国ってのは、何なんだ。何故犠牲を払ってまでそれを求める。」
俺は彼女にそうやって聞いてみた。それを聞いた彼女は、胸を張って堂々と次のように言った。
「いまの此処じゃない、何か、だ。そして――」
その時、やっと彼女が言っている意味がわかったのだ。彼女が欲しているのは「変化」なのだと。彼女は世界を変えるつもりだと言ったが、それは世界を変えるという事ではなかったのだ。そこに何か具体的な目標があるわけではない。何のビジョンもない。ただ我武者羅に何か別の新たな道、世界、自分を探っているだけなのだ。
「――そのためには、どんな犠牲も厭わない。当たり前じゃないか。『そうなること』が重要なんだ。過程は過程に過ぎない。それが達成できるのなら、オレはこの肉体を捧げる事だってしても良いんだ。」
しかし、結局俺には何故彼女がこの「変化」に対して多くの犠牲を払い、代償を要求するのか、全く判らなかった。それは同時に俺自身に対する疑問でもあった。あの、陸軍省を爆破しようと考える、俺の変化を求める心を駆り立てた“何か”とは果たしてなんだったのか。あの日以来、ずっと暇さえあればそれを考え続けていた。しかし、この期に及んでもついぞ答えが出ることはない。
彼女は一通り話し終えると、もう一本煙草を箱から取り出して、静かに口に咥え、火をつけた。煙草を口から離し、煙を吹かす。すこし唇を舐める。
「言われてみれば、オレも何がなんだかわからなくなってきたよ。」
少女がぼそりと呟いた。
彼女の横顔にランプの光が当たって、その頬に刻まれた細やかな凹凸を浮き立たせた。普段は真っ白で傷一つないように見える彼女の肌には、小さな傷跡が幾つかあった。それは彼女が今まで生きてきたことを言われるまでもなく、示していたのである。
「なぜ煙草を吸うんだ。」
俺は不意に彼女にそう聞いてみた。
「何故だろう。考えてみた事もない。」
彼女はそういいながら、煙を吐き出して見せた。
「言えるのは、オレが中学生の頃にはこれをやるってのにロマンを感じたからかな。」
彼女は「まぁ、これくらいしかやることが無かったというのもある」と言って笑っていた。それを見て半分くらい彼女の気持が分かった様な気もしたし、全く分からなかったような気もした。