2. サイコ・デリケート・ガール
「名古屋で降りよう。」
突然少女はそんな事を言い出した。時刻は夕刻になり、列車が名古屋駅の手前にある熱田という駅を発車した直後だった。まぁ、どういう事かは判る。いくら乗客が事件と関わりたくないとはいえ、これだけ大々的にドンパチをやらかした後でバレない筈が無い。せめてターミナル駅で降りて、どこへ行ったか判りにくくした方が良いというのは明白な事だった。
「ああ。」
そうやって適当に答えた俺に、少女は怪訝な顔をした。いや、俺が適当な受け答えをしていることは彼女を家に上げてからずっと変わっていないのだが。
「いや、ボクもデリカシーの無いことをしたと思うよ。何しろ興奮していたから……。ボクだって、人を殺しておいて平静を保つことなんてできないんだ。」
彼女は小声で俺に告げた。それは俺が適当な対応をしていたからでも、ずっと座席に座ったまま生気なく動かなかったからでもない。時間と共に邪魔になったわだかまりを解こうとする、自然な行動だった。俺もこれ以上彼女との間に溝を作っておく訳にも行かなかったのだ。
「こちらこそ、自分を棚に上げて申し訳ない。」
俺がそうして謝ると、少女は複雑そうな顔をしていた。列車は名古屋に向かって最後の加速をしようとしている。男が撃たれ、倒れた場所には彼の学生服がそっと掛けられていて、その上に少女が供えた花の髪飾りが置かれていた。
車窓に目をやると、そこには巨大なビルが並んでいる。ここ名古屋は日本の工業生産を担う大工業都市であった。重工会社や自動車会社、電器会社などが此処に拠点を持っている。工業都市である名古屋は労働者の数も多く、その多くが近年の慢性的な不景気で失業している。その為、街の治安はすこぶる悪く、この名古屋を含む東海地方全体で殺人の発生件数は一日に百件を越えるといわれた。
要するに、この街は行政が殆ど機能していなかった。それは郊外に至って顕著になる。あまりの治安の悪さに陸軍の出動が要請されたこともある。一体、警察署には毎日何個の生卵と石と爆薬が投げ込まれる事か。だから、とくに中心街から少し離れた所では警察署が安全確保のために閉鎖されるという事案が相次いでいるというのは聞き及んでいる。つまり、隠れるにはうってつけという事だ。
列車は名古屋駅が近づくにつれてスピードを落としていく。ターミナル駅ということもあって、多くの乗客が立ち上がり、扉へ向けて並ぶ。俺達もその中に混じった。
「ここからメイギ電車に乗ってコウノミヤまで行くことにするよ。コウノミヤからでも20分ちょっと歩けば目的地には着くからね。」
少女は振り返って、少々の作り笑顔と共にそんな事を言った。判っていた。彼女は表面上は冷静な顔をしていたが、午前に起こったあの忌々しい出来事に憔悴しきっているように見えた。何か予測違いがあったのか、はたまた全く考えていないことだったのか。
列車がホームに停まると、溢れ出すように乗客がホームへ流れていく。客車からホームまではかなり段差があって、少女は降りるときに少々不自由そうにしていた。
「水上君、こっちこっち。」
「ああ、」
少女が手招きをしている方へと歩みを進める。駅は今までとうって変わって混み合っている。名古屋に来るのが初めての俺には右も左も判らなかった。
階段を降り、改札を抜けるとタイル張りの少々古風なコンコースに出る。そこもまた、多くの人に溢れていた。様々な人がいる。ビジネスマンらしき背広の男達、旅行に向かうであろう上流階級の家族、新聞紙を敷いた上に座り込んで列車の発車を待つ下層階級の家族。社長と思しき金のアクセサリーで身を固めたふくよかな男が居るかと思えば、横には薄汚れて破れかかった服を着た乞食が横たわっている。
「クレ……カネ、カネ、クレ、カネ……」
コンコースの端で機械か何かのようにそう呟いている乞食をしばらく見ていた。金の一銭くらいやっても良いのではないかと思ったのだが、そうすること自体が何か問題に目を瞑る行為そのものなのではないかと思えてきたので、よした。
「おい、水上君。こんなところで何をしているんだ。」
先に行っていたらしかった少女が戻ってきて、そう言った。
「ああ、すまない。すぐ行くよ。」
「まったく迷ったらどうするつもりなんだ。」
そんな小言をいう少女に、午前の殺人鬼の表情という物は微塵も感じられなかった。俺はそんな少女の様子に安心するというよりは恐怖に近い物を覚えた。もしかして、あの殺意が俺に向けられる時が来るのかもしれないと、臆病者のような考えを抱いてしまったのである。
「そこを右だ。」
広場のような場所を抜けて、ロータリーの所へでると右に曲がる。直ぐに「名岐鉄道・新名古屋駅」と書かれた看板が目に入った。
「あの看板か。」
「ああ、特急で一駅だよ。中々便利だろう?」
「そうだな……」
俺は少々呆れ気味に答えた。いくら便利だとしてもこの街に住みたくはないというのが実際のところである。駅に繋がる階段を降り、国府宮までの切符を買う。ホームは地下にあって、方向別に二本の線路になっていて、片方が岐阜、もう一方は犬山へ向かう。
「お、ちょうど良かった。あの列車に乗ろう。」
少女が指差す先には、マルーンとチョコレート色の上品な電車が停まっていた。乗り込むと車内は暖房が効いていて暖かいというより暑い。
「ちょっと車内が暑いな。」
流石に冬用にしつらえた背広では暑すぎる等と自分勝手な事を独りごちながら俺はシートに腰掛けた。すると少女はすこし着物の袖を広げて見せて、
「こういう時こそ古来日本人が培ってきた知恵を借りるという物だよ。着物ならば暑い時は涼しく、寒いときは暖かい。」
と言う。確かに、日本の気候に合わせて作られた着物や浴衣、作務衣などを着た方が日本で暮らすには合理的なのだろう。
俺はしばらく彼女のその着物を見ていた。改めてみるとこれは不思議な布地でつくられていた。この着物は黒を基調としているが、その布地は見る角度によって妖艶な紫色を発色した。その上から極彩色の花や蝶などが描かれている。普通なら派手派手しい程の柄であるはずだが、この着物はそういった嫌悪感を全く感じさせることをしなかった。
「そんなに見られると恥ずかしいだろう。」
少女が恥ずかしげにそう言ったので、流石に行儀が悪かったと自戒した。車内にはあまり乗客が居ない。モータリゼーションの並はここ名古屋にも例外なく押し寄せているようであった。
電車は結局、乗客を半分も乗せぬうちに発車した。長い地下トンネルを抜けると、夕景の摩天楼の下に飛び出す。進行方向の反対側、笹島という地区の周辺はゴシック・リヴァイヴァル様式の高層ビルが立ち並ぶことで知られている。この摩天楼は名古屋を象徴する光景として時折テレビにその姿を見ることが出来た。
「この辺りはサコウ地区と言って、巨大な紡織工場や……あの煙突の所には有武チャイナが本拠地を構えているんだよ。」
「アリタケというと、あの陶器会社か……。」
過ぎ去り行く景色を指差しつつ、少女が言う。確かに、遠くに赤レンガの工場が見え、そこからは六本の巨大な煙突が聳え立っていた。その煙突群から漏れ出す薄紫色の煙を目で追いながら、ふと少女に話しかけた。
「君は何者なんだ。」
「……戦争孤児、とでも言おうか。いや、これは正確ではないのだが。」
少女は静かに口を開いた。列車はカーブに差し掛かり、大きく車体を揺らす。それとともに、夕刻の傾ききった日の成す影も方向を変えていく。ふと少女のほうを見ると、彼女の目はどこか遠くを見ているようだった。
「戦争、ねぇ……。」
俺はそう呟いた。この半世紀、日本に関わる戦争が一度たりとも起こっていない事は誰もが良く知っていることである。戦争孤児など起こりうるはずがないのだ。
「水上君、これは例え話だよ。ボクたちは常に戦いに備えている。今この場所も戦争状態にあるといって良いんじゃないか。」
俺は彼女の真意をはかりかねた。日本は平和の中にあって、我々はその平和を享受していると、俺は常に思っていた。それを急に「今も戦争状態にある」なんて表現するという事が俺にはよく分からなかった。
「戦争してるかしてないかなんて、しょせんは人間が決めてるってことだよ。」
先程まで鮮烈なオレンジ色だった空の色は時間を経るごとに紫色を帯びていった。その光は柔らかな影を作り出し、こちらを振り向いた少女の顔に神秘的なコントラストを上書きしていた。
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あれから電車に揺られつつ、昨日と今日で起こったことについて色々考えた。しかし、何一つとして結論は出なかった。
例えば、あの男のことである。中部帝国大学の工学部自治会というのには聞き覚えがあった。行動派の左翼が帝大を根城としているという話は陸軍内でも懸案になっている事だったが、そのリストの中にこの団体の名を見た記憶はあった。しかし、何故彼女が狙われる必要が有ったのか。いや、確かに彼女はあの男に酷い仕打ちをしたし、ああいう性格では恨みを買われるのも判る。だとしても、俺を助けるという事は余り政府に良い思いを抱いていない筈である。同じ“左側”なら何故殺し合うのか。
『まもなく、国府宮、国府宮です。お出口は左側です――』
少女は俺にもたれ掛かって眠っている。外はすっかり暗くなっていた。
「おい、国府宮だぞ。」
彼女の肩を軽く叩いて知らせる。こうやって触れてみると、改めて彼女の体の華奢さに驚かされる。強く触れると壊れてしまいそうなほどに繊細で、精妙なものに見えた。
「ん……あ……ああ、降りねばな。」
彼女は眠そうな目を擦ってから、気合を入れるように勢いよく立ち上がり、ドアへと向かって歩いていった。俺もまた、それに続く。
ドアが開くと、夜の冷たい空気に肌が触れ、つめたい。ホームは薄暗く、青白い色に照らし出されている。幾人かの乗客が降りたが、その他には誰も降りない。
俺達はホームの端、踏み切りのある所まで歩いていった。
「ちょっと歩くことになるが、我慢してくれ。」
少女が歩いている。
出口できっぷを老年の駅員に渡し、改札外に出る。辺りは殆ど静まり返っていた。時折少女が「こっち、こっち」と誘導してくれるのを聞き流しながら、俺は夢遊する様に歩いていた。
あたりの商店は間口を仕切って無理やり二つの店が入るようにしているものもある。適当に立てたバラック建築もあった。それは東のほうへ進んでいくにつれて顕著になる。
「ちょっと前までここら辺はもっと普通だったんだが、失業者が操車場跡を占有し始めてからは段々こっちにもバラックが建つようになってね。」
少女が少し寂しそうに呟いた。傘付きの白熱球が街角を照らしている。立ち並ぶバラックの中からは団欒の音か、テレビジョンの音か、もしくは酒に酔って半狂乱の親父の音が漏れ聞こえてきた。
「ここら辺のバラックに住んでいる人たちは、好きで此処に住んでるんじゃない。誰もが家族を持ち、それぞれに生活を持っているんだ。」
少女が立ち止まって、こちらへ振り向いた。
「ボクだって、好きでこんな事してるわけじゃないんだ。キミだってそうだろう?」
優しくも悲しげな笑顔でそう言った彼女の顔は温かなオレンジ色で美しく彩られていた。俺は一言だけ、
「ああ。」
と応えた。彼女はすこし口角を緩ませ、そして前へ向き直った。再び俺達は歩き出す。道端には無数のゴミ、行き倒れた浮浪者の男、ゴミ箱を荒らすネズミ……。この街は文明社会という物からまったく爪弾きにされている。
しばらく進むと省線電車の踏切がある。その向こうに荒々しいバラックが寄りかかるようにして立ち並ぶ一区画が見えてきた。踏み切りを渡りつつ、少女がこの付近の沿革について語り始めた。
「この辺りはね、かつて稲沢貨物駅と言って、日本の物流を支えた拠点だったんだよ。それがちょっと前に廃止されたんだけど、その空き地に整地もしないうちに浮浪者が居ついちゃってね。」
この辺りのバラックは今まで見た数々のものにも増して雑な建築であった。木材で適当な枠組みを作ってあとはトタンの波板を貼り付けただけといった有様である。道も全く舗装されておらず、歩くたびに土煙が立って埃っぽい。
見ると、道端に中学校にも進学しないような歳幾ばくも無い少女が行き倒れている。ここはさながらこの世界の苦しみをすべて掻き寄せたような場所であった。
「あの巨大なガントリークレーンの下にボクらは住んでる。キミの新たな住まいだ。」
見ると、暗闇にうっすらと鉄骨をトラス状に組み合わせた無骨な構造物が見えている。あれが「ガントリークレーン」というものなのだろう。
路地を掻き分け掻き分け進んでいくと、三階建くらいの高さはあるだろう巨大な構造物が目に止まった。これまた鉄骨を組み合わせて作られており、その外郭にスレート製の波板が貼り付けてある。所々には適当なユニットサッシの窓が据え付けてあった。
まるで軍事要塞か製鉄所かといった印象を受けるこの建物は、二つの部分に分かれていて、その間をありきたりなバラックが連絡しているのが見えた。もしかして、これが少女の言っていた住まいなのだろうか。
「これは何なんだ。」
俺はこの異常な建築に驚嘆しつつ、彼女に問うた。
「これがボクらの住まい、『給炭塔』だよ。」
「キュウタントウ」という聞きなれない言葉に首を傾げつつも、少女に言われるがままに二つの構造物を繋いでいるバラックの所まで敷地をなぞる様に進んでいく。少女がそのバラックに付いているドアに手を掛けた。
「ようこそ、『給炭塔』へ。」
扉が開かれた。
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