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1. 角帽、高下駄、黒マント

**

 俺は今、かの美少女と共に東海道線の下り電車に乗っている。ボックスシートに向かい合わせで座り、どこかへ行こうとしている。あの後、急いで背広に着替えて家を出た。彼女曰く、後で乗り越し精算すれば良いということだったから、切符は初乗り運賃分だけ買った。俺達は大阪行き普通をホームの端でやり過ごし、沼津行きに乗り込んだ。どこかで別の線に乗り換えるのかと聞くと、彼女は静かに首を横に振った。ともすればいったい何処へ行くのだろうか。


 ガタガタと音を立てて海岸沿いをうねる様に電車は進んでいる。沼津付近までは省線電車の走る区間だが、そこから先は列車区間で乗り換えなければいけない。


 電車が駅に止まると、ドアが開いて新鮮な空気が入ってくる。逆に言うと入ってくるのは新鮮な空気だけだ。急速に進むモータリゼーションによっていわゆるインターアーバン路線には閑古鳥が鳴いている。鉄道省が運営しているので、廃止されるリスクが低いというのはもっともな話だが、車内の乗客数は到底八両編成の電車にお似合いとは思えない有様だった。


 少女が突然俺の膝を彼女の膝で小突いた。見ると窓の外を幾度となく指差している。陽に照らされた彼女の顔には躍るような笑顔が浮かんでいた。それはまるで初めて遠出をした娘子のように初々しかった。


「水上君、この駅のホームには猿が出るそうだよ。」


 ふと見ると駅のホームに「猿出没注意」なる看板が掲げてあった。この辺りで猿が出ることはごく自然なので、俺は特に何とも思わないものだった。


「そうだな。」


 俺がそうやって生返事をすると、少女はいかにも嫌そうな顔をして、窓の外に目をやった。扉が閉まる音がする。少し前後に車体を揺らし、金属の軋む音を出しながら電車は再び発車した。


「何だ、つれないなぁ……。」


 少女はステンレス製の窓枠を指でなぞりながら、つぶやいた。その後、また窓の外に視線をやって嬉しそうに車窓を眺めている。電車は徐々にスピードを上げていく。幾度もトンネルを抜け、うねるようなカーブを進む。窓の外は山かと思えば海になり、するとトンネルの深い闇に包まれ、かと思えば轟音を立てて川の上を渡った。今までも幾度か通った場所だった筈なのだが、今の俺には全く新しい場所のように思えた。


 しばらく経つと、左手、隣のボックスシート越しに幾手にも立ち上る白煙に包まれた町が見えてきた。熱海である。煤けた鉄筋コンクリートの建物が眼下一杯、坂の町に立ち並んでいる。


「水上君、降りるよ。」


 少女は澄ました声でそう言うとゆっくり席を立った。俺も彼女の後についてドア前へと移動する。


 電車の外では駅員が「アタミーアタミーアタミー」と駅名を連呼していた。電車はガタつきながら減速し、停車した。ドアが開くと、入り込んでくる乾いた冬風に逆らって俺たちはホームに出た。


 この時間帯の熱海駅はその広大な構内に似つかわしくなく閑散としている。遠方から来た湯治客も居なければ、それを迎える駅弁売りや、荷物持ちも居ない。先程まで乗っていた電車が発車すると、コートを着込んだ駅員も一通り安全確認を終えて駅務室へと消えた。十数両の車両が停まれるような広大なプラットホームに、俺と少女の二人が残された。


「時に、キミは何故ボクの名前を聞かない。」


 ふいに『少女』が呟いた。そういえば、俺はこの少女が誰であるかも知らずに此処までついて来た訳だ。というより、俺は昨日犯した罪の事すらも忘れ去っていた。

 俺はどういう名前なんだ、と聞こうとした。が、少女の方が先にもう一度口を開いた。


「まぁ、ボクの名前を聞かれても、答えないけどね。」


 轟々たる音を立てて隣の高架線を新幹線が通過した。それと同調するかのように遠くの山の木々が一面に波打つ。枯れた木の葉が舞い上がるのが見えた。


「答えられないのなら聞かない。」


 俺は簡潔にそう答えた。少女は怪訝な顔をした。彼女との間には再び沈黙のときが流れる。その間も、冬の風は絶えず俺たちに向かって吹き付けた。

 寒さを我慢出来なくなったのか、少女が手を擦り合わせて足踏みをした。俺も寒さに耐えかねて思わずポケットに手を突っ込み、腰を屈めてしまった。


「何故ホームから移動しないんだ。」


 俺は再び口を開いた。彼女は寒さを我慢するように腕組みをしていたが、ふと此方を向くとニヤリと笑って答えた。


「良い質問だね。此処で乗り換えるんだよ。」

「前に乗り換えないと言ったのにか。」


 俺の返答を聞いても彼女は依然としてニヤついていた。大人びていて、とても嫌味な表情だ。彼女はその腕組みを片方だけ解いて、こちらを威圧するように指差した。


「キミはボンクラだなぁ。ボクは『別の線には乗り換えない』という事には頷いたが、いつ『別の列車に乗らない』と言っただろうね。」


 そういうことか、と納得してしまった。しかし良くもそんなに細かい事を気にするものだ。

 俺が目立った反応をしないのを見て、彼女はからかうのが馬鹿らしくなったようで、ニヤけ顔を止めて普段の表情に戻った。


「この後の普通大阪行きに乗る。ボクたちはイナザワという駅で降りる。」


 彼女は少し声の調子を抑えて言った。

 向かい側の線路を赤とベージュの塗装に包まれた特急列車が通過していく。「つばめ」と書かれたヘッドマークの“フチガネ”に陽の光が反射して輝いた。


「何でまたこんなまどろっこしい乗り方をするんだ。」


 俺がそう質問をすると、彼女は此方を向いて不思議そうな顔をした。


「まどろっこしい乗り方とは何だい。」


「それは、初乗りで切符を買ってわざわざ車内で乗り越し精算するとか、最初から大阪行普通に乗ればいいのに沼津行きに乗った事とかだ。」


 俺がそう言って答えると、彼女は奇異な物でも見るかのような顔をした。彼女は心底俺の事を馬鹿にしているようだ。それから、彼女は笑いそうになるのを必死で抑えながら口を掌で塞ぎ、これまた吹き出しそうな声で答えた。


「それは……もう、キミはそんな事も判らないのか。アレらの目を惑わすために決まっているだろう。」


 “アレら”というのは憲兵隊の事だろうと察しが付く。つまるところ、彼女は追ってくるだろう憲兵隊の目を欺くために、同じ東海道線上を移動するにしても敢えて行先や列車を明確にしないようにしたという事だ。


「欺瞞工作か。」

「そうだ。奴らはそんなに早くボクたちの足取りを掴めないだろうとボクは踏んでいる。恐らく今頃やっとキミの家に着いたくらいだろう。つまり、ここで乗った列車と行先をはぐらかしてしまえば追われる心配はなくなると言う事だ。」


 少女はそう言って得意気な顔をして見せた。しかし、ワザワザ大阪行き普通を一本乗り過ごしてまで欺瞞行動をしようとするのはリスクが大きすぎるのではないか。


「普通なら早い列車に乗ると思うのだが。」


「急がば回れ、慌てる乞食はもらいが少ない、急いては事を仕損じる、狭い日本そんなに急いでどこへ行く・・・おっと最後は違うが・・・故事にもそういう言葉があるだろう。」


 彼女は回りくどく話したが、つまり彼女が冷静に考えて導き出した最もリスクに見合ったリターンが見込める方策がこれであったという事だろう。


 遠くに甲高い警笛が聞こえた。駅員がプラットホームに出てきて放送用のマイクを取るのが見える。


『まもなく普通大阪行きが参ります。大阪行きが参ります。列車は十二両で五号車が二等車、前三両浜松で切り離し――』


 プラットホームにゴロゴロと全て茶色の列車が入ってくる。新しそうな客車から古そうなものまで雑多に連結されている。

 少女はその編成に目を凝らして一つの車両を見つけ、指差した。


「あの小さい窓がぎっしり並んだ車両、あれに乗るぞ。急いで移動しよう。」


 少女は後ろのほうに繋がれているその車両の方に向かって早足で歩き出した。列車が減速して停まるまでにその車両の所までたどり着けそうもない。


「車内を移動すればいいじゃないか。」


 そう俺が聞くと、少女は乱暴に「目立つ」とだけ答えた。なおも早足、というより殆ど駆け足で俺たちは後ろから三番目の車両に発車寸前飛び乗った。


「ふぅ、意外と何とかなるものだな。」


 彼女は上がる息を抑えつつ、そう呟いた。ガシャンという金属音と共に列車は発車した。扉の外にあったプラットホームが後ろへと流れ去っていく。デッキから車内に移動すると、六、七割の座席は埋まっていたが、空いている席も散見できた。


 俺たちはひとまず、手近な座席に並んで腰掛けた。少女は椅子にどっさりと座り込んで深い溜息を付いた。


「この車両なら『向かいの席の客』は居ないだろうとボクは思ってね。」


 言われて見れば、車内の座席は全て同じ方向を向いていた。確かに、向かいの座席の人間が逃げる犯人の足が着く原因になることはままあるだろう。少女の方を見ると、肘掛けにもたれかかって、指をその桜色の唇に当てていた。


「これで落ち着いた。ボクは寝るから、イナザワに着いたら教えてくれ。」


 彼女は気だるそうにそう言って、目をつむった。そもそも「イナザワ」とかいう駅が何処にあるのかすら俺は知らなかった。そこで、俺は何時間ぶりかに自らの携帯電話を取り出してポチポチと彼女が言っていた駅名を検索窓に入力した。


(稲沢というのは名古屋の向こうか……。)


 そう一人で小さく呟き、携帯を閉じると腰の位置をずらして姿勢を楽にしてみる。恐らく着くのは夕方ごろになるだろう。腕組みをして天井に目をやる。こちらの列車はインターアーバンの電車と違って、随分古臭い。作ってから40年か50年は経っているだろう。丸いカバーをされた白熱球が優しい光を灯している。


 目を瞑って考える。俺が犯した罪の重さについて。つまるところ、俺は一昨日、東京は市ヶ谷にある陸軍省のビルディングに爆弾を仕掛けて爆破した。結果、陸軍省の50階建てのビルは倒壊。世にも恐ろしいテロリストに仲間入りを果たしてしまったのである。


 俺はそもそも陸軍の腐りきった高官共を殺す事ができればそれで満足であった。しかし、人間というのは不思議な物である。いつのまにか憎しみはエスカレートして、奴らを陸軍のビルごと吹き飛ばしてやろうという気になった。その瞬間から、俺は「革命家」ではなく「テロリスト」になったのだ。加えて、終わってみれば要人達は俺の計画を察知してビルの外に逃げ出したので無事だったという有様である。死んだのは数百人もの罪もない事務方の官僚であった。これでは快楽殺人鬼が良い所である。もっとも、隣で呑気に寝ている少女は家に上がりこんだ直後に大量の官僚を殺したことを手放しで賞賛してみせたのだが。


(なぜ俺はあそこで決意して死ぬ事をせず、生き延びてしまったんだ。)


 俺は先程より更に小さい声で呟いた。目を再び開く。一瞬視界がホワイトアウトして、徐々に青い海と空に照り出される古びた車内の映像を網膜へと写す。暫く乗客を眩しい日光の下に晒した後、列車はゆっくりとトンネルに入っていく。


 列車が弾き飛ばした風がトンネルの壁面に当たって跳ね返り、窓を揺らす。ガラガラ、ガラガラと窓が一斉に音を立て始めた。そして同時に白熱灯の暖かい灯りに車内が包まれる。読み物をするには少々暗すぎるので、乗客達は新聞や小説から目を離して暫くぼうっと何処かを眺めている。


 トンネル内の蛍光管が周期的に車内を青白色の世界に変える。燈色と青白色が入り混じる幻想的な世界。列車はユサユサと揺れながら暗闇を突き進む。


 しばらくするとガラスの音も、光の周期も、ピタリと止んだ。列車はトンネルの外へ飛び出し、眩しい陽の光が再び車内を照らし出す。ふと脇の眠りこけた少女に目をやると、優しげなひだまりに包まれて、気持ち良さそうな顔をしていた。


 この列車内ではすべてがゆっくり進んでいる。列車の走る速度は勿論だが、乗客の動作も、流れる時も、移ろい行く光と影さえも悠々たる様相であった。俺もまた、その雰囲気に包まれ、気持ちよくうつろうつろとしていた。


 とある乗客が俺の横で立ち止まった。一体何の用だろうかと思ったが、余り気に掛けることをしなかった。



 突然、俺の右コメカミに冷たい金属の塊が触れるまでは。



 恐る恐る俺は右に視線を向ける……。長身の男だ。黒いマントに身を包み、高下駄を履き、角帽をしている。いわゆるバンカラといって、学生の間で好まれる社会の流行に反するようなファッションである。かつて旧制高校生や、大学生の間で流行したものだが、今も伝統的に多くの大学生がこのファッションを好んでいる。まさに今、この大学生に俺は銃を突きつけられている。


「お兄さん、その座席をどいてくれませんかね。」


 男は微笑を浮かべながら、低く野太いが、しかし知的な声でそう言った。彼は俺の頬を銃で小突いて見せた。車内の乗客達もコトに気付き、静まり返っている。


「何の用だ。学校はまだ授業日だろう。」


 男はゆっくりと一、二歩こちらに向けて歩んだ。そして俺に向けていた銃口を天井に向けて、これまた奇妙な微笑を浮かべている。


「アナタの隣に座って居る女性を殺しにきたのです。どいてください。」


 言い終わると今度は少女に銃口を突きつけた。辺りの乗客が悲鳴を上げる。撃鉄をゆっくりと引き上げながら、彼は唇を舐めるような動作をした。少女はそんなことに全く気付いていないのか、気持ち良さそうに眠っている。


 急に、少女を護らねばならないという義務感が俺の感情を支配した。今正にここで殺人が行われようとしている。国民を護る一人の兵卒として、命を賭しても彼女を助けねばならない。そう思った。


「断る。」


 そう俺は叫んで銃を握る腕を掴み、天井へと銃口を向けさせた。天井に向かって銃弾が発砲され、電燈が割れた。ガラス片が辺りに降り注ぐ。


「お前、何を……!この野郎!」


 次の瞬間、俺は彼に腹を思い切り殴られていた。痛い。鈍痛が腹部に走る。思うように息ができない。俺は軍人とはいえ殆ど技官であって、この巨漢に勝つ術など持ち合わせていなかった。男はまた目一杯にその拳を振りかぶった。今度は顔を殴られ、シートに激しく腰を打ちつけた。これはもう激痛と言うほかなかった。視界が白くなって何も考えられない。


「早くどかないと纏めて殺すことになるぞ。」


 男の口調は幾分も乱暴に変わっていた。一方、俺の足元は早くもふらついている。しかし、なんとか少女の前に立ちはだかることができた。俺は懐に仕舞っていた拳銃を取り出し、撃鉄を引いて震える両手で構えた。男の後ろに居た乗客が急いで逃げ出すのが見える。


 俺はこんなに至近距離で銃を構えられたり、構えたりすることはなかった。とても怖い。あれだけの人間を殺して一日で言うのは本当に滑稽かもしれないが、あの時はビルを壊すか壊さないかという事だけだった。しかし、今は銃を握る俺の手に一人の命が懸かっているということを否応無しに認識されられた。俺の腕は小刻みに震えていた。


「彼女を殺すなら……、先に俺を殺してからにしろ。」


 俺は薄れ混乱する意識の中で、そう言った。そう言った気がする。その言葉に、男は納得したような顔をして、それから凶悪な笑みを浮かべた。


「ああ、お前も仲間だったのか。御国に仇なす売国奴めが。纏めて殺してやる。」


 男は冷酷な声でそう告げると、再び撃鉄を引いた。俺はわけも分からぬまま、死ぬことになるのであろうか。そもそも彼は誰なのだろうか。なぜ、少女を殺そうとするのか。


 突然、男が突然仰向けに倒れ、後ろの肘掛けにその身体を枝垂れかけた。3発の破裂音を俺は聴いた。見ると、俺のわきの下から自動式拳銃の銃口がその姿を覗かせていた。


「銃は不意に撃つ物だよ。水上君……。」


 発砲音を至近距離で聴いたせいで、何を言っているのかは良く分からなかったが、恐らくこんな事を少女は言ったと思う。振り向くと彼女が不敵な笑みを浮かべて銃を構えていた。辺りにはツンとするような焦げ臭い芳香が漂っている。


 冗談なのだろうか、この女は構うことなくこの男を殺したのだ。そして今、彼女は男の身ぐるみを探っているところだった。制帽、学章、財布、名刺入れ、ティッシュ、ハンカチ・・・一度それらを全て椅子の上に乱暴に投げおいた。財布は身分証明になりそうな物だけを全て抜き取る。ティッシュやハンカチは一通り確認した後、懐に戻された。少女は制帽と学章、名刺を俺に見せて、言った。


「この角帽は帝大のものだ。見てみろ、この学章は中部帝大のもので、この名刺は工学部自治会のモノじゃないか。こりゃ傑作だ。」


 その顔はその死んだ男を踏み躙り、嘲笑うかのように、狂い歪んでいた。彼女は一通り作業を終えると、残る持ち物を死体のズボンのポケットに放り込み、血で汚れた一脚分の座席に彼の学生服を掛けて隠した。


「そういえば、キミのその銃、ホーク・アイじゃないか。中々良い趣味をしているな。しかし、一体その細い腕で扱えるのか?」


 彼女は周辺に飛び散った血痕を拭き取りながら尋ねた。しかし、俺は答えることをしなかった。彼女の馬鹿にしたような態度に腹が立ったというのもあったが、何より今は答えたい気分ではなかった。


「一発しか装填できない銃というのもまた一興だな。」


 彼女はそう言いつつ、座席に引っ掛かった“三発もの銃弾を浴びて死んだ男”を乱暴に通路へと引き摺り下ろした。付近の乗客から短い悲鳴が上がった。男は苦悶の表情の中、絶命していた。彼女は足元に転がる死体に目を向けて、その冷酷な口を開いた。


「もう直ぐ橋梁だ。おい、コイツを外へ放り出すぞ。」


 彼女はこちらを見て、足下の死体を指差している。言いたいことは大体わかる。


「それは俺に手伝えというのか。」


 俺はいらだちながら、そう答えた。それを聞いた彼女は露骨に嫌な顔をしてみせた。俺には死人を更に走っている列車から外に投げ捨てるなどという行為は理解できなかったが、彼女にとっては俺の考えが理解できないらしかった。


「キミは協力しないというんだな。……この薄汚い死体を車内に残せというんだな。」


 彼女は、足下にその身体を横たえている男の死体を幾度も蹴りながら、そう吐き捨てた。次第に自分の怒りを抑えることが出来なくなっていった。あのような事をしておいて、まだ俺の中には小さな義侠心が残っていたらしいのである。


「何故君はそういうことをする。何故人を簡単に殺せる。何故人を簡単に踏みにじることが出来る。何故……!」


 俺の言葉に、彼女はかなりイラついたような表情を見せた。


「今の世界は自己責任で成り立っている!自分で自分の身を護らないなら後は死ぬしかない!コイツに殺されるのと、自分が殺すのではどちらが良いと思っているんだ!それに命を踏み躙り、毀損したのは――」


 彼女は特に大きな声で、そう叫んだ。そして、続いて吐き捨てるように次の言葉を発したのである。


「キミだって、同じじゃないのか。」


 知ってはいた。理解はしていたのだ。しかし、実際に言われると、本当に辛いものである。それは当たり前のことだった。俺にあんな事を言う資格など微塵もなかったのである。俺は脱力して座席に力なく座り込んだ。後ろの乗客が気付けにとスキットルに入ったブランデーを勧めてくれたが、俺は断った。


 彼女は男の身体をずるずると一人で重そうに引き摺って、ドアの所まで持って行こうとしていた。最初は一人だったが、状況を察した乗客が加勢し、最後はどこかの川の橋梁から、男の遺体を投げ捨てたのであった。


 その後、車掌に言ったり、警察に通報しようと言い出す者は誰も居なかった。何故なら、乗客達はこの件について関わりたくなかったからだ。この国では毎日のようにこういう殺人が起きている。通報すれば、今度は自分の所にお鉢が回ってくるのかもしれないのだった。だから、誰一人としてこの事に触れず、列車は幾度も乗客を入れ替えながら西へと進んだ。


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