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プロローグ2・とある男

 あの事件があってから、俺はずっと家に居た。あれから俺がずっと後悔をしていた事は間違いなかった。計画した時には自分でも素晴らしいことだと思った。しかし、終わってみれば殆ど無関係な人々の命を数百人も奪っただけである。今朝の新聞もずっとその事件ばかり伝えているが、そんな事は俺にはどうでも良い。少なくとも、陸軍省の建物をスクラップにした所で我々の生活に何ら明るい光は射さなかったから、この件は失敗である。


 ストーブに掛けてあったヤカンが高い音を鳴らした。所々へこんで錆が出た茶筒から茶葉を少し取り出す。割れ目を継いだ跡のあるボロけた急須に茶葉を放り込んで、それからヤカンの湯をそこに注いだ。


 普段は日本茶を飲む趣味ではない。だが、今日はこうやって日本茶を飲みたい気分だった。多分自分が日本人でないような気がしているからだろう。色々と政府に文句を垂れて刃向かってはいるが、俺はこの国に生まれたというアイデンティティを許容し、受容している。こんな時には「日本人らしい」生活をしたくなるものである。しかし、それは気休めに過ぎない。俺は後世にかけてずっと社会から糾弾され、「売国奴」だと口々に噂されるだろう。昨日を以って「日本人たる俺」は死んだのだ。


 俺はすっかり忘れていた急須の茶を湯呑に注ぐと、既に渋くなっていた。そもそも茶葉が悪いのだろうか。とにかくまずい茶が出来上がった。俺は相当渋い顔をしながら、「日本人たる俺」を飲み干した。


 湯呑の底に残った茶葉の滓を眺めつつ、考える。もしかすると既に憲兵隊が出動し、俺の事を探しているかも知れない。今に我が家に到着して門戸を叩き、同行を求めるだろう。いや、この場で俺は殺されるのかも知れない。そうならば、果たして俺はどうするべきであろうか。ふと、祖父から任官祝いに贈られた短刀がある事を思い出した。ろくに手入れもしないので前に取り出したときには錆付いていたが、それでも自害するには十分だろう。


 その短刀を探すため、改めて辺りを眺めてみる。部屋の中は乱雑を極めていた。至る所に物が散乱し、様々な物がぶちまけられているのだ。昨日までは、もう少し整頓された部屋だったと思う。というのも、俺は昨日帰ってからこの部屋の中にあるあらかたのものに当り散らし、投げ飛ばし、壊してしまったからである。


 昨日はあの現場から逃げた後、いつもの通りに地下鉄を乗り継ぎ、東海道線に乗った。何時ものように二宮では降りるということはせず、小田原まで出て、適当な居酒屋に入って酒を飲んだ。沢山飲んだ。恐らく過去に無いほどだったと思う。ああいった事に手を染めたという自覚からか精神に混乱を来たしていたのだろうか、飲みすぎた。帰宅するまでの記憶が殆ど無い。財布の中を見た感じでは終電前に切り上げて帰ったのだろうか。


 帰ってからは家の中にある物という物に当り散らした。家族のアルバムも、蒐集していた戦車の模型も、本棚にあった文庫本の数々も、食器や食品類も、総て壁にむかって投げつけた。それは自らのアイデンティティに対する破壊行為といってよかった。普段、俺は自分が何者か問われれば「日本人で陸軍の軍人をしている」と答えるだろう。私は昨日、その二つのアイデンティティを破壊し、毀損した。だから、自宅にある「アイデンティティのモニュメント」を無差別に破壊するのは、あのテロ行為から導かれる当然の帰結だった。その後俺は狂ったように床を這いずり回り、獣のように叫び声を上げ、涙を流した。


 面倒になったので、短刀を探すのは後回しにした。物が散乱する床に寝転がってみる。大の字に広げた腕の先に新聞紙が当たった。先程まで読んでいた今朝の朝刊だった。無論、一面は昨日の陸軍省爆破テロについての記事で埋め尽くされていた。紙面には様々な情報が書きたてられていたが、どれも俺を十分落胆させるに足る物だった。こういう事をして始めて理解するというのも本当にお粗末だが、陸軍省を爆破した所で、この国の閉塞感や腐敗が取り払われるという事は全く無かった。紙面に書いてあったのは事件の残虐性と、省内に居た芸能人が巻き込まれて死亡したこと、大臣や高官等は皆「偶々」外出しており無事だったこと――要するに事務方の官僚のみが犠牲になったという事だった。


 それが端的に何を表しているかといえば、誰かが省内に爆弾を仕掛けたという事は既に知られていたらしいという事だ。俺は大臣や高官が何があっても在省である「夕礼」の時間を狙ってこの行動を行った。夕礼の時間に大臣や高官が誰も居ない事は、有り得ない。つまるところ、このテロが起こるらしい事を知って、彼らは避難したのだろうと容易に想像できた。テロの全容が知られていたのなら、俺が犯人であることを突き止める事は幾分も簡単だろう。そうならば、間もなくこの部屋に憲兵隊、もしくは陸軍の部隊が到着してもおかしくない筈である。


 俺は上半身を起こした。思いついたので何か適当な食事を摂る事にしたのだ。食品棚を開けて適当に直ぐ食べられそうな物を見繕う。都合の悪いことに、今家にある食べ物はいつ買ったのかも良く分からないスナック菓子類と賞味期限の切れた乾パンだけであった。どちらかと言うと安全そうな乾パンを手に取って机に戻るとふたを開ける。中蓋を引き剥がし、おずおずと中身を覗き込んだが、問題無さそうなので食べる。味は「乾パン」という割りに湿り気が出ていてかなりまずかった。流石に賞味期限を半年近くオーバーしているのだから仕方の無いことだ。良く見ると同封の氷砂糖が溶けて乾パンに固着していた。


 トントンと扉がノックされたのは本当に突然の事だった。


 食事も中断して、俺は「遂に来たか」と覚悟を決めた。まったくもって日本の官警組織は優秀である。一瞬にしてこの様に俺の居場所を突き止めたのだ。いや、俺の計画が甘かっただけだろうか。ところで、こうなると改めて身の振り方を考えねばならない。最も良いのは自殺であろう。あと数日待って死刑になるか、自らでこの人生に区切りを付けるかと言われれば後者を取る。では改めて短刀を探さねばなるまい。


「水上少尉、居るのは分っている。ドアーを開けなさい。さもなくばこじ開けることになるぞ。」


 ああ、恐れていた文句が遂に扉の向こうから聞こえてきた。本当に私は追い詰められた。短刀を探す間も無かった。だが、何か違和感を感じる。私は今、女性が扉の外から私を呼ぶのを聴いた気がするのだ。冷静に考えれば、こんな事は有り得ない話だった。陸軍は女性兵士を採用していないのだ。もしかしたら憲兵隊というのは勘違いなのかも知れない。俺を助けに来てくれた善意の人びとなのかも知れない。


 そう思うと、俺の体は自然と立ち上がり、錠前に手を掛けていたのだ。直感的な勘とかそういった類の物ではなかった。恐らく俺に有利なように世界が動いて欲しいという自己催眠か何かによるものだったのだろう。


 俺は扉を開いてしまった。


「やぁ、水上少尉。お会い出来て光栄だ。ところで、間もなくこの家には憲兵隊による査察が入ると思うのだが、キミには少しご同行願いたい。」


 そう言って、ドアの前にただ1人で立ち尽くしたままの少女は言った。その少女は短いがしっとりとした黒色の髪と、その気迫で相手を圧倒せんとする深紅色の目を持っていた。彼女は流麗な動作でその美しい極彩色の着物を整え、不敵な笑顔を見せた。


 これが、俺とその少女の出会いだった。

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