14. M計画
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どのように、爆弾を持ち込むかについては幾つか議論があった。日野は爆弾騒ぎを起こして、その隙に更に大量の爆弾を持ち込むという中帝大の件でも行った「ごり押し」の案を挙げたが、これはすぐに却下された。前々から計画していた案としては、業者に偽装して入り込むという話である。幾つかの業者に前々から根回しをして、通行証を高値で買い取っていたのだ。しかしながら、麻布駐屯地の通行証はついに手に入れる事が出来なかったのである。
そうともなれば、頼れるのは桑浦リヱだけだった。彼女は今日のうちに「長期出張から戻って」麻布駐屯地に設置された臨時の大臣執務室に勤務している。そこで、彼女の権限でもって偽造通行証を持っている我々を構内に通すという事になる。
今、歩兵第一連隊の駐屯地内には陸軍省が置かれている為、業者の出入りは混乱している。確かに突然見知らぬ業者が立ち入っても不思議ではない。ただ、それも陸軍省の役人が「権力を振りかざして」行う暴挙でなければ現実味も無いと言うもので、つまりは桑浦リヱの協力が必要であった。
「しかし、到底計画通りになるとは思えないが。」
そう楠が隣でぼやいていた。麻布まではあと十分弱というところである。ボロボロのトラックに爆弾を詰め込んだケースを満載して、軍基地を目指す。検品は一箱も開ければ十分なので、手前のケースはすべて擬装用の電気系統部品を詰めたケースにしている。
「バレた時はバレた時だろうとしか……。」
撤退の時には片方を乗り捨てて三人が荷台に乗る予定でいるので、現地で調達した乗り出し十数万円で廃車寸前のトラックはずっとガタガタと音が鳴っていて心許ない。
「ハァ……、今からどうなる事かと憂鬱だよ。」
「何だ、意外に冷静なんだな。」
「お前だって、いつもと調子は変わらないじゃないか。」
そう言われてみると、いつもと調子が変わらないというほどの事は無いと思っていたが、確かにこの前の中帝大の時よりも漫然としている気はしていた。
「そうでもないと思うがな。」
そう言うと、楠はハンドルを握ったままに「そうかね。」と短く答えた。
檜町の第一連隊駐屯地へは、この道路の中央分離帯を挟んで反対側に入り口があった。だから一旦駐屯地の前を通り過ぎて、Uターンし、再び戻ってくる必要がある。我々は今、ちょうど第一連隊の駐屯地と第三連隊の駐屯地の間を走っている。恐る恐る第三連隊の駐屯地を覗くと、どうやらいつもよりは人影も少ないようだった。俺はあの事件を起こすまでは一応第三連隊に所属していた。司令部は巨大な日の字型のビルディングで、軍の建築を代表すると言ってもいい程に威圧的な建物だった。
第一連隊の方は西洋城郭調の本部と、その周りに中規模の兵舎が幾つかあるような形になっている。俺は兵舎のうち二棟に爆弾を設置して無線装置を接続する作業を日野と共に行う。楠と少女は残り二棟について行う。一方で、リヱは畠山久伍の暗殺を担当する。
「しかし、リヱの負担が大きすぎやしないか。」
「そもそも、暗殺役をやると言い出したのは彼女自身だろう。」
役決めにも一波乱あって、最初は少女が畠山を殺す役目を担う予定だったのを、寸前でリヱが懇願して変わったという経緯があった。彼女曰く「自分がやるのが最も効率よい」という事で、それは確かに全く正鵠を得た話だったから、我々は彼女の言うとおりに役の分配を変えることになった。
「しかし、あいつ自分で暗殺方法を考えるなどと言っていたが、いったい何をしでかすつもりなんだ。」
楠は彼女の行動にまったく理解が及ばないようで、溜息交じりにそんな事を言っていた。確かに、桑浦リヱという女性は第一印象と比べると幾分も行動的な女性だった。彼女は人見知りこそするが、自分の要求の事となればハッキリとものを言うし、時にそれが行き過ぎることすらあった。
トラックは交差点で大きく回頭して、反対側の車線に入った。俺はダッシュボードの上に置いてあった通行証を取って、それを改めて見ていた。
(良く出来てるとは思うが。)
それは本物と寸分違わぬ出来だった。そもそも、未だに入構でアナログな検査をやっている軍部にも問題があるのだ。九桁の登録番号こそ全くの紛い物だが、それ以外は精巧に出来ている。
トラックはゲートの前で一旦停止し、そのあと左折して守衛詰所の前に停まった。サイドウインドウを開けると、警衛兵が気だるそうに出てきた。
「どちら様?」
「君沢電装です。」
「通行証、見せてくれるかな。」
俺は警衛兵の怠惰で不遜な態度にげんなりしつつも、通行証を渡した。恐らくここで引きとめられるはずである。そうなればリヱに連絡して事務上の問題として処理し、無理矢理通過するまでだ。
「ええと、この登録番号だとサワダ電工さん?下請けか何かで来てるの?」
「え?」
心臓が鼓動を早めた。警衛兵の口から発せられた言葉は、想像していない物だった。恐らく、偽の登録番号に偶然の一致が起きたか、もしくはこの警衛兵が入力を間違えたかである。確かに、通行証は分類番号で分けられていて、同じ電気系統を受注する民間業者と上三桁が同じになるのは致し方ないが、下六桁の番号までもが完全に一致するとは思いもよらなかったのである。
一瞬の迷いが起こった。下請けであると言い繕ってしまうか、もしくは違うと主張を通してリヱを呼びつけて通してもらうかという事である。
「なんですか?」
「あ、ええ、サワダ電工の下請けで来てます。」
俺は下請けとして潜り込む方法に賭けた。警衛兵は露骨に嫌な顔をしていた。
「やめて欲しいんだよね、そういうの。下請けは別の通行証が必要なんだよ。」
しまった、と思った。俺はどうしようもない馬鹿だった。駐屯地の通行証は勿論一企業ごとに発行されているものである。それを下請けなど、別の会社と融通する事は禁止されているのは、十分に予測できるはずだった。そこで、違うと粘っておけば良かったと思った。
「ああ、す、すみません。」
警衛兵は暫く悩んでいるようだった。これからサワダ電工に連絡を取って、下請け関係の確認と通行証発行の了承を行う事になるのは最も避けたい事である。せめて、単独で審査されて通行証発行となれば良いのだが、いずれにせよ軍幹部との痛い面会が待っているのが心苦しい。
「うーん……まぁ良いでしょう。通ってください。」
「は。」
しかし、この警衛兵は思ったよりずっと怠惰なようであった。我々をどうやらこの通行証で通してしまおうという事らしい。
「なにか?」
「いえ、なにも。」
警衛兵がぶっきらぼうに聞いてきたことに、愛想良く返答し、サイドウインドウを閉めた。ひとまず入構は出来たが、まだ検査が待っている。
「全く驚いたよ。登録番号が被るだなんて、不幸すぎる。」
「ん?……あ、ああ。そうだな。」
楠は何か他事を考えているようで、まったくの空返事だった。
『A班、A班、ボクだ。もうゲートを通過しているようだが、どうしたんだね。どうぞ。』
急に、付けてあったイヤホンから無線の音が鳴った。俺はポケットの中に隠してあるスイッチを押して返答する。
『こちら水上。たまたま別の会社と登録番号が被って入場できた。以上。』
今回から、楠が入手してきた小さなマイクとイヤホンを利用した無線機を装備していたのだが、これは案外使えるかもしれないと思った。
ひとまず我々は門を入って右手にある検査場にトラックを停めた。俺は一旦トラックを降りて、荷台の方へと向かう。数名の検査員が直ぐにやってきて、我々の前に立った。彼らを代表するだろう伍長が我々の前に仁王立ちになった。彼は自らの威厳を主張するように厳しい表情をしていた。その眉間には深い皺が寄り、彼を見ていると吽形像の前にでも居るのかと錯覚するほどである。
「これから荷物の検査を始める。」
「あ、宜しくお願いします。」
「諸君は我々の邪魔にならない位置で見ているように。妨害などした場合は軍法に基づいて処罰される可能性があるので注意する事。」
「……はい。」
彼はまだ運転台に楠が残っているのを見咎めて、顔にいっそう深い皺を作った。
「あの男を運転台から出せ。あのまま留まっているなら我々は今すぐお前たちを逮捕できる。」
「あ……、はい。」
俺は急ぎトラックの運転台に近寄って楠に降りるように伝えた。そうして俺がすごすごと元居た場所に戻ってくると、彼は突然怒号を上げた。
「お前のアタマは畜生同然か!隣のトラックに乗っているのも引きずり出せ!」
「ええ、やりますとも……。」
「貴様、我々軍人に護られているという覚悟が足らん!こちらに来い。」
俺が言われたとおりに伍長の居る方へ向かうと、また伍長は鼓膜が破れんばかりの大声で怒鳴った。
「貴様、帝国陸軍を愚弄するつもりか!先に運転台から人を除けろ!」
そういう訳で、俺はまたもや運転台の方に戻って運転席に座っていた日野と少女に伝えて彼女らを外に出した。勿論、言われるまでこれをしなかったのは、俺が抜けているからではなく、なるべく運転席に人間を残しておきたかったからであった。
「大変だねえ。」
そう日野がチャカしてきたが、それを無視して俺は先程言われたとおりに伍長の前に立った。彼は腕組みをして俺を睨みつけている。
「何のご用ですか。」
「何の御用とはなんだ?そんな事もわからんのかこのポンコツが!」
突然、俺の左頬に伍長のビンタがとんできた。バチン、と大きな音がした。
「イテッ。」
「貴様、気合が足らん。もう一発だ!」
俺が嫌々彼の前に立つと、彼は俺の胸倉を掴んでまた怒鳴った。
「もっとしっかり立てい!」
「はい。」
「返事!」
俺は彼を相手にすることをやめた。俺は別に彼の部下でも何でもないのだ。別に彼に従う必要はないし、彼にこうやって怒鳴りつけられる筋合いなど全く無い。
「貴様は非国民だ!後でお前だけ事務室に来い。シゴいてやる。」
そう言うと彼は再び俺の左頬をつよくビンタした。
「下がれ。」
俺たちは少し下がって、検査の様子を窺っていた。兵士は乱暴にトラックの荷台の扉を開けた。全く以って、彼らの態度にはうんざりさせられるが、それ以上に今は緊張が高まっていた。
「そっちのトラックからも一箱出せ。」
少し離れて監視していた伍長が部下にそう命令すると、すぐさまもう一台のトラックの扉も乱暴に開けられた。もしも、奥のダンボールを検査されると具合が悪い。彼は検査の進捗に苛立っている様で、ずっと足を揺すって音を立てている。
突然、彼は手前のダンボールを今まさに開封しようとしていた兵士を指差した。
「それじゃない、奥のを出せ!」
伍長はそう兵士を怒鳴りつけ、腰に手をやる。俺は体中の汗腺と言う汗腺から汗が湧き出るのを感じていた。奥にあるダンボールには本物の爆薬が詰まっている。それを発見されれば一巻の終わりである。更に悪い事に、トラックの運転台には今誰もいない。
「手早くやれ。」
彼がそう命令すると、兵士たちはナイフでダンボールの封を切って開けた。心臓が鼓動を早める。ここで我々の積荷が露見すれば、計画どころか命が危ない。
下士官がその隣へと歩んで、中を検分した。そして、再び封をするように言った。彼は意図も簡単に一番上の段にカモフラージュとして置かれた松岡電器製の電球の箱に騙されたのである。彼の検分は相当ザルのようであった。俺は内心ほくそ笑むと同時に、こんな状況が軍内部に蔓延しているから、反感をもたれるし、こうして付け入られるのだとも思った。
「行ってよし。検査は終わりだ。貴様以外は荷物を運べ。」
しかし、彼のシゴきからは到底逃げられそうも無かった。どうしたものかと思う。俺がいなくなれば、爆弾を設置する手間は随分と嵩む。下士官のやるシゴきというのは強烈で、一度始まると一時間以上は逃れられないのが常であった。更にこの男はどうもしつこいように思えた。そういう訳で、何とか逃げようが無いかと考えていた。
「貴様のような人間がいるから日本が弛むのだ!そこに伏せてみろ。犬畜生と同じ目線になれ!」
うんざりするような罵倒文句が始まった。下士官から色々言われる事は入営時からしばしば経験していたが、それは大抵一辺倒で無益な侮辱に終始し、全く非効率的な「教育方法」であるのが常だった。今この瞬間、彼の部下でも何でもないことを考えれば、彼に従う事は全く受け入れられない事だった。しかし、諦めて従順になったほうが、早く解放されるかもしれないという打算もある。どちらを取るべきかは迷うところだったが、それを考えても、この男の言いなりになるのは俺の愚劣な自尊心が許さないところだった。
そういうわけで、俺は彼のいう事を聞かずにただぼうっと突っ立っていた。彼は最初、俺を睨みつけていたが、ついに諦めて俺に往復ビンタを見舞った。
「お前は人間の屑だ!一億の日本男児にとっての汚点だ!」
そう言って、彼は更に俺をぶった。少女らは既にトラックに乗って検査場を出て行っていた。何とも薄情なものである。しかし、それが最も効率良い事も知っていた。計画の根幹は彼女らに任せる事として、俺はこの古典的な「鬼上官」と対峙すると言うのもそれはそれでアリかと思った。
「貴方、いくら軍人とはいえ民間人に不要な暴力を振るうのは犯罪ですよ。」
背後からそんな声が聞こえたとき、それは神の一声かと思うほどであった。それは確かに桑浦リヱの声だった。
「貴様は誰だ。」
伍長は荒らいだ声でそう言った。
「陸軍省大臣官房の者です。」
「え?」
急に伍長の語気が衰えたのを感じた。兵からしてみれば、軍政の人間に絡まれる事は余り歓迎すべき事ではなかった。何しろ人事を握られているからである。そうであるから、それを盾に干渉してくる文官は嫌われるという物だが、この際そんなことは関係ない。
「その方には疎開している陸軍省の要請で作業を行って頂いています。あなたに勝手に業務を妨害されては困ります。」
「は、申し訳ありません。」
突然、丁寧な口調になった伍長を見て、俺は違和感を禁じえなかったが、何しろこれで一件落着である。見ると、リヱの後ろには日野が腕組みをして近くの建物の壁にもたれ掛かっていた。
「さあ、行きましょう、水上さん?」
彼女がそう言った事には、ただ感服の念しかなかった。幾ら若いと言っても、彼女は省内でも一目置かれる程の秀才である。そもそも官僚と言うだけでも、彼女は相当な人間なのである。
「ああ、ありがとう。」
伍長が見えなくなった辺りで、日野が
「オレがこいつを呼んできたんだから感謝しろよ?」
と自慢げに話しかけてきた。
「手柄は桑浦が九割でお前が一割ってとこだな。」
「お前はクソッタレだよ。」
そう言って日野は笑っていたが、俺の方にしてみれば、気が抜けているような、はたまた猛烈な緊張感に襲われているような、よく分からない心理状態にあった。先程の肝を冷やす検査を終えて、嫌に落ち着いてしまった気もするし、未だに浮遊感がある気もした。
トラックは既に兵舎の前に停めてあって、搬入準備は出来ている。後は台車に載せて、各兵舎の地階にある倉庫に爆弾を仕掛けるだけである。ダンボール一つが一セットの大型爆弾になっているので、これを放置するだけで問題ない。ただ、起爆装置のスイッチを入れて、安全装置を解除する必要は有る。
この爆弾が実は陸軍の破壊工作にも正式採用されているシロモノで、どこから流出したのか全く見当が付かなかった。どうやら『給炭塔』には強力なパトロンが居るらしく、それを把握し切れない事は全く不可解な事だった。しかし、いずれにしろこの強力な爆弾によって、我々の計画がただ爆弾を放置して爆発させるだけのごく簡易なものになっている事は確かであり、それは確かに有益な事だった。
「私はこれで失礼します。ご幸運を。」
そうリヱが言って手を差し出してきた。俺は急いで手の白手袋を取って、それから彼女と握手をした。
「何だ、まるで永訣のような事をするじゃないか。縁起が悪いよ。」
俺がそう言っても、彼女はただ優しげな顔で俺の手を強く握るだけであった。俺は彼女に計り知れない不安を覚えた。爆破が始まり次第、一刻も早く彼女を迎えに司令部へと向かわねばならないと思った。彼女はそのまま無言で我々のもとを去っていった。俺はその去り行く背中をずっと見ていた。しかし、作業を早く終わらせなければ、彼女を気に掛ける事すらままならない。
「ひとまず、『荷出し』して、モノを地階まで運び込むか。」
そう俺が言うと、日野は二つ返事にダンボール箱を台車へと積み込み始めた。各兵舎の地下へはエレベータが直通しているが、しかし地階で降りるには鍵が必要である。ただ、これはリヱが先回りして全ての鍵を借りてきていた。
「この兵舎には五個だ。」
「二回に分けて運んだほうが良さそうか。」
「なんとか一度で行けるだろう。」
この爆弾は幾度か演習で扱ったことがあったから、随分頑丈なのは知っていた。恐らく台車が転倒しようが問題ない。ともすれば、一気に運び込むのか効率よい。俺たちは爆弾の入ったダンボールを一度に台車に積み上げて、それを注意深く動かし始めた。
「しかし、こりゃ相当重いぞ。」
この異常な装置は、台車を壊してしまうのではないかというくらいに重かった。
「そりゃあ、な。」
俺は、先程から気を紛らわすために続く会話にもどかしさを抑え切れなかった。もしも、ここで俺たちのどちらかが口を滑らせて、これが爆弾であると吐露してしまえば、果たしてどうなるだろうか。リスクを背負ってなお、我々の精神は静寂に耐えぬ。俺たちは表面上の無意味な会話を続けていたが、しかしそれは何とも言いがたい気持ち悪さを増幅する以外に我々の心象に対して何もしなかった。
「はぁ……。」
溜息を漏らす。台車の安っぽい車輪がガタガタと音を立てて兵舎の扉を越え、そして置くに据え付けられた如何にも古そうなエレベーターの前まで、この重々しい「死」を運んでいる。日野はエレベータの操作盤にリヱからもらった鍵を差し込んで、地階行きのエレベータを呼んだ。
「――よし、載せよう。」
二人掛かりでエレベータの中に台車を押し込み、その後我々もエレベータに乗り込む。扉を閉めると衝撃が来て、この相当に古いエレベータはぎこちなく動き出した。
「……オレたちはまるで死の配達人だよ。」
「実際のところ、そうだろう。」
ふと、日野がぼやいた事を俺はぼんやりとして散漫な意識の中で受け取った。ここに来て、俺の関心事は累積された様々の疑問や不安の為に、霧のように掴み難いものになっていた。
「今日のお前、何か上の空だな。」
ガタンと大きな音を立てて、エレベータが地階へと到着した。扉を開けると、目の前は暗闇だけが続いていた。俺は一足先に降りると、エレベータの明かりだけを頼りに電灯のスイッチを探した。
「何だか、俺にはもう背負いきれない程に一杯一杯だよ。」
「全部投げ捨てちまえばいいものを。」
俺はスイッチを探し当て、地下室の明かりをつけた。殺風景な一面に備品などが並んでいるだけの空間が蛍光灯の冷たい光の中に浮かび上がった。
「じゃあ、手早く爆弾を置き去りにして、行きますか。」
俺たちは各一つずつ、爆弾の入ったダンボールを持ち上げて、俺の計算通りの場所に配置していった。
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少女と楠も、同じ方法で爆弾の設置を行おうとしているところだった。一つ違うのは、彼らが終始無言であった事である。この二人は事務的な話以外では滅多に話す事はなかった。
「なぁ……、お前は何故名前を教えない?」
だからこそ、少女にしてみれば、楠がそんな事を言ったのは全く意外だった。
「何だ、突然に。」
少女はそれまであの爆弾の入った重いダンボール箱をよろよろと持ち運んでいたが、それを一旦床に置いて、楠の声がした方を向いた。
「お前は他のどの構成員にも名前を教えていないらしいな。」
少女は唇を噛んだ。それは、一つの日常として、慣習として、既に給炭塔の人間に受容されていたし、彼らは彼女の事を名前抜きに「彼女と言う存在」そのものとして認識していると思い込んでいたからであった。
「名前を教える必要があるのだろうか。」
そう言い返した『その少女』に対して楠は笑顔で見つめ返すだけだった。
「もしくは、――」
少女は彼に不気味な前兆を感じ取っていた。実のところ、少女は楠を目の上のたんこぶのように考えてきた。今までは、彼に利用価値があったからこそ、それを放置してきたが、それも間もなく手に負えなくなるだろうと直感していた。
「君は何が言いたいのだね。」
「お前には名前が無いんじゃないのか?」
この薄暗い地下室に、暫く沈黙が訪れた。少女は無言で、目の前のダンボールを持ち上げ、それを水上の計算どおりの場所に設置する作業に戻った。
「下らない妄想はやめて、作業を続けてはどうかね。」
少女はそう言って楠をたしなめたが、それでも楠は少女に対して追及する事をやめようとしなかった。
「掛け値なしに、俺は君の正体を全く掴めていない。君は三年前に突然現れて、突然この国にたいして破壊活動を始めたようだが、それ以前の記録は何もない。」
「君のような人間に看破されていなくて心底安心するよ。」
もしも、この場に二人以外の人間がいるとしたら、今すぐにでもこの場を離れたくなるだろう。そんな緊張感だった。
「君はまるで魔法使いか何かのようだね。」
「ボクが魔法使いだと言うなら、君は十字軍の騎士だ。」
少女は台車のところまで戻ると、目の前に立っていた楠を睨みつけて、そう言った。
「十字軍、そりゃ光栄だ。」
「君のイェルサレム奪還作戦は成功だよ。歩一に対する攻撃は失敗だ。キミのお陰でね。」
彼女はあの不気味な笑みを浮かべていたが、それは完璧なる余裕の上に浮かべた笑みとは到底言いがたかった。彼女は、今度の作戦が上手く行かないだろう事に勘付いていた。
「何を言うか。俺は全力で君たちに協力しているよ。」
少女はあと一つになったダンボール箱を持ち上げて、よろよろと運び始めた。しかし、楠はそれに一切手を貸そうとはしなかった。
「全力で、ねぇ……。」
彼女はそう言って、彼の方を振り向いた。
「では、何故偽造した通行証の登録番号を実際の業者と同じものにしたのかね?」
彼女は、付け加えてそう楠に問いかけた。楠はそれまで、善人じみた笑顔を常に湛えていたが、それを聞いた瞬間にその顔は恐ろしい無表情になった。
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