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13. 秘密の歓談

 あの後、給炭塔に戻ってからはM計画の内容を再び詳細に説明された。しかしそれは資料に書いてあった事を殆どそのまま反復したに過ぎない説明であった。結局また力押しのような作戦である。所詮はテロリズムの産物であるから、少数人数での爆発物を使用したような計画に作戦らしい作戦などというものが存在するほうがおかしいという物である。


 ただ、いくつか気懸かりな事があった。それは桑浦リヱが単身、畠山久伍の暗殺役として抜擢された事だった。少女はそれについて「適役」だとしか言わなかったが、しかしその役を彼女一人に任せる事は何より彼女の身が案じられた。


 もうひとつは、これは殆ど計画内容には関係ないが、帰ってからロクに日野と少女が話していなかった点である。そして、少女は相も変わらず気の抜けたような、もしくは激しく思い悩んだような顔をしていた。楠にそれとなく「なにがあったんだ?」と聞いてみたが、彼が戻ったときには既にそうなっていたと話すだけだった。ただ、人質交渉の時に少女と日野に何かがあったらしいという事だけは確かだと言っていた。


 M計画の日程は最初の説明から一週間後という事になっていたのだが、結局三日前倒しとなった。少女も焦っていたのだろうが、俺たちは一人としてその計画の変更に文句を付けなかった。というのも歩兵第三連隊の大規模演習の日程がその日であるという情報がもたらされたからであった。第一連隊と第三連隊の駐屯地は隣接していて、我々の計画で第一連隊を混乱に陥れたとして、第三連隊がすぐに応援に来る可能性が否めなかったのである。そういう意味で、今度の日程の前倒しは有意義なものだった。


 俺は今、横浜にある倉庫を改装した「給炭塔一味」の隠れ家に居る。俺たちは昨日の深夜に夜行に乗り込んで、一路横浜を目指した。横浜駅からは歩きで、港の方へとひたすら進んでいった。隠れ家は廃線になった横浜港の貨物線からヨロヨロと分かれる枝線の先にあった。煉瓦と鉄筋コンクリートで作られた古ぼけた小さめの倉庫の半分くらいを改装して、短い間は滞在できるようにしてある。とはいっても、電気をつけて、断熱を少ししただけなので、長く居るには全く向かない。ここに着いた後、M計画に関わるところの諸々の下準備を済ませているうちに、もう夕方になっていた。ここには給炭塔と違って調理設備は無いから、食事は各自工面という事になる。


「なぁ、水上君。ボクと一杯飲む気はないかい?」


 そういう時に、少女がそんなふうに誘ってきた事は、全く意外だった。


「良いが、何処かアテはあるのか。」

「桜木町の方まで行けばね。」


 少女は久しぶりにあの得意気な笑顔を見せたが、しかし今のそれはただの悪戯っぽい笑い顔だった。俺は彼女と飲みに行ってやろうと決めた。


「しかし、お前飲めるのか?」

「馬鹿にしないでおくれよ。ボクはこう見えて酒に強いんだ。」


 彼女はそこらの子供よりも細いのではないかと心配になるほどの腰に手を当てて胸を張って見せたが、彼女の体格では全く説得力と言うものが無かった。


「まぁ、お前さんの酒癖も気になるし、折角だから飲みに行くか。」

「その意気だよ、水上君。」


 そう言って少女は俺の背中をポンと叩いた。思ったより、その力は強かった。そういう訳で、我々は桜木町まで歩く事にした。倉庫に通じている貨物線の廃線を辿っていくと自然と桜木町に通ずる道に出るという寸法である。


「中々、海風が気持ち良いな。」


 俺たちは倉庫を出て、それから一息ついた。いくら、簡単に掃除をしたとは言え、長く使っていない隠れ家の空気はほとんど最悪だった。


「水上君、夜だからこれは陸風だよ。そもそも海はあっちじゃないか。」


 少女は倉庫の裏の方を指差しながら、そんな風に俺の無知をからかった。


「こりゃ失礼。」

「では、行こうか。」


 少女はゆっくりと歩き出した。俺は彼女の様子がいつもと違う事に少々の疑問を感じていた。というのも彼女は今日、和服を着ていなかったのである。


「なぜ今日は和服じゃない?」

「ん?……ああ、このワンピースのことか。」


 彼女は服の裾を掴んですこし引き上げてみせた。


「ああ。」

「戦略だよ。普段和服で行動してる分、特にバレたくない時にはイメージを変えてるのさ。」


 彼女は例の得意気な笑顔をして言った。


「イメージ戦略ってヤツか。」

「それはちょっと言葉の意味が違うんじゃないかね。」


 少女は笑いながらそう言った。


 線路の上を歩くのは一筋縄では行かない。俺は道中、線路の敷石にずっと足を取られっぱなしであった。時折線路の上に乗ってみるが、線路も線路で平らではないので、やっぱり直ぐに諦めてしまう。一方の少女は線路を歩く事を特に苦にする様子も無かった。


「盆暗な水上君の為に良い事を教えてあげよう。線路を歩くときは、この木の部分……枕木というんだがね、これの上を歩くと良いよ。」

「そうなのか。」


 俺は言われたとおりに、レールを支えている木の上を小股で歩いた。少女にとっては丁度良いのかも知れないが、俺にとっては幾分歩幅に合わなかった。


「やっぱり歩きにくいのには変わらないな。」

「まぁまぁ、焦らずに歩けば良いさ。」


 すっかり暗くなった線路を照らすのは遠くの摩天楼と、横浜港の明かりだけであった。線路が薄っすらとオレンジ色に光って、俺たちはそれを目印に進んだ。


「時々、昔に戻りたいと本気で思う事があるんだ。」

「なんだね、突然そんな事を言って。」


 俺が突然そんな事を言ったのを聞いて、少女は不思議そうに首を傾げていた。


「大抵、昔に戻りたいなんて、冗談で言う事だろう?でも近頃は本当に昔に戻りたいんだ。何をしてでも、戻れるものなら戻りたいって、明確な願望を抱いてる。」

「昔に戻りたい、か。……ボクには戻るべき過去も無いから、無縁な話だな。」


 鉄橋を渡る。ボコボコと木を踏む音が、鋼鉄のトラスに増幅されて、辺りに響いていた。俺は少女の方を見た。彼女はずっと下を見て、ゆっくりと歩いていた。


「戻りたい瞬間って、無いのか?」


 そう俺が聞くと、少女は少し考えるような顔をしたが、すぐにも「ない。」と断言した。


「ボクだって戻れる過去があれば戻りたいもんだがな。」


 鉄橋を渡りきると、急に廃線は途切れて、壊れて用を為さないバリケードの残骸と、その向こうには真新しい道があった。俺がまたいでバリケードを越えたが、少女はその場に固まったままだった。


「何だ、俺に手伝えと?」

「レディに手を貸さない男があるか。」


 そう言われて仕方なく、彼女の脇あたりを持って、持ち上げてやろうとした。


「キミはどういう持ち上げ方をするつもりだね。」

「いや、普通に垂直に持ち上げるだけだが。」

「所謂お姫様抱っこみたいにして持ち上げないとこの高さを越えるのは無理だろう。」


 今度は腰辺りと膝裏に手を掛けて持ち上げる。正直、彼女を持ち上げる事ができるか不安だった。しかし、彼女の体は思ったよりも全然軽かったのである。俺は彼女をひょいと持ち上げて、こちら側に下ろした。


「軽いな、お前。」

「レディに体重の事を言うのは失礼ってもんじゃないかね?」


 彼女の尊大な口調で女性に対するマナーをご高説されても、全く説得力がないという所だった。しかし先程抱え上げた感覚に依れば、彼女は、若しくは彼女の肉体は思ったよりもずっと儚くて、脆いらしかった。これからは少しぐらい気遣ってやっても良いだろうかと俺は思いながら歩いていた。


「桜木町っていうと、野毛か?」

「ああ、そうだよ。野毛は個人営業の店が多くてね。一軒顔見知りの店があるんだよ。」


 野毛というのは桜木町駅の近くにある飲み屋街である。大学生時代には、知り合いがよく野毛で飲んでいたので名前を聞くことは多かった。ただ、俺は野毛で飲むことは全く無かったので、実際のところ行った事は一度も無い。


「顔見知りっていうと、給炭塔の活動についても理解があるのか。」

「うーん、そうだね。どっちかっていうと気にしてないって方が正しいかな。」

「気にしてない、か。」


 ありきたりな舗装道路を進んでいくと、激しく車が往来する幹線道路の向こうに桜木町の駅が見えてくる。野毛には行った事が無いと言ったが、桜木町駅はよく利用したものだった。というのも、一時期東急を利用していたのだが、その時は国鉄に桜木町で乗り換えていたのである。


「この辺も懐かしいな。」


 横断歩道の歩行者用信号が青に変わった。


「良く考えたら、水上君の地元は神奈川だったね。」

「地元って程でもないが、まぁそうだな。」


 駅のコンコースを抜けていく。国鉄の桜木町駅の向こうには「東京急行 桜木町駅」と書かれた看板があって、その下に東急の改札がある。その横を通り過ぎて、それからもう一本道を渡れば野毛である。東急の高架に電車が到着したらしく、辺りには大きな音が響いていた。周りにはこれから一杯引っ掛けようという人々が同じように野毛を目指して楽しげに歩いている。


「ここの道を入るよ。」


 少女はそう言って、飲み屋の連なる明るい一角から少し外れた道へと向かった。俺はただただ周りの様子を興味深く眺めているだけだった。そういえば、この一週間強を文化的社会というものから隔絶された場所で過ごしてきたせいで、ありきたりなこの繁華街が俺には殆ど極楽浄土か何かのように見えた。


 少し寂れた道沿いには営業しているのかも分からないような居酒屋が何軒もあって、それぞれがプラスチックの安っぽい看板に青白い蛍光灯の明かりを照らしている。たまたま目に入った毛筆で書かれた看板は、中の蛍光灯が切れかけているらしく、ちらちらと点滅を繰り返している。


「水上君、あそこにツラギっていう看板が見えるだろう?アレだよ。」

「へぇ。」


 少女が指差した先には、鈍い緑色を発する銅板で装飾された洋風建築があった。全面木造の和風建築が続く中にあって、この建物は異彩を放っていた。ただ、看板だけは例外なく例の安っぽいプラスチック製で、「スナックバー・ツラギ」と書かれていた。


 目の前まで行くと、なるほどこれは看板建築であった。通りに面している部分こそ、洋風に体裁を整えているが、奥の方を見れば普通の木造建築である。看板建築自体は特に珍しいものではなかったが、銅板で装飾されている建築を見ることは近頃なくなっていたのも事実だった。


「ふーん、こりゃ穴場だな。」

「まぁ、客は少ないみたいだね。」


 間口の窓が少し開けられて、そこから湯気が漏れ出している。少女は躊躇うことなく戸を引き開けて中へと入っていったので、俺もついて行った。驚いた事に、店内はバーとは程遠いただの飲み屋である。ウイスキーのボトルキープが並んでいる事以外、この店に洋風の洋の字も感じられなかった。


「この店は和と洋があべこべだな。」

「なかなかに面白い店だろう?」

「確かに。」


 マスターなのか大将なのかも分からないが、店主とおぼしき年老いて皺だらけの男はただカウンターの中で黙々と何か料理をしているだけである。俺たちが入店したことに彼が気付いているのかさえ分からない。


「水上君、こっちこっち。」


 彼女に呼ばれるままに進むと、一番奥のテーブル席に彼女は腰掛けた。俺もまた、彼女の向かいに座る。初めて居酒屋に入るときは大抵そうだが、何とも言えない居心地の悪さを感じる。内装は汚くも無いが、綺麗と言うわけでもなく、ありきたりな感じであった。壁には幾つか額が飾ってあって、その中の一つには陸戦隊の制服を着た男達の集合写真が収められていた。


「ツラギっていうと、大戦のアレだよなぁ。」


 そう言った瞬間、店主がぎろりとこちらを睨んだ気がした。恐る恐る見返すと、彼は淡々とまな板の上で何かを切っているところだった。


「あまり大声では言うと怒られるんだが、彼はツラギ島警備隊の出身らしくてね。」

「ソロモン方面の戦いは厳しかったと聞くが。」


 突然店主が立ち上がって、こちらにやってきた。ドタドタと音を立てて歩く様は頑固を体で表しているようで、すこし怖い雰囲気である。彼は俺たちの座る席の目の前で立ち止まって、手に持っていた小皿と箸を少々乱暴にテーブルの上に置いた。


「注文は。」


 そう彼がぶっきらぼうに言ったので、俺は先程の発言に怒っているのかと思って萎縮したが、少女は全く怖気づいた様子ではなく堂々としていた。


「生中を一つと……あ、カブトビールで。あとは串をお任せで6本くらい。」

「はいよ。」


 少女がそう流暢に頼むと、店主はこちらに向き直って、無言で鋭い眼差しを送ってきた。何だか恐ろしくなって、俺は何も言えなくなってしまった。


「水上君も遠慮せずに注文したまえ。店にあるものなら何でも出してくれるよね?」


 彼女の言葉を聞いて、店主は小さく二回頷いた。この店主はどうやら最初に思ったほど気難しい人間でもないようだった。


「じゃあ、シュパーテンブロイ生……って奴でお願いします。」

「はいよ。」


 店主はそういうとまたドタドタと音を立てて歩き、カウンターの中に戻った。


「君も愛国者気取りなら国産のを飲んだらどうなんだね。」

「国産は値段がする割には美味く無いからナァ。」


 ちょっと前までは様々な国のビールが日本でも飲めたものだった。しかし、近頃は専らドイツビールか国産ビールばかりである。しかし国産も存廃の危機に立たされているらしく、それは俺のようにドイツビールばかり飲んでいる人間のせいであるのは知っているが、様々な理由でドイツビールの方が安いのだから仕方が無い。


「全く、貿易のバランスを保つ為だのなんだの言って船便でロクでもない商品を送りつけてくるんだから、ドイツってのはタチが悪いよ。」

「でもシュパーテンブロイは美味いよ。」

「そんな事は関係ないのさ。」


 店主がテーブルのところまでやってきて、中ジョッキを二つ置いた。俺たちはひとまず乾杯することにした。


「では、乾杯。」

「乾杯。」


 そう小さく言って、控えめにジョッキ同士を触れさせる。ごくりと一口、麦の風味とアルコールが鼻から抜ける。口腔から、喉から、食道から、胃から、この金色の液体が染み渡る感覚がするのは何故なのだろうか。そういえば、陸軍省の件の夜以来ビールは飲んでいなかった。この一週間あまりに起きた事を思うと、久しぶりに飲むビールは特に旨かった。


「ふぅ、疲れている時のビールはやはり美味いね!」

「本当に、何でだろうな。」


 俺は少女がそんな風に露骨に感情を表現するところを初めて見た。彼女の飲みっぷりは思った以上だったが、改めて客観的に見ればそれは未成年どころか小学生か中学生かも分からぬような子供が中ジョッキを呷っているという何とも危なっかしい景色であった。彼女はジョッキを置くと、少し淋しげな表情をしていた。そして、何かを言い出す時期を窺っているようだった。


「そういえば……最初に君には謝らねばならない事があってね……。」


 腹を決めたのか、そう少女が切り出した。


「何だ?」

「これから話す事は、怒らないで聞いて欲しい……というのは無理なお願いだと思う。」


 彼女は先程までとは打って変わって、申し訳なさそうな表情をして、すこしうつむき加減に話していた。店主がやってきて、串の盛り合わせをテーブルの真ん中に置いた。


「鳥串と豚串。」


 そうぶっきら棒に言う店主に、少女は微笑んで「ありがとう。」と言ったが、そのあとこちらに向き直ると、バツが悪そうにまたうつむきがちになった。


「……嬢ちゃん、今日は元気がねェな。」


 そんな雰囲気を察したのか、店主が一言声を掛けた。


「あ、いや、そんな事も無いと思うんだがね。」

「……いつもはもっと偉そうにしてんじゃねェか。……嬢ちゃん変なところで真面目だからナァ。」


 俺はそんなやりとりを見ながら、案外この店主は寡黙と言う程でもないのだと意外に思った。店主は少女を気遣いつつも、カウンターの奥へと引いていった。


「そうだな。……実は、昨日の中帝大での件なのだが。」


 彼女はそう言うと、ビールをぐいっと飲んで、それから再び話し始めた。


「君を人質に取っていると、自治会から電話が来たときに、私は君の人格を軽視し、君を見捨てたともとれるようなことを彼らに言ってしまった……。」


 彼女は髪を梳くようになぞった後に毛束を引っ張るように握り締めた。その手は小刻みに震え、そうとうな力をそこに込めているようだった。それは何かを我慢するような動作に思えた。


「何だ、それだけか。」


 俺はその告白に特段の驚きも、怒りも、覚えなかった。それはもしかすると不思議な事だったかもしれないが、俺の心情は彼女が俺を見捨てようとした理由を何となく察していた。彼女は一人の人間より、常に大義を取るような人間だった。今度も恐らくそういう帰結だったのだろう。彼女のそのような所には既に呆れ切っていたし、諦めていた。


「申し訳ない。」

「いや、良いよ。君なりに考えるところがあって、言ったんだろう?」

「いや、……そうじゃないんだ――」


 少女は苦い表情をしていた。俺は串を一本とって、食べた。中々香ばしくて旨い。この手の個人店は味が良くないことも多いのだが、この店のそれは所謂美食のそれではなく、もっと庶民的なものだった。素朴で、ある意味粗暴とも言える様な濃い味付けも、何故か全くいやみは無かった。


「ボクの中で、君を危険に晒すような事があってはならないと、そういう思いが強くあったのは絶対に間違いない。でも、……でも、ボクの口から出たのは打算にまみれた人間性の片々もないような言葉だった。」


 そう話した後、彼女は顔を歪めた。何かを我慢するような、……いや違う。何かをせんとするが故の緊張だった。彼女は顔を歪める事をやめて、殆ど無表情になった。


「ボクの目を見てくれ。少しの潤みもないだろう?ボクは情に涙を流せないということに、昨日はじめて気付いたんだ……。」


 俺は彼女の話をただ無言で聞いていることしかできなかった。俺に彼女の苦しみが分かるはずもなかった。だから、何か彼女に言うという事は、全て無責任で論拠も何もない、悪辣な言葉しか生まない事を知っていた。


「ボクは突然自分が何者なのか分からなくなったよ。」


 彼女は一息ついてビールを飲んだあと、鶏皮の串を食べはじめた。


「……しかし、なぜ俺にそれを言うのだ。」

「キミは難しい事を聞いてくるなぁ……。」


 そう言って暫く考えていたが、ビールを呷って飲み干すと、重々しいが優しげな口調で再び話し始めた。


「日野君にはこれ以上私の脆いところを見せられないのだ。彼女はあれでいて凄く脆い人間だからね。君はもう十分なほど我々に協力してくれたし、思ったよりはヤワな人間じゃ無さそうだったから……。」

「……アハハ、それは俺を買い被りすぎかもな。」


 そう言いつつ俺もビールに口を付けた。しかし、俺の言ったことに彼女はうつむいてしまった。少女の印象は初めて会ったときから全く一定していなかったが、ここに来て、もはや彼女には一定した何か自体が無いのではないかと思ってしまった。


 彼女は等身大の少女であり、同時に狂気のテロリストであり、もしくは大人びた女性だった。あるいは、彼女は強く頑固な意思を持った思想家であったが、自信薄弱で脆く多感でもあった。


「いやはや、君の好意に、少し甘えすぎてしまったかもしれないな……。」

「いや、別に俺にどんどん愚痴でも弱音でも言ってくれて構わないよ。」


 俺がそう言うと、少女は少し笑ってからまた黙り込んでしまった。


「もう一杯飲むかい?」

「……じゃあ、三岳のロックを頼むよ。」


 俺は店主を呼び止めて、彼女の言った通りに頼んだついでに、枝豆も注文しておいた。店主は「はいよ。」とだけ言ってカウンターの奥に消えていった。


「そういえば、日野と最近全然話してないが、何かあったのか。」

「ん、……まぁ色々あってね。」


 少女は腕組みをした。


「彼女に初めて殴られたよ。私が君を見捨てようとした事でね……。彼女を失望させてしまったよ。」

「アイツ、お前のことを殴ったのか。」


 店主が少女の頼んだ酒と枝豆を持ってきた。三岳というのは恐らく焼酎の類だったが、俺はその銘柄を聞いた事もなかった。


「何の焼酎だ?」

「芋焼酎だよ。屋久島で作られてる。」

「屋久島……?」

「鹿児島県の離島で、屋久杉とかが有名なんだけどね。」


 サラリーマンのグループ客がちょうど入ってきて、店内は少しずつ賑わいを増してきている。少女は焼酎を少し飲んで、目を細めた。


「屋久杉っていうと、聞いた事あるな……。」

「キミは本当に無知だなぁ……本当に参るよ。」


 そうでもない、と言い返したかったが、事実として己の無学さは俺自身が最も良く知っていたから、敢えて何も言わなかった。


「三岳は屋久島を知らずとも、酒好きには良く知られた銘だよ。それとも飲んでみるかい?」


 そう言って、少女は俺の目の前にグラスを突き出して見せた。


「グラスシェアは駄目だろう。」

「もう、全く水上君はつれないなぁ……。」


 そういうと、少女は先程よりも勢い良く、眉間に皺を寄せながら焼酎を飲んだ。俺もビールを少し勢い良く飲んでみた。喉が炭酸とアルコールで焼ける。


「にしたって、日野も頑固な奴だなぁ。」

「彼女みたいな人が居なければ、ボクは冷酷さに凍え死んでしまうだろうし、彼女も彼女で一人では人情と理想に暴走してしまう。ボクたちが殴り合って丁度良いくらいだよ。」


 彼女はそんなふうに冗談めかして言って、それから豚串を食べ始めた。俺は枝豆を一つとって口にあてがい、中の豆を押し出す。塩味の効いてつるんとした楕円の豆が口腔へと入ってきた。


「お前も変だが、日野も大概変な女だよなぁ。」


 俺がそうぼそっと言うと、少女は笑っていた。彼女は豚串の最後の一片を食べ切ると、


「彼女も、マークされやすいと知りつつ、毎年の湯川貞次の墓参りを全く欠かしてない訳で、馬鹿正直というか……。」


とこぼした。


「マークされるってのはどういう事だ。」

「ああ、湯川貞次殺害の件は色んな勢力の思惑が絡んでいるんだ。下手に探りを入れると殺されかねない。あれに関わるのはテロを起こすよりもよっぽど危ないよ。」


 そういえば、軍高官らを狙った連続殺人事件も湯川貞次の件に絡んで起こっている事だった。しかし、それほどまでに危ない事なら俺が全くその事を知らなかったというのも疑問である。


「変な話だよな。そんなにオオゴトなら、何故社会の表舞台で報道されない。」

「そりゃ、現政権も一枚噛んでるからに決まってるだろう。今の首相が在籍してる三三同期会の連中は事件の当事者だよ。」


 彼女は神妙な顔をして、静かにそう言った。


「それもそうか。しかしその湯川って男が殺されたからって、何でそんなに多くの勢力が睨みあいみたいになる訳だ?」

「湯川貞次という男は多くの反政府組織に裏で資金を供与していたんだよ。彼は旧連合国との貿易で財をなして、その額は列強の国家予算にも匹敵すると言われてる。要は多くの組織が遺産を血眼で捜してるってことさ。」


 そう言うと彼女は焼酎を呷り、それから枝豆を一つ取った。彼女はその枝豆を指示棒のように振って、話を続けた。


「……彼らが探してるのは湯川貞次の娘である湯川恵瑠璃という女性なんだよ。」

「へぇ。」


 ともすれば、墓参りなどに行った日にはその娘との関係を疑われて、最悪尋問されたり、もしくは身元が割れて拘束される可能性も高まるという訳だ。


「戸籍上は行方不明で死亡扱いになっているんだが、湯川貞次の遺産の在り処を知っているのは彼女だけでね。」

「その恵瑠璃って女性の行方は掴めてるのか?」

「いや、全くだよ。殺害の日には既に貞次の家に居なかったから、それで殺されていないのは確かだが。」


 俺は「ふーん」と、適当に返事をしてそれから、ジョッキの底に残っていたビールを飲み干した。


「まぁ、そんな感じだと、色んな組織が彼女をどんな手を使ってでも探そうとするだろうな。」

「ああ、みんな彼女に親交のあった人間を彼女を誘き出す為に使おうとした。自殺に追い込むような事もあったし、終いには殺す事もあった。」


 少女は淡々と語った。


「そりゃいくらなんでも……。」

「あの時はボクもそういう真似をしようとして、日野君にかなり怒られた。申し訳ないけど、酷い事に皆考える事は同じだったのだよ。」


 そう語る彼女はまるでそれを他人事かのように話すようだった。もしくは、本当に他人事だったのかもしれない。つまり、彼女はそういう方法を採ることを全く望んでいなかったかもしれなかった。


「すまない、さも自分に罪が無いように語ってしまったな……。」

「いや、良いよ。」

「……君は変なところで優しげな人間だな。」


 そういうと彼女は焼酎のグラスを一思いに飲み干した。不思議な事に彼女は全く素面と変わらない様子で、その不気味なほどに白く美しい肌には少しも紅色は差さず、その思考にも一点の曇りとして無い様に思えた。


「まぁ、日野君はそんな感じの熱血乙女だからね。それでも、彼女なりに筋は通すから、明日の計画には全く影響ないと思う。また落ち着いたら、改めて謝る事にするよ。」


…………。


 それから一時間くらい飲んでいたと思う。結構食べたし、飲んだ。俺はいい気分になって店を出たが、少女はどこか淋しそうな表情だった。


「我々は、失う事を義務付けられた人間かもしれないと、思う事があるんだ。」


 少女は小さく呟いた。街の蛍光が、彼女の血色の無い透き通った肌に落ちて、彼女の頬は青白磁か何かで出来ているかのように見えた。


「うーん。君たちの考えは全く分からない。」

「給炭塔のような組織に集まる人間は、社会から爪弾きにされたような者ばかりだ。そしてやる事は、身を呈して今の状態を壊す事だけ。」


 彼女は少し黙り込んだ。それから、少し息を吸って、吐いた。そして、話を続けた。


「凄く残酷だと思わないかね。我々は無心に何かを壊す事しか出来ない。恨みを買われ、貶され、馬鹿にされ、それでも壊すしか、生きる術が無いのだ。」


 冷たい風が頬を撫でた。また、例のバリケードに近づいていた。俺は少女の前で跪いて手を差し出す。すると彼女も、


「ありがとう、少尉殿。」


 と応えて、体を預けた。


「どういたしまして、マドモワゼル。」

「君が言っても全くサマにならないな。」


 そのままにバリケードを跨いで越えて、それから彼女を地面に下ろす。


「ふぅ、君とはこんな形でなく会いたかったよ。もしそうだったら、君はボクのことを嫌う必要も無かったし、ボクだって君を傷つける必要など無いというのに。」

「そんな事は望むべくも無い事だろう。俺たちはもうこうやって知り合ってしまった訳だし。」


 そういうと、少女は考え込んで「うーん、」と唸りながらも、線路の上を歩き出した。


「しかし全く、変なものだな。今この瞬間、ボクたちは至って平和に過ごしている。しかし、次の瞬間の事など何も分からない。それこそ、一秒後に死んでいてもおかしくない訳だ。」

「どんな時だって人生はそんなものだろう。」


 そういうと、彼女は「そうかなぁ。」と疑問に思うようだった。


「俺たちの人生は、いわば誇張されたモデルみたいなものじゃないか。関数に当てはめれば、ある変数に極端に大きな値を当てはめた時のようなものだと思う。」

「確かに、そう考えれば破綻は無いな。しかし、ともすれば本当に、ボク達は脆い地盤の上に立っていることになるよ。それを理解はしていても、ボクはそんな話を信じたくないんだ。」


 確かに、それを信じてしまう事は、我々の道徳観念に否定を突き付けることに相違なかった。我々は常識や善悪というものを、世界が強固で普遍的であることを前提にして決め付けている。もしかすると、我々はもっと流動的で、世界もそれに従って足場の無い、単なるゲル状の物体のような存在でしかないのかもしれない。いや、これは予測などではなく、冷静にこの世を考えれば自明の事だった。


 しかし、人間の心と言う器は、それを論理的には理解し得ても、常に信条として心の中に留めておくには、余りにも脆すぎる。そして、その脆さこそが我々の流動的な所以であって、つまり我々が自らの足許の余りに頼りない事を本能で理解出来無いのは、すなわち我々が強固な地面に立っておらず、そこで足掻く事ばかりに神経を割いているからであった。


「俺たちはそれが正しくとも、それを一生掛けても信じる事は出来ないと思うな。」


 俺はそう言って、運河に掛かる鉄橋の錆び付いたトラスにもたれかかった。俺は彼女の方を見たが、彼女が俺の瞳を見返すことは無かった。


「じゃあ、君は論証的な正しさを否認すると言うのか。」


 彼女はゆっくりと、重々しくそう言った。


「時に俺たちは自分にも嘘を付かねば生きていけないのではないだろうか。」


 俺は慎重に言葉を選びながら、それに返答した。すると少女は美麗な笑みを湛えて、短く答えた。


「それも、そうだな。」

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