12. Side story:とある男女
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川べりで、二人の男女が座って、その土手に目一杯に咲いた桜を眺めていた。
「桜は好きなんです。」
男の横に座った女が言った。
「へぇ。“ぼく”も好きですよ。」
男は彼女に同調するように、もしくは彼女の言をお膳立てするように、得意気な顔でそう言ってみせた。辺りにはゆるやかな風が漂って、心地よい温かさを運んでいた。
「こうやって、モラトリアムがいつまでも続けばいいのに、と思ってしまいます。」
そう彼女が言うと、男は笑って、「いつまでも横大生というわけには行かないのですよ。」と返した。女も微笑んで、それからふと思い出したように、脇に置いていた風呂敷包みを取り出して、それを二人の間におき、包みを解いた。
「お弁当、食べましょ?」
そう言って、彼女は可憐な笑顔を見せた。周りも、桜見物をする家族や恋人たちで溢れている。静かで、心地よくて、幸せなとき、それがここには確かにあった。
「いつもの出汁巻き、これ本当に美味しいんですよ。毎日でも作ってほしいくらいです。」
そう男が言うと、女は恥ずかしげな表情をした。それから、少し意地悪な顔をして、言った。
「それって、プロポーズですか?流石に早すぎますよ。」
男は「おっと、これは失言でしたね。」と言って、優しく微笑んだ。彼にとって、これがたとえ仮初の平穏だったとしても、それは十分だった。そう信じるしかなかった。彼女の知るところではなかったが、その男は自分が目の前に居る女と結ばれる事は絶対にないのだと知っていた。
「また……いずれ時が来たら……。」
そう、節目がちに頬を染めて言う女を見て、男は複雑な心境であったが、それも桜色の景色の前には些細な事だった。いま、この瞬間に二人は一緒であった。彼にとってはそれだけで良かった。
「あはは、さぁ食べましょう。って、ぼくが言う事じゃないですね。」
「いえいえ、食べましょう。どんどん食べてください。貴方だけの為に作ったお弁当ですから。」
そう彼女が言うのを笑いながら聞いて、箸で同じ弁当箱に入った料理をつつく。それだけで事足りた。全てがそれだけで十分だった。女は美味しそうに自分の料理を食べる男を柔らかな笑みを湛えて見続けていた。
「おいしいですか?」
「勿論とも。」
男は舞い散った桜の花びらが目の前の彼女と自分の間に分け入るのを見た。彼女を一刻でも長く見ていたかったが、その美しい花びらは男の願いを僅かながらにも遮るのであった。それはささやかながら、美しく、しかし残酷で、宿命的で、そして淋しげな景色だった。
「私たち、いつまでもこうして居られるのでしょうか。」
「そうでなくとも、今こうして居られるだけで満足だよ。」
男は今このときの彼女の微笑みを見るだけで、存分に幸せであった。その男にとって、彼女は平穏の象徴だった。そして、絶対に揺るがぬ善意の象徴でもあった。
だからこそ、その女が後に男の兄と婚姻することを前提に付き合い、その過程で陸軍に買収されて、兄について余りにも残酷な嘘の証言をしたという変えがたい事実は、彼にとっては余りにも酷い仕打ちに他ならないものだった。
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