11. 恐怖主義の幻
名古屋の誇る都市計画道路である若宮大通まで出ると、あとは道なりに進めば、鏡池通りに入って中部帝大の真横に出る。リヱはこの車を概ね上手く操っていた。車の方もすこぶる調子良く、流石の高性能車という感じである。
ただ、若宮大通を抜けた辺りから空模様が怪しくなり、遠くに昭和塾堂の尖塔が見えた頃にはすっかり大雨の様相を呈していた。
「余り良い天気じゃないですね。」
ハンドルを握るリヱがそう言った。ワイパーがしきりに動いてフロントガラスに纏わり付く水滴を跳ね飛ばしていた。
「もうすぐ中帝大か?」
「そこの角を曲がったら、そうですね。」
ゆっくりと角を曲がると、すぐにも道の両側に大学のキャンパスが現れる。中部帝大は都市計画上、幹線道路がキャンパス内を貫通する形になっており、正門どころか門と言うものが無い。幸か不幸か、この大学は侵入するのには便利すぎる大学であった。
「どこに停めるんだ。」
「今は警備も手薄だから、多分車で入構しても何も言われないだろうって楠さんは言ってましたけどね。」
「ヤツの言ってる事が本当に正しいのか不安になってきたな。」
しかし、その心配は杞憂に終わった。大学の南側から入ったところ、特に何の注意も受けることは無かった。ただ、入ったところは工学部一号館と真反対だったので、一号館の付近に駐車しておかねば奪取後の搬出に問題が出ると思われた。結局のところは図書館の裏を回って、一号館前の駐車場所に適当に停めた。
「建物前には人は居ないようだが。」
「でもさっき通った教養学部棟の前は凄い人だかりでしたよね。」
確かに、彼女の言うとおり、教養学部は今日のストライキで学生と職員側の睨み合いが続いているようだった。
「理想環境研究棟……だったけかの中で爆破騒ぎを起こすのは一六○○だそうだ。そこから全ての計画が開始ということになるが。」
時計に目をやると、時刻は十五時五十二分を指していた。
「あと八分弱ですね。一応手順を確認しましょう。」
「ああ、とりあえず、守衛が出払ったのを見計らって三階に行き、君が大臣秘書の肩書きを使って監査をするなどと芝居を打つと。」
「そうですね。その後は搬出の通路確保を行うだけです。」
簡単に確認をすれば、後はすることが無くなった。しばらく腕組みをして無為に時間をやり過ごしていたが、それでも気が落ち着かず、リヱの方を見た。
「きみは大丈夫か。」
「何がですか?」
「いや、今回の件の成否を不安に思わないのか。」
リヱは暫く考えているようだった。しかし、すぐにそれをやめると、「いえ」と否定した。
「特に不安とかはないですね。」
「きみは割りと強心臓なのだな。」
彼女は「伊達にここまで生きてませんからね」と得意気だった。別に、それによって俺の不安が払拭された訳でも無かったが、随分と気分はましになった。
時刻は十六時三分前になった。降りしきる雨の中、時折ワイパーを動かして、守衛の動きを見守る。妙に一秒ごとが長く感じる。俺は軍人でありながらにして、演習などで前線に出るのがほんとうに嫌いであった。それは何も平和主義とか、そういう類の話ではなく、単に度胸と言うものが欠けていたのである。現に、今も正体の分らぬ胸騒ぎに取り憑かれていた。
「もうすぐか。」
「そうですね。」
リヱの方は、至って冷静であった。俺はそんな彼女に少しの引け目を感じていた。俺がもし足を引っ張るような事をすれば、もう彼女に顔向けは出来まい。
「水上さん、」
「なんだ。」
彼女の方を見ると、彼女は優しく微笑んでいた。
「気負う必要なんて無いんですよ。」
彼女が言った言葉は、俺にとっては優しすぎた。もし、その後に十分な時間があったとしたら、俺はその場で何もかもを擲ってしまったかもしれなかった。しかし、時間は無情なことに、俺に考えさせる時間を与えなかった。突然、けたたましいアラーム音が聞こえた。それは紛れも無く作戦の始まりを告げるものだった。
遠くで小さく破裂音が聴こえたような気がした。本当に幻聴だったのかもしれない。何故なら、それは一度のみだった気もするし、もしくは数度聴こえた気もしたからであった。
しかし、それが幻聴だったところで、正しく作戦が開始されたことには間違いなかった。それは隣の館の守衛が何やらこちらに駆けつけてきて、その後、守衛数人が傘も差さぬままに走って建物を出て行くのが見えたからである。それを見送ると、我々は無言のままゆっくりと車を降り、持ってきた仰々しいコウモリ傘を差して講義棟の玄関まで歩いた。
(なるほど、威厳ある建築だ。)
そう俺が思ったことには、この建築は新古典主義に通ずる重厚なファザードを持ち合わせていた。車寄せの両側には古風な丸型のカバーが付いた街灯が一対あった。既に辺りは暗く、街灯も点灯して辺りに落ちる雨粒の軌跡を映し出している。
ふと見るとリヱが車寄せの端に立って下の方を見ていた。
「何をしてるんだ。」
「今気付いたんですが、……この建物、四階建てです。」
彼女はそう言いつつ、下を指差していた。俺は嫌な予感がしていた。車寄せの端に立って見下ろすと、そこには確かに一階があった。
俺は、この建物に見覚えがあったのである。それは数日前、爆弾の設置計画を立てた、あの建築に間違いなかった。よくよく考えれば、二階に大きなスペースがあったり、建物内が細かく細分されていたりと、兵舎にしては奇妙だと思ったものであった。
「入ったら、少し館内で確認したい場所がある。」
何と恐ろしいことだろうか。俺の予想に拠れば、少女はこの建物に爆弾を設置するつもりらしい。もしくは既に行われているかもしれない。それは間違いなく許しがたいことである。建物内には今も罪の無い大学生が多く居るのである。もしも、彼女が彼らを殺戮するつもりと言うのなら、俺はそれに協力することをしたくない。この時、俺の脳内はそれを止めねばならないという使命感に遍く支配されていた。
「分かりました。」
扉には工学部電気電子工学科と渋い筆文字で金色の刻印がされている。傘を畳んで、中へと立ち入る。リヱは外套を脱いでスーツ姿となった。俺の方は相も変わらず軍服のままである。恐る恐る守衛室の窓を覗いたが誰も居らず、代わりに奥で警報ランプがしきりに点滅していた。
俺は階段などには目を付けず、周囲を歩き回った。爆弾は一階に集中的に配置しているが、二階にも構造上重要な柱を壊す為と、内側に建築を倒す為の爆弾が設置されているはずであった。その一つにはちょうどロッカー室の横にある柱があった。
俺は早足で一番近いその場所まで歩いていくと、ロッカー室に勝手に入って、その柱の周りを必死に探した。彼女が建物を爆破するつもりだとしたら、絶対に止めなければならないと思った。辺りは古いロッカーが雑然と配置されていた。俺は片っ端からそれらを開けて、中を見た。もちろん、一つ残らずにである。
「何してるんですか!」
後を追って部屋に入ってきたリヱが語気を強めてそう言った。
「少女はこの建物に爆弾を仕掛けるつもりらしい……!何としても止める必要がある。」
一見すれば、俺は気狂いのようにすら思えただろう。しかし、俺は、俺の心に残った最後の正義感の片々は、彼女の思惑をどうしても止めたかったのである。俺はそれが終わると、あたりにあるダンボール箱を引き下ろして調べた。
「水上君、そこに爆弾は無いよ。」
急に、冷たい声がそう言った。ゆっくりと後ろを振り向くと、それは少女だった。俺は無言で彼女を睨みつけたが、彼女はそれに構うことなく俺の横まで歩いてきて、手に持っていたカバンを柱の横に「据え置いた。」
「今置いたところだからね。」
「いますぐ全て爆弾を取り払え。さもないと――」
俺は少女に詰め寄った。彼女の表情はそんな俺を嘲笑うかのようにニヤついていた。
「さもないと?何だね、ボクに乱暴でもするつもりかい?」
いつものように彼女が俺を茶化すのを、今回ばかりは許容することが出来なかった。だからこそ、俺は彼女の胸倉を初めて掴む事になったのである。
「なんだ、ボクは少女性愛者と関わりを持つ気は無いぞ。」
「貴様、これは冗談ではないぞ。」
俺が気張るのを少女が嘲笑うのを見て、俺が彼女に幾ら詰め寄った所でのらりくらりと避けられてしまうだけだと分かった。俺は彼女の和服を掴んだ手を離して、少し距離を置いた。少女は着物の襟元を調えてから俺の方に向き直った。
「とにかく、爆弾をすべて撤去しろ。」
「ボクがそんな事をすると思うかね?」
俺が激昂の表情で少女と向き合っている時、彼女は恐ろしいほどに無表情だった。俺は彼女の眼を喰い千切らんとするような視線で睨んでいた。しかし、彼女の眼は俺を無表情に見返すだけで、怖気づくどころか、何の反応も見せなかったのである。
「陸軍省の向かいのビルの上に立って数百人を殺戮した、数日前の冷酷な将校を思い出してはどうかね。」
それを聞いて、俺は一気に脱力した。少女はそう言ったきり、この場を立ち去った。俺に彼女の凶行を止める資格など、最初から無かったのである。彼女の言葉は、俺の義侠心をねじ伏せるには最も良い言葉だった。俺はいずれこれらの爆弾が使われるだろう事を認識しながらも、もはや彼女の置いたそれらを持ち去る勇気は無かった。
「水上さん、――」
「……行こう。責務を果たす必要がある。」
それは、逃れられない運命だった。俺は諦めたのである。彼女らに俺は幸福を見た。狂気も見た。そして今、どうしようもない選択肢の上に、俺は選択をする権限をそもそも持ち得なかったのだと気付いた。
「待ってください。」
リヱがそう言ったのを聞いて、俺は一度立ち止まって振り返った。
「なんだ。」
「責務の為にこんな事をするのなら、逃げた方がいいと私は思います。」
彼女はハッキリと言った。それは今までに無いほど強く、そして無装飾な言葉だった。彼女の言葉は、素晴らしい力を持った言葉に違いなかったが、その言葉が俺の決意を揺るがすことは無かった。
「逃げ道が無いから、目の前の壁をぼろぼろの爪で引っ掻くんだよ。」
何故なら、俺に逃げ道など元から用意されていなかったからである。俺は既に罪人なのだ。逃げても待っているのは死のみなのである。臆病な俺は恥ずかしいことに、後ろから俺を常に追いかけてくる死を嫌っていた。追って来る死より、進んだ先にある死が良かった。最後は前のめりに倒れこんで死にたかった。ともすれば、かの少女が示した地獄への道を突き進むしかなかった。
「今のままじゃ、水上さんには絶対に良い死に方が出来ないと思うんです……。」
「どっちにしろ、良い死に方はしないだろうよ。」
同時に、リヱにそうやって指摘された時、はじめて俺は逃れられない自分の行く末をその一つの整頓された文章として認識したのである。そして、俺は内心衝撃を受けていた。俺はその時、今まで嫌でも認めようとしなかった、これから自分に帰ってくるだろう罰に対して、初めて向き合ってしまったのである。
「行こう。」
俺は短くそう言った。リヱは無言で後についてきた。この建築の脱装飾的で空しい階段は、さながら俺の心を見透かしたかのように、視線の端をすり抜けていった。
何段登れば終わるのだろうか。いや、案外すぐ終わらせることも出来る。次のフロアで階段を登る事をやめれば良いだけの話だ。しかし、この実務的で冷酷な階段は俺にそうさせることを拒んだ。もしかしたら途中で引き返す事も出来るかもしれなかった。しかし、俺はそれを許されなかったのである。そうするうちに俺は三フロア目、本来の四階へと到着していたのである。
「水上さん……。」
リヱが小さな声で俺を呼び止めた。
「ん?」
「なら、爪が欠け落ちるまで壁を引っ掻き続けましょう。それが我々に残る唯一の希望です。」
「ああ、そうだな……ありがとう。」
彼女は俺に向かってこぶしを丸めて突き出した。俺もまた、同じようにゆっくりとこぶしを突き出し、そうして二つのこぶしは小さく、弱々しく、こつんとぶつかりあった。
廊下の向こうには既に一体がスローガンの落書きで埋め尽くされた、それが工学部自治会の占有するスペースであることを露骨に主張する一角が見えていた。俺はいつにも増して緊張していた。その一方で、上手くやれば爆弾を使わずに済むだろうとも思った。
無機的で研究施設然としたこの建築の大部分と相対するように、自治会室の前は考えられる殆どの人間らしい造作に溢れていた。赤文字でわざとらしく書きなぐられた「革命」やら「戦争」やら「尊帝」やらの文字には彼らの熱意を嫌でも感じさせられる。俺の大学時代は至って地味だったから、尚更そう感じたのかもしれない。
「では、いきます。」
リヱは小さく俺にそう言った。俺は頷いて、見送った。彼女は部屋のドアの前まで行ったが、しばらくそこで立ち止まった後、引き返してきた。俺は怪訝な顔をしていたが、彼女の方はとても申し訳無さそうな表情だった。
「抜き打ち監査の時ってどうやって入るんでしょうか……。」
なんだそんなことか、と思った。しかし、それは確かに重要な事だった。少しでも不自然な事が相手に分かれば最悪命が無くなる可能性すらある。それは俺が身をもって体験したあの列車の中での出来事を知らずとも、普段から悪名高い学生運動の牙城であるこの部屋の前に立てば、自然と連想できる事だっただろう。
「入るときだけは俺がやるよ。職業柄、こういうのには慣れてるからな。」
「す、すみません……お願いします。」
意を決して俺はドアの前まで進んだ。中の様子に耳を澄ませて、様子を窺う。廊下に居る時から気付いていたのだが、この部屋からは時折ドタバタと大きな音が聞こえていた。それが何なのかは分らないが、万が一何か危険な事があれば命に関わる。暫く聞いていると、やはり時々音が聞こえた。それは足音かもしれなかったし、もしくは何かを動かしたり、落としたりする音だったかもしれなかった。
俺はリヱの方を見遣った。彼女は申し訳無さそうに五メートル程後ろに立っていた。一方俺はいつこのドアを開けるかで迷っていた。もしくはこのまま前で見張っておいて、相手が出てきた瞬間に監査を申し入れるのも有り得ると思った。しかし、そもそも実態も目的も何もない、嘘の監査なわけだから、あまりあからさまな事も出来ないというのはもどかしい事だった。あれから暫く物音は聞こえていなかった。
(よし、)
俺はやっとのことで決意を固めドアノブに手を掛けた。そして扉を開けたとき、なぜか陸軍の軍服を着た将校と思しき男達と目が合ったのである。
……。
俺は改めて彼らを見た。三名の軍人が、バンカラ姿の学生たちと丁度睨みあいをしているところであった。学生は俺を見て、いかにも嫌そうな顔をしていたが、軍人の方は軍人の方で、俺がこうやって入ってきたのが何故なのか分らないでいるようだった。
こういう時、どうすれば良いのかは全く分からなかったが、俺はいつもの癖で、たまたま出くわした将校達に対して、「どうも」と挨拶をしてしまったのである。
「あ……、ええ、どうも。」
三名のうち、兵卒から叩き上げの最年長と思しき一人の少尉が戸惑いながらもそう挨拶を返した。他の若い二人は困惑した様子で、これまた顔を見合わせている。俺は「大変ことをしでかした」と思った。この三人がもしも俺について知っていれば、この場で三巴の戦いになりかねなかった。
「少尉殿は此処で何をされているのですか。」
一人の少尉がそう聞いたのは当たり前のことで、彼らは恐らく陸軍からの正式な要請によって職務を遂行している訳で、その最中に見たことも無く、予定にも無いような別の軍人がやってきたら不思議に思うのは仕方あるまい。
「そちらこそ、何をされているんですか。」
返す言葉の選択は中々厳しいものだったが、質問に質問で返すことにした。相手に嫌な顔をされないと良いのだが。
「我々は彼らが反社会的活動を行っているという話で、その調査に。」
年長の少尉が答えた。幸運な事に、この職務は公然として良い様なものだったらしい。ここでもし彼らが職務を答えられなかった場合は機密性の高い任務ということになる訳で、出くわしただけでも詳しい身分調査を受けかねなかった。しかし、今度のものはどうやらそうではないらしい。
「ご苦労様です。」
「いえいえ、ところで――」
ひやっとした。それは、もしも俺の素性について突っ込まれた場合、どうしようも無くなってしまうと知っていたからである。
「――そちらのお嬢さんはどなたですか?」
しかし、それは杞憂に終わった。彼が気に留めたのは桑浦リヱだった。確かに、彼女は異常に若いし、不思議に思うのも仕方無い事だった。
「あ、そうですね。リヱさん、挨拶をお願いできますか。」
リヱは暫く自治会室の外で様子を窺っていた様だったが、俺がそう呼びかけると彼女はおずおずと部屋に入ってきて、ポケットから取り出した名刺を渡しつつ、懇切丁寧に挨拶をした。
「陸軍省大臣官房秘書課の桑浦と申します。」
そう彼女が言うと、軍人達は名刺を見て少し動揺した。
「ええっ、あなたのような方が何故此方に?」
「あ、ええと、私たちも工学部自治会の査察でして……。」
リヱはいつもの如くおどおどと話していたが、それに屈強な軍人たちはずっと恐れおののいているようだった。軍政を司る陸軍省、軍令を司る参謀本部、教育を行う教育総監部をまとめて「中央」と我々は呼称したが、それはある種の畏怖を込めての事だった。それは省の人間に目をつけられると直ぐに左遷されるなどという噂が陸軍内では実しやかに囁かれている程で、彼らと出くわすという事は軍人にとっては余り歓迎すべきことではなかったのである。
一人の若い少尉が俺の近くに来て耳打ちをした。
「なぁ、何かヤバい問題でもあるのか?こっちは参謀本部からの伝達で来てるんだ。」
「いや、本当に何でもないよ。」
軍政の人間と、軍令の指示でやって来た人間がかち合わせになるというのは良くあることだった。先の大戦以降は、今の陸軍大臣たる畠山がそうであるように、陸軍大臣は参謀総長を兼任するようになっていた。これは要するに権力の集中であり、そもそもの発端は陸軍省と参謀本部の権力闘争を抑える為であった。しかし、そのような事をしてもまだ、双方が自らの意思の通りに軍を動かそうと躍起になっているために、今でも互いの権利を干犯したと言いかねない様な行動に出ることがあった。
「勘弁してくれよ。俺たちは何の関係もないんだ。ルーチーンワークみたいに示威行為をしてるだけなんだからさ。」
「本当に安心してくれよ。こっちだって何もないから。」
しかし、この状況は我々にとって非常に有利だった。あり得る言い訳を得たのである。彼らに対しても暫くは誤魔化しが付くだろうと思った。
「貴様らはさっきから何をボソボソと話しているのだ。国賊共が。」
我々がこそこそと話し込んでいたことに痺れを切らした自治会の人間がついに声を上げた。周りの人間が「そうだ、そうだ」と同調するように言う。
「用も無いならさっさと帰れ!邪魔だ。」
先ほどから声を上げているのはインテリ風の眼鏡を掛けた男だった。
「あー、我々はもう帰りますが、そちらは?」
「我々は今しばらく。」
彼らはすぐにもぞろぞろと部屋を出て行ったので、我々二人だけが自治会室に取り残された。そこで、俺は考えてあったシナリオ通りに資料の収集を行うことにした。
「で、ちょっと出して欲しい資料があってだね。」
俺がそう言いかけた瞬間、男が俺たちに対して不意に問いかけた。
「貴様ら、『給炭塔』のメンバーだろう?」
しまった、と思った。どうやら我々の素性は全く彼らに筒抜けであったのだ。
「いや、――」
「はい。よく気付かれましたね。」
俺が否定しようとした瞬間、リヱはそれを認めた。
「我々は貴様らのように目障りな存在のことはしっかりとチェックしているよ。」
眼鏡の男は俺たちの周りをつかつかと歩きながらそう言った。いつの間にか俺たちの周りには屈強な学生たちが並び立って威圧していた。
「私は桑浦リヱと言います。そちらは?」
「俺は志段味基久と言う。」
「貴方、自治会長ですよね。なら話が早いです。少しお願いがあります。」
眼鏡の男が合図をすると、俺たちの周りを取り囲んでいた男達は引いていった。あくまで冷静に交渉を進めようとするリヱに対し、彼らも表面上は冷静に、理性的に対応をするつもりらしかった。その志段味という眼鏡の男もニヤリと笑ってから「なんだ?」と聞き返した。
「あなたたちが密かに集めている保安局に関する資料を頂きたいのですが。」
「何故君がそれを欲しがる。」
少女は資料を漁れとは言ったが、具体的な資料名は指定してこなかった。更には、そもそも少女とリヱが接触する機会すら殆ど無かったはずである。では、保安局の資料とは何なのだろうか。しかし俺は事情を知らない以上は傍観するしか無かった。
「理由など関係ないでしょう。」
そうリヱが言うと、志段味は呆れたというような顔をした。
「渡すにしても、それなりの対価という物が必要だな。」
「……爆弾です。」
リヱがそう言ったことに志段味は「は?」と返した。どうやら彼女は爆弾をダシに自治会を脅すらしかったが、志段味はその意味を全く理解できなかったらしい。
「この建物に爆弾を設置しました。もしも資料を渡さないというのなら、すぐにも木端微塵に出来ます。」
自治会室に緊張が走った。奥で事務机に座っていた男達もざわめき立ち、互いに耳打ちなどをしている。志段味は取り乱しながらも、不思議だと言う様な顔をしていた。
「何を言っているんだ?あんな資料のために爆弾?意味が分らない。」
リヱはNEAID強奪の為に用意された爆弾を脅しの材料に使っただけだったが、効果は覿面だった。彼らは明らかに焦っていた。しかし、それでも我々に与するかもしれない情報を与えることには否定的だったのである。
「あんな資料と言うのなら我々にも融通してください。しっかり、お返ししますから。」
「たとえ塵一つでも君らに与える気は無いよ。お引取り願えないかね。」
いつの間にか、俺たちの周りにはあの屈強な男達が再び並んでいた。
「帰りません。」
リヱはそう嫌味な笑みを浮かべて言った。しかし、志段味も怯む事はなかった。
「お忘れのようだが、こちらにも給炭塔との交渉手段があるのだよ。」
彼は額の汗をポケットから取り出したハンカチで丁寧に拭き、それからこちらを見据えた。その視線は一層鋭いものになっていた。周りの男達が一歩、近づいて間合いを詰めてきた。もしも大それた要求を我々がすると言うのなら、彼らは我々を人質にするという事だろう。
「やれるものならやれば良いじゃないですか。」
しかし、リヱも妥協を許さなかったのである。この不利な状況に於いても、彼女は何故か時間稼ぎに出ることをしなかった。もしかすると、彼女は本当に例の資料を欲しがっているのかもしれないと、俺は思った。いずれにせよ、もう彼女の強気な態度を止める事など不可能だったのである。
**
少女は計画の殆どを既に終えていた。冷たい電算室で醜いコンピュータに囲まれて、彼女は自分の行く末を思っていた。目の前には巨大なプラグがあった。底から太いケーブルが幾つも延びていて、それらは各個の媒体へとうねりながら接続されている。ここに接続されるシステムこそが、NEAIDの核となるシステムであった。しかし先程までは試験用のコンピュータが接続され、NEAID単体で稼動していた。楠と日野がそれを持ち出したので、今はその巨大なプラグが無残に打ち捨てられているだけである。
椅子があった。
少女はその椅子に座った。肘掛をしっかりと持ち、目を瞑る。彼女はつくづく自分に失望していた。彼女は自分が恐らく何も残すことが出来ないであろう事を知っていた。彼女はいつでも壊す事しか出来なかった。彼女は何かを作ったためしがあったかと自分の記憶に問うた。しかし、特段良い返答は得られなかった。彼女の作ったものはあらかた直ぐに壊れてしまったからである。
彼女は空中に手を掲げ、鍵盤を叩くようにその美しく端正な指を動かした。その後、しばらく蛍光灯の冷淡な明かりの前に自分の手を重ねていた。余りにも白いその表層は、透き通っていたが、その中にあるものはただただ虚空のみであった。
携帯電話の着信音が鳴った。着物の袖から電話機を取り出す。心なしか、彼女の表情は晴れていた。
「もしもし、水上君か?」
しかし、電話の向こうの声を聞いた次の瞬間には、彼女の心情に浮かぶ期待や安心といったものはあらかた後悔と失意に裏返ってしまった。
『君は水上少尉と桑浦リヱという人間を知っているかね。』
電話口の男はねっとりと纏わり付くような声で言った。少女はこの声に聞き覚えがあった。その声は中部帝大工学部自治会長の志段味基久のものに違いなかった。
「何故君がその携帯電話を持っている。」
少女は静かにそう言った。
ちょうどその時、電算室に日野が帰ってきた。彼女はいつものように口笛を吹きながら、殆ど成功したも同然と思われた今度の計画のことを嬉しく思っていたが、部屋の中で深刻な顔をして電話を取る少女を見て、この計画がもしかすると狂わされることになるかもしれないと直感した。
『二人の安全と交換で、君に頼みたいことがあってね。』
志段味の口調は至って冷静だったが、しかしそれは不気味な印象を湛えて、少女の思考を覆い尽くしていた。
「キミは二人の身に代えて何を求めているのか。」
少女は息苦しそうに、搾り出すように、無理矢理に、その言葉を吐き出した。日野はここまで彼女が追い詰められているのを見たことが無かった。そして、その「二人」が彼女の予想通りだとすれば、彼女は状況を悲観するしかなかった。
少女は歯を食い縛って、志段味の返答を待っていた。そうでなければ、今にも沸き立つ怒りを抑えられなくなるだろう事を知っていたからだった。
『二人に危害を加えられたくなければ、今すぐ爆弾を撤去することだな。』
そして、その怒りは自らに対してのものだった。それは彼女の小さすぎる人間性が、次の瞬間に自分の発するであろう言葉を理解していたからに他ならなかった。
「二人の事なら、好きにすれば良い。」
少女は、打算的な予測と、自分に対する怒りと、そしてまたしても自分に対してどうすることも出来ぬ自分に対する消魂とを、その言葉の中に押し込んで、吐露した。日野は彼女の言ったことに、驚きの感情を持って接していた。それは、彼女なら計画を駄目にしてでも窮地にある仲間を救うと信じていたからである。
「おい!」
だからこそ、日野は少女を恫喝した。
『では、電話が繋がっているうちに、まずこの水上という男から殺そうか。』
そして、志段味のその言葉を聞いて、少女は次のように言ったのである。
「殺せば良いじゃないか。その男は新入りだ。彼にやらせることはやらせた。替わりは幾らでも――」
その瞬間、少女の真っ白な頬を日野が殴打した。鈍い音がした。少女は自分の頬に鈍痛が走った意味を完璧に理解していた。それは彼女にとって、もっとも屈辱的な事であったし、同時に何より彼女にとって幸運な事でもあった。彼女はそのままよろりと倒れこんで、動かなくなった。静かな電算室の中にはコンピュータの無機質な音だけが響いていた。
日野は倒れたままの少女にすこしの不安を覚えたが、しかし電話を奪い取って、怒鳴りつけた。
「あの女はああ言ったが、オレが許さねえ!水上に傷一つでも付けたらテメエらを殺す。」
そう吐き捨てて日野は電話を切った。それから、少女の方を見た。彼女はまだ倒れ伏したままだった。しかし、彼女の目は見開いていたし、勿論彼女は動けなくしてその場に伏している訳でもなかった。
「お前がそんなやつだとは思わなかった。」
そう日野が言うと、少女は悔しそうに唇を噛んだ。それは先ほどの全く悪気無く仲間を売ろうとした彼女とは全く別人の顔であった。
「ボクには、無理なんだ。」
彼女が力なくそう言った事について日野は理解し得なかった。だからこそ、今になってそんな弱音を吐く少女に対して無性に苛立っていた。
「お前は何が言いてえンだ?」
日野がそう強い口調で聞くと、少女は震えるような、もしくは泣いているような声で答えた。
「これ以上は言えない。」
しかし、彼女の目に涙はこれっぽっちも浮かんでいなかった。
**
俺とリヱは自治会室の物置部屋にいた。俺たちはそこで荒縄で縛られて監禁されていたのである。猿轡を嵌められていて、話すことも出来ない。先ごろまで志段味が俺に銃を突きつけて撃つだの撃たないだのという会話をしていたが、今はもう彼も消えて監視役数人と俺たちだけがこの部屋に居る。銃を突き付けられても、何故だか俺は冷静だった。考えても見れば、名古屋に来る時に電車の中で一度銃を突きつけられたばかりだったからかもしれない。
ただ、リヱの事は心配だった。彼女は毅然として動じなかったが、だからこそ彼女が畏れという感情を抱くところを見たくはなかった。俺はずっと目を瞑っていた。
事の顛末は簡単だ。リヱは志段味の挑発的な態度をとり続けたので、彼は遂に逆上して我々を監禁することに至ったのである。ただ、この方策は全く見当違いという訳ではなかった。実際、彼らの殆どは我々に張り付けになっているし、彼らの退路は殺害か起爆かという訳でどちらにしろ絶たれていた。ただ、どう考えてもリスクが大きかった。殺されないと殆ど分かった様な物だが、それでも殺されるリスクは十分にあった。では何故彼女がリスクを取ったのかという事は全く分からぬことだった。
事態は膠着状態であった。誰も動かず、話さずなのは苦痛である。
俺達を監視している屈強な男たちは金属棒、若しくはバットのみで武装していた。それこそ飛び道具さえあれば彼らを倒すことは難しくないかもしれない。しかし、銃は監禁前に没収されていた。
「そういやストに関して学生課は何て?」
「今回も無反応だよ。」
時折、監視係のそんな雑談が聴こえてきた。部屋の中はじめじめとして黴臭く、不快であった。
「また軍高官への殺しがあったらしいな。」
「あれは随分前の事件を今更公表したヤツだよ。政府では怖気付いてろくな対応も出来ん。」
冷たい風が吹き込んできた。どうやら、誰かが入ってきたらしく、足音がしていた。
「交代だよ。」
そう声がして、男二人が入ってきたのが分かった。今までの監視役は「ああ、ありがとう」と応じて、雑談を続けつつ部屋の外へと出て行った。
「だから、帝政の強化と統帥権の返上を――」
「しかしそれでは議会が蔓延ってしまうから――」
軋みながら鉄扉が閉まる音がして、そうすればまた静けさが戻る。目を開けて、リヱの方を見てみた。彼女はずっと姿勢良く一点を見つめて静止していた。
「おい。」
監視役に彼女の方を見ているのを注意された。俺は仕方なく彼女を見ることをやめた。縄が食い込むので手を少し動かして位置を変えると、余計にずれて痛くなった。
(本当に難儀なことだ。)
その時、急に扉の外で叫ぶような、悲鳴を上げるような声が響いた。何度も物音がして、更には銃を発砲する音が聞こえた。リヱの方を見ると、彼女も驚いた様子でこちらを見ていた。
監視役の二人が示し合わせてドアを開けた。彼らは勢い良く部屋から飛び出したが、次の瞬間には三人組の侵入者から脳天を殴られて卒倒していた。
(少女が助けに来てくれたのか……?)
俺は咄嗟にそう思ったが、しかし扉の向こうに立っていた三人の影は予想と全く異なる姿だった。
「水上少尉、桑浦女史、大丈夫ですか。」
そこに居たのは、先ほど自治会室で志段味たちと対峙していた軍人だったのである。彼らは素早く我々に近づいて、拘束している縄を折りたたみナイフを使って切り、我々を解放した。
「何故助けに来て下さったのですか。」
「外で『給炭塔』の方々をお見掛けしたのです。」
それは聞き間違いなどではなかった。彼らは今確かに『キュウタントウ』と言ったのである。俺も、もちろんリヱもこの上なく肝を冷やした。
「お二人とも、まだ『任務』が残っているでしょう。我々に着いてきてください。」
そう話す彼の面持ちは至って柔らかで、決して我々を犯罪者として拘束するつもりでないということを暗に主張していた。しかし、我々は彼に着いて行くべきか否か、迷った。俺はリヱの方を見て顔色を伺ったが、彼女もまた決めかねているようだった。そんな我々の事を察してか、年長の少尉が口を開いた。
「あなた方、給炭塔の構成員ですよね。……ああ、驚かないで、別に取って食ったりしませんよ。」
「ちょっと状況を解しかねるのですが。」
そう俺が答えると、少尉は辛くも笑いつつ、俺達を手招きした。その後すぐに少尉の目は真剣な眼差しに変わった。
「良く聞いてください。倉庫には二人の兵士を残します。まだ自治会の人間が外に四人居ます。彼らが戻ってくるまで、自治会室のちょうど死角になる部分で待ちます。彼らがやってきて味方が銃で威嚇しつつ倉庫から出てきたら、隙を見計らって我々はすぐに自治会室の外へ出ます。」
彼はそう言い終わった後、ふと気付いたように手に持っていた書類を差し出した。
「桑浦リヱさん、これが必要なんですよね。」
リヱは全く不意を突かれたというような表情だった。彼が渡したのは、先頃リヱが自治会の人間へと要求した「保安局に関する資料」だった。
「なぜこれの事を?」
「流石に覚えてないかな……。君のお父さんの店でよく車を直してたんだけどね。」
リヱが不思議がって聞くと、その少尉は突然砕けた、とても優しい口調でそう話した。
「もしかして、征二おじさん……?」
彼女は驚くと共に安心したように彼と握手をしていた。その「セイジ」という名前らしい少尉もまた、その再会を心から嬉しく思っているようだった。
「君は、……大きくなったなぁ。そして強くなった。」
「いえ、私なんて、まだとても。」
「とにかく、今は此処を出よう。それから色々とあったことを話すよ。」
俺たちは、彼を信じる事にした。俺がゆっくりと立ち上がると、リヱもそれに続いた。我々は最初警戒感からか、一歩ずつ迷うように進んだが、その足取りは次第に速くなっていった。
「あ、あとこれ、水上少尉は持っておいてください。」
倉庫を出る寸前、年長の少尉がそう言って手渡したのは銃だった。それはドイツのザイデル社の刻印がされた自動拳銃だった。
「俺も自分の銃を持っていますが。」
俺がそう言うと、少尉はもう一つ、俺の銃を懐から取り出して俺に手渡した。
「スタームルガーのホークアイ、良い趣味ですが、殺すか殺されるかという時には全く不向きな銃ですね。」
「なるべく人を殺したくなくて……。」
彼は笑って「そりゃ結構。」と言った。全くばかばかしい話である。それは俺を軍人として見ても、テロリストとして見ても変わらぬ事だった。前者なら、人を殺す気もないのに軍人をしている阿呆であるし、後者であるならば、百人以上をテロの巻き添えにした事を忘れた気狂いといった感じである。
「いずれにしろ、水上少尉には後方警戒を頼みますよ。」
「わかりました。」
彼が扉を開くと、自治会室の中は完全に制圧されていて、人影もなく、まったくの無音であった。少尉は左手の事務机が置いてあるスペースへと進んだ。その時、早くも廊下に続く扉の向こうで足音がした。
「隠れて。」
そう囁くように言いつつ、少尉がしゃがむようにジェスチャーをすると、我々も急いで机の陰に隠れた。俺は軍の幹候生時代に受けた訓練を思い出していた。今でこそ殆どホワイトカラーのような仕事ばかりしているが、入隊当初は銃を担いで演習場を駆けずり回ったものだった。
今でも演習があれば参加するが、ほとんどは後方支援のような作業ばかりで、ほとんど軍人とは程遠いものばかりである。しかし今、久々にあの緊迫感を味わっていた。それは俺が最も嫌いな類の緊張であった。
ゆっくりと扉が開く音がする。いくつかの足音が部屋の中に入ってきた。恐る恐る物陰から見ると、部屋の中に志段味と自治会の屈強な用心棒たちが戻ってきていた。
「おい、……おい!」
志段味は仲間へ何度か呼びかけたが、応える声はなかった。ふと見ると俺たちの横には男が手足を縛られて気絶していた。彼は恐らく監視役以外に此処に残っていた人間らしかった。あたりを恐る恐る見回すと、机の下などの目立たない所で自治会の人間と思しき影が倒れ伏していた。
一歩、二歩、と志段味らが歩みを進めるたびに、俺の心臓は一層強く鼓動した。足音と自分の心拍音だけが聞こえている。彼らは怪訝な顔をしていた。もしも彼らが我々の居場所に気付いてしまったらと思うと、恐ろしい。
息を潜める。いや、ほとんど止めていたかもしれない。体中の神経が過敏になる。指の先からじわじわと痺れが来て、最後には体中を包み込む。低周波を直接浴びせられたように顎に響く痺れ。間違いなく、それは極度の緊張から来るものだった。
「おい、和田、倉庫を開けろ。」
志段味がそう和田と言うらしい用心棒に告げた。しかし、命令された男は怖気付いて動けない。
「開けろォッ!」
志段味は癇癪を起こして彼を怒鳴りつけた。用心棒の男は嫌がりつつも、のろのろと、躊躇う様に、倉庫へと近づいていった。そして、手をかけた瞬間、
扉を蹴破って二人の軍人が飛び出してきた。
「動くな!」
軍人達が怒号を上げると、それに隠れて少尉が部屋の外へと移動を始めた。ゆっくりと気付かれないように移動していく。少尉が何かを二人の軍人に向かって合図すると、彼らは志段味らを拘束するために肉薄して格闘を始めた。いや、むしろ格闘をする事自体に意味があったのかもしれない。
扉へと進んでいく。電気コードの散らばった床を踏みしめても転ばないように何とか進んでいく。次の一歩を、次の一歩を。我々が明日も生きるために。
ふと後ろを見ると、志段味を丁度一人の准尉が羽交い絞めにしているところだった。リヱも俺に続いて走っていた。扉から飛び出すと、あの落書きに囲まれる。まるで異空間から脱出しようとするかのように俺たちはその禍々しい程の落書きの中を駆け抜けていた。
「あと少しだ、がんばれ!」
小さくではあるが、力強く少尉が言った。俺たちは走り続けるしかなかった。この薄暗い灰色の狭苦しい建物の中をひたすら走り続けるほかに、俺たちがここを出る為に出来ることはなかった。ただただ走るだけである。速く、しかし音をたてず、それでも速く。
突然、中尉が俺達を止めて銃を構えた。俺たちは長い長い廊下を走りぬけて、やっとのことで一つ目の角へと達した所だった。俺は後ろをむき直り、銃を構える。後ろには誰も居なかった。少尉は銃口を中心に円弧を書くように動いて敵を確認した後、さらに素早く横に動いた。
「来てください。」
そう言って再び走り出す少尉を追って俺たちも走る。階段の所まで来た。小さく半径を取りながら進む。手すりに隠れるようにして降りていく。
「待て。」
そう少尉が小さく言った。階段を上るひとつの足音が聞こえていた。もしも自治会の人間だとすれば遭遇した途端に何らかの行動を起こされるに違いなかった。それが拳で殴る程度か、もしくは棍棒か、はたまた銃か。相手の人数が少なければ少ないほどに危険が大きいのは明白だった。我々は銃で武装してはいるが、実際の所、警察権を持ち合わせていない。つまるところは発砲できない。
一方で相手は劣勢であればあるほど、強硬な手段に出るだろうことは想像できる。つまり、それは一発目を我々が受けることになるということだった。
足音が次第に近づいてくる。恐怖ではなかった。しかし、不安は俺の思考を確実に侵食していた。その足音が俺たちのほんの足先まで達した時、もしかすると俺は絶対に戻れぬ道へと踏み入ることになるだろうと思った。今既に退路は閉ざされつつある。それでも何かがそれを押し塞ごうとするモノに閊えて完全に塞がれる事を阻んでいた。もし、ここで遭遇してしまえば俺は最後には更なる罪を重ねる事になるだろうと確信していた。
足音が途中の階で途切れる事は無かった。更に言えば、ひとつの足音がふたつに増えたり、もしくは更に多くの足音がそのなかに隠れているなどという幻想は全く当たらなかった。結局、そのただ一人の足音は遂に我々の目の前まで来てしまったのである。
生唾を飲んだ。全身がざわめき、不愉快なチリチリとした感触が体中に走る。我々はただ息を潜める事しか出来なかった。
男が姿を現した。男は高下駄こそ履いては居なかったが、それは紛れも無いバンカラ姿で、鋭い目線をしていた。彼は暫く我々の潜むところを行き過ぎて、それから我々に気付いた。
「な、……貴様ら、どうやって逃げた!」
男は見てすぐ分かる程に激昂していた。そして次の瞬間には銃に手をかけていた。そしてその銃口は俺か、もしくはリヱに向けられていた。こうなれば我々はどうする事もできない。特に軍人は民間人に対する先制発砲を厳しく禁じられている。しかし、よくも考えれば、俺は未だに軍の制約などというものに縛られて動いているらしかった。もう、俺はただのテロリストに過ぎないのである。だとすれば、――
俺は銃を彼に向かって構えた。しかしその照準は合わない。俺は俺が俺で無くなるかもしれないことを心から恐れていた。そして、そのような余計な事を考えた事は明らかな間違いであった。彼は躊躇うことなく我々に発砲したのであった。
恐ろしく、冷淡な、甲高い破裂音が辺りに響いた。
その銃弾がどこに落ちるか、想像も出来なかった。しかし、俺はすぐにでも報復することを選んだ。少尉もそうするはずである。そして、三発若しくは四発……いや五発、引き金を引いた。もう最後に撃つ頃には敵は倒れていたと思う。しかし俺は彼に近寄ってまでも発砲した。それは、報復であった。
そう、俺は少尉が倒れるのを見ていた。彼は我々の盾となって銃弾を受けてしまった。
目の前には伏せる二つの肉体。敵はもう死んでいた。惨いという程に、死んでいることが分かった。一方の少尉は致命傷を負いながらも生きていた。俺は駆け寄った。リヱは咽び泣いていた。
「少尉、大丈夫ですか!」
「私のことは放って、先に行ってください。」
少尉は明らかに衰弱していた。今すぐにでも病院に運ばねばと思った。銃弾は不運な事に胸の辺りに当たっていた。このままではそう長くは生きられまい。
「駄目です。貴方を置いては行けない。」
「我々はみな一昨年のかの方による『煤炭宣言』に薫陶を受けているのです。貴方たちが無事帰らなければ、大義は達せられない。」
「そんなことで、なぜ命まで投げ打つ必要がある!」
「つい先程お目に掛かりましたが、かの方の瞳は澄んだ水に浮かぶようだった。……それでいて決意の焔が燃えていた。彼女こそが、この国を変えられるただ一人の人間だと確信したのです……。だから、私は捨石でも良いのです。」
彼の決意は固かった。俺は、彼の意思を尊重すべきか、迷った。しかしリヱはどうしても納得できず、涙声のままに彼に訴えていた。
「そんなの、絶対に駄目です。命を無駄にするのは駄目です……!」
彼はリヱの頭をゆっくりと撫でた。
「向こうに行ったら、君のお父さんにも立派に育っていたって伝えるよ……。だから、君には絶対に生きて欲しい。生きて、……君のすべき事をして欲しい。他の二人もいざとなれば命を捨てる覚悟で居る。……お願いだ、先に行ってくれ。」
彼の懇願は悲痛だった。リヱはそんな彼の言葉を聞いて、ただ泣く事しか出来なかった。やっと会えた旧知の人と、殆ど話す事も無くたった数十分で再び、今度は永訣することになろうなどと、そんな事を許容できるはずも無かった。しかし、彼の言う事は最も正しかった。今俺たちに出来ることは先に進む事だけだった。
「リヱ、行こう。」
リヱはその涙にぬらした顔を大きく左右に振った。
「行ってくれ。君のお父さんも、お母さんも、お前が生きる事を望んでるに違いないんだ。」
搾り出すように少尉が言った。リヱはそれを聞いて、嗚咽を上げた。そして幾度も頷いて、それから涙を手でこすって拭き取り、こちらを見た。
「別れる前に、おじさんに少し話しても良いですか。」
「駄目だ。早く行け。話せば話すほどに別れは惜しくなる。」
そう言ったのは、他でもない少尉だった。彼は擦り切れそうな声で、そうリヱに諭した。その後俺の方をじっと見て、二度頷いた。俺はリヱの手を取った。彼女もまた、俺の引く手に抵抗することはなかった。力なく立ち上がると、歩みを進め始めた。
脇に、俺の殺した男が横たわっていた。俺は一度止まって、それをまじまじと見た。体中に銃弾を受けていた。顔にまでその負傷は及び、醜悪な生肉をその体外へと晒していた。それは青ざめてむごたらしい肉塊だった。
生前は健康的で美しかったであろう、その筋肉隆々の肢体も、いまや血の気のない蝋人形のように変わり果て、生きていた事を示すのは彼を殺したその冷たい生傷から溢れ出した紅色の血のみである。俺は彼の顔を見たことがあった。これは死んだ親父と母親の顔と同じだ。この手で抱きかかえて見たのだから間違いない。死んだものは皆、同じように硬直して恐ろしい顔をするのだ。
そして、俺は突然、最も恐ろしい事にやっと気付いた。それは、同じ事を百人、もしくは二百人に俺は犯したという事である。俺がした事はビルに爆弾で炎の花を咲かせただけでは決してなかった。俺がしたことは生ける者の顔から無理矢理血を抜き取り、この陰鬱な石膏像を大量に作り上げるという事に他ならなかった。
しかし、俺は再び歩き出した。後ろに目をやると、少尉はずっと此方を見ていた。その目は真っ直ぐで、凄みに溢れ、それは正に生命の鳴動を表すような眼光であった。しかし、それとは対照的に、彼の人生はまもなく終わろうとしている。俺はそれを疑問に思った。死に際と言うのに、彼はなぜこうも希望に満ち溢れた目をしているのだろうか。なぜこんなにも、生気みなぎる目をしているのだろうか。
そして同時に、次の瞬間にはもしかすると、その顔からも赤味が消え、あの冷酷な死の仮面が変わりに現れる事になるであろう事に、俺は恐怖した。
リヱは泣いていた。無言で、ただただ涙を溢れさせていた。しかしもう嗚咽を上げはしなかった。彼女は溢れ出そうとする涙を片手で覆い隠し、もう片手で俺の軍服のすそを掴み、早足に歩いていた。俺はそんな彼女に、何も出来る事はなかった。
今は、この狭い建物がとても広く感じた。早足で歩いても、いくら歩いても、終わる気がしなかった。一気に今までの人生に自分のやってきた事を思い返して、自分で後悔をした。俺は全て間違っていたと思った。
そしてそれは走馬灯であった。この瞬間、希望に満ち溢れる理想主義者であった水上少尉は死に絶え、変わって残酷で他人の死を気にも留めない犯罪者である水上という男が生まれたのである。存在者である俺自身は何も、全く変わっていない。ただ、その存在の定義するところがまるっきり変わってしまったのである。
「……なんで全部なくなっちゃうんでしょうか。」
ついに玄関が見えたとき、ふいにリヱがそう言った。
「何がだ?」
俺がそう聞くと、彼女は「なんでもないです。」とだけ言って、それからまた黙り込んだ。俺たちは陰鬱な雰囲気を湛えたままに、玄関の外へと出た。雨は止んでいた。相変わらず、警備員室はもぬけの殻のままだったし、外は静かなままだった。
「水上君、ご苦労。」
少女は意外にも目立つ場所に立っていた。彼女は珍しくも、笑みの一つも、愛想笑いすらも浮かべずに俺を出迎えた。彼女の目には感情と言うものの片片も見当たらなかった。もちろん、「水に浮かぶような美しい瞳」をそこに感じる事も出来なかった。
「じゃあ、後始末して、帰るか。」
そう楠が言った。そして彼らは車に乗り込もうとした。
「NEAIDは奪えたのか?」
「まだだよ。」
冬の風に枯葉が舞った。そのひとかけらが少女の顔の輪郭の上を撫でるように横切っていった。
「車に乗って、どうやって奪うってんだ。」
少女は俺がそう言ったのを聞いて、目を逸らしつつ嘆息した。それから一旦逸らした目をこちらに向けて、寒さに乾いた唇を軽く舐めた。
「奪うとは言ったが、それを我々がどう処遇しようが勝手だろう。」
俺は彼女の言う意味に薄々感づいた。そして、自分が先頃重ねた罪に、再び大きな罪を上塗りする事になるであろう事を直感した。しかし、彼女の行動を止める気はもはや無かった。俺は諦めていた。俺には「何も出来ない」から「何かをしてしまう」と知っていた。
少女と日野、そして楠は手近に停めてあった「ガンマ」とローマ字で刻印されたイタリア車に乗り込んでいた。俺とリヱもそれを追う様にして我々の車に駆け寄って乗り込もうとした。
「死にたくなけりゃ四十秒で此処から出ろよ。」
日野が車の中からそう言うのを聞いて、俺は小さく頷いた。帰りはリヱに代わって俺が運転する事にした。急いで少女らの車の後ろについて構内を出る。その後、キャンパスを横断する幹線道路に出たが、俺は彼女らの車とは逆の方向に出て、一度停まった。
「何してるんですか?」
リヱからそう言われるのは今日二回目だった。
「俺には仕事を見届ける冷たい義務がある。」
俺はそう言って、後ろを振り向いた。工学部一号館はいまだ、その古ぼけたネオクラシシズムの威厳を振りまいて、大学を総覧する位置に鎮座していた。しかし、それも長くは続くまい。
大きな爆発音がした。
先頃までそこに在った、近代日本の科学技術を担うその殿堂は地面へと身を沈め、辺りにはドクドクとその構造物の破断した片々が白煙となって上がっていた。そして、俺は今の瞬間に、また何十、もしくは何百と知れぬ人間の命を奪ったらしかった。俺は再び殺戮に手を下した。あの少尉と、生きていただろうその部下はもちろん、中に居た学生や、自治会の面々の命を全て奪った。
「水上さん、早めに行きましょう。もうここですることもありません。」
そう彼女が言うのも殆ど俺には聞こえていない様なものだった。なぜならその瞬間、俺は自分が変わってしまった事を確信していたからである。俺は自らの携わった破壊工作は、たとえ商業用の爆破解体であれど、先の陸軍省の一件であれど、その崩落を全て見て自分の中に刻み付ける事を常としていた。それ自体は日常であったし、特段の感傷も覚えぬ出来事だった。それは陸軍省を爆破した時ですらである。
しかし、今は明らかに違っていた。俺はその有様にただならぬ恐怖を覚えていた。そして、それは抑えようも無い程の感情の決壊を俺にもたらした。俺自身が爆心地にでも居るかのように、全てに諦観を覚え、それと同時に言いようの無いようなノイズが心に走った。
そして、最も恐ろしかったのは、そのノイズに隠れて、僅かながら、自分の中に、この悲劇を感受することを諦めて、それを快感と読み替えてしまえば良いという考えが走っていた事であった。それは、俺が最後の希望を抱き続けた自分の善意と言うものが、少しも残っていないという事を、あからさまに表していたのであった。