10. とある女性の射影
準備はあらかた既に終わっているか、もしくは必要ないかのどちらかであったが、唯一車が一台足りないという事で、それを持っているという桑浦リヱについてその車を取りに行くこととなった。
そういうわけで、俺は彼女と共に名古屋市電に乗っていた。といっても、すぐに別の系統に乗り換えねばならない。名岐電車で名古屋まで出た後、愛電に乗り換えて神宮前駅で降りる。熱田神宮前の電停から今度は市電に乗り換え、更に熱田駅前から名古屋港へ行く系統へと乗り換えるのである。
「車を持ってるとは言うが、何でまた名古屋港まで行かねばならんのだ。」
「す、すみません……。実は車を倉庫に保管してるんです。」
市電は今、交差点に止まっている。ここ、熱田付近は熱田神宮の門前町として発達すると共に、かつては宮宿と呼ばれ、交通の要衝として東海道周辺では桑名宿と並ぶ隆盛ぶりであったと伝えられる。
『ハイ、発車します。手摺にお掴まり下さい。』
そう放送が掛ると、電車は大きく揺れた後に発車した。そうしてすぐに熱田駅前に着く。ターミナルデパートを擁する一大ターミナル駅となっている愛電神宮前とは違って国鉄熱田駅は小ぢんまりとしていた。俺たちは乗換券を貰う為に車掌に声を掛けた。
「乗り換えなんですけど。」
「はい、じゃあ乗換券ですね。どうぞ。次の電車に乗るときに渡してください。」
乗換券を貰い、そのまま外に出た。桑浦も続いて電車を下りる。傘を差そうとしたが、もう雨は止んでいた。電車は二度信鈴をチンチンと鳴らしてから直ぐに轟音を立てて発車していった。安全地帯には俺たち二人が残された。
「次の電車はどっちから来るんだ。」
「金山橋のほうからですね。」
「清餅」なる和菓子の宣伝が入った黄色い駅名標の下にある時刻表を暫し眺めた。東京では都電が廃止されて久しいので、路面電車に乗るというだけでも何か異界に来たような気がするのであった。
「ああ、その時刻表は役に立ちませんよ。」
「え?」
「都心部は渋滞が酷くて市電が動かないんですよ。四六時中いつでも市電は遅れます。」
確かに、辺りは相当交通量が多かった。どれも古ぼけた車やトラックだが、ひしめいてモゾモゾと動いている。信号が変わると、数人の客が道路を渡って安全地帯に登った。冬の風で狭い安全地帯から落ちそうになると、少し危なっかしい。
「清餅、なつかしいなぁ。」
ふと、桑浦リヱが言った。彼女は遠い目をしていた。
「清餅ってのは何なんだ。」
「白い餅の皮のなかに餡子を包んだ、小さな大福みたいなお菓子です。」
「へぇ。」と俺が言った。彼女はメガネの位置を手で直した。一方、俺は腕時計で時間を見た。まだ、実行時間まではたっぷりと時間があった。
「むかし、名古屋に住んでいた頃には、元日に初詣で家族と熱田さんにお参りするのが恒例だったんです。その土産に清餅をよく買って、家で皆して口の周りに白い粉をつけながら食べるんですよ。」
彼女の言う「熱田さん」とは、熱田神宮の事である。今もこの熱田駅前電停から交差点の向こうに広大な鎮守の森を見ることが出来るそれは、天叢雲剣を主祭神とする格式高い社で、今日も多くの参詣客で賑わっている。
「思い出の味ってところか。」
「まぁ、そんなところですね。」
ふふっ、と可愛らしく彼女は笑って、それから黙り込んだ。幾度か、彼女の黙り込む顔を見るたびに、その深刻な顔に得体の知れない不安を覚えることがあった。それは何とも形容しがたいものだったが、恐らく俺は彼女に致命的な不安定さを感じていたのである。そして今も、彼女はその表情をしていた。もし、その表情をずっと見続ければ、彼女と関わる事が恐ろしくなると思った。だから、俺は金山橋の方をずっと見続けて、市電を探したのである。
「向こうに市電が見えるぞ。」
数分たって、俺はやっとのことで金山橋のほうからやってくる緑とベージュに赤い帯の入った市電を見つけた。赤帯が入っているワンマン車は支線に多いらしいので、もしかすれば名古屋港に向かう電車かもしれない。
「あ、名古屋港行きって書いてありますね。」
「やっとか。」
けたたましいブレーキ音を立てて電車が停まると、ドアがガラガラと開く。運転手に乗換券を見せて乗り込むと、俺たちは手近な座席に座った。安全地帯に居た客をあらかた乗せると、扉も閉まらぬうちに電車は例の信鈴を二度鳴らして、走り出した。
熱田を出てさっきまで乗っていた路線と分岐すると、すぐに港町の倉庫街という光景がはじまる。そもそも、熱田はかつて岬であり、七里の渡しという桑名宿までの渡し舟があったところである。それが次々と干拓で埋め立てられて今は内陸にあるのであって、そもそもこの辺りはかつてからの港なのであった。俺たちはしばらく路面電車に揺られ、港楽町電停で降りた。
「この波止場を囲うように立っている倉庫の一つの中に車があります。」
電停から少々港の方に歩くと、船だまりを囲うように倉庫が立ち並ぶ一角があった。鉄筋コンクリート造の無骨な建築がまるで砦のように並ぶ界隈はこの倉庫街にあって、ひと際異彩を放っていた。
「こんな場所があるんだね。」
リヱについて行くと、壁面には大手商社の紋章と誇らしげな企業名が並んでいるのが見える。しかし、どれも今は使われていないようで、近くで見ると朽ち果てて侘しい。
「近頃は商社も不景気で、この倉庫は滅多に使わないみたいですね。」
「へぇ。」
彼女はそう言いつつ、倉庫の中に埋没した船舶用か、もしくは運送用かの古びた燃料給油機の前に行き当たった。
「車には多分燃料がないので、ここでちょっとハイオクを失敬していきましょう。」
そういうと、付近に置かれているポリタンクから適当なものを選び取って、それに給油ノズルをあてがうと、中にガソリンを満たした。本来はそういうものにガソリンを入れてはならないのだが、どうせ短時間であるし、どうでも良い事だった。
「さっさと車を取りに行きましょうか。」
ポリタンクのキャップを閉めると、彼女はそう言って歩き出した。
「タンク、持つよ。」
「あ、すみません。お願いします。」
彼女は一度止まってから振り返り、微笑んで俺にタンクを渡すと向き直って再び進んだ。
「ここです。」
給油機のある所から倉庫を二三軒超えたところに、これまた巨大な、それでいて無銘の倉庫が鎮座していた。
「こりゃ、また古そうな倉庫だ。」
それは一部がレンガで装飾された、いかにも古風であるが立派な倉庫だった。その中央には何かかつての所有者を示すであろう文字があるらしかったが、既に塗り潰されていた。彼女は大量の鍵が付けられたリングをカバンの中から取り出すと、その中から小さく金色の一つを選び取り、倉庫の周りの鉄柵についた扉の南京錠に挿し込んで開けた。
「どうぞ。」
「ああ、どうも。」
「今、あっちの扉を開けますので。」
リヱはすぐに倉庫の右端にある小さな入り口に鍵を挿し入れて開け、俺を中に通した。
「こりゃ、すげえな。」
中は、ほぼ建物内ぶち抜きの広い空間で、様々なパレットやコンテナが並んでいた。明かりは薄暗い電球のみで、少々頼りない。リヱは手馴れた様子でそそくさと奥へ進んでいた。
「私は港側のシャッターを開けてくるので、水上さんはそこの業務用エレベータの前で待っていて下さい。」
リヱはそう言うと、奥の管理人室か何かの中に消えたので、この広い空間には俺だけが残された。倉庫の一番奥、船だまり側には巨大なエレベータがあった。おそらくこの倉庫はその巨大さに反して二階建てで、その巨大な荷物はエレベータで揚げ降ろしを行っているらしかった。緑色に塗られた華奢な鉄格子が、その巨大なエレベータの用途を物語っている。
向こうで轟音がして、シャッターが開くのが見えた。仄暗い倉庫の中に、外のまぶしい光が差し込んだ。暗い燈色だった世界が、一気にホワイトアウトした。
「さて、水上さん。『地下』に降りましょう。」
「地下なんてものがあるのか。」
そう俺が返すと、彼女は得意気な様子であった。エレベータの鉄格子を勢い良く開けると、俺たちはエレベータに乗り込んだ。これで降りるのかと思えば、彼女はエレベータの中を通過して、左奥にある鉄の扉の鍵を開けて、中に入った。
「階段、急なので気をつけてください。」
「エレベータでは降りられないのか。」
「隠し部屋なので、エレベータは下からだけ操作できるようになってるんです。」
なるほど、その先は隠し部屋であった。急な螺旋階段はコンクリート打ちっぱなしの粗末な構造で、降りるのにとても手間取る。下まで行くともう一つ扉があり、彼女はまた鍵を開け、扉を開け放った。
「なんだこれは。凄いな。」
そこには、素晴らしい装飾品や嗜好品が所狭しと置かれていた。そのどれもが今では殆ど手に入らないようなものばかりで、本国でも多くは破却されて久しいようなシロモノばかりだった。そして、その中央に深緑色をしたクーペタイプの自動車が鎮座していた。
「懐かしいなぁ。」
彼女はそう言いながら、部屋の一角にある机の上の金庫を開けて車のキーを取り出すと、ドアを開けた。車内を一通り見回しているうちに、俺の方を見返して、
「水上さん、燃料を入れちゃってください。」
と指図した。俺はどう入れようか思案したものの、机の上に漏斗を見つけたので、それを使って上手く入れることにした。その間、リヱの方は何やらエンジンルームを開けて点検をしているようだった。
「あ、エンジン掛けますね。」
キュルキュルと音がして、エンジンが唸りを上げた。
「お、バッテリー生きてたのか。」
「ええ。まぁ、一年前に買ったのを充電しておいたので載せ換えるだけでした。」
彼女が運転席に座り、俺が助手席に納まる。なんともみっともないが、彼女の車である上に、何やら精巧な工芸品のような外観で、どう見ても高級車であったので、運転を買って出る勇気も無かった。
「随分古そうな車だが、こりゃ何だ。」
「スポーツカーの中のスポーツカーってやつです。」
「随分とまぁ、抽象的な説明だな。」
確かに、革張りのシートや木製ステアリングホイール、丁寧に仕上げられた内装一つ一つが高級車であるというその存在をはっきりと主張している。一方で、この車はスポーツカーでもあった。そのスタイルは古いが、伝統的スポーツカーそのものだし、エンジンの方は恐ろしい唸り声を上げていた。
「これは古いモデルの外観なんですが、しっかりと五・三リットルV型十二気筒エンジン搭載で、二七二馬力を発するんですよ。パワステもあるしブレーキも新型です。」
「何だ、凄く詳しいじゃないか。」
「お父さんが口癖のように言ってたんです。」
何しろ、二七二馬力というと、日産が発売しているクーペの大体二倍くらいの出力である。ようするに、物凄く速い車らしかった。そうともなれば燃費が気になるところである。先ほど入れたガソリンがどれだけ持つかは計り知れない。これだけの大排気量だと、リッター五キロくらいだろうか。
「ところで燃費は。」
「リッター二・五キロくらいですね。」
どうやら、中帝大までに一度ガソリンスタンドに寄る必要があるらしい。