9. 四日後の朝
四日が経過していた。俺はその朝を、ここ数日間と同じベッドの上でむかえた。
結局、あの仕事は夜のうちには終わらなかった。翌朝、寝不足の中で朝食を食べていたら、日野がそれを心配に思ったのか、もう一眠りするように言われた。給炭塔の中は俺が来たときよりも幾分賑やかで楽しげな雰囲気になったが、結局の所、それが俺の心のわだかまりを緩解することなどはなかった。
当たり前の日常というものは、人間の時間感覚を麻痺させるもので、この給炭塔と言う異常な場所での当たり前な日々は俺にとって余りにも短く感じられた。朝食を摂り、歓談をして、仕事をし、昼を食べ、また仕事をして、皆と夕食を食べる。それだけの日が数日続いた。俺はその日々に対して特段の感想も抱かなかったが、不思議なことに、一週間弱を共に生活しただけで、住人たちとは妙な連帯感が生まれた。
ただ、楠だけは、どうも軍人としての職務があるらしく、少なくない頻度で給炭塔を不在にしていた。かつての友人だった彼とは、ここでは余りにも会話を交わすことが少なかった。結局、彼は憲兵であり、俺は軍規違反どころの問題ではない重大犯罪者なのであった。それを反省するどころか、今まさに罪を重ねようとしている俺にとって、彼に話し掛ける事は何より引け目を感じることだったし、彼にとってもそうだったのだろう。
だからこそだろうか、俺はこの給炭塔での関わり合いに、凄まじい浮遊感を感じていた。過去の友人との疎遠と、新たな関わり合いの発見の中に、俺は自分の居場所を見つけることが出来なかったのである。
起きると、外は雨だった。雨の日は憂鬱な気分になる。給炭塔の主たる構造である鉄板に雨が打ちつけ、カラカラと音を立てている。窓の外は仄暗かった。眠い中、いつものようにパジャマを脱いでスラックスとカッターシャツを着込む。じめついて曇った鏡を手で擦って、寝癖の付いた髪の毛をすこし整える。
(陰気な空だ。)
窓を開けて外を覗くと、真っ暗な空から一面に雨が降りしきり、辺りは何処の家も電気をつけている。半分夜のような景色だった。人間とは恐ろしいもので、最初は困惑だらけであったこの生活にも、ものの数日で慣れきってしまっていた。食卓へと降りると、今日も変わらず朝食が用意されていた。
「やぁ、水上君。おはよう。」
「ああ、おはよう。」
朝、下へ降りると最初に挨拶をしてくるのがあの少女であるという事も、いつもの事であった。今日も彼女は割烹着を着て台所で料理に勤しんでいる。
「水上君、今朝はちょっと粗末なご飯になりそうなんだ。理由は食事中にお知らせするが。」
少女は微笑んでそう言った。それは彼女が時折発する不気味な笑みとは違って殆ど屈託の無い笑顔と言えたが、それにも関わらず、俺はその言葉に恐ろしい何かを感じていた。
「ああ、わかったよ。」
部屋の端を見遣ると、俺が昨日仕上げたばかりの破壊工作に関する計画書が入ったプラスチック製の筒が置いてあった。杞憂に終われば良いと思ったが、いつかは実行に移されるのだから、今日それが起こったところで何も変わらないと自分に言い聞かせて心を落ち着けるしかない。
既にいくつか料理が置かれているテーブルを囲んだ顔ぶれは殆どいつもと変わりなかった。ただ、楠が初めて朝食に加わっていた。
「おはよう。」
「あ、おはようございます。」
「おう、おはよ。」
そう、いつものように挨拶を交わす。女子二人は何故か並んで新聞を読んでいた。日野はコーヒーを飲みながら、いつもの如く英字新聞を読んでいる。一方の桑浦リヱは珍しく地元紙である中部日報を読んでいた。一面の記事は近頃東京で起きている退役軍人や軍高官に対する殺傷事件のものだった。
「今日は新聞読んでるのか。」
「ええ、朝にちょっと近くの店まで買出しをしたので、そのついでに買ってきたんです。」
リヱは微笑みながらそう言って、再び三面に視線を落としていた。
「また軍の高官が殺されたって、軍の警備状況はどうなってるんだろうな。」
俺はふとそんな事を呟いた。日野もこの件には言及していたが、最初の事件が起きたのは昨年で、それ以来軍の内部では高官の警備体制に関する話が時折出ていた。一方で、目先の外交問題などで手一杯の軍政部はそんな話など露知らず、ドイツに対して軍備増強を誇示することで外交を優位に進める為に小手先の財務に対する言い訳ばかり考えていたらしかった。
「酷いもんですよ。彼らは自分達が無条件に国民から愛されていると思ってるんです。」
リヱは新聞を読みながら片手間にそんな事を言った。そして付け加えて「もしくは、国民から敬愛されねばならないと思っているんです。」と言った。
「まぁ、軍規がキツくなったらいよいよ大変だという事だろうな。」
俺がそんな事を言うと、リヱは少しだけ笑っていた。ところで、俺が腰掛けた椅子は楠のちょうど真正面であった。女子二人組とは対照的に、こちらは暇そうに足を組んでいた。
「おはよう。珍しいな。」
「え?ああ、そういや君らとここで朝食を食べるのは初めてか。」
楠は小さく笑ってそう言った。
「俺の記憶が正しければな。」
「恐らく正しいな。俺もそう記憶してる。」
彼はそう回りくどい答え方で言ったが、それは昔からずっと変わらないことだった。というのも、彼は帝大から志願兵として陸軍に加わった、いわゆるキャリア組の人間であったから、それは当然の事である。一般の大学生は帝大生を揶揄して「学問の豚」と言う事があったが、彼もそれに違わぬ衒学的な喋りをする男であった。もっとも、そういう部分も受容して友人をやっているわけだが。
「ところで楠、今日はあの少女殿から重大発表があるそうだが、それは何なんだ。」
「え、ああ。中部帝大の工学部自治会を脅しに行くそうだ。」
意外すぎるほどに自然と彼が言った事を聞いて、俺は最初何を言ったのか理解できなかった。暫し考えていたが、どうやらそれが俺にとっての初仕事になるらしい事は分かった。
「楠、それ何処で聞いたんだよ。オレも今の今まで知らなかったんだが。」
その言葉に最初に反応したのは俺ではなく、むしろ日野だった。彼女は余程意外だったのか、柄にもなく目をぱちくりさせながらそんなふうに聞いていた。
「そりゃあ、私が持ち込んだ話だからね。」
「何だそりゃ、今の時期に何でまた突然中帝大なんかを。」
日野が少し不機嫌そうに言ったので、楠は半笑いの様子で「ちょうど好機なんだよ。君たちだって此処で準備をすると言ってもどうせ雑談しているか、飲んだくれているかだろう。」と言いかえしたが、それに日野は全く合点が行かなかったらしく、一層気難しそうな顔になった。
「大事な計画の最中に横槍を入れるような真似をしやがって。」
そう彼女が言ったことには、中帝大と何らかの折衝をする以上の計画が裏にあるだろうという事が読み取れた。何か大きな計画が進行しているだろうことは予想に容易いことだったが、会話の雲行きが余りに怪しいので、どうも不安でならなかった。一方、それを聞いた楠は半ば呆れたような笑い顔であった。
「横槍だって?俺は君たちに仕事を提供しているというのに、それは図々しいと言うものだよ。」
彼がそう吐き捨てるように、もしくは日野の追及をひらりとかわす様に答えると、一層彼女の表情は怒りを湛えたものになった。彼女は手に持っていた英字新聞を静かに、しかし力みながら畳んでテーブルの上に置くと、楠を鋭い眼光で睨み付けた。
「お前はいつだって金に替えて面倒ごとばかり持ち込んでくるじゃねえか。」
日野はそう言うと、それからは何も話さなくなった。楠もまた、何を今更掘り返すのだろうというような感じで、何も話さなかった。ほの暗いダイニングルームに静寂が漂っていた。雨音だけが延々と響いている。桑浦リヱはその空気に耐えかねて新聞で殆ど顔を覆い隠すようにした。紙の擦れる音がする。
「やぁやぁ、諸君。何だね、その浮かない顔は。」
辛い静寂の中に突然、そんな声がした。その気まずい静寂を破った絹のような繊細で美しい音色は、確かに少女のものであった。彼女は盆にいっぱい味噌汁を載せて運んできた所だった。そして、この苦い空気をよそに、その味噌汁を口笛を吹きながら配膳していた。
「今日は忙しいからな。早く食べるぞ。」
少女は全く空気を読む事をする気配は無く、話しかける口調もいつもの通りだった。俺たちはそれぞれに小さく「いただきます、」と言って箸を取り、それぞれにぼそぼそと食事を摂りはじめた。
今朝の食卓は、いつもの朝とある意味では変わらないが、決定的に雰囲気が違っていた。それは日野と楠による事は間違いなかったが、それがどのような経緯でこのような反目の様相を呈しているのかは全く見当も付かないことであった。彼らが特別仲の悪そうにしていることなど、この数日で見たことは無かった。むしろ、二人はよく話すほうだった。
「いやいや、本当に何なのだね。」
少女がそう言ったことには、やはり彼女もこの空気に気付いていたのだろう。少女にそう問われて、やっとのことで日野が話し出した。
「何でも、中部帝大にちょっかいを出すそうじゃねえか。」
「おっと、私の口から報告したかったというのに、それを漏らしてしまったのは誰だい?」
少女は半笑いでそう言ったので、「俺が楠から聞いた。」と答えたところ、少女はやっぱりかという表情で「まぁ、いい。」と適当に受け流した。続いて彼女は日野の方に向き直った。
「中部帝大に少し脅しをかけるというのは本当だ。今日はこの後から今度の作戦内容の説明だよ。」
「その脅しって奴にオレは異論があるんだよ。」
日野は食事も半ばにして箸を置いて、そう語気を強くして言った。しばし、食卓には静寂の時が訪れた。
「キミはボクに対して何が言いたいんだい。」
「今は目下の計画に専念すべきだろう。」
少女は小さく溜息を付いた。それから、「そんな事も分かっていないのかい。」と彼女はいつもの口調で嫌味ったらしく言った。
「今度の計画は確かに楠君が持ち込んだものだがね、ボクも前々から中部帝大に目を付けていたのだよ。」
楠が少し驚いたような顔をして、「そりゃどういうことだ。」と聞いたところ、少女はあの不敵な笑みを浮かべながら、答えた。
「君たちは陸軍が七帝大と協同して超高性能コンピュータの製作を行っているのを知っているかい。」
「私は知らないな。いったいどういう事かね。」
楠は冷静が口調でそう答えると、少女はいつもの得意げな顔をした。いっぽうの俺はこの件についてかいつまんで聞いた事があった。というのも、陸軍での種々の演算に用いる為に人工知能装置、すなわち高性能コンピュータを製作しているという事を同輩との会話の中で小耳に挟んだ事があったのである。
「正式名は次世代拡張型人工知能装置、略してNEAID(※ニード)とも言うが、そういう計画が立案されているんだよ。」
「俺は聞いた事があるぞ。何でも、戦略核の性能向上に利用したいとか何とか。」
「ああ、そしてそれは恐らく中帝大の工学部一号館にあるわけだ。」
最初、日野は如何にも瑣末な話であると主張するかのように、椅子にだらしなく体をもたれさせた座り方で聞いていたが、今は誰よりも身を少女の方へと乗り出していた。一方の楠は提案した張本人であるにも拘らず、少女の発言に驚きをもって接しているようであった。
「今回の目的はその人工知能を中帝大から奪う事だよ。」
「おいおい、そいつは奪えるくらいのデカさのものなのか。」
日野がそう言ったことには全く同意できる。一般的な高性能コンピュータというのは部屋一面に渡って所狭しと置いてあるというものだ。そのようなものを数人で奪えるはずもない。
「奪い方は色々考えてあるからね。」
少女はそう言って、またもや得意気な顔をしていた。彼女には彼女で何か考えがあるらしかった。しかし、普段より難解極まりない彼女の真意を我々が汲み取ることなど不可能なことだ。今回ばかりは、少なくともその方法について説明して貰わないと埒が明かないと思った。
「ひとまず、準備と手順を説明して欲しい。」
俺がそう言うと、少女はにやりと笑って、部屋の端から移動式の黒板を引き出してきた。
「諸君、食事を済ませておくれ。済み次第、この黒板を使って説明を行う。」
腕組みをして少女は勇ましくそう宣言した。今まで、情報を秘匿する事が多かった少女が、こうやって大々的に宣言するということは、いよいよ何かが動き出すということなのだろうと俺は直感していた。それは明日の自分の事を考えれば歓迎しかねる事だったが、一方で今日の自分の心にある蟠りを考えれば嬉しい事にも思えた。
日野と楠は急いで朝食を掻き込むように食べ始めたが、横を見ると桑浦リヱはその様子に困惑したような表情で視線を彼らと料理との間で行き来させていた。俺は何の気なしに彼女を助けなければならないと思った。
「俺はゆっくり食べるから、あなたもゆっくりで良いよ。」
「え、ああ、ありがとうございます。しっかり噛んで食べます。」
少しとぼけた顔でこちらを見た彼女に俺は微笑したが、内心では、これから遂に始まるであろう「少女らの戦い」に俺たちも身を投じる事になるという見通しに対して、自らの分裂した正義感から来る葛藤を募らせることにもなった。
……。
「さて、これが建築物の模式図だ。」
我々が食事を終えるとすぐ、少女の「講義」が始まった。彼女が黒板を指し示したところにはコの字形をした建築物の簡素な平面図が示されていた。フロアは三つあり、玄関と幾つかの階段と通路、部屋が示されている。
「ここが工学部自治会室、ここが情報装置講座の区画で、これがNEAIDを開発している財家教授の居室だ。警備員室は玄関横にある。」
自治会室は三フロア目、教授居室は二フロア目にあった。なにしろ、我々は黙って少女の説明を聞いていた。楠はノートにメモを取っていた。俺も取るべきかと思ったが、後で彼のメモを写真にでも撮っておけば良いと思った。
「作戦内容の解説に移る前に楠君、現在の中帝大の状況について報告して頂きたい。」
突然名前を呼ばれた楠は驚いたようだったが、すぐに了解したというように立ち上がって黒板の前に移動した。彼は一度咳払いをしてから、話し始めた。
「今日、全国の帝国大学では学生自治組織が連携をとって教養学部棟でストライキを行う。具体的には世界一日同時革命へ向けた講義ボイコットとの事だが、この結果として警備人員がそちらに割かれている。関係者外が立ち入ることも今なら出来るというわけだ。」
「ちょっと待ってくれ。今日やるのか。」
「事前から幾つかの候補日を自治会側は挙げていたのだが、昨日の夜になって今日やると通達があってね。」
彼の言うことは即ち、自治会側と小競り合いを起こすのに今日は最適な状況であるという事だった。学生組織は給炭塔のメンバーに対して敵意を抱いているらしかったから、この期に乗じて事を進めようという思惑が楠側にはあったらしいが、ストライキの発表が寸前になってしまった為に今日役割を決めて、早速実行することになってしまったという事だ。
「ありがとう、楠君。」
少女はそう言いながら部屋の奥から何やら台車に載せて運んできた。よくよく見ればそれはプロジェクタで、その後ろからはいくつか配線が出て、その一つが部屋の隅のコンピュータに向かっている。少女は今まで見たことの無いほどの真剣な表情であった。彼女は勢い良くスクリーンを引き下ろすと、プロジェクタのスイッチを入れた。
「さて、これからが本題だ。我々は今回の作戦に当たって、三つに班を分ける。甲班、乙班、丙班それぞれの編成は次の通りだ。」
プロジェクタには我々の名前が映し出されていた。それによれば、それぞれ甲班が俺とリヱ、乙班が少女、丙班が楠と日野である。少女はレーザーポインタを使いながらそれぞれの名前を読み上げた。
「次に今回の任務内容を説明する。任務はいくつかのフェーズに分けて行う。まずはフェーズ1だ。」
少女が画面を切り替えると、そこには「一、警備の撹乱」と題されている。簡単な地図と共にいくつかの解説が加えられていた。
「まずは警備の撹乱だ。今日は幾ら警備が手薄と言え、館内には警備員が残っている。そこで、一番奥まった理想環境共同研究棟で小規模な爆発を起こす。内規では非常時に警備員は発生場所に集合することになっているから、これで事足りる。これは丙班の担当だ。実行は日野君にやってもらう。楠君は周囲の警戒に当たってくれ。」
「ちょっと待ってくれ。爆弾を早速使うのか。」
俺は思わず彼女の話に横槍を入れてしまった。いや、今更彼女らの過激な行為に異論を唱えるのは間違っていると知っている。もう俺は引けない所まで来てしまったのだ。そして、何より俺も同じ手段を使って自らの問題を解決しようと試みた人間である。しかしながら、俺は今だ心の底で自分を正気の人間だと思っているらしかった。
「この爆弾は煙を撒き散らすだけだよ。」
少女はその恐ろしい表情を崩さぬままにそう答えた。俺は一息ついたが、よくよく考えても見れば、多少の人的被害が出ることなど分かりきっていることなのだった。
「フェーズ2では、自治会室に乗り込んで自治会の人間を引きつけておく。彼らもNEAIDの研究には懐疑的だが、我々とは思想上かみ合わない。場合によっては我々の計画をつぶしにくる可能性もある。これは甲班の担当だ。桑浦君は大臣代理を装って監査に入ってもらう。水上君はその補佐だ。」
フェーズ2では幾つか平行した行動が行われるらしかった。少女は更に画面を切り替えて、解説を続けた。
「同時に、ボクが財家研へ行って、NEAIDの設置されている部屋の鍵を盗む。あと、研究資料も奪い取れると良いのだが――」
それは難しいだろう、と彼女は言った。彼女は手早く画面を切り替えて「三、対象の確保」と題された画面をスクリーンに映し出した。
「フェーズ3では、NEAIDを奪う。設置されている高度電算室へはボクと丙班が向かう。しかし、ここが少し難しい。丙班は高度電算室から玄関までの動線確保をしてもらいたい。」
彼女はあの不敵な笑みを浮かべていた。
「明日の行動は以上だ。実は数日後にもっと重要な計画が控えている以上、明日はなるべく簡素に済ませる。最悪、相手を混乱させるだけでも問題ない。しっかりやってくれたまえ。」
そう少女が言って、何やら手元の紙をめくりはじめた時、日野がすらりと手を上げた。彼女は足組みを解いて椅子にかけなおし、それから質問をした。
「こんな簡単な計画で本当にそのNEAIDとやらを奪えるのか。そもそもどうやって奪う?」
少女は数度うなづくような仕草をしていたが、それをやめると、こちらを鋭い目線で見据えた。
「今度の件は政権の目をこちらに向けさせる為のコケオドシみたいなものだ。結果は関係ないよ。」
「つまるところ、この作戦自体が囮ってことか。」
「そんな感じだね。結果的に相手を動揺させる事が出来れば良いのだよ。」
少女はすこし笑いつつそう言った。我々は彼女の話を真剣に聞いていたが、それによると人工頭脳装置を奪おうとすることで、捜査の目を向けさせて、そのうちに次の作戦に移るという事らしかった。
「さて、次こそは本当の意味での重大発表だが、これは水上君と桑浦君を呼んだ理由なのだよ。」
彼女は手元にあった資料を軽く纏めてから、それを俺たちに配っていった。そして、少女は腕組みをして仁王立ちになり、良く通る声でつぎのように言った。
「お待ちかねだね。……一週間後、ついにM計画を実行に移す。」
楠はその様子を真剣な面持ちで見つめていた。日野は「やっとか」と言わんばかりの様子で骨を鳴らしている。一方で桑浦リヱは何が何だか分からないという様子で、おどおどとしていた。
手元にある資料を数枚捲るうちに、自治会や人工知能装置を巡る小競り合いなどが全く瑣末に思えるほどの内容に愕然とした。M計画概要と題された資料に拠れば、赤坂にある歩兵第一連隊の兵舎に疎開中の陸軍大臣畠山久伍を殺害することを目的とする一連の計画は、爆弾数十個を使用して、俺が立案した計画の殆どを使い切る莫大なものであった。その過程には第一連隊を行動不能にするほどの損害を与える前提があり、それはかの旅順包囲戦以来常に日本陸軍の先鋒であったその連隊を崩壊せしめる事に他ならなかった。それをたった数人でやり遂げるなど、到底なし得ぬ事としか思えなかったのである。
「これは第一連隊に甚大な被害を及ぼしうる作戦である。兵舎四棟の爆破と、武器庫等の破壊、そして畠山の殺害を平行して行う。大まかな説明は実行日前日に行うが、それまでに各自資料に目を通しておいて頂きたい。」
彼女曰く、こちらの計画については書面でのみ通達するという事だった。詳しく内容を見れば、これは力押し一辺倒のかなり乱暴な作戦だった。内容は殆どが第一連隊の麻布駐屯地の配置と、爆弾の設置場所に関するものばかりで、手順はごちゃごちゃと書いてあるが、内容を見ればただ「上手く進入して、爆弾を設置して、爆発の混乱に乗じて畠山を殺害する」というだけの簡単なものである。
「少し質問があるのだが。」
俺はそう言って手を挙げた。少女は直ぐに「どうぞ?」と俺に発言の許可を与えた。
「この計画の方が相当乱雑じゃあないのか。」
「ゲリラ戦法というのは、基本的に作戦も何もないという物だよ。特に武装組織相手となると、何も予測できないからね。臨機応変にやるしかないよ。そして、そのための手筈は全て整えてある。」
そう言う彼女は今までに無いほど不気味な、あの不敵な笑みを浮かべていたのである。俺はその表情に恐怖した。もしかすると、一週間後、俺は生きていないかもしれないと思った。しかし、心のどこかで「それでも良い」と思ってしまう自分が居たことも間違いなかったのである。