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8. 幸せなとき

「あらあら、お二人は仲良く今まで何してたんだ?」


 給炭塔に帰った頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。帰ると、両手に一杯酒と煙草を買い込んだ日野と出くわした。そうやってからかう様に今までの行動について聞いてきたのも彼女らしいところだと思った。


「ただ桑浦さんの昔住んでた辺りを散歩してただけだよ。」

「デートか?」

「そんな訳ないだろうに。」


 日野は笑って「冗談だ」と言った。


「それ、持つよ。」


 日野の持っていた重そうな買い物袋を両方取り上げた。中にはウイスキーやらビールやらの瓶が煙草の箱と一緒にゴロゴロと入っていた。


「お、ありがと。」

「いやいや。」


 日野が扉を開けて、俺たちはようやく給炭塔の中に入り得たのである。既に夕食の準備をしているらしく、中は何かを煮込む美味しそうな匂いで満ち溢れていた。


「何だか、お腹減っちゃいました。」

「お、今日の夜は何だろうな。」


 先に中に入った二人がそんな事を話しているのを聞いた。俺はそれに着いて入ってから、戸を閉めた。キッチンの方を見ると、楠が何やら鍋を持っていそいそと動いている。その横では少女がなにかを偉そうに命令しているようであった。


「帰ったぞ。」

「ああ、水上君、おかえり。」


 少女がそうやって返事をするのも聞き流して、ひとまずこの大量の酒と煙草を何処に置くべきか思案していた。すると、日野がなにやら「こっち、こっち」と手招きしている様子が見えたので、それに従うことにする。


「やや、持ってくれてありがとさん。」

「それは良いんだが、こんなに一杯何処に置くんだ。」

「それはここの収納スペースに入れてくれ。とりあえず、それは床に置いてもらって。」


 指図されたように買い物袋を床に置いて、再び日野の方を見た。


「いや、もう分るだろ。物置に入れてくれよ。」

「あ、すまない。」


 そう言う彼女は既に幾つかラークのカートンを取り出して物置の中に詰めているところだった。買い物袋の中を見ると、ラーク以外にも一箱だけダンヒルの煙草がある事に気付いた。


「ダンヒルって、誰が吸うんだ。もしかして例の代議士か。」

「ああ、それは……。」


 彼女は少し言い淀んだが、一呼吸置いた後に、口を開いた。


「昨日の夜、俺が日本に来ようとするときに、貨物船の中に紛れ込めば良いって入れ知恵されたって話しただろう。」

「ああ。」


 彼女の目は遠くを見ていた。買い物袋の中から、ダンヒルの箱を取り上げると、それを手近な机の上に置いた。そしてまたこちらを向いた。


「それを教えてくれた貿易商がね。湯川貞次って言うんだが、もう歳はかなり行ってたけど、相当なヘビースモーカーでね。ダンヒルの煙草が大好きだったんだ。」


 日野は物置の方に目をやってから、「たばこ、良いかな。」と聞いた。俺はもちろん、良いと言った。彼女はポケットからいつものラークの箱を取り出して、煙草を一本口に咥えると、なれた所作で火をつけた。ふぅ、と一回煙草を吹かしてから、彼女は再び話し始めた。


「彼は英国系の商社を日本で経営しててね。日本でも時折会うことがあって、その度に良くしてくれたんだよ。でも、二年前に殺されたんだ。」

「それは……知らなかった。」

「そりゃ当たり前だろう。新聞にも小さくしか載ってないし。」


 俺の返事にもならないような返事に、日野は笑いながらそう言った。


「何でも畠山久伍が一枚噛んでるってウワサで、陸軍の『三三同期会』っつう一九七三年入営組のグループが実質的な首謀だって話だ。」 

「畠山か……。」

「アイツは日本の癌だよ。」


 日野はそう言うと煙草を深く吸って、それから勢い良く煙を吐き出した。彼女は煙草の灰を落としつつ、話を続けた。


「近頃、その三三同期会のメンバーが次々と殺されてるんだよ。湯川貞次をよく知る誰かがやってるんだろうって事は分かるんだが、謎でな。」


 俺は「そんなことがあるのか。」と言った。確かに近頃連続して陸軍の高官や退役軍人が殺される事件が起こっていた。俺はこの頃の軍部に対する不満の顕現としか考えていなかった。つまり、それが一人の明確な目的を持った人間による連続殺人とは思いもしなかったのである。


「ま、誰を殺そうが死んだ人間は生き返らないからな。興味のないことだよ。」


 その言葉は、復讐の為に多くの人間を手に掛けた俺の心に深く突き刺さった。日野は煙草を口から離すと、手近な空き缶に擦り付けて灰を落としていた。


「話を戻せば、一箱だけダンヒルを買ってるのは、彼が死んで以来墓参りの時にそれを供えてるからって話さ。それだけだ。」


 日野は言い終わると、また手早くカートンを収納の中に詰め込むことに戻っていた。カートンも減ってきていたので、俺は酒瓶を物置に入れることにした。


「ああ、酒は適当に突っ込んどいてくれ。」


 買い物袋の中にはマッカランなどのかつては定番とも言われたシングルモルトや、シーバスリーガルや例のバランタインなどのブレンデッド、更には珍しくもアイラモルトであるアードベッグなどもあった。他にはラム酒やブランデー、ワインなどもあって正に多種多様といった感じである。


「昔ならまだしも、今となっては珍しい酒ばかりだな。」

「全部個人輸入だよ。タカちゃんの手配でやってるんだ。一部は闇市で売って資金の足しにしてる。」


 酒はすぐに倉庫に収まり、そうもすると丁度良いタイミングでリヱが夕飯が出来たことを知らせに来たので、俺たちは食卓へと戻ることにしたのである。


 こうやって改めてこの奇抜な構造物の中を歩くと不思議なもので、この継ぎ接ぎだらけの内装には年輪と言うものが垣間見える。稚拙な工作であるからこそ、いつどの部分がどのようにして形作られたのかが分かりやすいのである。例えば、二つの給炭施設を繋ぐバラックの部分には妙な出っ張りがあって、ここにも収納が作られているが、これは裏手にあるガントリークレーンの方向に向かっている。昔はそこにも繋がっていて、何かしらの建築があったのかもしれなかった。


 迷路のような通路を抜けて食卓のところまで出ると、テーブルの上には目一杯食事が並んでいた。


「やぁ、お疲れ様。皆座りたまえ。早くしないと食事が冷めてしまうよ。」


 そう言った少女は朝と同じく割烹着を着ていた。夕食の献立はとても分りやすいものであった。焼き魚と昆布巻きに味噌汁、漬物という我々が普段からよく目にする料理ばかりである。


「夕食は和食か。やっぱりこれが一番落ち着くよ。」

「水上のことだから夜も洋食だと文句たらたらだと思ってな。」


 見ると、楠が筑前煮の入った大皿を持ってきたところであった。そういえば、彼とは会ってすぐにここを追い出されてしまったので、ろくに挨拶もしていないのだった。


「改めて、お久しぶり。あと、お気遣い有難う。」

「いえいえ、どういたしまして。」


 そんなわざとらしい会話も、かつての仲があってこそという物だった。一時は不安にも思ったものの、今は彼との再会を純粋に喜んでいる俺がいた。


「それ座ってからでも良いじゃねえか。早く食おうぜ。」

「そうですよ、水上さん。冷めちゃいます。」


 もうテーブルを囲んだ皆は歓談を始めていた。俺は席につきながらも、随分と賑やかな所に来てしまったものだと思った。今の給炭塔を一言で表すならば、ありきたりではあるがワイワイガヤガヤという擬音が相応しかった。ここには、官庁街にない笑顔があった。ここには、陸軍にない希望と言うものがあった。ここには確かに、未来を感じることができたのである。


「おい水上、お酌してやるから、お猪口出せ。」


 日野が随分と乱暴な口調で言ったので見ると、既に顔が赤かった。こいつ、いつのまにか酒を盗み飲みしていたらしい。


「お前、もう飲んでんのか。」

「あはは、良いじゃねえか。今日は無礼講だよ無礼講!」

「無礼講ってそういう意味じゃあないと思うんだがなぁ。」


 と、猪口を彼女の前に差し出すと、たいそう勢い良く酒が注がれた。もちろん、こぼれた。


「アッ、何すんだ、お前酒が勿体無いじゃないか。」

「このくらい問題ねえって。へへ。オレにもくれよ。」


 俺の前に猪口が差し出された。俺も笑ってそれにお酌をする。今度は単に俺が下手だったのでこぼしてしまった。


「お前人のことをグチグチ言ったと思えば自分もこぼしやがって。」


 そう言いつつケラケラ笑う日野を見て、言葉では表しきれない程の安寧感を感じている自分が居ることに気付いた。そもそも、大人数で食卓を囲むという事すら久しぶりだったのである。それはまるで、新しい家族が出来たような感覚だった。


「桑浦さんは、」

「あ、私はお酒弱いので、少しだけでお願いします。」


 彼女の猪口にほんの一センチにも満たないように酒を注ぎ、ついで楠と少女の方をみやったところ、少女は「私は自分でやるから」と楠に注ぐように言った。


「じゃあ、」

「お、ありがとう。」


 楠の猪口になみなみと酒を注ぐと、それを見計らって少女が口を開いた。


「では、桑浦リヱさんが無事到着されたことと、あと水上中尉が参画されたことを記念して、乾杯。」


 俺たちはそれぞれ猪口を高く上げて、「乾杯」と言った。日野は既に出来上がっているので完全に一気飲みをしており、これでご飯が食べられるのかというような感じである。


「カンパイは、杯を乾かすと書いて、乾杯!ってな。」


 日野がそんなわけの分らない事を言っているのを聞き流しつつも、俺はこの素晴らしいひと時を楽しむことにした。ここは俺にとって理想郷に等しい場所だった。俺はこの瞬間、この得体の知れぬ少女に着いてきたのは正解だったのだと確信した。


「何だか、ちょっと前よりも生き生きしてるな。水上。」


 そう楠が言ったのは、当たり前のことだった。俺は何だか、ここに居ることが好きな気がしていたのだ。もしかすると、ここが俺の尽くすべき場所なのかもしれないと思うほど、この楽しげな夕食が好きだった。ここに俺は未来を見つけたと思ったのだ。少なくともその時は、そう信じていたのだった。


**


 酔いつぶれてしまった日野を皆でベッドまで担ぎ込むという作業はあったものの、それ以外は特につつがなく夕食は済んだ。幾つか片づけを手伝った後に、俺は自室に戻って、昨日少女から託された幾つかの図面を見ていた。


 建物は二つあり、それぞれ一九五〇年築である四階建てビルと、もう一つは恐らく陸軍の基地にある司令部の建築と思われるものである。司令部の図面は設計図というには簡単なもので、内部資料で使われる程度のものと推察できた。構造は恐らく鉄筋コンクリート造だが、細かいデータも無いし、何より一部で機密の為にデータが消去されている区画があるのがもどかしい。前者の方は詳細な図面であったが、玄関や小部屋などの一部が不明とされていたり、窓が判然としなかったり、こちらもまともに計画を立案できるとは思えない。


 しかし、我々の仕事と言うのはどのような時もまともである事はないのだ。敵地の建築物など、その細やかな構造にまでこちらのスパイ調査が追いつく訳がないのである。だから、我々はそれを高確率で破壊する為の配置と、爆薬量の兼ね合いを常に考えて破壊工作を行うように訓練されている。この程度の情報であっても、構造物を使用不能にする程度のダメージを確実に与えることは可能である。


(ああ、またか……。)


 俺はそうやって仕事に逃避して私事の面倒を忘れようとしている自分を見つけた。それは思い悩んだ時には良くすることだった。ただ、時折途中で目前の問題を思い出して悩んでしまうこともあった。今も、ここに集まる人々はテロリズムという一つの目的を背景にしているという事に思い至ってしまった。図面を畳んで机の上に適当に置いて、それから考える。すると俺は先頃までの夕食のうちに、俺は何が幸せで、何が不幸せで、何が正義で、何が悪なのかという判別すらも付かぬようになっていたことが分かった。


 いや、そもそも今言ったような事は全て主観的概念に過ぎないとも思った。結局のところ、そんなものは自分の都合のうちにしか存在せず、絶対的評価指標としての幸福や正義などというものは、もともとまやかしなのであると、思った。


(では、そのために見ず知らずの人々の人生を狂わせても良いのだろうか。)


 それはあの罪を犯して以来、俺に付きまとっていた苦悩であった。そういえば、桑浦リヱは俺の悪業を今も知らぬままである。これ以上、罪を重ねないという決意をする以前に、俺は既に犯した罪を隠して見せることもせず、彼女に接するという恥ずべき事を続けていた。


 しかしそれも自然な事である。そもそも、その罪自体に対する俺の意識はまったく薄弱といって良かった。あの日、俺の目の前に展開された光景は凄惨な殺人のそれとは全く異なる情景だった。そこにあったのは今まで見たことの無い程に巨大で、美しく、熱く、荘厳な炎の花弁でしかなかったからだ。そこにあったのは崩れて飛び散る数え切れないようなガラスの片々がオレンジ色に輝く芸術的で扇情的で官能的な光景だけだった。それは少なくとも、残酷で醜悪な事件現場などではなかった。


 何故、数人の死に醜い復讐心を抱くことが出来たというのに、数百人の死に手を下したことに何の悔いも抱かないというのだろうか。


 俺は自分の罪に対して数字の上の理解こそ出来たが、それを実感することは全く出来なかったのである。それは人間本位に考えて、ひどく不自然なことだった。理性の上での理解と本能の理解の乖離を俺の精神は許容することが無かった。だから、俺はあの事に心の底から悔いることこそ無かったが、いつまでたっても奇妙な胸の疼きが薄れることは無かったのである。


 設計図を模写し、爆薬に適した位置を計算をするという作業は、皮肉なことに気を紛らわせる為には最も適した作業だった。関数電卓を叩いている限りでは、このような苦悩に苛まれる事もないのである。計算式を丁寧にノートに書き、データを整理し、結果を表に纏めていく。この作業は一般の建築に於ける構造計算ほど丁寧でなくてもよい。そもそも、戦地で即座に計算することすらあるのだから、ひとまずは当たりが付けば良い。


 それを雛形にコンピュータを使って計算をしていく。これには専門のソフトウェアというものがある。もちろん、普段使っているソフトウェアをマトモにインストールすれば、ここにあるパーソナルコンピュータでは性能が不足する。しかし結局のところ、特殊部隊などに随伴して行動計画立案を行うことを意図して、簡易なソフトも用意されているのである。自室にまるごと持ってきたパソコンにディスクを挿入し、インストールを行う。それが終われば後はデータなどを入力して、条件を変えた計算を繰り返す事になる。


 最後には最も構造が崩壊しやすいと考えられる条件を統計的手法から求める。もちろんこれは確率論の域を出ないのだが、実際の戦闘時に行う爆破計画の立案と言うのはそんなものである。精度や確度は重要かもしれないが、作戦立案で最も重要なのはたいてい時間である。その二つを勘案して、妥協をするのだ。思えば、俺はそういう妥協を積み重ねて人生の半分を生きてきたわけである。結果が出れば、今度は爆薬を設置するのに適宜爆薬の位置を書き込んでいく。


 言うだけなら簡単だが、やはり徹夜しても難しいものは難しいのだ。午後八時には始めたこの作業も、既に午前一時まで掛ってやっと手計算が終わったところであった。平行してやっていたインストールもついに終わり、あとはコンピュータを使った計算だが、最後の最適な位置を決める為のすりあわせが最も面倒なのである。つい溜息が出た。


**


「あ、お邪魔します。お夜食をと思って。」


 リヱが突然部屋にやってきたのは、パソコンが計算を進めていて、俺は暇を持て余している時、具体的には深夜一時半のことだった。昨日に続いて今日もまた、こんな時間に他人に迷惑を掛けてしまった事を自戒する。


「いや、申し訳ない。起こしてしまったかな。」

「いえ、実は私も寝ることが出来なくて、どうせなら少しでもお力添えをと。」


 彼女はすこし部屋の中を見回していたが、乱雑に置かれた書類などにおののいているようにも見えた。とりあえず、手近な場所のどけても良さそうな書類をどかして、そこのスペースに夜食を置いてもらった。それは湯気の立った温かそうなホットドッグとコーヒーだった。


「ホットドッグか。近頃はめずらしいものだね。」

「何を作ろうか迷ってたら煙草を吸いに来た日野さんが『ホットドッグの作り方を教えてやるよ』って。」


 作り方と言うほどではないのだろうが、やはり本場のアメリカで育った人間に聞くほうが美味く出来るような気はするものである。じっさい、一口頬張って美味いと感じた。


「うん、美味いよ。ありがとう。」

「いえいえ、……今はどんな作業をなさってるんですか?」


 彼女は近くのベッドに腰掛けてそう言った。


「ああ、今度のテロか何かの計画を俺に丸投げしてきたんだよ。その計算をね。」


 それを聞いた彼女は少し驚いたような顔をしていた。無理もないことで、やはり彼女にとってテロリズムというのは遠い向こうの誰かがやっている事でしかないのだ。それは俺にとっても数日前まで同じであった。


「やっぱり、そういうことを……してるんですよね。」


 彼女のその返答は、何か形容しがたい複雑な感情の折り重ねからなっているように感じられた。ふぅ、と一息つくと、彼女は眼鏡を外してパジャマのすそで拭いた。眼鏡の奥にあった眼差しは予想と違って、意外にも鋭いものだった。


「わたしも今までぎりぎりの人生を送ってきたので、気持ちはわかってるつもりなんです。」


 彼女の言う、「ぎりぎり」という言葉には重みがあった。それが何故なのかは分らなかったが、彼女の瞳がそれを如実に語っていたのである。


「俺の方はなにもわかってないよ。」


 そう、俺は何も分かっていなかった。自分のした事がどれだけ多くの人間を巻き込んだことか。こうやって今もその事を他人事のように語ってしまえるのは、その罪を全く自覚していないからなのであった。


「分かってなくて、良いと思います。分かることは、知ることは、とても辛いことですから。」


 桑浦リヱは表情を変えぬまま、静かにそう言った。しかし、彼女の言葉は真に迫っていた。彼女は、その言葉の裏に幾千もの感情を押し殺しているように思われた。


「分らない事は罪だって、大学の時に教授が言ってたけどな。」


 リヱはクスッと笑った。それから、「それが罪だったとしても、それを理解して罪を帳消しにする事こそ、私には更に重い罪のように感じるんです。」と言った。


 彼女は髪にすこし触れ、それを梳いた。俺には彼女の言う事の真意を理解できなかった。そもそも我々が今さっき語っている罪とは何なのだろうか。誰の為にあり、誰によって科され、誰が償い、誰がそれを認めるのだろうか。


「きみの話は抽象的過ぎる。」

「具体的な話というのは、物事の表層の一部としてしか語れないんですよ。」


 リヱは俺を見ていなかった。リヱの目はどこか虚空を見ていた。もしくは全てを見ていたのかもしれない。彼女が何を見ているかなど俺に知る由はない。


「――じゃあ、私はこの辺で失礼します。余り、夜遅くならないように気をつけてくださいね。」


 彼女は優しく微笑むと、腰掛けていたベッドから立ち上がった。軽くシーツを整えると、静かな足取りでドアの方へと向かった。コーヒーを一口含み、そちらの方を見ていた。最初に会ったときから、彼女は何か不思議な雰囲気を身に纏っていた。彼女は柔和な印象の淑女であったが、その雰囲気は鋭く、そして物悲しいものだった。


「ああ、ありがとう。」


 俺が遅れてそう言った頃にはリヱは既に部屋の中には居なかった。無機的な音を立てて部屋の扉が閉まると、ここには再び静寂が戻った。嘆息して、椅子の背もたれに寄りかかって、大きく伸びをしてみた。俺はいま、ここに独りである。その事に、妙な浮遊感と分裂感を感じた。コンピュータの画面には計算が終了したという表示が出ていた。画面に並んだ冷酷な数字たちを見て、こうして今誰かと話していた自分と、この不思議な記号の羅列に操られている自分が同じものであるとは思えなくなった。


(計算は、あと、四十個くらいかなぁ。)


 俺は学士号を取得してすぐに陸軍に志願したので、学問の真理たるものは何も理解しては居なかった。しばらく前、大学の同期とたまたま邂逅した時、博士前期課程まで進んだ彼は、計算式やシミュレーションに美しさや面白さを見出した事について俺に高説してくれたが、俺には全く分からない論理だった。常々感じていることには、俺は理論を操っているのではなく、理論に操られているらしかった。俺はそんな自分が不甲斐なく、嫌いだった。


「面倒だ。」


 独りの部屋で、俺はそうボソっと呟いた。誰も返事はしないし、何もおこらない。俺は手早くシミュレーション結果を保存して、次の数値を入力することを始めた。すると、ありえない数値を入力してしまったのか、コンピュータがエラーを吐いた。大きな溜息が出る。自分の仕事すら分らぬ人間に、国を変えようとする人びとの考えなど、分かるはずもなかったのである。

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