プロローグ1・摩天楼にて
はじめに
-プロローグは少し地の文が多く読みにくいかもしれませんがご了承ください。
-物語の性質上、キャラクターが過激な政治主張をしだすことがありますが、作者は全然正しいと思って書いてません。
例えば、貴方が今摩天楼の中心にある超高層ビルから一帯に広がる都市を見下ろしていると仮定する。貴方の目の前には幾千もの星が散りばめられたような美しい光景が広がっている筈である。冬の冷たい空気が暖房機の排出した水蒸気を一瞬にして冷やし、仄暗い夜空に無数の煙を立ち昇らせている。その煙は数多の光に照らされてジットリと黒緑に光っているだろう。これは巨視的に見れば美しい光景であるが、微視的には必ずしもそうではない。この美しい夜景の足元では今この瞬間も殺人、略奪、強姦が起こっている。そこには格差があり、薄汚い路地があり、家もない人々が物乞いをする為にさ迷っているという事実がある。そう考えると、突然貴方の目の前にある都市の情景が悪の枢軸の象徴のように思えては来ないだろうか。
ところで、私は今1人の男がビルの上に立っているのを見ている。軍服のような衣服を着て、清潔に整えられた身なりをしているが、かなり思いつめたような顔をしている。いや、別に彼は自殺を図ろうとしている訳ではない。その逆である。
「今この手で誰かを殺めようとしている。」
ああ、直ぐに分る。何故って、私にはそういう人間の顔がすぐに判るのだ。長年人を殺してきたから。彼の表情は殆ど焦りや不安で覆い尽くされていたが、その奥に一点だけ私に見える物がある。
彼はまさに誰かを恨む表情をしていた。
事実、彼は軍用の制御盤のようなものを左腕に抱えている。彼は革製の手袋に包まれたもう片方の手を何度か握ったり開いたりした。その制御盤のスイッチに触れるか触れまいかで戸惑っているのだろう。彼は今恐ろしい決断を迫られているのだ。そのボタンを押した瞬間に彼は犯罪者となり、社会の爪弾き者になるだろう。嗚呼、しかしもう後戻りはできまい。彼の盗んだ大量の弾薬だけでも彼は十分に断罪され得るだけの罪を犯してしまったのだ。後はどれだけ悪足搔きするかの問題に過ぎない。
全くもって、どうして我々はこんなにも危うい地面の上に立っているのか。一度過ちを犯せば二度と戻れはせぬだろう。
果たして、我々は一度失った信頼を取り戻すためにどれだけの我慢を費やす事になるだろうか。果たして、我々は一つのミスをリカバーする為にどれだけの時間を費やす事になるだろうか。果たして、我々は一つの社会的な罪を償うためにどれだけの拷問と辱めを受けねばならないだろうか。
我々の日々の安寧とはこれ程までに脆いものであるという事は一種の恐怖だ。いや、無論の事、私の足元に在ったらしいそんな脆い存在など遠い昔に崩れ落ちているが。
男は決めかねた挙句、目を瞑ってボタンに手を掛けた。遂に実行に移すつもりらしい。また一人、その安寧を捨て去って悪事に手を染める男が出てしまうというのか。いいや、私は幾ばくかの残念という感情も抱いてはいない。寧ろ歓迎すべきと思っている。社会的地位や名声と言ったつまらない物を捨てて、この腐った私たちと共闘してくれる「仲間」が今この瞬間に増えようとしているのだ。ああ、彼を止めることによる利益は無い。しかし、同時に私は思う。彼自身がそれを捨てることで何の利益になるというのだろうか。何故わざわざ捨てる必要が有るというのか。
今ボタンは彼の人差し指によって押下された。
一瞬の静寂……その後に激しい爆裂音と燈色の炎が目の前に上がった。炎に向けられた頬が熱い。彼は今ちょうど東京都の中心部にある陸軍省の建物を破壊した所であった。美しく荘厳なるオレンジ色の花弁が視界一杯に広がっている。今、私の目の前で一体どれだけの命が失われたというのだろうか。
ガラスが四散し、丸裸になったビルを炎が包み、暫くすれば躯体もその高温に耐えることが出来なくなって崩れ落ちていく。何と文明社会の終わりに象徴的な光景だろうか。このビルディングはこの国の素晴らしき偉業を讃える為の物だったが、今となっては雑多で醜悪な瓦礫と化してその偉業にすがっていた人々を殺し尽くしている。四分の一程残っていた外壁も、ものの十分程度で焼け落ちて瓦礫の中に姿を消した。私はこの光景に一種のエクスタシィのような物を感じた。世界を支配する者達が一人の男の人差し指に打ち負かされた瞬間だ。これ程私に精神の沸騰を覚えさせる事件が何処にあろうか。