死を司るモノ
この世のすべてに『死』は必ず訪れる。
どんなものにもいずれ『終わり』はやって来る。何人たりともそれから逃れる術はない。それはこの世の理であり、真理なのだ。
彼らがいつから存在しているのか、誰も知らない。いや知る者はいない。彼らに出会った者は老若男女問わず、例外なく死している。彼らの役目は死期の近づいた人間や動物のところ行き、余命を宣告する。そして死後、その魂が迷わぬように冥界へと導いた後に、次なる死の近づいた者の元へ赴き、同じことを繰り返す。
彼らは悪魔でも天使でもない。
生きとし生けるものすべてに死を与える存在――死神と呼ばれる……。
静かな秋の夜であった。雲一つ浮んでいない夜空を舞台に、きれいな星々と地上を淡く照らす月が踊っている。演奏は蟋蟀や鈴虫が担っていた。もし、ここに妖精の王や女王が登場する物語を書いたとしたら、劇作家は真夏ならぬ『晩秋の夜の夢』と名付けるだろう。
ある街に、一人の年老いた男が住んでいた。実業家として、また地元の名士としても彼は有名であった。
彼の自宅は高級住宅街の中でも一際目立っていた。侵入者防止のため敷地を高い塀で囲まれ、家の玄関から門までの長い通りの中心には噴水が構えている。キャデラックが三台以上入ってもまだ収納出来る車庫に、庭は公園のように広い。ここまでくれば、もはや『住宅』より『邸宅』と呼ぶほうが相応しい。
その邸宅の書斎に男はいた。屋の床には絨毯が敷き詰められ、壁際には有名画家の絵が飾られているうえ、キャビネットには高級酒がいくつも並べられている。この部屋に、安いものは一つとしてなく、部屋全体が高級感で溢れている。明かりは点けられておらず、大きな窓から入ってくる月の光だけが部屋の中を照らしていた。
「……いい夜だ」
屋敷の老主人――斎藤は、月を眺めながら一人呟いた。
書斎には、いや屋敷には斎藤以外、誰もおらずひっそりと静まり返っていた。それもそのはずで今日一日、秘書や使用人も含め人払いをしているのだ。
窓を開けると、外の少し冷たい風が入り、秋の香りを部屋いっぱいに満たす。
「実にいい夜だ。そう思わんか、死神よ」
振り返りながら、部屋隅の光のあたっていない暗がりに視線をやった。視線の先には――彼以外、部屋には誰もいないはずが、何かの気配らしきものがあった。それは霞のようにあったが、やがて時間が経つにつれてだんだんと人の形を成していき、最後は黒衣を纏った若い人間の男の姿になる。
「そのいい夜も、今日で終わりだな」
感情のこもっていない、冷たい声の持ち主――死神はゆっくり音も無く斎藤に近づいてくるのにもかかわらず、斎藤は少しも臆する様子を見せず、
「そうだな。少々淋しい気もするが致しかたない。これも天命だな。――ところで、“刻”はまだあるか?」
“刻”とは、死神たちが生物の命を奪う時間のことで、死神が持つ時計は生き物の死を刻んでいる。
「あると言えばある。無いと言えばない。あと十三分四四秒だ」
「なんだ、まだ充分あるじゃないか。ゆっくり酒が飲めるくらい」
そう言いながら、斎藤は窓のところから移動しキャビネットから高級酒のボトルをとり、それをテーブルの上に置いてある二つのグラスに注いだ後、斉藤は驚くべき行動に出た。なんと彼は、酒の入ったグラスの一つを死神に差し出したのだ。
「最後の酒なのに、一人で飲むのも侘しい。死神よ、お前も付き合え。どうせ飲んでも職務怠慢にはなるまい? ――いい職だな、この世に『生』がある限り死神は決して失業することがないんだろうな。死んだら、私も死神になりたいものだ」
「死神に酒を勧めるうえに死神が羨ましい、死神になりたいと言った人間は、貴様が初めてだ。多くの場合、我らに死を宣告された人間多くは残された、『生』に執着しようとするものだが。だが汝は最初に死を宣告されたときも平然とし、その運命を素直に受け止めていたな――実におもしろい人間だ」
低い声でクククとしのび笑いをする。それにあわせる様に
「それは光栄なことだな。あの世で皆に自慢できる」
斎藤も愉快そうに笑いながらソファに腰かける。
一方の死神はソファに腰かけずテーブルの上にあるグラスの一つを取り、立ったままの状態で中身をゆっくり時間をかけて飲み干す。
「これが酒か。……美味ではないが不味くもない。人間達が何故こんな液体を好んで飲むのか、我には理解しがたい」
空のグラスをテーブルに返そうともせず、酒の感想を述べる死神。対して斎藤は既に二杯目の酒を飲み干し、三杯目の酒を注いでいる。だが今度はさっきまでと違い、半分ほどまで飲むとグラスの酒をぼんやり眺めだした。
「やっと、やっと私も死ねるのか……。長かった、長かったよ」
そんな、満足とも未練ともとれる言葉をこぼした。
「かつての戦友たちはもういない。皆、私を残して先に死んでしまった。お前には感謝している、死神よ。お前のおかげで、やり残したことはこの数日の内に全部片付けることができた」
「感謝する必要はない。生ける物、全てに死を与えるのが我の仕事――酒をくれた礼に、おもしろいものを見せてやろう」
言いながら、死神は握っていたグラスを手から離す。それは実際の時間では、ほんの数瞬程度にしかすぎなかった。だが、斎藤の目には死神の手から離れたグラスが床に着くまで、スローモーションのように映った。だが目はその短くて長い様子を見つめているが、意識だけは違うところへ飛び、彼はどこでもない混沌という大海を彷徨っていた。 そこで何かを見つけようとしていた。
そして、明暗が入り混じった世界で見つけた記憶という名の宝箱。
誰も踏み入れることができない、自分だけの聖域。
――それは、遠い昔の出来事
――それは、二度と戻らぬ過去のこと
――それは、眩しいまでの笑顔
――それは、一人の女人を愛した時
――それは、二人で感じたぬくもり
――それは、夢のような日々
――それは、永遠の別れ
――それは、…………
床にグラスが落ちる。それは割れることなく、しかし音をたてて絨毯の上に転がる。その瞬間、斎藤の意識は夢から醒めるように返ってきた。
「どうだ、時を遡った感想は。いかに人間が優れていようとも、摂理に反し時空を越えることはできぬ。だが、我ら死神はそれができる」
「不思議だな。まるで具現化された永遠を見ていたかのようだ。自分の過去なのに、それがまるで夢のように思えた。人間の一生はいつか消えていく幻と変わらない。だから人は、自分が幻ではないという証を残そうとする――いつかはその証も、消え去ってしまうというのに」
呟いた後で斎藤は、自分が知らぬ間に涙を流していたことに気がついた。今までどんなに悲しい時でも決して、流れることのなかった涙。
長い間忘れていた、何かを想う感情。無意識のうちに、両の手で顔を覆い隠す斎藤。それは他の者に自分の恥部を見られたくないという本能からきていた。
死神はその様子を沈黙したまま見ていた。我は人間ではない。ゆえに何も想うことはないし、何も感じない。もし我が人間であれば、我は誰に何を感じ、何を想うのであろうと死神はふと思った。そして、普段では考えないことを考えている自分に気づき、内心驚いた。こんなことを考えるのは酒のせいだとは思わず、この夜とこの普通ではない男が自分を狂わせているのだと考えた。
「忘れていたことがあったよ――かつて私を愛してくれた女性のことだ。彼女はもう、ここにはいない。あの日以来、彼女が私のところへ帰ってくることは無かった。そう永遠にな……」
未だ流れる涙が止まらず、こぶしでそれを拭う斎藤。
「失った者は帰らぬ。その女の魂は、我の仲間の誰かが冥界に連れていった」
「わかっている、わかって。しかしなぁ、彼女を死に至らしめたのは他でもない、この私だよ。私があの時、彼女を止めていれば、私より先に死ぬことはなかった。皮肉なものだな、彼女にとって私は死神とおなじだったとは」
「…………」
死神は何も言わなかった。斎藤もしばらく黙ったままだった。
どれくらい経ったのだろうか、突然、斎藤は酒の入ったグラスを持ったままソファから腰をあげ、窓にむかった。外からは相変わらず、冷たい秋の風が街を包み、月と星々が美しく輝いている。鈴虫や蟋蟀などが、季節に相応しい音色を演奏していた。
「さらば、帰らぬ日々よ。愛した女性よ、私ももうすぐ、そちらへ逝こう」
それは、自分とこの世への別れの言葉であった。夜空に杯をあげる斎藤。死神はそんな斎藤をただ、じっと見ていた。そして、視線を持っていた死時計に移す。時計の二つの針は互いに重なり合おうとしていた――死をむかえる時間が来たのだ。
「感傷に浸るのも終わりだ。そろそろ時間だ」
死神は何もないはずの虚空から突如、長さセンチに満たない棒の様な物を取り出し、それを一振りしただけで、棒は大きな鎌へと姿を変えた。
斎藤はゆっくり振り返り、大鎌を構える死神に向き合うとこんなことを訊いた。
「最後に一つだけ教えてくれ。死神とは一体何なんだ?」
対し、そっけなく応えた。
「単純な答えだ――人間でも悪魔でも天使でもない。ただ全ての死を司る存在……それが我ら死神という存在」
言い終わるか終らないうちに、死神はその得物を一気に振り落とした。
斎藤は静かに目を閉じて、その行為を素直に受け入れた。
すべては、ほんの一瞬の内に終った。
魂を失った斎藤の身体は、糸の切れた人形のようにその場に倒れ伏し、死神は淡く光る斎藤の魂を失わぬように両手で確保する。こうしておかねば、これらの魂は現世に残り浮遊霊、最悪の場合は悪霊となってしまうのだ。
「人間の一生はいつか消えていく幻と変わらない。だから人は、自分が幻ではないという証を残そうとする――いつかはその証も、消え去ってしまう……か。我にはわからぬ」
そう呟き、また最初のように霞の姿になって消えてしまった。
この秋の夜を死神がどう感じたのか、それを知る者は誰一人としていない。
―完―
10年以上前に初めて執筆し、死蔵になった作品を加筆・訂正したものです。