四話・忍び寄る不条理
昼の気配が完全に遠くの水面に消え、また軽い夕食を終えた私たちは下山の路についた。
始めこそ夜の森を騒がせていた我々だったが、もともとセルヴィオはおしゃべりな質ではない。山の静けさと相まって静寂が辺りを支配していた。
とは言えそれは嫌な沈黙ではない。セルヴィオが側にいて私がはぐれないよう見守る限り、私には際限のない安堵が与えられている。そんな穏やかな静けさの中ではよく思考が捗った。
例えば、先程与えられた私の名前。それには美しい意味があったが、ならばセルヴィオの名はどんな由来なのだろうか。
ふと思いついたのだが、私が人間の言葉を理解するのと、人間のくらしに詳しいのは同じ理由からなのではないだろうか。つまり、私の頭の中には人間の知識があると考える。そしてその知識の中にサフィラスという言葉はないことからして、上級古代語とやらは一般的でない言語なのかもしれない。
「みゅー?」
「ん、なんだ」
「みゃ、みゅ、みゅーん」
「すまない……わからん」
くっ! そうだこれなのだ。こんなにも私の中には疑問があるというのに、言葉を話せない私にはそれを質問することもできない。
もしかして、これはとんでもなく不便な事なんじゃないのか? 言葉が扱えればこんな時に会話をしながら歩くこともできる。静かな夜の散歩も嫌いではないが、セルヴィオと語り合えたらそれはどんなに良いことか。
しかし私が言葉を話すというのは可能なことだろうか。獣が言葉を発する、私の知識の中にそんな夢のようなイメージはなかった。
「サフィラスが話せたら、どんなにいいだろうな」
「みゅん……」
私もそう思うよ、セルヴィオ。
実に見事な以心伝心ができる我々だが、私の考えのすべてをセルヴィオが汲み取ることは不可能だ。
私はセルヴィオの言葉がわかるのにセルヴィオには私の考えが伝わらない。なんて不公平なのか。
「そう落ち込むな」
セルヴィオは気遣わしげにそう言うが、不可能やもしれないことを望んでしまった私の心は晴れない。ただ会話がしたい、それだけだというのに。
せめて何か、意思を伝える方法があればいいのだが。
意思伝達の術とはどんなものがあるだろうか。
人間はそう、言葉を持っている。これは複雑な情報を細かに伝え合うことができる非常に優秀な伝達手段だ。
対して、私の持つ術はどうか。鳴き声の種類はいくつかある。嬉しいとき、甘えたいとき、不満なとき、同意するときなどは、現状この手段でも十分に用をなしている。他にも耳の角度とか、しっぽやひげの動きは私の感情を忠実に反映していることから、これも一つの術と数えられるだろう。まあ、私の意図しないことまで読み取られてしまうのが不満ではあるが、感情の表現としては優れていると思われた。
なるほど、こうして列挙してみると今までの手段の性格が見えてくる。私にできる意思の表現とは、外の事象に対して己の感情を示すことでしかなかった。
例えば、セルヴィオが私に"疑問があるのか"を尋ねれば、私はあると応えられるし、セルヴィオにもそれが通じるだろう。だが、"腹が減ったか"と聞かれたときに"疑問があるのだ"と主張しようと、それが通じることはあり得ない。
言い換えればそれは、聞かれたことに是か否かと答えているだけに過ぎず、自分の考え発信する術を持たないということなのだ。
「みゅん……」
「深刻そうなのは、わかるのだがな」
そう、私がどんなに考えを巡らせても、この思考の一片とて伝えることはできない。この世の不条理として飲み込むほかにないのだろうか。
歩きながら項垂れた私を、セルヴィオは相変わらず見守ってくれた。
「そうだ、書物に書いてあったことなのだが」
雰囲気の悪い静けさに落ちつかなくなったのか、些か不自然な切り出しでセルヴィオが話し出す。
それにしても書物か。よく知らないが、それには文字として情報が詰められているのだろう。ふん、私でさえセルヴィオに想いの一つも伝えられないというのにぺらぺらした分際でいとも容易くそれをなすとは、書物とか文字ってやからは随分生意気なことだ。
私は文字が読めない。もう何度か読書に没頭するセルヴィオの横目に睨んでやったが、小鳥の悪戯のようなあの線の塊になんの意味も見出すことはできなかった。それどころか私のセルヴィオを小一時間も独占するのだから、私は到底あれらを好きになれそうにない。けっ!
「……みっ!」
「なんだ、ますます機嫌が悪いな。あー、それでこれは古い神話の話なのだがな、その中には言葉を話す獣がよく登場するんだ」
「みゃっ、みゅん!?」
危うく木の根につまずくところだった。くそう、暗いのが悪いのだ。
しかしなんだと、言葉を話す獣と言ったのか。そんなものが存在し得るのか!?
だとすればそれこそ私の目指すべき姿ではないか。
「興味があるか」
「みぃみぃみぃ!」
「そうか、まあ幼い頃手習いに読まされたおとぎ話みたいなものなんだが……そいつらは大抵特別な力を持つ獣で、ドラゴンとかユニコーン、あとは呼び名は忘れたが亀の魔獣もいたな」
ドラゴンにユニコーン、それに魔獣だと!
胸の内で霞が晴れていくようだ。何を隠そう、私はドラゴンと同じよう翼を持つし、角や甲羅はないが魔獣である。であるのらばきっと、言葉を操れる可能性も皆無ではないはずだ。
「元気が出たようで、何よりだ」
ぴんと立ち直った私の耳を見て可笑しそうに、それでいて慈愛に満ちた視線をくれながらセルヴィオは笑う。私は感慨深い気持ちでその闇色の目を見返した。
セルヴィオはいつでも私を導いてくれる。セルヴィオに生かされた命、それを以て彼の傍らに在り共に生きていく。それが私のすべてで、それで良かったはずだった。なのに私は、セルヴィオと語らいたいがために己の望みを持ち、するとセルヴィオはその望みに道筋の一端を示した。
私にはそれが、なにか人智を超えた神がかり的なことのような気がした。私に信じる神はなく、あえて言うならば私の信仰はセルヴィオだ。セルヴィオに育まれ導かれた結果に今の私がある。そのことは運命とでもいうべき、私の命にあらかじめ定められていた理なのだと、私は気づいたのだ。
ならば私はその導きに応えよう。必ず伝説の魔獣のように言葉を手に入れ、そして一晩中でも彼と語らおう。セルヴィオの導きこそが私の生における絶対の道であると、私は例の底なしに与えられる安堵と共にそれを受け入れたのだった。
セルヴィオは道すがらに神話の獣たちの話をしてくれた。もっともその話はセルヴィオの考察を多分に含んでいて、神話を信じる者らに聴かれたら何を言われるかわからない話であったが。
曰く、ドラゴンが空想の魔獣なのかそうでないかは議論が別れているのだとか。魔獣の一種である飛竜種はドラゴンに似た姿ではあるが前腕の皮膜で飛ぶから四本足の獣や鳥と同じ体構造で、四つ足に翼のある生き物は今のところグリフィンと天馬の系統しか見つかっていないのだとか。特に人間に好意的なユニコーンなどは聖獣と呼ばれることがあるが、魔力を持つ以上魔獣に分類されるはずだとか。
神秘的なものたちへの容赦ない批正を生き生きと語るセルヴィオはいつになく楽しそうで、私もそれを好ましく聞いていた。
私は別に神話の類いを信じているわけでも、特別に懐疑するわけでもない。そもそもセルヴィオの口から聞いたことが私の知るすべてであるのだからして、そこにあらかじめの思惑など持ち合わせはしないのだ。だからセルヴィオがそうだと言うことを、私も同じく信じた。盲信が必ずしも信仰の証ではないとの価値観が私の知識の根幹にはあるようだったが、この頭の持ち主である私の意に沿わない知識になんの意味があるというのか。
というのが建前だが本当のところはもっと単純で、私はただセルヴィオが楽しそうにしていればそれだけで嬉しいのだ。
獣道を進む我々の散路ももうすぐ終わる。昼とはまるで雰囲気が違うものの、見慣れた地形からするとあの赤い花が群生している場所よりさらに降りた辺りだろうか。だとすればそろそろ入口の目印の大木が見えてくる頃だろう。
その時、私は言いようのない違和感に襲われた。山の何かがいつもと違っていて、それがうるさく私の琴線に触れる。
「……村の方が明るいな」
セルヴィオもまた何かを感じたらしい。
不思議そうに村のある方を見やりつつ、肩の高さに伸びた枝を容易く避ける。いつになく焚かれた火の灯りが我々の周りにまで届いて、山の中を薄く照らしていたのだ。これは尋常の事ではない。
それに何より、私の背中の毛が先程から逆立っている。あの灯りが見えてきた頃から、妙に落ち着かないのだ。
「何かあったのかもしれない。僕は村連中に話を聞いてくるが、サフィラス、お前一匹で帰れるな?」
なっ、私を置いてどこに行くだと!? 一匹で戻れるかと言われれば無論戻れるとも。毎日のように通る道を私が覚えていないわけがない。
しかしそれと独りで帰ることを許容するかは別の問題だ。セルヴィオのあるところに我あり。どこへでもついていくに決まっている。憚りは別として。
「みぃっ!!」
「……そうごねるな」
セルヴィオが困った顔で私の前にしゃがみ込む。
彼の本意でないことは私もしたくないが、しかしこればっかりは譲れないのだ。
「お前ならわかるはずだ。あそこには人がいるんだぞ」
むむ……、そう諭されると私としても一考せざるをえない。
セルヴィオがそう言う理由は無論、わかっているつもりだ。あの明るいところには村の人間がいて、ついて行けばは接触はまぬがれない。
私はセルヴィオ以外の人間と相対したことが一度もなかった。セルヴィオの家から山の入り口までの間には三棟ほどの小屋があったが、そこに人間の気配を感じたことはない。セルヴィオがそうなるように計らっていたのか判断するには至らなかったが、少なくとも今の態度から彼が私とほかの人間の接触を望んでいないことわかった。私が魔獣だからか、それとも村人の助力で討伐された山の主の子だからか。いずれにしても、村人と接触することで不都合が生じるとセルヴィオは懸念しているのだろう。
私の典拠不明な知識の中でも、魔獣とヒトの関係はおおむね不和である。
セルヴィオの解釈では魔獣とは"魔力のある獣"となるが、私の頭に浮かんでくる魔獣とはもっと概念的で、"普通より小賢しく大きな獣"、特に"人間にとって脅威になりうる獣"の蔑称であった。魔という言葉のもつ負のイメージがそのような概念化に至ったのだろうが、完全に不気味で邪悪なものとされている。この基準が村人にとっての魔獣であるなら、見ためからして魔獣らしい私にどのような悪い印象を持つか、想像に難くない。
それに私はまだ小さく、セルヴィオは若い。案ずるに、山の主でを追い囲った人間たちにかかれば私はひとたまりもなくのばされて毛皮になるだろうし、セルヴィオにはそれを止められない。
セルヴィオの懸念とは正しくそれだろう。私の身を案じてのことだ。く……っ、ならばその気遣いを無碍にすることは私の本意でもない。むしろそれを理解すれば、むずがゆい歓びが湧き上がってくるではないか。
私は、セルヴィオに心配されている。
「みゅ、みゅー……」
「いい子だ。本当にお前は賢いな」
私の心境の変化を知ったらしいセルヴィオが優しくあごの下を撫で、何度聞いたかわからない台詞を言う。私はどこか釈然としないながらも、私の意思とまったく、まったく関係なく鳴ってしまうのどを抑えることはできなかった。不可抗力というやつだ。
けして、なでなでに絆されたわけではないのだが、どうしてもと言うセルヴィオのために私は一匹での帰還を了承したのだった。
やはり村で何かあったらしい。セルヴィオと共に樹海を出た私はそう確信した。
セルヴィオの小屋よりもっと麓の方で、大きな篝火が焚かれているのが遠目にもわかる。今まで見たことのない、大きな火だ。
昼のように明るくなったその周りを男たちが慌ただしく駆け回っている。私には、彼らが何かを探しているように見えた。
「迷子でも出たのか?」
それにしては大げさだな、と呟きながら明かりの方をうかがうセルヴィオも同じ見解のようだ。だがその目からは見る見るうちに興味の色が失せていく。初めて見るセルヴィオのそんな冷たい目に、私はにわかに居心地が悪くなってその場をうろうろと歩き回った。
私にとっては慈愛深く、母性(あるいは父性)を感じさせる彼だが、集落の人間に対しても同じというわけではないらしい。実のところこれも予想できなかったことではない。私は村の人間に遭遇したことがなく、私は常にと言えるくらい大抵の時間をセルヴィオと共に在った。つまり、私といたセルヴィオもまたほとんど他の村人との接触なく生活していたことになる。
作った薬を卸したり、わずかな穀物をもらってきたりと最低限の交流はあったようだが、それでも村八分に近い状態なのではないか。少なくとも、セルヴィオ自身は進んで孤立することを望んでいるように見受けられた。
セルヴィオがそんな冷酷な視線を眼下に見える人々へ向けていることには何も思っていない。私の憂いはひとえに、その目が自分に向けれれたらと想像してしまったせいだった。
杞憂なのは言うまでもない、だが、と一瞬にしろそう考えてしまった。もしそうなったら私はどうするのだろうか。そんな目を向けられてしまってから、信頼の挽回は可能だろうか。もしそれが望めない時は大人しく彼のそばを離れることができるのか、一匹になって尚生きていようと思えるのだろうか。
「まあ、とりあえず行ってくる。もしかしたら手伝わなくてはならないかもしれないが、その場合でも一度家には戻る……サフィラス?」
セルヴィオに声をかけられるまでの然程長くはない時間だったが、最終的に行き着いた自問へ、否以外の答えが浮かぶことはなかった。
セルヴィオのそばを離れて生きている自分など考えられない。それは言い換えれば生きている間はセルヴィオの傍らに在り続けるということ。そう思うととてつもなく素晴らしいことのようで、しかし至極当たり前のことだと気づいた。
へたりと地についていたひげもくるくると踊りだす。そうだ、だいたいからしてこの問は前提がおかしいのだ。セルヴィオが私を嫌うことも、私がセルヴィオのそばからいなくなることもありえないのだから。
「みゅーお!」
「……ああ」
腰を屈めかけた体勢でこちらをのぞき込んでいたセルヴィオだったが、私が了解と答えるとわずかに間を置いてから姿勢を正した。おそらく私の顔色とひげの動きから何かを読み取ったのだろう。さきほどの的はずれな憂いすら看破されたのかもしれない。
だが斯く言う私も、セルヴィオのまっすぐ伸びた背筋から言いようのない大儀感を見て取れるのだからおあいこのはずだ。
「行ってくる」
そう言ったセルヴィオはゆっくりと篝火の方へ歩き出した。向こうの慌ただしさと比べても、彼の気乗りしなさ加減がよくわかる。
しかし、やはり不安だ。いくら彼が心から望んでいなくとも、たった少しの間と言っても私が置いていかれることに違いなく、それに(不承不承ながら)納得していようとまるで無関係に私は不安なのだった。
不安を覚えてしまうことすらいっそ腹が立つ。その場にしゃがんでふるりとひげを振り、私を置き去りにするその背を見送る。ところであの長すぎるマントは足に絡みつきそうで危なっかしく見えるのだが、あれをあえて引きずりながら歩くのにはなにか理由があるのだろうか。確実に身の丈に合っていないのに。
しばらくして、彼の頭が私の爪くらいの大きさに見えるくらい離れたところでセルヴィオがは振り向いた。
その顔がもの言いたげにこちらを見ているものだから仕方なく腰を上げる。そろそろ家に向かわなくては、セルヴィオが引き返してきそうだ。
あー、いや、それも悪くはなかったかもな。
悪くないなんてものじゃなかった。間違いなく私はそうすべきだった。
やはりセルヴィオのそばを離れるべきではなかったのだ。
無力な私は後悔するほかに、この不条理への反抗心を示す術を持たなかった。不様にも、矮小なこの身はわずかに抗うこともできず理不尽に蹂躙されてしまったのだから。せめて精神だけはこの事態を一寸たりとも受け入れまい、と。
そんな涙ぐましく不毛な決意がなんの役に立ったかといえば、やけになって暴れて剥製になる道をまのがれたこと。そして――雌伏を受け入れられたことだ。
一匹帰路に着いた私は、セルヴィオの家で待ち構えていた男どもによって麻袋へ詰められ、抵抗もできないままセルヴィオと引き離された。