三話・我が名は
「こっちだ……大丈夫か?」
「み、みゅーん」
正直に言えばくたびれました。とは言えないだろう。大丈夫だ、と強がって返す。
周りは少しずつ暗くなっていたが、もう一踏ん張りだ、という《母》の言葉を信じて私は前足を上げた。
あの岩の側で我々は絆を深めることができた。思えば、《母》が私を抱き上げなくなったのは私を野生に還すつもりだったからだろう。甘えを覚えてしまっては野生で生き抜くことはできない。現に今の私は、《母》の庇護がなければひとたまりもなく他の獣や、それこそ大自然の餌食であろう。
だがその想いは《母》の中でも大いに矛盾を孕んでいた。《母》は私の巣立ちを望みながら、私が迷子にならないよう常に気を尖らせていたように思える。
私の自惚れでなく、《母》は私という息子を愛してしまったのだ。自立を望みながら、親離れを無意識に拒んでしまうほどに。ふふんっ、私もまんざらではない。
であればこの程度の山道、《母》が望むのならいくらでも登ってや……りたいところなのだが。恥ずかしくも私は既にくたくたであった。帰りたい。
《母》の進む道は普段とまったく違い勾配が激しく、足元に広がるように伸びた背の低い樹木が歩きを困難にしていた。勾配は、まあ私の身体能力をすれば何とかなる程度であるが、この木々が些か厄介ものである。
《母》の足は器用に根のないところ進むが、その根は私が歩いて乗り越えるには高く浮きすぎていた。私はそれらをいちいち跳び越えるしかないのだ。むしろ下をくぐった方が楽なものさえあるほどだ。
苦労してついていく私を《母》は気づかってくれてはいるが、急いでいるのかその足の進みが緩むことはない。
実際には一度だけ腕を広げて、抱いて行こうか、と聞いてくれたのだが私が断ったのだ。いくらその真意を知ったとて、私は愛玩動物に成り下がるつもりはないのだから。しかし今では僅かに後悔して……いやいやっ、ないとも!
私は必死に跳び進みながら、今すぐ飛べるようにならないかと小さな翼をばたつかせるのだった。
《母》に、もうすぐだ、とか、あと一息だ、とか散々騙され……ごほん、もとい励まされながら我らは進み、ようやく《母》の足が止まったのはもう日暮れ間近のことだった。
これほど長く外出していたことはない。疲労はかつてないほどに私の足を重くしていた。座り込んでも良いだろうか。
「どうやら間に合った」
《母》の嬉しそうな声を、私はひげとしっぽをだらんとさせながら聞いていた。まあしかし、嬉しそうで何よりだ。
「ほら、お前もおいで」
「みゅー……?」
へたりこんでいた私は《母》によって簡単にすくい上げられた。私がだっこを嫌がっていた(わけではないが、自らに禁じていた)のも今は忘れているらしい。
私が思うに《母》は年のわりに落ち着いた性分である。同じ年頃の人間を他に知らないが、いつもの通り何故かそう思うのだ。
村でほんのたまに見かける他の人間と見比べても《母》は頭一つ分は小さく、大人と子供の間といった風だが、既に自立して自らの食い扶持を稼いでいる。少なくとも親など大人の庇護を受けているようすは一度も見ていない。
それからしても普段は大人びた子供であるのたが、今の彼は随分と興奮して、こう言っては何だが子供らしかった。私にとっては新鮮な発見だ。
《母》は片手で腹を、もう片方の手で腿のあたりを支えて私を背中向きに抱えた。目線が高くなって落ち着かない体勢だ。
どうやら何かを見せたいらしいと疑っている内にも、《母》は向きを変えてここらでも一際大きな木の影を通りすぎ、そして――私はそれを眼にした。
水平線に真っ赤な夕陽が沈みかけていた。水面がゆらゆらと燃えている。
湖なのだろうか、対岸の見えない広い水面は薄く霧がかり、そこに赤い日の光が反射してまた酷く美しい。此方の岸に近くには小さな島が点在し、わずかな土地を争うように群生した木々が夕陽の中でまた燃えているように見えた。
筆舌に尽くしがたい、絶景である。
これが《母》の見せたかったものに違いない。この光景のためと思えば身体の疲労も溶けるように心地よくすらあった。
「素晴らしいだろう」
《母》の誇らしげな声に、私は声もなく頷いた。
「僕は父にこの場所を教わった。父は、誰に教わったのだと思う?」
誰に?
「なんとな、山の主にだそうだ。お前の母か父親だろうな」
なんと!
くるりと《母》を見上げると、《母》は眩しそう夕陽を見つめていた。過去を思い出しているのだろう、その顔はどこか遠くを向いているらしかった。
「父はこの山で狩りを生活していた。この山はあまり大きな獣はいないだろう? 昔は違ったそうだ。猪や、熊もいたらしい。でもいなくなった。たぶん、主が来たから逃げていったんだな」
「主は、父が若い頃に山に現れたそうだ。丁度今の僕くらいの頃だと言っていたかもな。それで今までのように狩りができなくなった村の連中は、主を追い出そうとやっきになった。若かった父もその一人だ。しかし追い立てようと罠をしかけようとまったく捕まらない。見つかるのはわざとらしい痕跡ばかりで、罠に餌を仕掛けると綺麗に餌だけ盗っていく。毒はしっかりと避けてな」
「この辺りで村の連中も主がただの獣でないと気付いたのか、段々と主を探そうとしなくなったらしい。まったく山から降りてくる気配はないし、子供どころか家畜の一頭も襲われないから放っておくことにしたそうだ」
「だが、僕の父は違った。しつこく主を探した。もともと狩人だったのは村でも父だけだったのもあるが、父は意地になっていたと言ってたな」
《母》はくすりと笑って私を見た。
夕陽はすでに半ばほどその身を水平線に隠していた。肌寒くなったのか、地面の上に座り込んだ《母》はマントの中に私を入れ、私たちは体温を分け合うように身を寄せあった。
「一人きりで主を追い続けると、ほんとに時々だが主が姿を見るようになったそうだ。他の連中は主の足跡しか知らないのに、父にだけ遠目に姿を現し、そして追う間もなくまた居なくなる。遊ばれていたと、父は酷く憤慨していたな」
「しかし、その内に父も主を捕まえる気はなくなっていたそうだ。それでも毎日山に入り、主の姿を探した。己の目的が変わっていると父が気付いたのは、目の前に主が現れた時だったそうだ」
「主がどんな姿だったのか、僕がせがんでも父は目を瞑るだけで教えてくれなかった。けれどその表情は穏やかで、誇らしげで、きっと素晴らしく美しかったのだろうな、お前の親は」
「その時、主に導かれるままに進んでこの場所にたどり着いたのだそうだ」
《母》が私をじっと見る。私も《母》を見上げ、しばらくそうしてから首を傾げた。
それで終わり? 最後だけ随分あっさりしているじゃないか。不満げに揺れるひげに、《母》は可笑しそうに微笑む。
「お前も不満か? 僕もそうだった。でも父の話はこれでいつもこれでおしまいなんだ。なんで主がここに父を連れてきたのか、父が疑いもせずに着いていったのか、僕はずっと不思議だった。でも、今はわかったような気がする」
すっかり日は沈み、彼方がぼんやりと橙色に光るばかりになっていた。後ろの方から青い夜が空を侵略し、白い星がチラチラ自己主張を始めている。
辺りは真っ暗で、十歩先を見るのも困難なほどであるが、愚かなことに私たちはまだ下山する気にならなかった。
「お前と同じように、主は美しいものを美しいと感じていた。父はこの場に導かれ、それを思い知ったのだろうな。自分と同じ心を主が持っていると。触れられそうなほど主に近づいたのはそれきりだったそうだが、それでも父と主はきっと……」
《母》の言わんとすることがわかり、私はみぃーんと一声上げてそれに同調を示した。
私と《母》は固い絆で結ばれている。離れがたく、信頼を預け、そして安堵を与え、与えられるような。
私の親と《母》の父の間にも、そんなような何か築かれていたのだろう。《母》の父はそれを息子に語るのを気恥ずかしがったようだが、私はそれが友情と謂われるものだと知っていた。
「僕たちはもっと近くにいられる。父たちのような、否、負けないほどの、その……友であれたら、いいな」
「みゅん!」
恥ずかしそうに小さな声で言った《母》に、私は力強く答えた。《母》は嬉しそうに、そうか、と言ってまた私の頭を優しく撫でた。
「言ってなかったかもしれないが、僕の名前はセルヴィオという」
名前ってわかるか? と聞く《母》――改め、セルヴィオに、私はみゅーんと言って答えた。
友と言った手前、いつまでも《母》と呼ぶのはいかがなものかと思っていたところであった。見事な以心伝心具合。流石は私のセルヴィオだ。
「友と言った手前、いつまでもお前と呼ぶのもな……名前をつけてもいいか?」
暗い山道を慎重に降りながら、たずねられた言葉に私はぴくぴくと耳を動かした。
名前か! それはいいな、ぜひ欲しい。
魔獣の名前がどのようにしてつけられるものか知らないが、いずれはと思っていた。セルヴィオがつけてくれるのなら喜びも一入だ。
ぴんとしっぽを立て、全身でもって是と答える。
「そうか。ではどんな名前がいいだろうな」
一瞬嬉しそうに頷きかけ、取り繕ったように真面目な顔をしたセルヴィオは、ふうむ、と唸った。
しかしどんなか。そう言われてもな。そもそもなぜ名前の概念を知っているのかも怪しい私としては、ミーとかミャーとかそんな適当な感じでなければ何でもいいように思ってしまうが。
「そうだな……じゃあミュウというのは」
「シャーッ!!」
「冗談だ」
まったく、真面目腐った顔で何を言うかと思えば!
思わず威嚇の声が出てしまったではないか。初めてだぞ、こんなに毛を逆立てたのは。何しろこの山には天敵がいないものだからな。ふむ、これは一つ練習しておくか。
しかし今は名だ。呆けている内にどんな名付けをされるかわかったものではない。そもそも私が雄だということをセルヴィオが認識しているのかも怪しいではないか。
憮然とした私にセルヴィオは、悪かった、ともう一度謝った。しかし口の端がわずかだが悪戯っぽく歪んでいるのだから信用ならない。
ぴしりとすねの辺りをひげで叩いてやった。このひげは鞭のようにしならせることもできるのだ。
「ははっ、本当に悪かった、許せ。実は名前は前から考えていたんだ」
ひげ攻撃に観念したのか、セルヴィオは身を捩って笑った。
今日はよくしゃべるしよく笑う。どうも私は、彼が笑うと嬉しいのだ。
そう思いながらも、私はつんとした態度であごをしゃくって話を促す。ふふん、役者は私の方が上だな。ひげもくゆくゆと気分良く空を泳いでいるってものだ。
「くくっ、ひげは機嫌が良さそうだがな」
「みぃっ!」
「わかったわかった、叩いてくれるな」
ふざけてばかりのセルヴィオにぴしぴし抗議の鞭をくれてやった。誰の機嫌が良いだと? まったく勘違いも甚だしい、失礼な話だ。
これは別に見破られて悔しいとか、まして照れ隠しなどではけしてないのだ。
さっさと言えばいいのに、焦らして遊ぶとは趣味の悪いやつめ。
苛立ち半分、名への期待半分で私は忙しなくひげをくゆらせていた。しかし、実のところセルヴィオの気持ちがわからないでもないのだ。恐らく彼の不自然な態度の理由は私のそれと同じなのだから。
夜道は、ほとんど先の見えない暗闇であった。折り重なった木々の枝葉は、昼間でさえ日光から山肌を隠すのだ。夜ともなればいわずもがな。すっかり天井に昇った月も淡く白い光を注いでいるが、とても足元を照らすには至らなかった。
そんな暗い道だが、猫である私は夜目が効いた。日が残っている内はあまり良く見えなかったのだが、完全に日が落ちると昼と変わらないくらいに周囲を判じることができたのだ。もっとも、昼とまったく同じというわけではない。明るい時のように色を識別することは難しく、視界の中は白と黒の陰影だけで描かれているような具合であった。
セルヴィオはしきりに己の首を触りながら、あー、などと意味のない声を出していた。それでいて、足元に浮いた根も、肩の高さに飛び出した枝もほとんど器用に避けて歩いている。私のように見えているのかと疑う身のこなしだ。……と言った先からつまずいているがな。考え事に気を取られているからだぞ。
彼のそんな落ち着きない、もっと言えば不安そうな姿は珍しく思える。しかし苛立ちの勝った私がぴしりと強めに鞭すると、観念したように立ち止まり、セルヴィオはようやく口元を歪めたのだった。
「名前を考えたのは初めてだから、お前が気に入るかわからないが、サフィラス、というのはどうだ」
「みゅ……」
サフィラス……サフィラスか!
なかなか感じのいい響きだ。少し女らしい気もするが、ああ、だが気に入った!
「みぃ!」
「! そうか、それは良かった」
私の快諾に、セルヴィオは嬉しそうに声を上ずらせた。月の頼りない明かりの下でも、白く浮き上がった顔が赤く上気しているのがわかるくらいだ。名付けられたのは私だというのに、セルヴィオの方が喜んではいないか?
照れ臭そうにはにかんだセルヴィオが、私の前にしゃがんで視線を合わせてくる。
「サフィラスというのは青い石の名前なんだ。青くて綺麗なものを示すのにしばしば使われる上級古代語でもある。お前の瞳の色はまさにサフィラスだろう」
私の瞳は青いのか。それは初めて知ったが、なんとも情緒的な由来である。嫌ではないな、嫌ではない。
そう語るセルヴィオの口ぶりは軽く、嬉しげな声につられてこちらの耳までピクピクしてしまいそうだ。それだけ一生懸命考えてくれた名なのだろう。その響きは聞くほどに心地よく、私の身体に染み込んでくるように思われた。
私の名はサフィラス。青い瞳のサフィラスだ!
ああ、何か込み上げるものがある。さっきから首筋から前足の付け根あたりが熱くて仕方ない。ついにはしっぽまでがぴん立ち、近頃大きくなってきている翼はパタパタと興奮のままに羽ばたいていた。
わかってきたぞ。名前があるというのは、こんなにも誇らしいのだ。
私はサフィラス。セルヴィオがつけてくれた、私の名だ!
はしゃぐ私の側で、セルヴィオは微笑ましげに私を見守ってくれいる。不思議なことにそれは無意識に感じられ、また私にひどく安堵を与えるのだった。