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一話・母を呼ぶ声

初投稿です。完結を目標に書いていきます。

 目覚めた時、私は反射的にすべての足をばたつかせた。あまりの寒さと息の苦しさに驚いてのことだ。

 運良く身体を包んでいた重たい膜を破くのに成功し、これ幸いと動かない身体を捩らせて頭を出す。ねばつく口を大きく開けると息苦しさからは解放されたが、羊水で濡れた毛に冷たい空気がまとわりついて、さらに体温を奪われることになった。


 寒い。それに腹が減った。


「みぃーん、みぃーん」


 本能のままに甲高い声を上げて母を呼ぶが、周囲に私を安心させる母の気配はない。岩の影を少し掘り起こしただけの巣穴は、濡れねずみになって震える私だけ置いてがらんどうであった。

 生まれたばかりの私は、捨てられたのだと理解した。

 ああこれは生きられない。

 おかしな話だった。寒さと不安と空腹に震えながら、あたかも他人事のように冷静に考える己があった。


 せめて震える身体を慰めようと首を回し、己の背中を舐める。本来ならば生まれた子を舐めて乾かすのは母親の役目であり、もちろん生まれたばかりの舌で上手くできるはずがない。ましてべたべたして不格好な羽根の先など、短い首では届きもしなかった。どうすれば届くのかわかってはいるのだが、凍えた小さな羽根は舌以上に上手く動かせなかった。


 野生動物の産後生存率の低さは漠然と知っていたつもりだった。今、正に己がその境遇であるというのに、頭はどこか他人事だ。

 これが自然か。赤子の私は絶望していた。

 腹も減ったし、身は凍えるし、もう疲れた。これがこの命の定めだったのだ。この矮小な身体一つでどうしろというのだ。生まれてすぐ己の足で立つ草食動物とて、生まれて初めての食事は母の乳である。その乳もなく、どう生き伸びろというのか。

 或いは誰もそのようなことは求めていないのか。ただ死すために私は生まれてきたのか。この獣の赤子に不相応な思考を持ち合わせて。

 この理不尽が理解できてしまう故に、事態はいっそう残酷なのだった。


 私はうつらうつらとして、この小さな身体から徐々に命の炎が抜け出ていくのを感じていた。もはや抗うこともせず、否、できもせず、己の死に行くのをただ待っていた。

 当然だが、赤子の私はすっかり弱りきっていた。

 だからだろうか。何者かの腕が私をすくい上げ、冷たい身体を痛いくらいに擦りながら死を待つだけの巣穴から連れ去った時も、私は生死の界で微睡んだままであった。


 それが、運命と信じるに至る出逢いであったのも知らずに。




 今生において二度目の目覚めを迎えるとは少しも予想していなかった私は、徐々に暖かい微睡みから覚醒すると大いに慌てた。

 まだわずかにしか開かない目で周りを確認し、いつの間にかあのねばねばした詰まりもののなくなった鼻で臭いを探る。もっとも、初めて臭うそれらにどのような情報があるのかさっぱり検討はつかなかったが。


 それに比べて、視覚から得られた情報はさらに私を慌てさせた。私は同じく初めて目にするはずの光景をして、これは人の住みかであると看破していた。

 丸太を束ねたような壁が四方を囲い、天井には自然のままの曲線を描く太い木がそのまま梁として使われている。屋根もまた木材だろうか。明かり取りから差し込む日光が逆行になっていて良く見えない。少なくとも今が昼であることはわかった。

 室内の内装は、ふむ、猟師小屋でないことは間違いないだろうが、これといって目を引くものはない。申し分程度の家具があるばかりだ。粗末な装丁の本が数冊、ぶ厚そうな木のテーブルに置かれているのが特徴といえばそうか。私は藁を敷いたカゴのようなものに入れられ、そのテーブルに乗せられていた。

 人の気配は、ない。だが、私はこの部屋の住人に命を救われたらしいと見てよいだろう。

 相変わらず刺すような空腹が苦しいが、もう少しも寒くない。小さな羽根も軽やかに羽ばたけそうで、絶望を受け入れようとしていた心がぐんと上を向く。

 はははっ、そうだ! 私は、生きている!


「んみぃーお!」

「ん……ああ、起きたのか」

「!? み、みゃっ」


 悦びのままに羽根を羽ばたかせ、いざカゴから飛び出さん! としたところで生まれて初めての己以外の動物と遭遇し、驚いた私は無様にもころりとカゴから転がり落ちた。


「思ったより元気がある。しかし、ほら、まだ危ないだろう」


 前転の要領で転がった私を、その者はテーブルから落ちる手前で拾い上げ、再びカゴの藁の上に丁寧に置いた。

 緊張する私を余所に、その手は前転で変な方に逆立った私の羽根を去り際にそっと調え、代わりに小さく千切られた海綿のようなものを差し出す。


「飲めるか」


 差し出された海綿は、私の前足程もある親指に押される度にほの甘い香りを放ち、白い滴を藁に落とした。

 食事だ! そう知るや否や、私は必死に海綿にしゃぶりついた。前足で搾るように押しながら口をすぼめれば、舌を甘く濃厚なものが刺激する。

 うまい、うまい! それ以上考えることもなく、私は生まれて初めての食事をどうにか腹に収めようと死にもの狂いであった。乾いた土に水が染みていくが如く、私の食欲は底無しであると思われた。

 海綿から食事が出なくなると、私はみーみーと鳴いて指を叩いた。その度に手元の器から食事を補充する人間は、辛抱強く私の食欲が収まるのを待っていてくれた。


 それから程なくして小さな胃袋を満たした私は、はち切れそうな腹を抱えて自然と丸くなった。腹を満たしたら寝る。赤子の本能のままである。


「寝るのか」


 その微睡みは前回とは比べ物にならず暖かく満ち足りていて、遠慮がちに背中を撫でた手は私をひどく安堵させた。

 それは、母に覚えるはずだった絶対の信頼というものらしかった。




 次の目覚めも当然のようにやってきた。

 私は空腹に覚醒し、ふわふわした腹の毛を睨みながら、苛立ちのままに泣きわめく。


「みぃーんみぃーん!」


 しんとした室内に、情けない私の鳴き声が落ちる。それでも前回に比べれば力強い声が出た。

 そのまましばらく待って、無人の部屋のどこからも反応がないとわかると私はさらに大きく空腹を訴える。


「みぃーんみぃーん! みぃーんみぃーんみぃーん!」


 執拗に呼び続けるのは、あの食事をくれた人間だ。

 くそう、あいつめどこにいる。私は腹が減ったのだ。

 あの人間が再び食事を寄越すものと信じて疑わない私は、巣となったカゴの中で憮然と藁を叩く。母を得て感じなくなっていた不安に代わり、満たされない不満が私の中で急速に生じていた。


 かくなる上は、巣から飛び出し私自ら探しに行くべきだろうか。なるほど、それは良い考えに思える。しかしこのカゴから降りられるか? ……可能だ。飛び降りるには不安があるが、前回のように身を丸くして転がり出でれば良い。このしなやかな身体には簡単なことだ。

 そう結論を出すや、私はカゴの縁に立って勇ましく羽根を広げた。何だかここに立つと胸が踊る。自らの足で巣から出るというのは、野生である(つもりの)私にとってそれだけ特別な意味があるのだろう。私はできるだけ堂々と胸を張った。いざ、行かん!


「みぃーお!」


 思わず上げていた雄叫びが、私の内に燻る野生を奮い立たせる。

 前転する都合上、広げていた羽根を丁寧にたたみ直し、私はカゴの縁から一歩踏み出した。


 ところで、物事とは繰り返す性質を持つらしい。カゴから飛び出した私はその勢いのままテーブルの端まで転がり続け、ミルクの皿を持ってやってきたあの人間に危ういところで受け止められるのだった。

 うむ、まあ、私は食事にありつければ何でもいいのだ。口元の毛を白く濡らしながら、私は気にしないことにした。

 だがその後、なぜか私の巣であるカゴが布を引かれた床に置かれ、四方を柵に囲われてしまうことになったのだった。解せぬ。




 それから私は、食事をくれる人間を《母》と呼ぶことにした。人間の言葉は話せないのだから私の心の問題だが、それは瑣末なことだ。

 《母》は黒い毛並み人間である。瞳も同じく黒く、私は黒曜石のようだと思った。むろん、そんな鉱石など見たことも聞いたこともないはずなのだが、はて。たびたびこのように不自然な知識が浮かぶのだ。そのせいかどうなのか、人間の言葉もほとんど理解していた。

 《母》は言葉少なく私に話しかけてくる。が、私は獣の赤子であるからして、《母》にとっては独り言と変わらないのだろう。彼の名前はわからない。彼といえば、《母》は未成熟な雄の人間であるようだが、それもまた瑣末な話である。《母》は《母》なのだ。


「なんだ」


 じっと見ていた私の視線に《母》が近づいてくる。すかさず柵に取り付いて甲高く呼ぶと、《母》は少しだけ相好を崩し、逡巡の後にあの忌々しい柵を取り払って私の前に膝をついた。


「腹が減ったのか」


 手にしていた書物をテーブルに乗せると、よたよたとカゴから降りようと悪戦苦闘する私を遠慮がちに撫ぜてくる。だがなかなか抱き上げてはくれない。私が空腹ではないと一鳴きすると、通じたのか否か、そうか、と呟く。しかし、やはり彼の手で床に下ろしてはくれない。後ろ足を滑らせ、最初のものより二回りは大きくなったカゴから落ちかけながらもなんとか床をつかもうとする私を、《母》は静かに見守っていた。

 それからしばらくして、ようやく無事に床へ降り立った私は誇らしくヒゲをくゆらせながら《母》の足元に飛びついた。見事に自力で巣から出た、それも転がり落ちるのではなく優雅に降りてみせた私を、《母》も嬉しそうに出迎えてくれた。


「みぃーお!」

「ああ、よくやった」


 さあ褒めろと膝に前足を乗せて主張すると、《母》は言葉少なに褒めながら私の毛並みをするすると撫でる。その動きにもはや遠慮はなく、ひげの生えた頬から始まり首の下をくすぐる。それから肩の辺りをさらりと通り、かと思えば興奮して広げていた羽根の付け根を優しくしかし執拗に撫でてくるのだ。この、テクニシャンめ! もっとやってくれて構わない。私は総毛を立てて身震いしながらその手技に翻弄されるのだった。


「しかし、本当にお前は何なんだろうな」


 うん? またその話か。《母》は私を撫でながら思考に入っている。……あ、そこそこ、その羽根の下をもっと優しく……おほん、ではなくて。

 これは前にも呟いてるのを聞いたのだが、《母》は私が何者であるのかが気になって仕方ないらしかった。

 私の容姿は、一言で言えば羽根の生えた黒い仔猫である。

 全身は黒く柔らかな毛並みで被われ、床をつかむ足先だけは白灰色である。その背には鳥類のような翼が一対、肩の上らへんから生えていて、その羽根も背面は黒く内面は灰色がかっていた。それとこれは早くも私の自慢なのだが、優雅に空を泳ぐ長いひげが一対。これは頬の後ろの方から伸びていて、まっすぐにすれば後ろ足まで届く。表面は細かい鱗が並んで、艶やかに黒光りしていた。ふふん、美しかろう。それから同じく優雅なしっぽの先には豊かな毛房がついる、とこんな具合だな。

 《母》は私のような容姿の獣を知らないらしく、私が拾われてから一週間あまり、その正体を日々不思議がっていた。便宜上仔猫として扱っているが、私の成長の早さから魔獣の一種かもしれないと呟いていたこともあった。


 私は我ながら脅威的な早さで大きくなっていた。まだ猫の成体とまではいかないが、新しくあてがわれた木製のカゴの大きさから目算しても、初めに自分を認識したころから体積は3倍以上増えていると思う。

 具体的に言えば、最初は《母》の手のひらに乗るくらいだったのに、今は《母》のひざに乗っても半身程度の余裕しかないのだ。

 するとだんだん《母》は私を抱き上げなくなっていった。初めこそだっこをねだってぐずっていた私だったが、どんなに鳴いて訴えても《母》が困った顔で撫でてくるだけと気づくと、しぶしぶながらだっこは諦めることにした。

 でも、私は知っているのだ。夜になってもカゴに戻らず床に寝ていると、仕方ないというような雰囲気を出しながら《母》が母を拾い上げ、カゴに寝かせてくれていることを!

 最近では多用しすぎて若干狸寝入りを看破されてる嫌いはあるが、《母》は必ず私をカゴまで運ぶ。あるいは、本当は《母》も私をだっこしたいのかもしれない。そうならいいのにと思うのだ。


「翼のある四つ足の魔獣と言えば、ドラゴンやグリフィンが有名たが……」

「みゅー…」

「ん、なんだ、深刻そうに」


 ため息をこぼす私に気づいたらしく、《母》は首を傾げて私を見ていた。

 どんな思惑があってだっこを封印したのか知らないが、《母》の気が変わったのならいつでも私の準備はできている、とだけ言っておこう。




 それからまた数日が過ぎた。私が《母》の子になってもう半月が経つ。

 最初こそ、日がな一日寝て起きて食べて寝てと繰り返していた私も、近頃では朝起きて昼寝を挟みつつ夜になると寝るような生活サイクルに移りつつあった。

 起きている間は食事とか、部屋の探検とか、爪研ぎとか、食事とか、それは忙がしく過ごしている。柔らかくすれば固形物でも食べられるようになったし、一部屋だけの家の中は全て探検済みである。のだが、未だにこの家の外に出たことはなかった。


「行ってくる」


 それなのに《母》は私を置いて出掛けることがある。二日に一度は私を置いていくのだ。今も私が巣の中の藁を心地よく調えている隙に外に出ようとしている。昼食後の私が一番微睡んでいる時を狙ってのことだろう。実に許しがたい。

 ふっくらとして具合の良くなった藁の誘惑を打ち払い、私は急いでマントを羽織った《母》の足下に駆け寄った。成長した私の前には、もうあの忌々しい柵も妨げにもならないのだ。


「みぃみぃみぃー!!」

「う、うおっ」


 勢いをつけて足にすがり付けば、《母》はバランスを崩しかけてよろめいた。順調に育った私の身体は立ち上がれば《母》のひざにも前足が届くのだ。

 ふふん、動けまい! さあ私も連れて行くのだ!


「おい、留守番が嫌なのはわかるが、お前にはまだ……」

「みぃーおみぃお!」

「いや、しかし」

「みぃみぃみぃみぃみぃみぃ!!」


 言葉にするならば、やだやだやだやだっ、といったところだろうか。《母》にもそれは伝わったらしく苦渋の表情である。

 駄々っ子と言うなかれ。私は生後二週間。子供だ。

 しかしもう二週間でもある。十分に跳んだり走ったりできる身体になっているのだ。未だに翼で飛ぶことはできていないが、いずれはそれも成すつもりである。

 つまり、もう置いてけぼりには飽き飽きだ!


「みぃーーん!」

「はあ、わかったわかった……連れていくから離せ」

「みぃーお!」


 ふっ、勝った。やんわりと私を引き剥がそうとしていた《母》の手が完全に動きを止める。私は勝ち誇りたい気分であった。

 ついに外出権を勝ち取ったのだ! そうと決まればいくらでも離すとも。《母》の服に立てていた爪をしまい、《母》の足の周りをぐるぐると歩き回る。何も私は《母》を困らせたいわけではないのだ。ただ室内に飽きただけで、《母》が望むならば大人しくすることもやぶさかでない。なんなら宙返りでもバク宙でもご披露するぞ。ほれほれ。


「……ふっ、嬉しそうなことで、何よりだ」


 困った顔で私を見ていた《母》だったが、軽やかに跳び回る私に、いつしか堪えきれないというように笑みを浮かべていた。

 うむ? 何やら今呆れられた気配がしたが、気のせいか? 気のせいだろうな。私の華麗なる空中背面半ひねりに関心しているのだろう、無理もない。


 何はさておき、世界よ刮目せよ! 記念すべき私の外界デビューがここに決まったのだ。

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