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高校の空気は、いや、この街全体の空気は今や重苦しいものとなっていた。
皆どこか怯えていた。ここ最近続く怪死。それは目に見えて増えてきていた。
連日の報道。警察の情報規制もされているようだが、人の口にふたをすることはできない。
噂は広がり、恐怖は伝染する。
恐怖は負の感情を呼び起こし、負の感情は怪異を引き寄せる。
この街を覆う空気は恐怖だけではなく、異形の闇の住人達の気配からきているのかもしれない。
一人の青年は、ある公園にいた。
一番最初の変死は、この公園のトイレから出た惨殺体だったという。短い時間に殺された少年。仲間の少年たち曰く数分ほどであったという。
美貴本エリカ、という怪異と化した少女は、だがしかし、次の日に普通に学校に登校した。そして翌日から姿を消した。
彼女は言いたい何時、怪異となったのか。
青年は考える。とりあえず、この街で調べられる限りは調べつくしたが、少女の生い立ちなどはよくわからなかった。もともと、ここの住人ではないからだ。
田舎という根強いある種の連携は、外部からの干渉を嫌う。
それゆえに、外から来たものはしばしばいじめの対象となる。それが原因で自殺し、怪異となる、というのはありふれた話だが、それだけではない気がした。
青年はたばこの煙を吐き出すと、たばこの吸い殻を道に捨て踏み潰す。
「とりあえず、実物とご対面してからだな」
そう言うと、薄汚れて寄れたTシャツの上にパーカーを羽織り、人通りの少ない通りへと歩いていった。
入沢はその日、女子の一団に呼び出され、屋上にいた。
屋上に言った入沢を待っていたのは、涙で目を腫らした女子と彼女の友人たちであった。かつては彼女たちも、入沢とともに美貴本をいじめ、その恩恵にあやかっていた。
そんな彼女たちは、入沢を恨みの目で見ていた。
「何か用かしら」
入沢は無表情にそう言い、腕を組む。そんな入沢に、周囲の女史は不快感をあらわにした。
「あんたのせいよ」
泣いていた少女がそう言う。くせっけで、ところどころ染めている彼女は、芹沢いつき。入沢と同クラスの少女で、一学年上の先輩と付き合っていたはずだった。
そこで入沢は納得した。ああ、そういうことか、と。
今朝の新聞の記事を思い出し、入沢は肩を竦めた。
「それで、あなたの彼氏が死んだのが、どうして私のせいだって?」
「あんたが、あんたがあんなことしなかったら!」
噂は色々と広がっていた。
美貴本エリカは自殺して、入沢茉莉や周囲に復讐をしている。彼女は蘇り、人を喰うゾンビになった。
内容に誇張があるのは確かだが、大まかな内容はあっていた。
入沢は確かに責任を感じていたが、彼女の言には辟易していた。確かに美貴本のいじめを主導したのは入沢だ。それは誰もが知り、黙認してきた。
だが、彼女たちはそこに進んで参加したのだ。そして、入沢の機嫌を取ってきた。
入沢はため息をつく。
所詮、こんなものなのだ、と。自分の周囲にあった者は、全ては偽り。本物のものなんて何もない。
親の力さえなければ、彼女たちだって、入沢には近づかなかった。
反論しない入沢を見ると、彼女たちは静かに入沢に近づき、「正統な」罰を与えた。
入沢は、ただ無言で、それを受け入れた。
屋上の上で、入沢は冷たい風に当たっていた。
その端正な顔は不自然に蒼くなっており、ところどころ血が出ていた。
子の顔では、授業に出るに出られない。それに、どうせ授業にもならないだろう。
そう思い、入沢は一人、屋上でサボタージュを決め込んでいた。
「痛いな」
殴られた顔も、蹴られた全身も、痛みはやまず、むしろひどくなっていく。腹の底から吐き気がする。
最近は吐くのが多くなったな、と入沢は笑った。
笑っていられる状況でもないのにな、と目をこする。
「・・・・・・・やっぱり、ここにいたか」
「あら、奇遇ね」
屋上の扉が開き、誰かの声がした。ベランダから校庭を眺めながら、入沢は声に反応する。
そして、ゆっくりと振り返る。
「酷い顔だ」
「うるさいわね」
ぼさぼさの髪の、さえないメガネ。霧伏巽であった。
彼は入沢の方に歩いていくと、ポケットからハンカチを出し、入沢に渡す。
入沢は、その厚意に甘えることにした。さすがに、いつまでも汚れたまま、というのは気が引ける。
「芹沢か」
「ええ」
「・・・・・・・・・自業自得だな」
誰が、とは言わなかった。
霧伏は静かに入沢の横で、空を見ていた。
「きっと、誰もが悪いんだよ」
「・・・・・・・・・・・」
「俺も、誰も、いじめを止めなかった」
霧伏は、フッと笑った。自虐的な顔であった。
「好きな子一人守れないんだからな」
「あなた、美貴本さんのこと・・・・・・・・・」
入沢は霧伏の顔を見る。彼の目は、厚いレンズに阻まれて、見えなかった。
「これは報いなのかもしれない。どうしようもない僕たちへの」
「だとしても、止めないといけないわ。私の言えることではないけれども」
入沢がそう言うと、霧伏は頷く。
「そうだね。人は確かに愚かだけれども、過ちを繰り返さないよう学習できる生物だ。同じことを繰り返さないためにも」
彼女を殺す。そう続くであろう言葉を、霧伏は言わなかった。
二人は無言で風に当たる。二人の心の奥底にいた少女。彼女は、この街を徘徊し、死を量産している。
「ああ、なんてバカなんだろう」
自分たちの愚かしさを、嘆かずにはいられない。
街の地下深く、下水溝の中。濃い闇の中を、ネズミや蟲が蠢く。その遥か奥、禍々しき空気に包まれ、地獄の世界とつながっているような深淵。
美貴本エリカだったものは、その異様な腕で獲物を掴み、その頭部を喰いちぎった。
人間でも、ましてや動物でもないそれは、いわゆる餓鬼であろう、と美貴本は思った。
地獄の鬼。美貴本エリカの邪気につられたのか、はたまた闇の濃い場所にたまたまいただけか。それはわからない。
だが、空腹であった美貴本はそれをあっさりと捕まえた。
数匹ほどいた小柄の鬼たちも、もはや一匹のみ。残りは皆、足元に残骸として残っているだけ。
満たされぬ空腹に耐えられず、美貴本は残るもう一匹を喰らおうと、大きな口を開く。
だが、彼女の口に入るはずだった鬼は、彼女の中に入る前に、爆散した。
餓鬼の血が、わずかに彼女の腹に入っただけであった。
遅れて、何やら大きな音が響く。まるで、銃のような音が。
美貴本は、それの方向を見た。
ちゃぷちゃぷと水を進む足の音。
闇を切り裂き、美貴本の眼前に現れたのは、一人の男であった。
黒いパーカーにジーンズ。彼の顔は精悍で、どことなく日本人離れしていた。髪の色こそ黒だが、顔立ちは彼女と同様西洋の血が混じっているようだ。
蒼い瞳で、怠そうに美貴本を見る青年。その手には、白銀に光る拳銃が握られていた。
「ふう、やっと見つけたぜ、グール。いや、日本名では食屍鬼、だったかな」
そう言うと、男は右手に持った拳銃を美貴本に向けると、それを放つ。
美貴本は腕に持っていた餓鬼の肢体を投げ捨てると、弾丸を跳躍して躱した。弾丸は、美貴本のいた壁をくりぬいた。弾丸は、銀色であった。
「さすがに、不意打ちじゃねえときついな」
青年はそう言い、拳銃を天井に張り付く美貴本に向かい、2度、3度と撃つ。天上の壁を砕くも、美貴本には当たらない。
美貴本は回避に徹した。銀の銃弾が自分に効くかはわからないが、銀は怪異の弱点とされるものだ。当たって死んでしまう、なんてことは避けたい。
それに、男の拳銃にはどうせ弾はあと数発。撃ち終えたところを襲えば、それで終わりだ。
焦ることなく、少女は逃げに徹した。
「け、ちょろちょろと蟲のように動くな。クソッタレが・・・・・・・・・」
そう言い、男は毒づく。トリガーを弾くが、弾は出てこない。
美貴本は笑みを浮かべると、蟲のように腕を動かし、天井を這いながら男に近づく。
剣士は不気味に光り、男の喉笛を狙う。
「馬鹿め、俺がこれしか持ってきていないとでも?」
そう言った男は胸元のポケットから何かを取り出し、美貴本の口に投げ込んだ。
美貴本はそれを見た。小さな十字架であった。
「が、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああっ!!?」
美貴本は、口の中に漂う異臭と激痛に苦しむ。彼女の肉が溶け、口から煙が上がる。
「ち、聖水で清めた十字架も、この程度しか効かんか」
男はそう呟くと、美貴本から離れる。そして、ズボンのポケットに手を入れる。
美貴本は、激痛に顔を歪めながらも、男の次の一手を阻むために動いた。
彼女の指は、魔女のように鋭くとがり、男の皮膚をえぐり取らんとしていた。
男はあまりにも早い美貴本の動きを見切れず、とっさに前に突き出した腕を貫かれた。
「くっ・・・・・・・・・・」
美貴本の5本の指が、男の肘から先に大きな穴をあけ、穿り返す。血が噴き出て、腕の神経を侵す。
「さあ、どう食ってあげようか!?」
怒りの形相の美貴本に、男は苦悶の表情になんとか笑みを浮かべて言った。
「いいぜ、たんまり喰え」
そう言い、男は右手を振る。男の右手には、刃物が握られていた。
だがそれは美貴本に振り向けたものではなく、自身の腕に向けられた。
男は叫びながら、自らの左腕を斬り飛ばす。血が噴き出す左肘。その痛みに耐えながら、男は走り出す。
美貴本は男を追おうとしたが、その瞬間、彼女の指が貫いていた左腕が、閃光を上げた。
そして次の瞬間、耳をふさぐような轟音が響き、彼女を炎が覆った。そして爆発によって崩れた岩盤が彼女を沈めた。
夕焼けに沈む街。その陰で男は傷の手当てをする。
左肘から先のない腕を包帯で覆い、苦笑いする青年。
「くそ、左腕犠牲にしてできたのが、生き埋め、か」
ふー、と煙を吐く。そして失くした左腕を見る。利き腕ではないとはいえ、これは流石にきつい。
「無様だな」
そして、彼は今回の獲物の異常さを改めて痛感した。
授業料にしては高すぎる代償を払った。
「この先、俺一人じゃこれは無理そうだな」
とはいえ、助けが来るわけではない。青年は静かに壁に頭をつける。
もうじき夜が来る。夜は闇の世界。
闇が濃くなれば、闇の住人達の力は増す。そう、彼女とて例外ではない。
地下深い水の底、瓦礫の下で、今なお彼女の怨念は生きている。
「くそが」
煙草を捨てると、青年はそれを踏み潰す。そして、夜を迎えんとする街の中へと消えて行った。
青年は不便そうに煙草を吸う。