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サマエルは、霧伏はその右手を振り上げる。
この一連の悲劇、それを終わらせるために。
忌まわしき悪魔の仕組んだ悲劇。一つの街を滅ぼすまでに至ったこの事件を。
「終わらせよう、美貴本エリカ」
全てを。
美貴本エリカは死を覚悟した。そして、そのあとに続くであろう、地獄を。
罪の報いは死。だが、死ぬだけでは終わらないことはわかっている。悪魔と同化していた時に得た知識から、彼女の魂は死後、永久の罰を受けるであろう。
千年の間、業火の中で焼かれては復活し、針の山でその身を貫かれ、あの世との境界にある川の近くで、石を積み上げては崩される。何万、何億もの時間、魂は罰を受けるのだということを。
ああ、なんてことだろう。
生きてきた今までもろくなことがなかったのに、死んでもなお、同じような苦しみにあうなんて。
いったい、私の人生はなんだったのだろう?
記憶を弄られ、人を喰らい、殺されて。
涙が零れる。止めどなく溢れる涙は、止まることを知らない。
目の前の天使は、無表情に彼女を見下ろし、その右手を振り上げていた。
悪魔を屠ったように、その一振りで彼は美貴本を一瞬で消し去れるだろう。
助けもない、救いもない。こんな状況、望んだわけじゃない。
血濡れたその手を掴んでくれる人も、抱きしめてくれる人もいない。
孤独。
今までは平気だった。虚勢を張って生きてこれた。
けれど、死を目前にして、彼女は恐怖した。
彼の手が、美貴本の身体に触れる瞬間、美貴本は目をつむり、襲いくる死の衝撃に備えた。
だが、訪れたのは、優しい温もりであった。
それは彼女がずっと求めて、ついに手に入れられなかったもの。
十二枚の翼をもつその人は、両の手で少女の細い体を抱きしめる。折れてしまいそうなその身体を、優しく抱きしめる。
美貴本の目から零れた涙が、少年の胸を濡らす。少女は細い腕を彼の身体に回すと、大きな声で泣いた。
これほど泣いたのは、生まれて初めてだった。
少年は、静かに、慈悲深い声で言った。
「汝の罪は許されよう。たとえ、神が赦さずとも、私が赦す」
少年はそう言い、少女の額に右手を翳し、天を仰ぐ。紫色の空が割れて、黄金色の空が現れる。
空には無数の天使がいた。白い穢れ亡き翼と降臨を持つ天使たちが。
「この者の罪を赦し、天の国へと至らせたまえ」
「それはならぬ」
一人の天使が前に出て、サマエルの頭上に進んでくる。
「ガブリエル」
「そのものは大罪の器。赦されることはない」
「お前に赦しは求めていない。私は神に赦しを乞うている」
「追放された堕天使風情が偉そうに」
天使たちがサマエルを指して口々に罵倒する。ガブリエルは手を上げてその声を制する。永い黄金の髪を揺らし、彼は青い瞳でサマエルを見る。
「神が赦すと思っているのか、サマエル?穢れきったその魂を」
「ああ。少なくとも、彼女を永劫の呪縛の下に課すことはないだろう」
「・・・・・・・・そうやって、またお前は人の罪をその身に受けるつもりなのか?」
わずかに感情のこもった声。ガブリエルの表情は変わっていない。だが、サマエルにはわかる。彼は、サマエルのことを案じて言っているのだ、と。
「心配には及ばない、友よ」
そう言い、サマエルは美貴本を抱きしめたまま、立ち上がる。
「罪はいくらでも背負ってみせよう。今までも、これからも」
「・・・・・・・・・・・・」
その言葉を聞くと、ガブリエルは背を向ける。32対の翼が黄金に輝く。
「神はその娘の罪を減刑するとおっしゃっている。その罰を果たした時、娘の魂は天界へと導かれるであろう」
「すまない、ガブリエル」
サマエルが言うと、ガブリエルは背を向けたまま言った。
「構わん、ただ、お前を待つ未来はよりつらいものとなるぞ」
「わかっている。覚悟の上だ」
「そうか」
ガブリエルはサマエルを見ると、飛翔する。黄金色の空が割れて、青い空が広がる。無数の天使たちの姿が消え、ガブリエルとサマエル、美貴本だけが残された。
「ガブリエル」
「サマエル、お別れだ。次に会うのは、何千年後だろうか」
ガブリエルは光の粒子となって徐々に薄れていく。
「さらばだ、友よ」
「さらばだ、兄弟よ」
天使と堕天使は互いに別れの言葉を告げた。天使は去り、堕天使は地上に残された。
サマエルは抱きしめていた美貴本の身体から腕を離すと、彼女を見る。
「私はどうなるのですか」
美貴本の問いに、サマエルは答える。
「その魂は一度地獄へと送られ、罰を受けるだろう。百年、もしくはそれ以上の。だが、安心しなさい。罰を終えた時、汝の魂は天に召し上げられる」
そう言い、彼女の頭を撫でた。
「汝の魂は救われる。汝の罪は赦されるのだ」
「そっか・・・・・・・・・・」
少女は年相応の笑い顔を浮かべると、サマエルを見た。
「ありがとうございます」
「私は礼を言われることはしていない。むしろ、私は詫びなければならない。君に」
彼女に罪を背負わせてしまったことを。
少女は静かに頭を振った。
「いいえ、これは私の罰なんです。だから」
「・・・・・・・・・・・」
美貴本エリカの身体が、薄くなっていく。彼女の魂は現世から幽世、地獄へと送られる。そこで、文字通りの地獄を味わうことになる。それをわかっていても、彼女の顔は明るかった。
「さようなら」
最期に微笑を浮かべて、彼女は消えた。
果たして彼女は救われたのか。それは彼女ではないからわからない。
それでも、救われたのだと信じたい。
そうでなければ、あまりにも救いようのない話になってしまう。
守れなかったものはあまりにも大きかった。
霧伏は落ちていた刀を拾う。
彼は歩き出す。光輪も翼も、もはやなくなっていた。
再び彼は人の身に墜ちたのだ。
また、永い永い旅路が始まる。終わることのない、永遠。
それが、彼の運命。彼の選んだ道。
たとえどれだけの後悔と悲しみがあろうとも、歩みを止めるわけにはいかない。
彼の名は霧伏巽。かつての名前はサマエル。
人を庇い、人の中に生きる神の眷族。彼は今日も、この世界のどこかで歩いている。
アイリーン・ヴォルテークが腕っ節のエクソシストとともに件の街に来た時、全ては終わっていた。
荒廃した街と、小悪魔ども、そして、穢れが残っているだけだった。
「何が起こったの・・・・・・・・?」
アイリーンは誰に聞くわけでもなく呟き、周囲を見る。
まずは、この穢れを清め、化け物どもを駆逐しなければ。
彼女は仲間たちに指示を出すと、自身は街の状況を見るために街に入る。
力尽きた蝿たち。蝿の王は封印されたらしい。そのことにほっとする。
だが、誰が蝿の王を退けたのだろうか?
アイリーンはふと、足元を見る。
そこには、見覚えのあるライターが落ちていた。
「これは・・・・・・・・?」
アイリーンはそれを拾うと、汚れを払う。
それは、彼女が彼に送ったものであった。
アイリーンは彼を探すように、街を見回す。
「バルトロメウ、あなたは生きているの?」
彼女の問いは、風にかき消された。




