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巨大な蝿の王は、その無数の脚を伸ばし、二人を捕まえようとする。蠢く脚の鋭い爪。霧伏はそれに当たらないように身をかわしながら、刀で足を切り飛ばす。緑色の血を吹き出しながら、足が飛び散る。蝿の王は叫びながら、その複眼に霧伏を映す。

「無駄だ、私の身体はすぐに再生する。人間のみである貴様に勝機はない」

「黙れ、ベルゼバブ」

右手で振るわれる剣戟は、ベルゼバブの猛攻を防ぐ。入沢は霧伏の後ろで、佇んでいる。

入沢は霧伏が勝てないであろうことを悟っていた。今は防ぎ切れているが、無限ともいえるほどに沸いてくる脚をいつまでも切り続けられはしない。霧伏が人間ではない、と言っても、二人の話ぶりだと彼の身体は並の人間と大差がないようだった。ただ死なないだけ。

結局、残された道は、死しかないのだ。

わかりきっていたことだ。街のものは皆死んだ。入沢だけがその運命から逃れることはできない。

「霧伏」

「なん、だ?」

刀を振りながら、攻撃を退きながら彼は入沢に問うた。

「もう、いいよ」

「なにが・・・・・・・・・・!」

「結局、私は生きていてはいけないんだ。私が死ねば、それで終わりでしょう?」

入沢は悟ったような顔で霧伏を見る。

「そんなことは」

「私がいなければ、あなたはここから出れるはずよね」

入沢は確信を持っていう。霧伏は一人ならば、この空間から抜け出せる知識と技術があるはずだ。

霧伏は無数の足を切り払いながら、入沢を制止する。

「待て、早まるな」

「さようなら、霧伏」

そう言って、彼女は霧伏の左手から逃れ、彼の前に立つ。

「ありがとう、こんな私を守ってくれて」

そして、少女の肉体は無数の足に貫かれた。

霧伏の顔に彼女の血が降りかかり、肉片が宙を舞った。

蝿の王は彼女の身体を無数の肉片へと変え、貪り食う。

不快な捕食の音。骨を砕き、飲み込む音。悪魔の笑い声が、異空間に響いた。

「はははははは、守るべきものすら守れなかったなァ、あはははははは!!」

暴食の蝿は不快な声で鳴き、呆然と立つ霧伏へと近づく。ギチギチと顎が鳴る。無数の足は更なる獲物を求めて宙を掻く。

「不老不死の貴様をどう料理してくれようか?お前ならば、永遠に私の空腹を満たしてくれるだろうなぁ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

ベルゼバブの声に、彼は沈黙を返す。

彼はまた、守れなかった。

失った、またしても。

目の前で、守れたはずのものを。

後悔。何千と言う時を生きていても、その言葉が消えたことはなかった。

怒り、涙した。己の無力さを。

「ベルゼバブ」

静かに、彼は顔を上げて、悪魔を見る。目の前に迫っていた脚を切り払い、怒りに燃えた瞳で悪魔を睨む。

「貴様を殺す、絶対に」

「できるものか、人間の身を超えられぬ貴様に」

「できるさ」

そう言うと、彼は自らの心臓のある場所に向かって、刀を突き刺した。

絶叫する。不死と言えども、痛みがないわけではない。どれほどの激痛が訪れても、彼は解放されるわけではない。彼に死は許されていないのだから。

「自殺のつもりか?」

「いいや、違う」

血を吐き出しながら、彼は言う。

「我が血と魂を、父なる神にささげる。我が犠牲を受け入れ、この悪魔を倒す術を私に与えたまえ」

己の血と魂を、父なる神にささげる。普通の人間ならば、死んでしまうが、彼は死ねない。

だからこそ、無理やり神への奇跡の代償としての供物として捧げることができる。

その代償は、さらなる地獄。永遠の奉仕と、魂の呪縛。

本来なら使いたくはなかった。だが、こうなった以上、もはや迷いはしなかった。

「なんだ、何をしている?」

「わが身を犠牲に、父から与えられた本来の姿に一時的に戻す。貴様を殺すために」

そう言った瞬間、ベルゼバブは狼狽える。目に見えて、蝿の王は震えだす。

それは、霧伏の本来の姿とその力を知っているためだ。


『七つの大罪』の一人、堕天使の長ルシファーにも及ぶとされたその力。

断罪と救済の大天使。

罪を押し付けられた、不浄の天使。

楽園の毒蛇。


「馬鹿な、そんな馬鹿な。一度失われた力を、再び得るなどと、神が赦すはずがない!」

「魂を供物にしているのだ、それくらいしてもらわねば割に合わない」

霧伏はそう言う。永劫に続く神への奉仕と生。それを考えれば、一時的に力を戻すことくらいしてもらわねば困る。

「さあ、始めようか、ベルゼバブ」

霧伏の背中から、十二枚の翼が現れる。黒い翼は堕天使の証。頭部に浮かぶ光輪は、天使の証。

常に色を変える瞳は、眼前で怯えるベルゼバブを睨む。

「サマエル・・・・・・・・・・・!!」

「懐かしい名前だ」

忌々しくつぶやかれたその名に対し、霧伏の反応は冷淡なものだった。

ベルゼバブは恐れからその無数の脚でサマエルを貫こうとした。

鋭い爪が、彼の身体を貫くかに思われた。

だが、それは彼の肌に届く前に、全て切り捨てられた。何万、何億とある脚が、いつの間にか修復されていた左手が翳されただけで吹き飛んだ。

「ぐぱあぁぁああああ!?!」

あまりの事態に、蝿の王は泣き叫んだ。絶え間ない痛み。今まで味わったことのない痛みであった。

再生できるとはいえ、全ての脚がなくなったのだ。時間がかかる。

その間に、この堕天使が容易く自分の命を奪うであろうことはわかっていた。

ベルゼバブはその翅で宙に浮くと、サマエルから逃れようと羽ばたく。緑色の血を周囲に撒き散らしながら。

サマエルは静かにその後ろ姿を見て、右手を翳した。

空間が断裂し、ずれる。

ベルゼバブの首と胴がずれ、地に墜ちる。

何が起こったかもわからないベルゼバブは、頭だけとなりながらもいまだ生きていた。

「な、何が起こった?」

疑問を浮かべるベルゼバブの首の前に、脚が見えた。ベルゼバブはその主を見上げる。

無表情の堕天使が、強い光を浮かべた瞳で、ベルゼバブを見る。

「ぐぶぶぶぶ、サマエル、貴様ァ」

「ベルゼバブ、再び地獄に戻り、永劫の苦しみの中で過ごせ」

「戻らないぞ、私は!あのような地獄に、戻りはしない・・・・・・・・・・!!」

喚く蟲の頭が浮かぶ。それはサマエルの目線の高さまで浮くと、徐々に圧縮されていく。見えない力によって、蟲の頭は潰れていく。

「あ、あ、あああああああああああああああああああっ!!!!!」

そして、元に戻ったかと思った瞬間、その頭部は破裂音とともに吹き飛んだ。緑色の血がはじける。



サマエルは十二枚の翼を広げる。そしてそれを一度だけ羽ばたかせる。

身体についた不浄の血が払われ、蟲の肉片が身体から離れる。

そして彼はふと視線を蟲の胴体に向けた。そこには蟲の胴体はなく、裸の少女が倒れていた。

美貴本エリカ、その人であった。

少女は目を覚ますと、サマエルを見る。ひどく怯えた瞳。その目に浮かぶのは恐怖であった。

彼女は自分が何をしたのか、よく理解していた。悪魔に取りつかれてのこととはいえ、彼女の意識は確かにあったのだ。何をしたのか、彼女はわかっていた。

罪の意識にさいなまれる少女は、静かに泣きだした。

そして、これから訪れるであろう裁きに、その身体を震わせた。

サマエルはそんな少女に近づくと、その右手を振り上げた。

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