20
霧伏は入沢の手を引いては知る。右手には抜身の刀が握られており、前に現れる黒い蝿の一群を、容赦なく切り払う。
不思議な光が、蝿を消滅させる。
「ちぃ、しつこい!」
更に来た蝿の一団に向かって、刀を振ると、光が蝿の群れを消滅させる。
「なに、これ。これさえあれば、悪魔だって」
倒せるじゃない、と言おうとした入沢の言葉を遮り、霧伏は首を振る。
「不可能だ。今の俺の力では」
「無理、なの?」
「ああ、できるなら、とうの昔にやっていたさ」
霧伏はそう言うと、走り出す。
「この街はおそらくもうおしまいだな。もうじき、バチカンからくる『執行者』が街を封鎖し、結界を張る。その前に、脱出しなければ」
「何を言っているのよ?」
入沢はわけがわからずに、霧伏に言う。
「だいたい、あんた、一体何なのよ?」
「・・・・・・・・・・」
入沢の問いに、霧伏は沈黙を返した。
黙って走る二人は、街の境に向かっていく。街は、死に溢れている。生者はいなく、ただその名残だけがあった。骨の欠片と、喰い残された肉片。
それらを見て、吐き気をもよおす入沢。
「ほかの人たちはどうなったの?」
「・・・・・・大木に言って、何人かの人たちは街を脱出させたが、9割近い人は死んだだろう」
「そんな・・・・・・・・・・」
入沢の脳裏に家族の顔が浮かぶ。決して家族関係はよくなかったが、それでも、彼らが死んだのだと思うと、悲しい。
骨に群がり、死肉をあさっていた蝿の集団が、二人の後をつけてくる。
「ベルゼバブ、これだけの死を招いてなお、空腹なのか?」
霧伏が誰に言うわけでもなく、言った。
二人の前に、もう一つの蝿の集団が現れる。それはこちらに向かいながら、一つの何かを形作る。それは後ろの蝿たちも一緒である。形作られたのは、巨大な蟲であった。無数に蠢く脚。ぎちぎちと鳴らしながら、大きな顎を開き、無数の牙が光り輝く。
「なに、こいつら?!」
「ベルゼバブの眷族、地獄の悪魔だ」
霧伏はそう言うと、その場に止まり、入沢を庇うように立ち、刀を構える。
霧伏はちらりと空を見る。
「ち、現実を侵食し始めたか」
空は、紫色に歪み、青々とした空を喰い始める。
閑散とした建物は、徐々に溶け出し、揺らめく何かが現れる。
「なによ、これ」
「あちらとこちらが繋がろうとしている。現世と幽世。境界線の向こう側の世界、死の世界が」
二人が話している間に、二匹の巨大な怪物は迫ってきていた。
近い方の蟲を霧伏は一刀で斬り伏す。蟲は崩れ落ち、再び蝿となって空へと飛び立つ。
もう一匹が、霧伏の刀を持たぬ左手に食いつく。バキリ、と骨が折れる音がして、蟲の鋭い牙が霧不死の細い左腕を貫く。血が滴り、蟲がそれを吞む。
「・・・・・・・・っ」
痛みに堪えるように歯を食いしばった霧伏は刀を蟲の脳天に叩きつける。緑色の血液が蟲の頭部から迸る。そのまま、刀は蟲の身体を両断する。
蟲の分かたれた身体が溶ける。蝿が逃げ出そうともがくが、刀の光が蝿どもを焼いた。
「くそ」
左腕を力なく垂らす霧伏に、入沢は真っ青な顔で聞く。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「ああ、少しすれば治る」
治る、なんてレベルの怪我ではない。左腕は穴だらけで、出血がひどい。あまりにも違出すぎている。すぐに処置をしなければまずい、と素人目でもわかる。
「行こう」
霧伏はそう言うと、入沢を促す。左手で彼女の手を掴むことはもうできない。入沢は霧伏の後について行く。
街の境目はもうすぐそこだ。
遠目に、こちらに手を振る影が見える。それが大木だと、入沢は何となく感じた。
これで、救われるのか、と感じた入沢だったが、霧伏が足を止めて、入沢を庇うように立ったので、彼女も止まる。
「どうしたの?街の境はすぐよ!」
「遅かったな・・・・・・・・・」
霧伏はそう言うと、大木を見る。大木の後ろには、黒い影が立っていた。
「逃がさないわ、誰一人」
「え?」
大木は振り返り、その影を見た。
それは、右半身が言葉にできないほどに変形した人間であった。だが、左半身は人間のそれであった。
「みき、もと・・・・・・・・・」
「こんにちわ、大木クン。殺してくれてありがとう」
ニコリと笑うと、美貴本の右の顔についた蟲の足が蠢く。ぎちぎちと不気味な音が鳴り響く。
「そして、いただきます」
「ぎゃああああああああああああああああああああ」
地面から飛び出してきた、カマキリの鎌のようなものが、大木の腹を貫く。地面から離れ、宙に浮く大木の身体。そこに、同じように出てきた無数の蟲の足が絡みつく。
それが、大木を殺さないように、痛みつける。肉が落ち、骨を砕く。小さな虫たちが大木の身体にまとわりつき、血肉を食べる。
絶叫を上げる大木を、恍惚の表情で美貴本は見る。
「助けないと・・・・・・・」
「もう遅い」
そう言って、霧伏は眉をひそめた。
じりじりと下がる二人を見て、美貴本は笑う。
「さてと、あとはあなたたちだけ。残念ね、異形の子。あなたが逃がした街の人、皆食べちゃった」
腹をさすり、美貴本はそう言った。
「この街はもう、元の空間とは異なる場所、狭間にある。逃げることは不可能よ?」
不気味な複眼が二人を見る。
ぼとり、と音がして、何かが落ちた。それは、血濡れた頭蓋であった。
「ああ、おいしかった。でも、まだ足りない」
彼女の中の食欲は、なおも止まらない。
「でも、食べる前に、あなたに聞きたいことがあるの」
霧伏を見ながら、悪魔は言った。
「あなた、前に私たちと会ったことがあるわよねぇ?」
「・・・・・・・・・・・」
霧伏は沈黙する。強い敵意を滲ませながら、ベルゼバブを睨んでいる。絶え間なく変化する瞳の色は、強い意志を秘めている。
「あなたからする匂い、嗅いだことがある。私たちと同じ匂い。堕天使の匂い・・・・・・・・・」
ベルゼバブの複眼が霧伏を見る。
「でも、あなたは『七つの大罪』ではない。何者?」
「昔」
霧伏は静かに言葉を紡ぐ。
「神に逆らい、人に味方した神の眷族がいた。愚かな人、罪深き人を庇い、父たる神に刃向ったのだ。彼は人間の愚かさを知りながらも、人間の素晴らしさもまた理解していた。彼は人を滅ぼそうとする神に逆らい、そして敗れた」
そう言い、霧伏はベルゼバブを見る。
「神は人を滅ぼすことを辞めたが、その眷族の反逆は赦さなかった。その身を人に堕とし、神のために尽くす不死のものとした」
「そうか、お前が、あの・・・・・・・・・・・・」
ベルゼバブは納得したように、霧伏を見る。くつくとと喉を鳴らし、嗤う。
「愚かな神の僕。みすみす大天使の座を奪われたものか・・・・・・・・・・・!これはいい」
嗤うベルゼバブ。
「霧伏巽。鬼理伏。斬伏。霧不死。なるほどな」
ベルゼバブが頷く。霧伏。そこに込められた意味。鬼すなわち悪魔と理を伏すもの。切り倒すもの。霧のように姿を変え、悠久の時を生きるもの。
人を庇い、人に落とされた天使のなれの果てを、悪魔は愉快そうに見る。
「私を止めるのだろう、堕天使?兄弟?ははは、救うべき人間はもはやその娘だけだというのに、それでも私を止める気か?」
「ああ」
霧伏はそう言い、美貴本を見る。
「救うべきものは、彼女だけじゃない」
「ほう?」
「美貴本エリカ。君の、魂だ」
霧伏が言った瞬間、悪魔は大声をあげて笑う。
「はははははは、魂、だと?この娘の魂はもはやわれのモノ!たとえ救ったとしても、この娘の罪は赦されない!父なる神が赦すはずはない!これほどの大罪を犯した魂をな!」
「それでも」
霧伏は刀を持ち、それを構えた。
「俺がするべきことは決まっている。ベルゼバブ、去れ。さもなくば、お前を切り伏せる」
「できるものか、不死とはいえ、人間のみである貴様に・・・・・・・・・・!!」
紫色の空。赤黒い大地の上。霧伏は入沢を庇うように立ち、目の前の悪魔を見る。
見る見る間に膨張する悪魔の身体。醜い、大きな蝿の王。空気を振動させる、翅の音。ギチギチと鳴る、無数の脚。不気味に輝く黄色の複眼。
醜悪なる悪魔、『暴食』の蝿の王が、紫色の空に羽ばたく。
「終わりにしよう、美貴本エリカ」
霧伏が、哀しみをこめた声でつぶやく。
「終わるのは、貴様とそこの小娘だけだ」
野太い声が蝿から発せられる。
そして、蝿は霧伏たちに向かって急降下してきた。




