19
入沢が異変を感じたのは、その日起きたころからだった。
異様な死臭。あまりに死に近づいた彼女の鼻は、敏感にそれを感じ取っていた。
彼女は携帯電話を持つと、霧伏に電話をした。
「霧伏?」
『入沢か』
「ねえ、なんかおかしくない?」
彼女はいきなりこんな言い方はどうかと思いながら、言った。
『ああ、たぶん、彼女はもう、タガが完全に外れてしまったんだよ』
「タガ?」
『七つの大罪は遅かれ早かれ、完全にタガが外れる。それによって、彼らは完全な悪魔へと変化を遂げる。そうなったらもう終わりだ』
「ちょっと、霧伏?何を言って・・・・・・・・・・」
混乱する入沢。冷静な霧伏の声。
誰だ、こいつは?なぜ、落ち着いていられるんだ。それに、なんでこんな当たり前のことのように悪魔とか、タガとか言っているんだ?
『本当は、こうなる前に止めるつもりだったが、こうなっては、な』
「霧伏?!ちょっと、説明しなさいよ」
『今から君の所に向かう。大人しく待っていろ』
そう言った霧伏の声のトーンが下がる。
『せめて、数人くらいは救えるといいんだけど』
「霧伏?!」
一方的にしゃべって、霧伏との通話が途切れる。
入沢は混乱したまま、立ちすくむ。
窓を挟んで、空を眺める。黒い雲が、不自然に空にあった。ゆっくりと、徐々に大きくなるそれが、雲ではないと気付いたのは、しばらく見てからだった。
「蟲・・・・・・・・・・・・!!」
跳ね音が聞こえ、黒い蠢く者たちが空で四方八方に広がり、街を覆う。
入沢の耳に、阿鼻叫喚が響いた。
蟲の跳ね音と、助けを求める声。絶叫。
絶望的なその合唱は、いたるところで奏でられる。
入沢が耳をふさごうとも、それは彼女の中に響いて離れない。
「これが、あなたたちの罪よ」
入沢はふと目を開ける。そして、窓に映る彼女の後ろに、美貴本エリカがいるのを見た。
後ろを振り返るが、そこに美貴本エリカはいない。
「私の実態はそこにはないわ、入沢さん」
再び窓に映る彼女を見ると、美貴本はそう言った。
「・・・・・・・・・ついに、私を殺すのね」
「ええ、でも、その前に、ほかの穂とを皆殺しにするの」
約束したでしょ、と美貴本は笑う。
「あなたは一番最後って」
可憐に笑う異形の女王。
「私を殺せばいいじゃない。だけど、ほかの人は関係ない」
入沢が言うと、美貴本は笑う。
「うぬぼれないで、入沢さん。あなた一人の命で満たされるほど、私のお腹は狭いわけじゃないの。それにこれはね、あなたたち人間たち全員の罪であり、罰なのよ」
美貴本は無情に笑うと、入沢を見る。
「度し難い人間たち。神に愛され、驕り高ぶる人間。私たち『大罪』はそんな人間を罰するために造られたある種の機構なのよ」
美貴本は暇つぶしをするかのように、入沢に語り聞かせる。
「神はそうやって恐怖心を植え付けて、服従を迫った。結果、人間はあっさりと神を信仰した。それで、私たちの役目は終わったのだけれど」
「?」
「人間って本当に、救いがたい生き物よね。神が封印した私たち『大罪』を解き放ってしまったのよ」
「解き放つ?」
「そう、抑えることのできない欲望は、私たちを空間を超えて呼び寄せた」
美貴本の顔をした悪魔は笑う。口元からは黒い何かがチロチロと動いている。
「こうして、私たちは何度も人間たちに呼び出され、この世界に来た。何千年もの間」
「どうして、美貴本さんだったの?」
入沢は美貴本の中にいる化け物に問う。
「どうして?これほどの『器』は滅多にないからねえ。十年前から目はつけていたんだよ。そして、娘の精神が限界に達した時、私は初めてこの世界に来られる」
そして、嬉々とした目で入沢を見る。美貴本の長い髪から覗く左目は、昆虫の複眼のようになっており、金色に輝いていた。
「お腹いーっぱい、食べられる。愚かな人間どもの血肉をねえ!!」
「狂ってる・・・・・・・・・!!」
「はは、お前らの作りだした欲である私を否定する気かい?愚かな人間。卑小な存在である貴様如きが」
蝿の王は、耳障りな跳ね音を立てながら、入沢に言った。脳の中を反響する嬌声。
「自分でもわかっているはずだ、この事態を招いたのが自分だと。自分の罪の重さを」
「やめて」
「確かにこの娘は死んでいた。でも、この事態を招いたのは、お前だ。間接的であれ、なぁ!!」
「やめて」
「死んで当然。この街も、お前も、皆みーんな!」
「やめて!!」
「喰ってやるぞ、生きながら、四肢をじわじわと喰って、絶叫のメロディーを奏でるんだ・・・・・・・・永遠に」
窓ガラスの中で嗤う暴食の悪魔。耳をふさぎ、涙を流す入沢。
「さぁて、小娘。そろそろ、この街の住人も少なくなった。あとは貴様くらいだろう」
ガラスの中の悪魔は笑う。
「喰ってやるぞぉ」
入沢が恐怖で両目を見開いた時。
何かが、窓ガラスに映る美貴本を切り裂いた。
「な・・・・・・・・・・・・?!」
美貴本が驚いたように顔を顰める。入沢は、ふと自分の肩を掴む手を感じた。それは生者のモノであった。
「霧伏・・・・・・・・・?」
「待たせたな、入沢」
そこに立っていたのは、さえないクラスメイト。
だが、彼はいつもの眼鏡をしておらず、どこか印象が違った。
いや、違うのは眼鏡だけではない、と入沢は気づいた。彼の目。それは、人間離れした、形容しがたい色をしていた。混じりあい、絶えず変化する色合い。濁り、無色になり、黒くなり、また混沌とする瞳の色。
彼の手には、刀が握られていた。模造品ではない、本物の刀であった。
「貴様は、誰だ?」
美貴本が霧伏を見て言う。
おかしい、と入沢は思う。美貴本は霧伏を知っているはずだ。美貴本の身体をのっとった悪魔が、知らないはずはない。
「その瞳の色、人間ではない・・・・・・・・・・・・・?」
窓ガラスの破片の中から、美貴本の姿が薄れて消えていく。
「貴様、何者・・・・・・・・・・」
そして、声が途切れる。
霧伏は冷徹な瞳でガラス片を見ると、足で叩き潰す。
「・・・・・・・・・・・入沢」
霧伏は手を差し伸べる。
「ここは、この街は危険だ。外まで送るよ」
だが、入沢は霧伏の手を掴めなかった。
逃げ出したい。だけど、彼の得体の知れなさがそれを阻んだ。
不可解な瞳の色、そして刀。霧伏は何かを隠している。
「あなた、誰?」
入沢の疑惑の瞳を受けて、霧伏は静かに目をそらし、手を下ろす。
「僕は霧伏巽。それだけだよ」
「嘘よ、あんたは、何?」
二人の少年少女は向き合う。
ここにいるわけにはいかない。二人ともそれはわかっていた。
霧伏は状況を進めるために、ため息をすると、彼女に提案した。
「いずれ話す。だから、今は従ってくれ。このままじゃ、この街も、君も、救えるはずのものが救えなくなる」
真剣なまなざし。絶え間なく変わる瞳の色。だが、その奥にある光だけは変わらない。
入沢は静かに頷いた。
霧伏の手が、入沢の細い手首をつかむ。
二人は走り出す。




