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家の中には、闇と異様な空気が漂っていた。至る所に蜘蛛の巣が貼り、蟲が蠢く音と、ネズミの走る男が鳴り響く。

この街の恐怖の源、と入沢は感じた。ここには、強大な恐怖と凶器、闇が蔓延っている。

死の匂い。入沢にとってもはやそれは馴染の深いものへとなっていた。

鼻につく匂い。実際には匂っていないのかもしれないが、入沢には感じられた。

この家では、誰かが死んだのだ。それも、病死や自然に、ではない。惨たらしく、殺されている、と。

ごくり、と誰かがつばを飲み込んだ。

霧伏は先頭に立って家の中に入る。そのあとを入沢、芹沢が続く。

家の電気は死んでいた。三人は各々の懐中電灯をつけて闇の中へと進んでいく。

家の一階は風呂とトイレ、キッチンがあった。一階部分ではほかにリビングがあるだけで、寝起きは二階部分でしていたのだろう。

家の中は不自然なほどに何もなかった。

「うわ・・・・・・・・・・」

芹沢が呻く。見ると、そこには得体の知れない何かがあった。

白い、何か丸いもの。心臓が脈打つように、静かに動いている。

「触らない方がいいよ」

芹沢に、霧伏はそう言った。その目は、警戒で満ちていた。白いその物体を注視する。

「こういう場所には、何か、人知の外にあるものが棲みつく。それがその人知の外のものかもしれない」

「そんな馬鹿な」

芹沢は青い顔で言うが、声に力はない。

カサカサと、床を何かが蠢いた。入沢は咄嗟に手に持った懐中電灯を向ける。

そこにいたのは、ネズミであった。

なんだ、と息をついた入沢は、その次の瞬間、背筋を震わせた。

背を向けていたネズミはゆっくりと入沢を見た。

ネズミの目は、四つあった。四つのうちの一つは、まるで人間の目のようで、じっと入沢を見ていた。

そして、その口元がまるで嗤うかのように吊り上る。

「!?」

「なに、こいつ・・・・・・・・・・・?」

三人は、ネズミを見る。ネズミは三人の顔を見ると、くつくつと嗤う。

キーキー、という耳障りな声を上げてネズミは嗤う。

「人間、ここに何しに来た?」

「喋った!?」

「驚くことか、人間」

ネズミはにたりと笑い、驚く芹沢を見る。

「お前は、この世のものではないな?」

霧伏は落ち着いてそう言う。ネズミは、静かに頷き、耳障りな声を上げる。

「そうだ、私はこの世のものではない。貴様らの言う地獄ヘル、ゲヘナ、タルタロス、煉獄。そこから我らはきた」

「どうしてお前たちはこんな場所にいる?ここで、この家で何かがあったからか?」

霧伏の言葉に、ネズミは笑いだす。

「そうか、貴様ら、あの家族のことを調べに来たのだな?なるほど、な」

「何か知っているの」

入沢が言うと、ネズミは頷く。そして、不快な声と眼差しを向ける。

「勿論だ、御嬢さん。なんなら、聞かせてあげようか」

ネズミの申し出に、入沢が口を開こうとすると、霧伏が入沢の前に立ち、その口を押える。

入沢が抗議の声を上げようとすると、霧伏は強い声で入沢と芹沢に言った。

「悪魔の声に耳を傾けるな!こいつらに喰われるぞ」

「キキキ・・・・・・・・・・安心せい、小僧。私はお前らを喰えん。なにせ、あの世の存在と言っても私は弱い存在。たかがネズミ。ただ普通のネズミより賢い、それだけのことよ」

ネズミは四つの目をぎょろりと動かす。そして、胡坐をかいて据わる。ネズミのそんな姿に、三人は唖然とする。

「私ら、幽世のものたちは普通ならば地上にはおらんし、いたとしてもそんなに長く存在できない」

ネズミはそう言い、あたりを指さす。

「これほどの闇と死、人の業。それがあってもそれだけでは我らは生きては行けぬ。絶えず、憎悪を喰い、姿かたちを保っている。ここは闇だけは豊富ゆえ、私は十年間ここにこうして生きている」

そして、とネズミは自身の四つの目のうちの一つを指す。

「我が目は過去に起きた出来事を視ることができる。そして、私はそれを見た」

ネズミは、その小さな体から恐怖をにじませる。

「あれほどの悪鬼が地上に生きている、ということに私は唖然とした。そう、あれほどの悪鬼がここにいた、ということに」

ネズミはそう言って、語りだす。

十年前、ここで何が起こったのか、を。





美貴本エリカはこの街が好きではなかった。

いや、街、というよりは家が好きではなかった。

母親は美しく優しい。北欧の出身で留学時に父と出会い、日本に住みついたのだ。だが、母は弱い人だった。

父は典型的なダメ人間で、母はそんな父に絆された。仕事こそしていた父だが、職場では問題行動が多く、酒癖は悪かった。母は家庭で父の暴力を受け、怪我をした。骨さえ負ったこともあったが、ろくに病院にもいかなかったという。

そんな美貴本家に、エリカは生まれた。

エリカが生まれても、父親は全く変わらず、母は身を挺して娘を庇った。

そんな家庭の中で美貴本エリカは育っていった。父への負の感情と、母を守りたい、という感情を抱えながら。

ろくに稼ぎもない家の状況を見て、将来は良い大学、会社へと入り、母を楽させたい。それが美貴本エリカの目標となった。

彼女は学校や家庭でも勉強をし、いつも優等生であった。

だが、彼女には友達がいなかった。父親の悪い噂と、その日本人離れした外見は、人を遠ざけた。

孤独だけが彼女に残った。彼女に許されたものは限りなく少なかった。

だが、彼女は辛くはなかった。母が笑ってくれるだけで、彼女は救われた。いつも彼女を守ってくれる母。そんな母を、エリカは尊敬していた。


生活が一変したのは、父が仕事を失ってからだ。

ついに父の問題行動は大きくなり、職場の同僚や上司に怪我を負わせた。とび職であった父は、仕事を突然休むなどこれまでも何度も注意されていた。そのたび不平を言っていた父は、上司や同僚が解雇の噂をしているのを聞くと、頭に血が上り、殴りつけた。前日の酒は抜けきっておらず、頭は虚ろであった。

結果、彼は解雇された。多額の医療費に、退職金は消えた。それまでも評判は悪かったが、地の果ての果てまで落ちた。

美貴本エリカも母もそのあおりを受けた。嫌がらせにエリカは心を痛めた。

自分や父の悪口は別にいい。父を、愛してはいなかった。だが、母の悪口だけは許せるものではなかった。

美しい母を、「ガイジン」として馬鹿にし、乏しめる。無邪気な子供の心は、時に恐るべき凶器となる。

エリカの心の中に、昏い心は育っていく。憎悪は堆積し、真っ白な心を黒く染め上げる。

中学校から帰ったエリカは、玄関をくぐり、自室へと行こうとする。

母は留守だ。父の代わりに仕事をしているからだ。

父は家の奥で酒でも飲んでいるだろう。

そう思っていたエリカは、一階のリビングから出てきた父と鉢合わせた。

「おい、エリカぁ。俺に挨拶もなしか!?」

「ただいま」

そう言った瞬間、男の拳が飛んできて、エリカの頬を打つ。エリカは力なく倒れる。

無精ひげを伸ばし、酒の匂いを漂わせた父は、怒りの形相をエリカに向ける。

「くそ、娘の癖に、おれを馬鹿にしやがって。母親そっくりの、人形の目で」

「・・・・・・・・・・・・っ」

母への罵倒が、男の口から漏れ続ける。

「だいたい、あのアマと寝たのが間違いだった。おかげでお前が生まれたしなぁ。それに、あいつは見てくれだけだ。ろくに何もできやしねえ」

「・・・・・・・・・・あなたが」

「あん?」

エリカは静かに立ち上がると、父親を睨みつけて言った。

「あんたが、お母さんの悪口を言うな!」

「なんだとぉ」

男は再び拳を振り上げてエリカを殴った。そして、倒れたエリカの上に座り込み、その髪を掴み、床に強く頭を叩きつける。

鼻血を出しながらも、エリカは父親を見る。そして血の混じった唾を吐きかけた。彼女は抑えきれない憎悪を爆発させた。

だが、それは還って男の理性を暴走させた。男は怒りに燃え、エリカの制服を力に任せて破り捨てた。

「ひい」

エリカは悲鳴を上げた。そんなエリカを殴りつけて、男は嗤った。

「お前が、お前らが悪いんだ。すべて、全てなあ!ちくしょうめ、アバズレめ。貴様なんか、俺の娘じゃあない!この、娼婦め」

思いつく限りの暴言を吐いた後、男は、少女の小ぶりな胸を覆おうブラジャーに手を伸ばす。

エリカは泣いて懇願する。やめて、と。男は、手をそのまま進めてそれを千切り捨てた。

そして、男の目はエリカの下半身へと移る。

涙を浮かべるエリカは助けを求めて泣き叫ぶ。周辺には家々があり、誰かが助けてくれるかもしれない。

だが、少女の願いは空しく消えた。

少女の視線はあちこちへと移動し、助けを求め続ける。

「助けて、お母さん!!」

そう叫んだエリカは、ふと玄関を見た。その時、母が玄関に立っていた。

助かった!そう思ったエリカは、すぐに絶望した。

母親は、エリカと父親から目を背けると、静かに二階へと上がっていった。

そして、父親がしようとすることを、母は止めなかった。

(嘘だ)

エリカは、涙を流した。

(どうして、お母さん、どうして・・・・・・・・・・・!?)

涙を流すエリカに、痛みが襲う。

身体の内側からくる痛み。すさまじい痛みに、少女は泣いた。

男は荒い息で少女を組み敷く。

少女の泣き叫ぶ声が、家の中に響いた。少女の泣き叫ぶ声が、街に響いた。

だが、誰も手を差し伸べなかった。誰も、少女を助けはしなかった。


エリカは、真の絶望を知った。

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