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青年は改めてあの化け物のいた場所へと戻った。準備していた道具だけでは足りないと思い撤退したのだが、しばらくは動けまい、と思っていた。
これ以上怪物が暴れないように、ということで特殊な薬を混ぜた爆薬を使った。グールやその類の「死人」に効果のある薬だ。
だが、下水の奥深くに戻った青年が見たのは、ただの瓦礫の山であった。
「まさかな。ここまでとは・・・・・・・・・」
右手に持ったスーツケースを下ろし、青年は周囲を見る。
周囲には、ネズミの残骸が無数に散らかっていた。そして微かに、この世ならぬ者の匂いがした。
怨念に取りつかれた屍は、喰えるものならば何でも取り込んだのだ。
その執念は異常であった。グールになる以前から、すでに彼女は異常な「怪物」であったのかもしれない。
青年は背筋を震わせる。
これほどの恐怖は、初めて怪異と出会った時以来であった。
あの時は、まだ駆け出しで、神の存在を信じていた。
だが、神なんてクソッタレだと、思い知らされた。
「ったく、なんでまあ、こんな島国に、こんな怪物が・・・・・・・・・」
そう呟いた彼は、殺気を感じ、振り向く。そんな彼に襲い掛かってきたのは、美貴本ではなかった。
大きな、蜘蛛のような化け物。だが、その頭の部分は人間の男であった。
青年はスーツケースで怪物の爪を防ぐと、ケースから取り出したものを怪物に向けた。
武骨で、禍々しいデザインの銃。バランスは恐ろしく悪く、片手で扱うには難しい。
ほとんど勢いでそれの引き金を引く。無数の銃弾が飛び出し、異形の蜘蛛を蜂の巣にした。
銀の弾丸の雨に当てられ、蜘蛛は絶叫を上げて燃え上がる。
「くそ」
とっておきの兵器がおしゃかになって、青年は毒づく。これでこの銃は使えなくなった。
それにしても、ともはや消えてしまった蜘蛛のことを、青年は考える。これほど巨大なものが現れた、ということは、いよいよここは境界線が曖昧になってきた、ということだ。
あの世とこの世。現世と幽世。地上と地獄。いくらでもいいようはあるが、その定義が曖昧になってきているのだ。
闇が濃くなる。肌がピリピリする。
一刻も早くあれを始末しなければ、地獄の門が開き、この街は破滅する。
青年は、胸元にある銀のロザリオを、撫でた。
神を信じるのはやめたが、それでも祈らずにはいられない。
「ああ、神よ」
芹沢いつきは泣いていた。
彼女の付き合っていた一学年上の先輩は、彼女と違い、絵に描いたような真面目な生徒であった。
当初は成績優秀で、顔もそこそこいいから、という理由で付き合っていたのだが、次第に熱を上げていってしまった。そこで、入沢に協力してもらって、なんとか彼氏彼女の関係になった。
不良少女であった芹沢は、真面目で将来のビジョンを明確に持つ彼に、心惹かれて言った。
家族との希薄な関係。仮初の友人関係。そんなものに辟易し、毎日を過ごしてきた彼女にとって、それは救いであった。
それなのに。
ギリ、と唇を噛む。
理不尽に死んだ彼。
彼は家族とともに惨殺されたらしい。
四人家族で、確か妹がいたはずだ。彼はたいそう妹を可愛がっていた。
芹沢は、彼の死を信じられなかった。
せめて顔だけでも見たい、といった彼女に、警察は首を振った。とても、見れる状況ではない、と。
哀しみは怒りとなり、行き場のない怒りをどこに向けていいかわからなかった。
そこに礼の噂が聞こえた。
そうだ、すべては入沢茉莉のせいだ、彼女はそう思うことにした。自分たちは一切悪くはなく、被害者である、と。
だから彼女は入沢を呼び出し、皆で彼女に暴行を加えた。
もう、彼女の親の力など、恐れはしなかった。
彼が死んだ今、全ては灰色。あれほど輝いた日々は、遠い昔。
晴れない気持ち。入沢は、黙って殴られ続けた。
やり場のない怒りは、一向に収まらない。
芹沢は家を飛び出した。どうせ家族は心配しない。
夜の街を歩く彼女。人通りはほとんどない。
街を歩き、彼との思い出に浸る少女。
そんな少女は、突然、足元にあるマンホールが動いたことに驚いた。
「な、なに・・・・・・・・?」
驚き彼女は後ずさる。
その数秒後、マンホールの蓋は宙に吹き飛び、大きな音を立てて落ちる。芹沢は恐怖に身を竦めて、ほの暗き穴の中から出てきたそれを見る。
「美貴本、エリカ・・・・・・・・・・?!」
それは、すでに人間としての原型は留めてはいなかった。顔の右半分は、酷く焼けただれ目がぎょろりと覗き出ていた。
腹や胸からは骨や内臓が見えていたし、左腕は存在していなかった。
それでも、彼女は美貴本だ、と確信させる何かを、芹沢は感じた。
「あら」
美貴本は芹沢を見ると、ニコリと笑う。不気味に右目が芹沢を捉える。
「ちょうどいいところに。今晩は、芹沢さん」
そう言い、ゆっくりと近づく美貴本。芹沢は、おどおどと後ろに下がる。恐怖に顔は引きつり、声が出ない。足は棒の真鍮でも入ったかのように動かない。
「今、とぉっても、お腹がすいているの」
そう言い、腸のはみ出る腹をさする。腸に開いた穴から、蟲と、ネズミのし甲斐がこぼれ出る。
異臭が鼻を衝く。腐った肉の匂いと、今まで嗅いだことのない何かが、芹沢の意識を侵食する。
「いただき・・・・・・・・・・・」
そう言い、口を開けた美貴本。芹沢は、死を意識した。
喰われる。この、化け物に。
そして、彼の顔が浮かぶ。
ああ、これで・・・・・・・・・・・。
だが、彼女の死は訪れなかった。
何時までも来ない死に、不審に思い目を開いた芹沢。目の前にいたはずの悪鬼はいなかった。
幻ではない。その証拠に、マンホールのふたは吹き飛び、彼女の腹から零れた蟲どもはそこに蠢いているのだから。
芹沢はその場にへたり込む。
何があったかは知らないが、死は免れた。その事実だけは、確かだった。
グールは苦しんでいた。
なぜかは知らないが、苦しくてたまらなかった。
美貴本は咳き込むと、何かを吐き出す。
彼女の腹で、胃液でとかされなかったそれ。それは、銀色の十字架であった。
先ほどのあの男のものか、と思った美貴本。彼女は右手でそれを握りつぶそうとし、辞めた。
代わりに近場にあった鉄筋を掴むと、それで十字架を打ち付けた。十字架は、粉々に砕け散った。
忌まわしき十字架がなくなると、美貴本エリカの身体は再生していった。
失われた左腕は急速に骨が伸び、肉が付き、感覚が戻る。腹の傷が塞がり、顔も元通りになる。
異形の化け物グールから、人間の美貴本エリカへと戻った。
美貴本は考えた。あの男を殺さねば、と。
あの男が何かは知らない。エクソシストとか、坊主とかそんなものだろう。
だが、邪魔をするなら街のものでないとしても容赦をする気はなかった。復讐と食事を邪魔するのならば、殺すだけだ。
グールは、舌なめずりをする。どう料理してくれようか、と。
だがその前に、と彼女は思うと、近くの民家を見る。
小腹がすいた。再生に力を使ったためだろう。ここらで「食事」をしよう。
そう思ったグールは素早く跳躍し、民家の二階の窓を突き破り、中に侵入する。そして、叫び声を投げさせることなく、その家の者たちを殺し、その死肉を思う存分、堪能した。




