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全身ずぶ濡れで、少女は高校の中を歩いていた。別に天気は雨でもなければ、近くに水気があるわけでもない。学校にはプールはあるが、それにも今は水が入っていない。濡れる要因はないはずであった。
にもかかわらず彼女が濡れている原因。
それは周囲の目を見ると明らかだった。濡れて水滴をこぼす少女に対する目は嘲笑。通り過ぎる同級生や生徒たちの中には憐憫の目を向ける者もいたが、手を差し伸べはしない。
それはそうだ。誰が好き好んで、いじめられっ子という、学校内のヒエラルキーの最底辺に手を差し伸べるものか。
少女は濡れた制服と鞄を持って、教室へと向かう。もうすぐ昼休みは終わり、授業が始まる。授業に出ない、という選択肢はない。そんなことをすれば、成績が落ちて学校を辞めることにもなりかねない。
父親は失踪、母親の少ない稼ぎで生活する彼女にとって、奨学金は重要な要素であった。一定以上の成績のキープ。それが、奨学金の条件。
少女は独り、教室に向かう。濡れたYシャツからは下着が透けていたが、そんなことは問題ではなかった。
教室に入ってきた少女を、皆が薄ら笑いで迎え入れた。少女は窓際の一番後ろの席に座る。
机には罵倒の言葉が書かれていたが、それを消すことを少女はあきらめていた。消しゴムでは消せないように、油性のマジックで書かれているのだから。
昼休みにバケツの水を浴びせられ、鞄は濡れたが幸いなことに教科書類は無事だったらしい。
四度目の買いなおしに至らなくて、少女はほっとする。
そんな少女のことを、学級の女子のリーダーである、入沢は大声で悪口を言っていた。
美人ではあるが、気の強そうな瞳。ここいらを仕切る地主の娘で、いろいろと好き勝手しており、その行動を非難することは教師でさえできないという、いわゆるお嬢様。
進学校のここに入れたのは、専ら親のコネであろう。
取り巻き連中とともに馬鹿みたいに笑いながら、少女を嘲笑する。
「根暗でのろまな美貴本さんは、どうして濡れているのかしら?」
取り巻きの少女が、無邪気に笑って言った。
「どぶにでも落ちたんじゃないの?」
「ああ、のろまな美貴本ならあり得るな」
男子がそう言い、笑った。
笑う彼らこそが、少女、美貴本に水をかけた張本人だというのに。
水をいまだに滴らせながら、美貴本はただ窓の外を見ていた。少女はいつも、そうしてきた。周りの声をシャットダウンし、無視する。そうすることで、これ以上傷つくことがないように己を守っているのだ。
誰も助けてはくれない。ならば、我慢するしかない。
美貴本はそう思っていた。差別、格差。平等だなんだと言っても、そんな理想は犬に食わせてしまえ、と少女は思っていた。
所詮、ここで胡坐をかく彼らも、世の中では単なる歯車にしか過ぎない。ただ吠えるだけの狗には、隙に吠えさせていればいい。
いじめのうちはまだ、大丈夫だ。被害は出ているが、それだけ。
美貴本は空を見る。忌々しいほどに、空は青かった。
教師は美貴本を見ても、何も言わなかった。そして、何事もなく授業を開始した。
教師でさえ、いじめを黙認していた。この学校は、誰もが美貴本のことを知りながら、決してそのことを止めようとはしない。皆恐れているのだ。入沢や彼女の親を。
そこそこ都会ではあるが、この地域に根差す地主の力はいまだ強い。この地域で仕事をするには、彼女の父に逆らう真似はしない方がいい。
別に、美貴本が彼女やその父に逆らったわけではない。だが、なぜか彼女はいじめの標的であった。
一年前の入学直後から。
だが、美貴本は耐えてきた。決して負けはしなかった。
いずれは、ここから出ていこう。そして、彼らのいないところにたどり着く。それだけが、少女の希望。
何時まで経っても、弱音を吐かず、淡々とする少女に、入沢は焦りのようなものを抱いていた。
美貴本エリカ。やせっぽちでガリガリ、いかにも真面目そうなメガネをかけた、のろまな子。しかし、彼女の顔は西洋人的な美しさを持っており、生粋の日本人である入沢はその容姿にコンプレックスを抱いていた。自分以上の美貌を持つ少女。そんなもの、赦せるわけはなかった。
突然現れた、よそもの一家の娘。いじめの理由はそんなもので十分だった。
すぐにでも少女は弱音を吐いて、ここからいなくなる。そう思っていたのに、少女は耐えた。
表情さえ変えず、淡々と授業を受ける。ロボットのように感情の欠落した美貴本に、入沢は恐怖した。
恐怖はよりいじめを加速させた。もう、後戻りができぬほどに。だが、それでも美貴本は顔色を変えなかった。
入沢の恐怖は大きくなる一方だった。一年以上も耐えて見せた美貴本は、もはや入沢の中では得体の知れない化け物であった。
入沢が美貴本を嫌いだというのは、全校生徒が知っていた。だから誰も邪魔もしない。喜んで協力する者もいた。
そんな顔色をうかがう連中に嫌悪を抱きながらも、入沢は美貴本の排除のために彼らを利用してきた。
だが、美貴本はいなくはならない。
入沢の恐怖は広がる一方。
そんな少女を見て、彼女を慕う男たちは邪悪な笑みを浮かべた。彼らの崇拝する女帝を煩わせる権化を、抹殺する方法を、彼らは考えていたのだ。
そしてその日、彼らはそれを実行に移そうと計画していた。
放課後、独りでトイレの掃除をしていた美貴本。本来ならば、ほかにも数名の女子が一緒なのだが、決まって美貴本を残して帰ってしまう。そればかりか、美貴本が当番でないときもクラスメイトは押し付けるのだ。美貴本はあきらめて一人で掃除をする。もう慣れたもので、時間がかかろうとも一人で掃除ぐらいは終わらせられた。
彼女は掃除を終えると、鞄を持って下校しようとする。陽が暮れ始めていた。
今日も一人、家で夕食、それも現代人のする食事とは思えないほどの量しかない。
美貴本は表情を変えずにため息をつく。そして教室を出ようとした彼女の前に、男たちが現れる。
美貴本のクラスメイト。いずれも入沢のグループの男たちだ。
美貴本はわざわざ放課後まで嫌がらせをしようとする彼らを皮肉気に見た。
だが、そこで少女は気づいた。彼らの目が、尋常ではないことを。
彼らは何時も、美貴本をいじめるときは笑っていたのだ。だが、その目には嘲笑の色はない。あるのは、欲望。
彼女の実の父親は彼女を見た。その目に浮かぶのは、狂気。酒に酔った父親は、殴られて気を失った母から目をそらすと、私の方に近づいてきた。
そして、私の服を引きちぎり・・・・・・・・・・・・・・・。
(―――――――――!!)
男たちの目は、あの時の父と同じ目をしていた。少女はその時、初めて感情を表に出した。恐怖がよぎる。
それが一層、男たちの欲望を誘った。初めて見る、美貴本の表情のある顔に、興奮した彼らは美貴本を取り囲むと、乱暴に彼女の制服を脱がす。
暴れる美貴本を殴り、少女の眼鏡をたたき割る。
美貴本は泣いた。決して弱音を吐かなかった少女は、ブロンドの髪を揺らしながら必死に逃れようと抵抗した。
(いやだ、いやだ、いやだ、いやだ・・・・・・・・・・・・・・!!)
泣き叫ぶ少女のスカートを引きちぎり、男たちはやせっぽちな、だが魅惑的な少女の肉体を貪る。
夕焼けに染まる教室に、少女の悲鳴が響いた。
学校内にいたものは、しかし、それを聞きながらも無視した。どうせまた、入沢たちが美貴本に何かをしているだけだろう、と。
教師も、生徒も、誰もが見て見ぬふりをした。
やがて、絶叫は途絶え、静寂が訪れた。
教師も生徒も去った、夜の学校。
ある教室にはしかし、まだ人がいた。
乱れた机。開けた床に、引きちぎられた制服とスカートが散乱していた。
そのすぐ近くに、裸の少女が倒れていた。
涙の跡がうっすらと見えた。虚ろな瞳が、天井を見ていた。
身体は怠い。体の奥の痛みはまだ、引きはしなかった。
そして何より、彼女の心は折れてしまった。どれほどのいじめにも耐えてきた少女の心は、完全に壊れてしまった。
少女はやがて立ち上がり、おもむろに下着をつけ始める。そして、呟いた。
「夕飯、どうしよう・・・・・・・・・・・」
少女は使い物にならない制服を見て、ポツリと言った。
「殺してやる」
温度を感じさせない、機械のような声。だが、彼女の青色の瞳は爛々と輝いていた。
「この学校も、この場所も、全てみんな壊してやる」
そう決意した少女は、ふと空腹が襲うのを感じた。結局今日は昼を抜いてしまった。もう二日食べていない。
お腹がすいた、だが、家に帰ってもろくなものはない。ならどうするか、と彼女は考えた。
ないのなら、食べに行こう。
夜の街は不良たちのたむろする格好の場所であった。少年たちは、免許もないのにバイクを乗り回し、落書きや窓割りなど、幼稚ないたずらを繰り返していた。
何度も補導されても、少年たちはそれを辞めなかった。
そんな不良の少年三人は、コンビニから出ると、一人の少女を見つけた。少女は遠目、それも夜であるからはっきりとは見えないが、下着姿のようであった。
身体は痩せっぽちだが、その顔はよく見ると、そこいらのアイドルよりかはかわいく見えた。
少年たちは顔を見合わせ、それが現実だと確信した。
そんな少年たちから逃げるように、下着姿の少女は公園に向かっていく。
「なんだあれ、痴女?」
「さあな、だが、かまやしねえ」
そう言って、少年たちはその少女を追って公園に入っていった。
公園に入った少年たちは、少女を探す。だが、少女の姿はどこにもない。
少年たちはそこそこ広い公園を手分けして探す。
一人の少年は途中で尿意を催し、トイレの方に駆けて行った。仕方ない奴だ、と笑い二人は少女を探す。
トイレに駆け込み、用を足した少年は、もしかしたら女子トイレにいるかもしれない、と思い、中に入っていく。
個室の扉を開けて、確認していく。三個の扉を順々に明けていく。
一個目、いない。
二個目、いない。
最後の三個目。ここに、もしかしたらいるかもしれない。
いたら、俺が真っ先にそいつを、そう考えて少年は扉を開けた。
だが、少女はいなかった。
がっかりした少年は、その時、用具入れから物音を聞いた気がした。ガタガタ、と。
そこにいるのか、と思って、少年は用具入れの扉を開けた。その瞬間。
病的なまでに白い肌の少女が、少年の喉元目がけて噛みついてきた。
少年は驚き、叫びをあげようとしたが、少女にふさがれて叫べなかった。抵抗し、引き離そうとするが、そうするほど少女は強く噛みついてくる。
このままでは噛み千切られる、そう思った少年はポケットからナイフを取り出し、少女に突き出す。
だがその前に少女は少年の喉笛を引き千切った。少年の手から力が抜け、ナイフが落ちる。
すかさず少女はそれを拾うと、少年の脳天目がけてナイフを振り下ろした。
血の噴水が飛び散った。
少年は目を見開き絶命した。少女は口に含んだ少年の喉の皮を飲み込むと、息絶えたそれの肌にゆっくりと口を近づけて言った。
「いただきます」
少年二人は、トイレに行った少年がいないことに気づく。結局女はいなかった。きっと何かの幻覚だ、と結論付けた彼らは仲間がいないかを見渡す。だが、その姿は見えない。
「まだトイレか?どんだけ大きいんだよ」
そう言って笑うと、二人は公園のトイレに向かう。
トイレの前で、彼らは顔をしかめた。鉄のような、強烈なにおいが女子トイレの方からしてきたからだ。
彼らは女子トイレの床のタイルを見た。何か、紅い何かがついていた。
「なあ、まさか・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
血。なにか、あったのだろうか。二人の少年は、ポケットの中に入っている護身道具を取り出せるようにして、ゆっくりと女子トイレに入っていく。
女子トイレ内の用具入れから何かが出ている。血のようなもの。
ゆっくりと、用具入れの扉を開いた彼らは、恐怖に絶叫した。
用具入れの中にあったのは、原形を留めぬ死体。彼らはその死体の、右半分だけになった無残な顔を見た。
それは紛れもなく、彼らと一緒に公園に来た少年であった。
夏も近づくある日の出来事であった。この日を境に、この街はその様相を変えていくこととなる。