第5話 オーナーシェフの休まらない休日
ミルティユが定休日の昼下がり。
店は静かで、外の光がレースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
蒼井透は珍しくエプロンを外し、店内のテーブル席に座って書類を整理していた。
休日なのに仕事をする彼を、スタッフたちは“想定内”と呼ぶ。
「……休んでくださいよ、ボス」
不意に声がし、蒼井が顔を上げると、春名玲花が立っていた。
「今日は休みですよ?」
「あなたがね。私は買い物しに来ただけ」
玲花は腕を組み、蒼井の向かいの席に座る。
「ボスってさ、休むの下手ですよね」
「……休む、とはなんでしょう?」
「そういうとこですよ!」
玲花がテーブルを軽く叩いた。
「人の辛さはわかるのに、自分の疲れは無視するくせに」
蒼井は苦笑した。
「でも、私は料理を作るのが好きなんです。
人の心が軽くなる瞬間を見ると、こちらも救われるから」
「……でもね、ボス。救われる側ばかりじゃダメな時もあるんですよ」
玲花が言い終えたその時――
店の扉が控えめにノックされた。
「今日は定休日です、と張り紙が……」
蒼井が立ち上がろうとすると、玲花が制した。
「休みの日くらい出迎えなくていいですよ。私が行きます」
玲花が扉を開けると、そこには年配の女性が立っていた。
手には小さな紙袋。肩からは疲労が滲み、しかし瞳だけがどこか澄んでいた。
「あの……お休みなのはわかってるんですけど……」
玲花が柔らかく言う。
「どうされました?」
「……これを、渡したくて。
オーナーさんに……“蒼井透さん”に」
玲花は驚き、蒼井を振り向いた。
蒼井もまた、女性を見た瞬間、動きを止めた。
「……まさか。
……藤村さん?」
女性は深く頷いた。
「ええ。覚えて……いてくださってる?」
「もちろんです」
玲花は思わず蒼井の横顔を見る。
蒼井が、客の前で“動揺”を見せるのは珍しい。
藤村という女性は、静かに言葉を紡いだ。
「娘が……あなたが昔、勤めていた店の常連でしてね。
……娘はもう、この世にいません」
蒼井はゆっくりと目を伏せた。
「……存じています。
当時……何もできなくて申し訳ありませんでした」
「いいの。あなたは責めていない」
藤村の声は柔らかかった。
「ただ……娘が最後に食べたあなたの料理、
『優しい味だった』って言っていてね。
思い出して、どうしても一度お礼を言いたかったの」
玲花は息を呑んだ。
蒼井の胸に、静かに痛むものが灯る。
藤村は紙袋を差し出した。
「娘の大好きだった、リンゴパイなの。
あなた、甘いものが苦手じゃないって聞いたから」
蒼井は震える手で、それを受け取った。
「……ありがとうございます。
その言葉を聞けただけで、私は……救われます」
藤村は微笑み、深く頭を下げて去っていった。
扉が閉まると、玲花がそっと蒼井に近づいた。
「……ボス。
そんな過去があったんですね」
蒼井はパイの紙袋を見つめながら答えた。
「私も昔は、何もできずに、ただ料理を作るだけの人間でした。
傷ついた人の心に寄り添うことも、
食べる人の“未来”まで考えることも……できなかった」
そして静かに続けた。
「だからこの店を作ったんです。
料理で、人の明日を少しでも変えられる場所を」
玲花は目を細め、ふっと笑った。
「ボスもね、たまには誰かに救われていいんですよ」
蒼井は少しだけ照れたように頬をかいた。
「……今日はそうします。
せっかくいただいたのですから、一緒に食べませんか?」
「……え、いいんですか?
じゃあ……コーヒー淹れますね」
休みの日。
店内にコーヒーの匂いと、小さなリンゴパイの甘い香りが広がった。
蒼井透が心から“休む”ことを覚えた、
そんな静かで温かな休日だった。




