第3話 焦げたパンケーキの理由
その日のミルティユは、開店前から妙に騒がしかった。
厨房ではアレックスが大きなフライパンを振り回し、篠宮と玲花が悲鳴を上げて逃げている。
「危ねえだろアレックス! 何回言えばわかんだよ!」
「ノープロブレム! パンケーキは魂で焼くんだ!」
「魂じゃなくて腕で焼け!!」
「腕も使ってるぞ!」
蒼井はため息をつきつつ、微笑ましそうに全員を眺めていた。
そんなバタバタが一段落した頃、店の扉が開いた。
「こ、こんにちは……」
入ってきたのは、二十代前半の若い男性。
スーツは皺だらけ、髪は乱れ、手には小さな紙袋。
彼は蒼井の静かな笑みに、少しだけ緊張を解いた。
「いらっしゃいませ。今日は、どんな日でしたか?」
男性は困ったように頭をかいた。
「……今日、失恋しました」
篠宮と玲花がピタリと動きを止める。
厨房の空気が少しだけ沈む。
「それで……その、
彼女に手作りのパンケーキを渡したくて練習してたんですが……」
紙袋から出てきたのは、真っ黒に焦げたパンケーキの山だった。
アレックスが前のめりで覗き込む。
「おお……これはすごい。ある意味芸術」
「やめなさい」
玲花が肘で小突く。
蒼井は紙袋を受け取りながら問いかけた。
「何か、伝えたかったんですね?」
男性は俯いた。
「僕……料理が全然できなくて。
でも、彼女はいつも僕のために料理を作ってくれて……
だから、誕生日だけでも“僕が作ったもの”を渡したかったんです」
アレックスは胸に手を当てて深く頷いた。
「お前……いいやつだな。俺が作る」
「アレックス、絶対変なもん作るからダメ」
玲花が即座に制止する。
「違う! 今日は“普通のパンケーキ”だ! 約束する!」
蒼井は考え、微笑んだ。
「アレックス。……任せます」
「ボス……!」
アレックスは目を輝かせ、フライパンを構えた。
さっきまでの危うさはどこへやら、動きが嘘のように滑らかになる。
粉をふるい、卵を割り、ミルクを混ぜる。
バターを溶かし、ゆっくりと生地を流し入れる。
ぽこっ、ぽこっ……
表面に小さな泡が浮かびあがるたび、彼の表情が真剣味を増していく。
そして――美しいきつね色のパンケーキがふわりと返された。
「……すごい……」
男性が呟く。
アレックスは彼の手前に皿を置くと、肩を叩いた。
「これは俺のパンケーキ。
でも――」
紙袋から黒焦げのパンケーキをひとつ取り出し、軽く指でつまむ。
「これはお前の努力の証。
どっちも捨てる必要はない。
俺のを彼女に渡して、お前のは……自分のためにとっとけ」
男性の目に、じわりと涙が浮かんだ。
「……ありがとう。
本当に、ありがとうございます」
会計を済ませて帰っていく背中は、来た時よりもずっと軽かった。
扉が閉まったあと、篠宮がぼそっと言う。
「お前さ……なんだかんだ言って、いいやつだよな」
「俺は常にいいやつだぞ?」
「いや、いつもはただの爆弾よ」
玲花が即座に返す。
「ひどい! 俺のハートが粉々に!」
黒江が静かにぼそり。
「……パンケーキみたいに焦がしてしまえ」
「黒江もひどい!」
厨房は笑いに包まれた。
蒼井は満足げにグラスを磨きながら言った。
「さあ――次の“ひと皿”の準備をしましょう」
ミルティユの夜は、今日もまた優しく更けていく。




