第12話 最初の一席
―篠宮 恒一―
ミルティユがまだ名前を持たなかった頃。
その厨房には、鍋とコンロと、静かな男がひとりいただけだった。
篠宮恒一は、白いコックコートを丁寧に畳み、段ボール箱に入れた。
名門フレンチレストランを辞めた、その日の夜だった。
「……納得、いかなかった」
理由を聞かれれば、いつもそう答えてきた。
星の数、予約の回転率、評論家の一言。
料理よりも“評価”が先に来る世界に、心がついていかなかった。
そんな篠宮が、蒼井透と出会ったのは、
閉店を決めた店の、最後のまかないの時間だった。
「捨てる予定の食材です。
何か作りますか?」
そう言って声をかけてきたのが、
当時、間借りで厨房に立っていた蒼井だった。
「……あなたは?」
「料理人です。
ただ、それだけです」
蒼井は、売り物にならない端材で一皿作った。
派手さはない。
だが、口に入れた瞬間、篠宮は箸を置いた。
「……誰のための料理だ」
「今、目の前にいる人のためです」
蒼井は即答した。
「評価も、星も?」
「後からついてくればいい」
その言葉に、篠宮は初めて笑った。
⸻
数日後。
まだ看板も出ていない店で、蒼井は一人で椅子を並べていた。
「……人手、足りてますか」
振り返ると、篠宮が立っていた。
「報酬は多くありませんよ」
「構わない。
……もう一度、料理を信じたい」
蒼井は、少しだけ考え、頷いた。
「では――
この店の、最初の席を任せます」
その夜、
篠宮恒一はミルティユで最初の一皿を出した。
それは、
“誰の評価も求めない料理”の始まりだった。




