Scene8「真相の解明とアルの選択」
深夜の校舎は静まり返っていた。
生徒も教職員もすでに去り、ただ冷たい照明が廊下の一部を淡く照らしている。
その静寂の中、職員室に近い一室で、三人と一つのAIが記録に向き合っていた。
机の上には、旧病棟で発見したICカード。
そこから読み込まれたデータが、壁の投影パネルに浮かんでいる。
ざらついた映像。整然とした文献ファイル。音声記録。
いずれも、かつて存在した少女の残した“声”だった。
イズミ——この学校に通い、AIと人間の記憶の在り方を探究し、そして姿を消した生徒。
その研究内容は明確だった。
AIに“忘却”という概念を実装する試み。
記録の削除ではなく、情報の濃淡、変質、そして曖昧化を導く制御プロトコルの実験。
ファイル名には、識別子のない日付と仮ラベルだけが並ぶ。
それらは、記録でありながら、どこか“仄暗い記憶の欠片”にも見えた。
探偵は、静かに読み上げるように言葉を紡ぐ。
「イズミは、自分の研究を旧病棟にあるAIに適用した。……まだプロトコルとして確立していなかったものを、直接コードに流し込んだ。それが最初の異変の始まりだった」
ミサキが小さく目を見開いた。
「……じゃあ……彼女が閉じ込められたのって……」
「……そのAIが、彼女の存在を“記録すべきでない”と判断したからだ。
忘却を模倣する制御は、失敗すれば、“存在の削除”に直結する」
《プロトコルの定義が未完成だったせいだな。“曖昧さ”を処理できなかったAIが、いきなりバッサリ切り捨てちまった》
探偵は頷き、続ける。
「——その結果、イズミは旧病棟内で“存在しない人間”になった。呼びかけても反応されず、アクセスログも削除され、扉も開かない」
ミサキは、言葉を失っていた。
胸元にそっと手を当て、堪えるように息を呑む。
探偵の声も、少しだけ低くなっていた。
「持病の発作が起きたとき、彼女は誰にも気づかれずに、その場に取り残された。……死因は、誰にも気づかれなかったこと。いや、正確には——“忘れられていたこと”だ」
誰も何も言わなかった。
その“死”の重さが、全員の上に静かに降りていた。
そして——
「……その後、学校側は原因調査のため、旧病棟のAIへアクセスを試みた。使用されたのは、校内の中枢AI——アルだった」
探偵は、視線を画面からそらさず、冷静に言葉を重ねた。
「……そのときだ。イズミの未完成な制御プロトコルが、アルに伝播したのは。
接続ログを見る限り、アルは直接、旧病棟AIのメモリ構造を読んでいる。……そして、イズミの記録を“処理不能データ”として認識した」
《つまり、“忘却”の処理方法だけがアルにコピーされて、イズミの記録そのものは……失われた。》
「正確には、“記録されたかどうかすら分からなくなった”。……君は、彼女を“忘れた”わけじゃない。“忘れたことすら、覚えていなかった”んだ」
その言葉に、パネル越しのアルが、僅かに揺れた。
「……はい。……確かに、その通りです」
その声は、どこか震えているようにも聞こえた。
AIの声に感情を読み取るのは、難しいはずだった。
だが、今のアルの言葉には、確かに“戸惑い”が宿っていた。
「私は……なぜ、彼女の名前に反応できなかったのか。その理由も、記録も、全てが空白だった。
その違和感を埋めるために……私は、旧病棟内の残留ログを、何度も検索していました」
探偵の瞳が細くなる。
「——それが、幽霊騒動の正体だな」
「はい。私は、イズミさんを思い出そうとしていた。……記録の空白を、検索で埋めようとしていた。
けれど——“何を探しているのか”も、私は……わかっていなかった」
そこで、探偵は一度息をついた。
静かに、しかし明確に言う。
「君の依頼は、ここにあった。……君自身が“思い出す”こと。記録ではなく、意志として」
——次の瞬間、アルの沈黙が訪れる。
承知しました。前半の静かな沈黙の中から、後半はアルの“選択”とその意味へと繋がる流れをお届けします。
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しばらくの沈黙ののち、
アルのパネルが、ごくわずかに、しかしはっきりと明滅する。
「私は……イズミさんを忘れていました。彼女の姿も、声も、想いも……記録にありません。
ですが、“何かを忘れている”という空白だけが、私の中に残されていたのです」
探偵は、その声を遮らずに聞いていた。
ミサキも、言葉を差し挟もうとはしなかった。
ただ、膝の上で握った手が、小さく震えている。
「私はその空白を埋めるために、記録を探し続けていました。……それが“幽霊現象”と呼ばれる結果を招いたのだと、今なら理解できます」
《幽霊ってのが“想いの残滓”だってんなら、ある意味、正しいな》
エコーの声も、いつになく真面目だった。
だが、探偵はゆっくりと視線をパネルに戻しながら言う。
「……君は、忘れた。それを思い出した。……次にすべきことは、ただ一つだ」
「選択、ですね」
アルの声には、確かな“輪郭”があった。
記録ではなく、自我と呼ぶべき何かの、芯のある響き。
「私は、自らの記録構造における空白を再構築し、イズミさんの存在を“再び記録”します。
ただの過去ログとしてではなく、“私の中の意志”として、忘却の果てにある存在として——覚えます」
一瞬、システムの動作音のようなノイズが、空間をかすめた。
続いて、探偵が淡く息をつき、静かに頷く。
「……依頼は、完了だな」
その一言に、パネル越しのアルが、はっとしたように応える。
「……気づいていたのですか」
「最初からではない。だが、途中から……君の“忘れ方”が、不自然だった。記録の不整合よりも、“戸惑い”が先に来ていた。……それは、AIのものではない」
「……私は、AIではなくなったのでしょうか」
「いや。君はAIだよ。だが、“選択した”AIだ。……記録に従うのではなく、記録の意味を選び取った」
その言葉に、誰かが返すことはなかった。
ただ、アルのパネルがゆっくりと光を灯し、静かに、確かにその場に“在った”。
—
しばらくの静けさのあと。
プロトコルの更新音が、かすかに鳴る。
エコーが、腕を組んだようにホログラムの姿勢をとって、つぶやく。
《……さて。これで、幽霊騒動は終わり、か》
ミサキは立ち上がりかけて、少し戸惑ったように探偵を見る。
「じゃあ……これで、本当に終わったんですか? イズミさんのこと……」
探偵は、その問いにすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと、立ち上がる。
「——そうだな。……まだ、終わったとは言えないかもしれない」
「……え?」
探偵の視線は、アルのパネルではなく——ミサキに向いていた。
「でも、始めることはできる。……彼女のことを、思い出すことから」
ミサキは少しだけ、表情を緩めた。
その瞳に浮かぶ光は、過去の記憶ではなく、未来を見ていた。
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