Scene7「──夜の足音」
時計の針が、夜の八時をゆっくりと回っていた。
夜の学校は、昼間の喧騒が嘘のように沈黙していた。
正門は閉ざされ、校舎の灯りもほとんどが落ちている。
だが、裏手の側道にはひっそりと影が集まっていた。
その一角、人気のない街路の隅。
ミサキはすでに来ていた。
街灯の光が遠く、ほとんど輪郭だけの姿。
けれど、その輪郭だけで、探偵はすぐに彼女を見分けた。
「……来たな」
「先生、こんばんは」
ミサキは両手を腰に当て、すこし胸を張るようにして振り向いた。
黒のジャージ上下に、ウェストポーチ。足元はランニングシューズ。
軽装だが動きやすく、そして何より目立たない。
「……その格好。まるで夜の偵察部隊だな」
「だって、そういう感じなんでしょう?」
彼女は悪びれずに笑った。
緊張を誤魔化すようでもあり、少し誇らしげでもあった。
探偵は、黒のコートの前を留めながら近づく。
黒いシャツにネイビーパンツ、落ち着いた身なりだが夜にはよく溶け込む色だった。
「先生は……なんか、映画に出てきそうな感じですね。私服でその貫禄すごいです」
「職業柄、な。あと、ポーチは小さめで良かった。動きやすいし、騒音も出にくい」
「えへへ……準備万端です」
《……ふたりとも、完全に潜入捜査やる気満々だな》
スマートグラスの内蔵スピーカーが、探偵にしか聞こえない位置で皮肉っぽく鳴った。
探偵はわずかに口元を緩めた。
「……お前に“先生”って呼ばれると、背筋が寒くなるな」
《え、でも“せんせー”って呼ばれてテンション上がってたじゃん。ねぇミサキちゃん?》
ミサキは目を瞬かせた。
「え? 今の、エコー?」
《正解。今日は頼りにしてるぜ、相棒さん》
「……相棒って、私ですか?」
《もちろん。センセーが物静かで地味に頑固だから、テンポ出すのはそっちの役目な》
ミサキはふふ、と笑った。
その声は、少しだけ緊張を紛らわせた。
探偵は一歩、校舎の方へと足を向けた。
「行こうか。君の言っていたルートを案内してくれ」
「はい。……ここからが、本番です」
ミサキは表情を引き締め、静かに歩を進める。
夜風がすこしだけ強く吹き抜け、ふたりの衣擦れの音が静かに響いた。
旧病棟へ続く通用口へと向かう裏道は、誰もいない。
照明もなく、空の星明かりだけが薄ぼんやりと足元を照らしていた。
壁際を伝って進みながら、ミサキがそっと言う。
「……この辺、ほんとは生徒立ち入り禁止なんです。けど、こっそり入る人、たまにいます。私、来るのは初めてだけど」
「案内、助かる」
探偵の声も落ち着いたままだった。
建物の影が大きく口を開ける——旧病棟の裏手、かつての搬入口。
センサーは壊れているのか反応せず、錆びたドアがかすかに軋む。
ふたりはその隙間から、暗い廊下の中へと足を踏み入れた。
まるで、誰かの眠る記憶の中に足を踏み込むような、静かな始まりだった。
—
古びた扉を開けた瞬間、湿り気を帯びた空気がふたりを包んだ。
旧病棟の内壁は時が止まったように静まり返り、埃の層が蛍光灯の光を鈍く反射している。
誰もいないはずの空間には、妙な“視線”のような気配があった。
「……ここが、旧病棟……」
ミサキはジャージの袖をぎゅっと握りしめ、探偵のすぐ後ろをついていく。
その足取りは慎重だったが、緊張は隠せない。
探偵は構わず、コートの裾を揺らしながら無言で歩を進める。
重い沈黙の中、微かに聞こえたのは“コツン”という硬質な音。
「……え?」
廊下の奥で、何かが床に落ちたような音だった。
誰もいないのに、何もないのに——確かに響いた。
「……せ、先生、今の……」
探偵が答えるより先に、“カタッ”という音が、今度はすぐ背後から聞こえた。
振り返っても、何もない。
しかし、床には転がった金属製のボールペンがひとつ。数秒前には存在しなかったはずのものだ。
「っ……!」
ミサキが息を詰め、探偵のコートの裾をぎゅっと掴む。
そのとき——。
廊下の蛍光灯が、“チチッ”と短く明滅した。
そして、光が一瞬だけ消え——再点灯した瞬間、廊下の向こうに“影”が立っていた。
人のような、しかし輪郭しか捉えられない黒い塊。
顔はなく、服の形も曖昧。
ただ、ふたりを見ているとしか思えない“向き”で、そこに在った。
ミサキが低く、掠れた声で言う。
「……いる……あれ……見えてる……?」
「見えている」
探偵は短く頷き、スマートグラスの端に手をやる。
「エコー、スキャン。あれは実体か?」
《動体反応——なし。質量も、赤外線反応もない。けど……反応してる。記録の参照波形が出てる。おそらく、AIが検索を起こした“過去の記録”が形を取って現れてる》
「つまり、記憶の断片か。イズミの……」
影がすうっと、音もなく横に滑るように動いた。
まるで空気の中に溶けるようにして、壁の中に消えた。
次の瞬間、廊下の横の病室から“ガンッ”と何かが叩きつけられるような音が響く。
開きかけのドアが、誰も触れていないのに、ゆっくりと全開になった。
その中には、ベッドと棚と——
棚の上には、古びたICカードがひとつ、ぽつんと置かれていた。
ミサキはもう、探偵の腕にしがみついていた。
顔をこわばらせ、小刻みに肩を震わせながらも、目は逸らさなかった。
「……あの部屋……あそこ……」
「イズミが最後にいた病室かもしれないな」
《センセー、やっぱこれ……AIが“誰かに思い出されることで”呼び起こされてるっぽい。記録の亡霊。データそのものが、主をなくして彷徨ってる》
探偵は静かに頷いた。
それは、ただの心霊現象ではない。——記録が残した、断片的な“存在”の痕跡。
彼はそっと、ミサキの肩に手を添える。
「大丈夫か?」
「……怖い。でも……大丈夫です。イズミさん、見つけたいから」
影が壁に吸い込まれるように消えたあと、旧病棟は再び静寂に包まれた。
さっきまでいたのが幻だったかのように、蛍光灯は無音で灯り、廊下には誰の気配もない。
だが、空気は明らかに変わっていた。
ミサキの表情からも、探偵の目の奥にも、それは見て取れる。
《さっきの部屋……たぶん違うな。イズミが倒れてたって記録の位置情報、もうちょい奥だった気がする》
「……だとすると、そこが実験を行っていた場所か」
探偵が静かに呟くと、ミサキが小さく頷いた。
「……きっと、そこに何か……彼女の“痕跡”が残ってる」
ふたりは廊下を進む。
歩を進めるごとに、壁にかけられた案内プレートの文字がかすれていく。
「回復室」「点滴準備室」——そして、その奥。
「ここ。記録じゃ『特別観察室』ってなってる」
ミサキが指差した扉のプレートは、半分剥がれかけていたが、うっすらと読める。
探偵がゆっくりと扉を開くと、かすかに空気が流れた。
室内は狭いが、普通の病室とは違っていた。
一角には旧式の端末と、壁際の棚には各種センサーらしき器材。
医療実験用の空間をそのままにして閉じられたような、時間の止まった部屋だった。
「ここ……イズミさん、ここで……何かやってたんだ……」
ミサキがゆっくりと室内を見渡す。
探偵は無言で室内を歩き、ベッド脇の引き出し、棚の上、端末の隙間をひとつひとつ確認していく。
そのとき——。
「……先生、これ」
ミサキが、床に落ちたままの金属片を拾い上げた。
それは小さなICチップ。透明なプラスチックの保護ケースに包まれた、旧式の外部記録媒体だった。
埃にまみれていたが、傷は少なく、まだ読み取り可能に見える。
探偵が手に取り、じっと見つめる。
「……見覚えがある。旧世代のデータ転送用チップ。研究成果や、未公開ログなんかを外部保管するのによく使われてた」
《中身、確認できるか? あとで学校の端末借りて解析してみる》
「今すぐにでも見たいところだが……場所が悪いな。ここじゃ、機器が反応する可能性もある」
探偵はICチップを革のケースにしまいながら、ミサキを見る。
「君が拾ってくれたこれが、彼女の“声”かもしれない」
ミサキは小さく頷いた。
その顔には、さっきまでの怯えとは別の光が宿っていた。
「……持ち帰って、解析してみよう。エコー、外に繋がる道、確認できるか?」
《問題なし。今なら警備ログも動いてない。……それと》
「それと?」
《さっきの影、あれ……また検索波形に上がってきてる。たぶん、まだ終わってない》
「……だろうな」
探偵は、ICチップの重みを感じながら、ミサキとともに静かに部屋を後にした。
夜の旧病棟は、まだ何かを隠している。
だが、その何かに、ようやく指先が届き始めていた。
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