Scene6「──探偵事務所にて」
夕方の街は、まだ少し暑さを残していた。
ビルの隙間を縫うようにして吹き抜ける風が、埃っぽい空気をかき混ぜる。
その路地の一角。
小さなビルの二階、目立たない場所に掲げられた古びた金属製のプレートが、西日を鈍く弾いていた。
──《探偵事務所》
その看板を見上げながら、ミサキは一歩を踏み出せずにいた。
(ここ……で合ってるよね?)
手にした名刺には、確かにこの住所が書かれている。
でも、「AIシステムエンジニア」なんて肩書きだったはずだ。
なのに、ここは……どう見ても「探偵」じゃないか。
(先生って……何者なの……?)
そう思ったそのとき。
カタン、と階段の上から軽い足音がして、鉄扉がきぃ、とゆっくり開いた。
「ああ、来てくれたか」
いつもの低く穏やかな声。
少しラフな黒のジャケット姿の“先生”が、ミサキの目の前に現れた。
「……先生?」
ミサキは戸惑い半分、驚き半分で声を上げた。
「うん。俺が探偵ってのは……まあ、今夜の説明のひとつだな」
そう言って、探偵はふっと笑った。
「ようこそ。俺の本業の方へ」
軽く片手でドアを開きながら、探偵はミサキを中へと招いた。
ミサキは一拍だけ間を置いてから、階段を上がる。
看板の文字をもう一度振り返り、深呼吸を一つして——その扉をくぐった。
—
探偵に案内されて入った室内は、静かで落ち着いた空間だった。
外から見た古びたビルの印象とは違い、整頓された資料棚や控えめな間接照明が、妙に居心地の良い空気を作り出していた。
ミサキはおずおずと部屋の中央にある応接スペースに通される。
古びているが手入れされたソファと、低めのテーブル。
そこにそっと腰を下ろしながら、彼女は改めて探偵の背中を見つめた。
探偵は奥のカウンターに立ち、電気ケトルで湯を沸かしていた。
手慣れた様子でカップを並べ、コーヒー豆の香りが室内にふわりと広がる。
「ミルクと砂糖、どうする?」
「あ、えっと……ミルクだけで」
「了解」
その応え方も、どこか“先生”とは違う。
ミサキは少しだけ気を引き締め直す。ここは学校ではなく、彼の“職場”なのだ。
湯が落ちる音と、マグに注がれるコーヒーの香り。
それに混じって、ふいにどこか間の抜けた電子音声が室内に響いた。
《なあなあ、それ俺の分もある?》
ミサキが驚いて目を見開くと、探偵の後ろから空間が歪み、小さなホログラムが投影された。
耳が大きくて、ふわふわと浮遊しているマスコットのような存在。
けれど、目つきはどこか鋭く、妙に人間くさい表情をしている。
「……えっ? なにこれ?」
「紹介しよう。俺の相棒、“エコー”だ」
探偵は苦笑しながら、ミサキの前にコーヒーを置き、自分も向かいの席に腰を下ろした。
《どうもども。俺はエコー。AIだけど、ま、人付き合いも悪くないほうだと思うぜ?》
「わ……話してる……」
ミサキは、ぽかんと口を開けたままホログラムを見つめていた。
そして、恐る恐る手を伸ばしてみる。
《おっと、残念。触れないからねー、俺。質量ゼロのホログラムってやつ。ついでに言うと、かわいさはマックス》
「え、うそ、かわいいって自分で言うの……?」
ミサキは思わず吹き出し、コーヒーを飲む前に笑ってしまった。
探偵もわずかに目を細めて、それを見ていた。
「エコーは、この事務所でのサポートAI。いろいろ調べものを頼んだり、データの整理をしてもらってる。今回も、君からもらった映像を調べてくれている」
ミサキは少し照れくさそうに頷く。
「……なんか、すごいですね。先生、学校にいたときと、ちょっと雰囲気違う……」
探偵は軽く肩をすくめた。
「“本業”だからね。そろそろ、本題に入ろうか」
部屋の空気が、少しだけ引き締まる。
けれど、それは息苦しさではなかった。
ただ、事実に向き合うための、正当な準備のようなものだった。
ミサキは言葉を探すように視線をさまよわせ、やがて静かに口を開いた。
「……イズミさんは、変な人でした」
探偵は何も言わず、ただ耳を傾ける。ミサキの声は小さいが、はっきりとしていた。
「一緒に暮らしてたけど、ずっと“なにか考えてる”ような人で。授業のことだけじゃなくて、ずっと……なんて言うか、“考えてる顔”をしてた」
ミサキは指先でカップの縁をなぞる。コーヒーの香りが、ほんの少し空気を和らげていた。
「でも、優しかったんです。私が課題に詰まって泣きそうになった時も、何も言わずに側にいてくれて。……“自分の頭で考えることを止めちゃダメ”って、一言だけ言ったんです」
探偵の目がわずかに細められる。ミサキは続けた。
「……そんなイズミさんが、ある日、“忘れることって大事だと思う?”って聞いてきたんです」
「なんて答えた?」
「“うーん、失恋とかなら忘れたいかな”って。……そしたら、笑ってました。“そういうのも、大事なデータだと思うんだけどな”って。……今思うと、あれも研究の一環だったのかも」
「彼女は、AIに忘却を与える研究をしていた」
ミサキは頷く。
「でも、それが原因だったんでしょうか。事故のこと、私たち生徒には詳細を知らされてなくて。……“旧病棟で倒れていた”って聞いただけで……そのまま亡くなったって」
「彼女が、なぜ旧病棟にいたのか。何をしていたのか、学校からの説明はなかった?」
「なにも。寮の部屋もその日のうちに片付けられて……学校の中から、彼女がいなかったことみたいに、きれいに、消えてたんです」
その言葉に、探偵の指がゆっくりとテーブルを叩く。
「……君は、“彼女は事故で死んだ”とは思っていない?」
ミサキは黙った。
その沈黙が答えだった。
「……あの画像を見たとき、思ったんです。“あれ、イズミさんじゃないか”って。服も顔もはっきり見えるわけじゃない。でも、直感で、そう思ってしまった」
探偵は深く頷く。
「直感は、時に事実を超える。とくに、それが君自身の大切な記憶に基づいているなら」
「……探偵さん、イズミさんのこと、ちゃんと調べてくれますか?」
ミサキの瞳には、強い光が宿っていた。
探偵は、その問いにゆっくりと肯いた。
「もちろん。そのために、俺はここにいる。……彼女の“名前”が、ただ消されてしまうようなことがないように」
—
ミサキは、手にした温かい紅茶のカップを見下ろしながら、小さく唇を引き結ぶ。
その正面、テーブルの向こうで、探偵はノートPCの画面に視線を落としたまま言った。
「旧病棟に入るには、それなりの準備が必要だ。夜の時間帯に動くなら、監視とセキュリティの死角を正確に把握しないと」
「……ですよね」
ミサキが小さく頷く。
探偵はグラスの縁を軽く指先で叩きながら、ゆっくりと視線を上げる。
「ただし——」
その声音が、少しだけ重くなる。
「君を連れて行くことは考えていない。あそこは立ち入り禁止区域だ。……そもそも、生徒が出入りしていい場所じゃない」
ミサキは、一拍、目を見開いてから、口を少しだけ開いて、すぐに閉じた。
「……そっか。やっぱり、そう言いますよね」
静かにそう答えたその顔には、少しだけ思いつめたような影が差していた。
探偵はそれを見て、ため息をひとつ。
言い過ぎたか——という表情ではない。ただ、言っても無駄だと気づいた時の大人の顔だった。
「……君がイズミのことを知りたがっているのは分かってる。だが、それと、危険な場所に立ち入るべきかは別の話だ。これは大人としての忠告だよ」
「……うん。分かってます。でも——」
ミサキは、すっと椅子から立ち上がり、探偵の横へと歩み寄った。
ポケットから、小さく折られたメモ用紙を一枚取り出し、机の上に置く。
そこには、簡単な略図が手書きされていた。校舎と、旧病棟との間をつなぐ通用路、監視の薄い隅の搬入口、センサーの死角になる場所——。
「寮生って、ときどき肝試しとかで旧病棟に入るんです。……私は行ったことないけど、どこからなら入れるかくらいは、知ってます」
探偵はその紙に目を落とし、言葉を失う。
「もちろん、“行けるから行っていい”とは言ってないですよ。でも——」
ミサキはまっすぐに探偵を見た。
「先生が連れて行ってくれないなら、一人で行きます」
その声音に、甘えも冗談もなかった。
年齢に似合わない芯の強さと、譲れない意志がそこにはあった。
探偵は静かに椅子にもたれた。
短く息を吐き、視線を天井に向ける。
エコーの声がスマートグラス越しに響く。
《……これ、黙って行かせたら逆に危ないやつだな。つーか、もう完全にフラグ立ってんじゃん》
探偵は肩を落とし、静かに笑った。
「……脅しかけるとは、なかなか肝が据わってるな」
「脅しじゃないです。ただ、知ってることを言っただけです」
探偵はしばらくの沈黙のあと、机の隅に置かれた黒いコートを手に取った。
「案内は頼むよ。道順は君の方が詳しいだろうから」
「もちろん。任せてください」
言葉は力強いが、少し緊張も混ざっているのが分かる。
それでも、彼女の中にある“覚悟”だけは確かなものだった。
探偵は静かに言葉を続けた。
「ただし——今すぐ、ってわけにはいかない。準備が必要だ。……君も、だろう?」
ミサキはきょとんとした顔をしてから、自分の服装を見下ろした。
スカートの裾を軽く摘んで、気まずそうに笑う。
「あー……まあ、そうですね。……このままじゃちょっと動きにくいかも」
「夜の潜入だ。身軽な服装で来たほうがいい。……動きやすい格好と、最低限の荷物で。あとは、目立たない色味でな」
「了解です!」
ミサキは勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、いったん戻ります。寮、すぐ近くだし。……30分くらいで準備してきますね!」
「焦らなくていい。……安全のために、慎重に動こう」
探偵がそう言うと、ミサキは小さく頷き、玄関の方へ向かった。
けれど、ドアノブに手をかける直前、ふと立ち止まり振り返る。
「……先生って、こういうの慣れてるんですね」
「仕事だからね」
「……すごいな。ちょっと、かっこいいかも」
「“ちょっと”か」
ミサキが小さく笑って、ドアを開けた。
その背に、探偵の声が続く。
「気をつけて。暗くなる前に、またここに」
「はい!」
ドアが閉まる音がして、室内に再び静けさが戻った。
探偵はコートを手にしながら、スマートグラスのスピーカーに目をやる。
《……へぇ。なんか、センセーのこと尊敬し始めた感あるな》
「やめろ。くすぐったい」
《けどまぁ、正しい判断だったと思うぜ? あの子、どうせ黙ってても来たろうし》
探偵はそれに答えず、代わりに黒いシャツのボタンを一つ、そっと留め直した。
夜の準備が始まる。
そして、答えに近づく夜が、静かに待っていた。