Scene5「朝の授業と、騒がしい昼まで」
翌朝。
新しい一日が始まり、校舎には再び活気が戻っていた。
生徒たちの私語、階段を駆け上がる音、朝の光に染まる廊下の窓。
探偵は静かに教室へ入り、前日と同じ講師用端末に接続しながら、スライドの確認を終えた。
「おはようございます、先生!」
「あ、昨日の人だ!」
「今日もジョークあるんですか?」
生徒たちは、昨日の授業での印象を残しているらしく、笑顔を浮かべながら席につく。
探偵は苦笑しつつ、教壇に立ち、端的に授業を始めた。
「今日は、“記録の正確さ”について話す。
真実を記録するというのは、意外とやっかいな仕事なんだ」
端末に映したのは、三枚の同じ風景写真。だが、撮影時刻も、写っている人影も微妙に異なる。
その違いを生徒たちに問うことで、記録の“主観”について導入していく。
「記録は便利だ。だが、何を写すか、何を残すかで意味が変わる。
記録者の意図ひとつで、事実は加工されることがある」
それは数十分で終わる、簡単な導入授業だった。
だが、生徒たちの反応は素直で、好奇心の火種はしっかりと燃えているようだった。
「さて、これで今日の講義は終わりだ。質問があるなら、どうぞ」
探偵がそう言いかけた瞬間——
「先生、記録って削除されたらほんとに“なかったこと”になるんですか?」
「動画でも、音でも、“誰かの記憶”にだけ残るってありますよね?」
「削除ログって残るんですか?」
思いのほか積極的な質問の波に、探偵はやや押されながらも返答を繋いでいく。
一問一答の応酬。だがそのどれもが、生徒たちの“知りたい”という純粋な気持ちから来ていた。
——これはこれで悪くない。
だが、調査としては、少し遠回りだ。
休み時間。
教室を出て、廊下を抜け、控室へ向かおうとしたその時。
「先生、今日も一緒に食べましょうよ!」
「昨日の話、続きも聞きたいですし!」
生徒たちの声が、まるで嵐のように巻き起こる。
「……そうか、なら付き合おう」
昼食は食堂の隅のテーブルで、昨日と同じように賑やかな時間になった。
生徒たちとの何気ない会話のなかに、“あの廊下で何か見た”だとか“旧病棟に近づくと怖い夢を見た”だとか、断片的な噂も聞こえてきた。
だが、情報としてはまだ“曖昧”なものばかり。
肝心な部分には、まだ触れられそうにない。
教員控室の扉が、静かに閉じる。
午後の授業を終えたばかりの探偵は、重力に逆らわないように椅子へと沈み込んだ。
白衣の上着を脱ぎ、ワイシャツの襟元を軽く緩める。手元のカップには、まだ朝からの飲み残しのコーヒーがぬるく残っていた。
「……若いって、元気だな」
静かな室内に、自分でも驚くほど力のない声が落ちた。
それは、ここ数時間にわたって生徒たちに囲まれ、昼休みすらまともに取れなかった男の、心からの本音だった。
《はーい、年寄り発言いただきましたー!》
スマートグラスのスピーカーから、乾いた声が割り込んできた。
途端に、さっきまでの静けさが崩れる。
「……エコーか」
《“やっと”話せる時間ができたのかって感じだな。お疲れ、センセー。人気者はつらいねぇ》
「静かにしろ。午前中は三度も“先生、質問いいですか?”の包囲網に遭ったんだぞ。昼も飯が喉を通らなかった」
《それ、お前が愛想振りまいて人気出すからじゃん》
「人たらしの才能などない。俺はただ、場を穏やかに保っていただけだ」
《えええ……それであの人気? 無自覚モテとか一番タチ悪いパターンじゃん……》
探偵はため息をついて、机の上にカップを置く。
軽いノイズと共に、スマートグラスのフレームが僅かに振動し、ホログラム表示が目の端に立ち上がる。
「で、どうだ。調査は進んだか?」
《もちろん。そっちが学校ごっこしてる間、こっちは休みなしでフル稼働ですよ》
「言ってみろ」
エコーの音声が、真面目なものに切り替わる。
同時に、ホログラムの表示も、端末画面に拡張されて投影された。
《まず、“イズミ”って名前の生徒、確かに在籍記録があった。が、それもすでに“抹消済み”。公式な学籍記録、学校の教職員記録、どれも“存在しない”状態になってる》
「削除された、ということか」
《いや、“消された”って言った方が正確。
通常の退学や死亡処理じゃありえないログの痕跡があった。アクセス権限の剥奪も、不自然なくらい一気に行われてる》
「事故との関係性は?」
《ある。というか、間違いなく“彼女”がその事故の当事者だ》
エコーは数枚の報告書を重ねて表示する。
それは学校内部の報告記録を復元したものらしく、簡潔な言葉で“旧病棟での体調不良による死亡”と記載されていた。
「場所は旧病棟……やはり、そこか」
探偵は額に指を当て、午前中のやり取りを思い返す。
生徒たちの中で、旧病棟の“幽霊騒動”については確かに囁かれていた。
——「誰かが夜な夜な旧病棟に入ってる」
——「影を見たって人がいる」
——「でも先生たちは取り合ってくれない」
曖昧な噂ばかりだが、すべてに共通していたのは“旧病棟”という単語だった。
「その幽霊と、イズミが繋がっていると考えていいか?」
《可能性は高い。実際、あの影の映像、彼女と面識のあったミサキが“イズミに似てる”って言ってたんだろ?》
「ああ。ミサキは、口にするのを躊躇っていた。だが、映像を見せられた俺は確信している。……あれは、“イズミ”を記録した何かだ」
《つまり、“イズミの記憶”が、どこかの端末に残ってる?》
「か、あるいは“記録を引き戻す仕組み”が動作しているのかもしれない。……それを誰が意図したのかまでは、まだ分からないが」
《記録って、忘れたと思ってたやつがふと出てくること、あるもんな。そういうのって、ちょっと怖いよな》
探偵は頷いた。
「だからこそ、明確に“記録を消す”という行為には意味がある。
逆に言えば、それをなかったことにはできない。証拠が消されても、何かは残るものだ」
そう言いながら、探偵は視線をホログラムに戻した。
「今夜、ミサキが来る。映像を渡してくれた彼女自身、まだ話していないことがあるはずだ。……あの時、相談室では言葉を飲み込んでいた」
《じゃあ、聞き出すんだな。彼女の知ってる“真相”を》
「ただし、強くは踏み込まない。彼女が“自分で語ろう”と思えるまで、俺は待つ」
《……優しいな》
「そうでもない」
探偵は立ち上がり、冷えたコーヒーを捨てて新たに湯を沸かす。
ポットの小さな音が、控室の静けさをほんの少し温かく染めていく。
「エコー。残りの調査、任せた」
《任された。夜までに、できる限りまとめとく。
先生は、生徒さんとのデートを頑張って》
「……それを言うな」
そう呟いた背中に、エコーの軽い笑い声が響く。
午後の光が傾く中、探偵はひとつの思考を心の中で組み上げ始めていた。
記録に残らない死。
語られない事故。
消された名前。
そして、名指しされる“幽霊”。
それらすべてが、今夜、交差しようとしている。
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